らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

桂歌丸

「質屋庫」という噺

20220705083351『質屋庫 』
暑い日が続いています。今日は上方落語のこの噺です。

『原話』
1767年の「友達ばなし」や「手習師匠」などに原話とみられる噺が多いです。
1861年の桂松光のネタ帳「風流昔噺」に「天神様質屋行 但シ又流されよと思落」と
「質屋ばけ物ばなし 天神様か落」があります。(か は歌の左がわだけ)

『演者』
上方では米朝師が有名ですね東京でも圓生師や歌丸師が演じました。
今でも東京でも多くの噺家さんが演じています。

『ストーリー』
横町の質屋の伊勢屋の三番蔵に毎夜化け物が出るという近所のうわさが出ます。
 主人は番頭に見届けるよう命ずるが、番頭が一人ではこわいというので、入墨をしてふだんから強そうな熊五郎を呼びにやります。
 最初は威勢のよかった熊五郎もお化けと聞いてからいくじがなくなってしまうが、仕方なく二人で見張っていましたが、やがて丑三時に蔵の奥でなにかぴかっと光ります。
 二人とも腰を抜かししてしましましたが、怖いもの見たさでのぞいてみると、棚に載っている掛け軸が音もなくすうっと開きます。
番頭
「あれァ、横町の藤原さんから質に取った天神さまのお掛け軸だよ。」
天神
「こりゃ番頭、藤原がたへ利上げせよと申し伝えよ。あァまたどうやら流されそうだ」

『能書』
圓生師は大阪に行った時(昭和24、5年頃)に桂文團治師に移して貰ったそうです

『ネタ』
サゲは菅原道真が九州へ流された故事に引っかけたものですね。

「蛇足」
質のい制度は結構古く、「大宝令」にすでにあるそうです。専門業者がでたのは鎌倉時代以降だそうです。

「万金丹」という噺

20220215131215『万金丹』
今日はこの噺です。
個人的にですがシチュエーションが「蒟蒻問答」に似ている気もします(江戸をくい潰れたところだけですがw)

『原話』
原話は延宝3(1675)年刊の笑話本「軽口曲手毬」中の「文盲坊主戒名付る事」です。
もっと遡ると、安楽庵策伝著「醒睡笑(寛永5=1628年稿)」巻一の小咄『無智の僧』その六です。
上方落語「鳥屋坊主」が幕末または明治初期に東京に移植されたと思われます。

『演者』
古くは四代目小さん師が得意にしていたそうです。無論五代目も得意にしていました。代々柳家の噺なのえしょうね。現役では市馬師がやります。他に歌丸師や先代の圓楽師もやっていました。
小三治師もやっていた気がするのですが記憶が曖昧です。

『ストーリー』
江戸を食い詰めた梅吉と初五郎の二人連れ。
道中で路銀が底をつき、水ばかり飲んで腹は大シケという、餓死寸前の大ピンチ。
とある古寺に、地獄にホトケとばかり転がり込みます。
 やっと食い物にありついたと思ったら、先代住職の祥月命日とやらで、赤土と藁入り雑炊を食わされます。同情した和尚の勧めで、先の当てもないこともあり、いやいや出家して、この寺に居候となりました。
 梅坊、初坊と名を変えた二人、ひっきりなしにこき使われ、飲酒も女郎買いも厳禁というひどい境遇に、不満たらたら。
 その折も折、和尚が京都の本山に出張で、一月は帰れないという。
留守番を頼まれた梅と初、さあこの時とばかり、
「それ酒だ」
「網がねえから麻衣で鯉をとってこい」
「金がなきゃァ阿弥陀さまから何から一切合切 売っ払っちまえ」
 というわけで、飲めや歌えのドンチャン騒ぎをし始める。
 そこへやって来たのが檀家の衆。近在の大金持ち、万屋(よろずや)金兵衛が死んだので
「葬式をお願え申してェ」
 と言います。
「どうしよう、兄貴、経も読めねえのに」
「なに、かまうこたァねえ。経なんざイロハニホヘトでゴマけて、どさくさに香典かっつァらってずらかっちめェ」
 香典目当てに金兵衛宅に乗り込んだ二人、さっそく怪しげな読経で誤魔化します。
 なんとかかんとか終わったは良いのですが、戒名をいただきたいと言われて、困りました。
「何かないか…」
 と探すと、たまたま見つけたのが薬の効能書きです。
「あー、官許伊勢朝熊霊法万金丹」
「坊さま、こんな戒名聞いたことがねえ」
「なに、上等だ。ホトケのニンにあってらあな。棺の前で経を読むからカンキョ、生きてるときは威勢がいいが死んだら浅ましくなるから、イセイアサマ、死んだら幽霊になるから霊宝、おまけにホトケが万屋金兵衛だから万金だァ」
「それじゃあ、わきに白湯にて用うべしとあるのは何だね」
「このホトケはお茶湯をあげるにゃ及ばねえ」

『能書』
「萬金丹」とは?
目まい、癪(しゃく)、下痢、痛みなどの万病に効くとされる常備薬です。
元々、「丹」と言う意味は中国で不老不死の霊薬の事で、
丹薬の形状は練り薬ですが、「万金丹」は「仁丹」と共に例外的に丸薬です。

『ネタ』
鳥屋(とや)とは旅芸人が御難にあうことを「鳥屋につく」と言った事に引っ掛けたものだそうです。または「頭屋坊主」のあて字だという説もあります。

「蛇足」
戒名とは、受戒の際に、出家者あるいは在家信者に与えられる名。本来生前に与えられるものだそうですが、中世末期から死者に対して与えられるようになったそうです。
別名「法名」

※本来は「萬金丹」と書くのでしょうが薬の名前と混同しやすいのか落語では「万金丹」の表記が主でしたのでそれに習わせて戴きます。

「菊江の仏壇」という噺

46b1ee8d『菊江の仏壇』
今日は上方落語の大作と言われる「菊江の仏壇」です。
本来はお盆あたりの噺かとも思いますが、もうすぐお彼岸ですので。

『原話』
原話は文化 (元号)5(1808)年に刊行された『浪花みやげ』の中の一遍である『幽霊』という話です

『演者』
5代目松鶴師や、5代目文枝師、米朝師等で有名ですが、明治初頭に東京にも移植され、初代三圓右師や10代馬生師が『白ざつま』 の題で演じており、かっては桂歌丸が演じていました。最も歌丸師は「菊江の仏壇」でCDも出しています。今では東京でもかなりの噺家さんがやっています。確かさん喬師もやっていたと思います。

『ストーリー』
ある大店の旦那ですが、奉公人にはろくなものも食わせないほどケチなくせに、信心だけには金を使うというお方。
その反動か、せがれの若旦那は、お花という貞淑な新妻がいるというのに、外に菊江という芸者を囲い、ほとんど家に居つきません。
そのせいか、気を病んだお花は重病になり、実家に帰って仕舞いました。
 そのお花がいよいよ危ないという知らせが来たので、旦那は若だんなを見舞いに行かせようとし、今までの不始末をさんざんに攻めるが、若旦那は
「わたいの女道楽は大旦那の信心と変われへんもんでっせ」
 と反省の色すらも見せません。
 おまけに番頭に、もしお花がその場で死にでもしたら、若だんなが矢面に立たされて責められると意見され、嫌々ながらも、自分が出かけていく事になります。
 実は、これは番頭の策略で、ケチなだんながいないうちに、たまには奉公人一同にうまいものでもくわしてやり、気晴らしにぱっと騒ごうという訳なのです。
 若旦那は、親父にまんまと嫌な役を押しつけたので、早速、菊江のところに行こうとすると番頭が止めます。
 大旦那を嫁の病気の見舞いにやっておいて、若旦那をそのすきに囲い物のところへ行かせたと知れたら、あたしの立場がありません、どうせなら、相手は芸者で三味線のひとつもやれるんだから、家に呼びなさいと言います。
 それもご趣向だと若だんなも賛成して、店ではのめや歌えのドンチャン騒ぎが始まります。そこへ丁稚の定吉が菊江を引っ張ってくるが、夕方、髪を洗っている最中に呼びに来られたので、散らし髪に白薩摩の単衣という、幽霊のような様子です。
 菊江の三味線で場が盛り上がったころ、突然だんなが戻ってきたので、一同大あわて。
取りあえず、菊江を、この間、旦那が二百円という大金を出して作らせた、馬鹿でかい仏壇に隠します。旦那、
「とうとうお花はダメだったと言い、かわいそうに、せがれのような不実な奴でも生涯連れ添う夫と思えば、一目会うまでは死に切れずにいたものを、会いに来たのが親父とわかって、にわかにがっくりしてそのままだ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
 と、番頭が止めるのも聞かず、例の仏壇の扉をパッと開けたとたん、白薩摩でザンバラ髪の女が目に入ります。
「それを見ろ、言わないこっちゃない。お花や、せがれも私も出家してわびるから、どうか浮かんどくれ消えておくれ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
 すると仏壇の菊江が
「旦那様、私も消えとうございます」

『能書』
白薩摩というのは菊江が着ていた着物ですが、本来は「薩摩がすり」と言い、琉球(沖縄)産です。薄い木綿織物で、白地のものは夏の浴衣などに用いられます。
「佃祭」の次郎兵衛もこれを着ていたのが原因で、幽霊に見違えられました。
 死人の経帷子(きょうかたびら)は、普通、絹もしくは麻で作るので材質は違いますが、
同じ単衣で白地ということ、その上ザンバラ髪なので、幽霊と見間違えるのは無理もありません。

『ネタ』
この若旦那ですが、父親のケチと信心ぶりに反発して遊ぶのは構いませんが、
その為に自分の女房を不幸にし、病気にさせてしまい、あまつさへ亡くしてしまうのは、
男として最低だと思いますね。(個人的にそう思います)
 この店の番頭も、旦那の留守に良いものを食べて羽を伸ばすのは構いませんが、馬鹿な若旦那の側に立ち過ぎですね。
 恐らく、この店は遅かれ早かれ潰れますね。ホント・・・

「小烏丸」という噺

tumblr_l25fqoLGst1qbn3ato1_500今日は「小烏丸」という噺です。
ここの処、スパムメールというのでしょうか、正体不明のコメントの荒らしにあっていまして、その対策などをしていました。
上方では「竹光」という名で演じられ、またの名を「孝行娘」とも云います。

聴いていてお分かりかとも思いますが、「小烏丸」という刀のエピソードは上方落語「八橋船」でも登場します。

神田石町に伊勢屋と言う大きな質屋があり、主の幸右衛門は妻に先立たれたが、仏の幸右衛門と呼ばれる人で、
望も名誉も財産もありましたが、一人娘のお照の成長だけを楽しみに暮らしていましたが、
”おかじ”という女身の回りを世話をしていて、よく尽くしてくれていました。
ある時、酒の勢いで手を付けて仕舞い、後添えに貰う事にしました。

ところが、イザなってみると、朝から大酒をくらい、何もしなくなって仕舞いました。
その上、元旗本三男くずれの出入り按摩針医・松崎貞按(まつざきていあん)と深い仲になってしまいます。
周りの者は口を閉ざしていましたが、義侠心が強い、出入りの頭、勝五郎は、伊勢屋を訪れて川柳の本を読まして
主にそれとなく教えようとしましたが、一向に気が付きません。
その上、「お茶がダメなら、台所で水なんて飲まないで、二階で貞按とおかじが酒をやっているから、飲んで行けばいいじゃないか」と進められる始末です。

その時、台所で娘のお照から声を掛けられます。
「頭の言っていた事が本心なら、私も本心であの二人を何とかしたいので、力を貸して下さい」
と頼みまして、二人は何やら相談を始めます。

 その後、酔った貞按は水を飲みに台所に来て、お照に出くわします。
お照は色仕掛けで貞按が好きだから連れて逃げてほしいと打ち明けます。
すると貞按は、逃げるからには百両の金と小烏丸の名刀を蔵から出して持って来てくださいと云います。
小烏丸とは、抜くと回りに烏が集まって来るという、昔、信濃国戸隠山で平維茂(たいらの これもち)が鬼を退治したという名刀なのです。
今晩八つの鐘で裏木戸から忍んでくださいという事になりました。

 裏木戸から出て駕籠で王子まで行く事になりました。
王子の手前、飛鳥山で駕籠屋が駄賃をふっかけ始めたので刀で追い払い、お照は歩き始めました。
そこで、100両と小烏丸を渡し、手切れ金代わりに一人でどこにでも行きなさいと、貞按を突き放します。
力ずくでも連れて行き、最後は売り払ってしまうぞと、もみ合いになったところに、勝五郎が割って入ってきます。
貞按は懐の小刀を抜いてもみ合いになりましたが、勝五郎は小手を打つと貞按は刀を落としました。
貞按はさすが元侍、慌てず小烏丸を抜いてかざすと、烏が群れ集まってくるかと思いきや、雀ばかりが集まってきます。
おかしいと、よ〜く見ると竹光ででした。

オチの所は「八橋船」と同じですね。どちらが先かは分かりませんが・・・

小烏丸という刀ですが、wiki等によると、
桓武天皇の時代、大神宮(伊勢神宮)より遣わされた八尺余りある大鴉によってもたらされたと伝えられ、小烏丸の名はその大鴉の羽から出てきたとの伝承に由来する。刀工「天国」作と伝えられる。
後に平貞盛が平将門、藤原純友らの反乱を鎮圧する際に天皇より拝領し、以後平家一門の家宝となる。壇ノ浦の合戦後行方不明になったとされている。
後に江戸時代になって伊勢家で保管されていることが判明し、明治維新後に対馬の宗家に渡った後、明治天皇に献上された。
現在は宮内庁委託品として宮内庁で保管保存されています。

石町は現在では日銀のある所ですが、三越の裏にあたります。
お金の博物館等があります。続きを読む

「鍋草履」と言う噺

44e44935今日は寒くなってきましたので「鍋草履」と言う噺です。

芝居茶屋の若い衆が誂えの鍋を梯子段の下へ置き、幕が閉まるのを待っていたが、
舞台で上演中で出入り止めになっていて、客のところへ鍋を持って行く事ができない、仕方なくその幕が終わるまで芝居見物を決め込みます。
ところが、そこへ降りて来た客が、鍋へ足を突っ込んでしまいます。
「知らぬが仏、見ぬもの清」だから、そのまま食べさせてしまえと言われ、そのまま持って行ってしまいます。

お客は遅いとイライラしながら待っています。そこへ持ってきたので、早速食べる事にします。
中身はと見ると、崩し豆腐に崩し魚と変わってるが中々のいい味。
食べ進むに連れて、何やら硬いものがあります。
そこへ、先ほどの男がやってきます。若い衆が何事かと聞くと「鍋の中の草履を取りに来た」

この噺は、初代圓右師の録音が残されていますが、長らくやり手がなかった噺を、現芸協会長の歌丸師が復活させた噺です。今では歌丸一門はもとより、芸協の若手も演目に掛けます。

当時の芝居見物は飲み食いしながらの見物で、注目の場面になると真剣に見物するというスタイルだったそうです。
その為、薄暗い場内で見栄をはる顔を良く見るため、顔を照らす黒子さんもいました。
そういう時等に掛け声が掛かったようです。
ですから、中村仲蔵等は、一発決めたのに、シーンとしてる場内をみて、「やりそこなった」と感じたのでしょう。

この噺は、芝居茶屋の若い衆が止められてるので、忠臣蔵の四段目あたりだと思われます。
続きを読む

八咫烏(やたがらす)由来の噺

tumblr_l25fqoLGst1qbn3ato1_500今日は珍しい噺「小烏丸」です。
上方では「竹光」という名で演じられ、またの名を「孝行娘」とも云います。

聴いていてお分かりかとも思いますが、「小烏丸」という刀のエピソードは上方落語「八橋船」でも登場します。

神田石町に伊勢屋と言う大きな質屋があり、主の幸右衛門は妻に先立たれたが、仏の幸右衛門と呼ばれる人で、
望も名誉も財産もありましたが、一人娘のお照の成長だけを楽しみに暮らしていましたが、
”おかじ”という女身の回りを世話をしていて、よく尽くしてくれていました。
ある時、酒の勢いで手を付けて仕舞い、後添えに貰う事にしました。

ところが、イザなってみると、朝から大酒をくらい、何もしなくなって仕舞いました。
その上、元旗本三男くずれの出入り按摩針医・松崎貞按(まつざきていあん)と深い仲になってしまいます。
周りの者は口を閉ざしていましたが、義侠心が強い、出入りの頭、勝五郎は、伊勢屋を訪れて川柳の本を読まして
主にそれとなく教えようとしましたが、一向に気が付きません。
その上、「お茶がダメなら、台所で水なんて飲まないで、二階で貞按とおかじが酒をやっているから、飲んで行けばいいじゃないか」と進められる始末です。

その時、台所で娘のお照から声を掛けられます。
「頭の言っていた事が本心なら、私も本心であの二人を何とかしたいので、力を貸して下さい」
と頼みまして、二人は何やら相談を始めます。

 その後、酔った貞按は水を飲みに台所に来て、お照に出くわします。
お照は色仕掛けで貞按が好きだから連れて逃げてほしいと打ち明けます。
すると貞按は、逃げるからには百両の金と小烏丸の名刀を蔵から出して持って来てくださいと云います。
小烏丸とは、抜くと回りに烏が集まって来るという、昔、信濃国戸隠山で平維茂(たいらの これもち)が鬼を退治したという名刀なのです。
今晩八つの鐘で裏木戸から忍んでくださいという事になりました。

 裏木戸から出て駕籠で王子まで行く事になりました。
王子の手前、飛鳥山で駕籠屋が駄賃をふっかけ始めたので刀で追い払い、お照は歩き始めました。
そこで、100両と小烏丸を渡し、手切れ金代わりに一人でどこにでも行きなさいと、貞按を突き放します。
力ずくでも連れて行き、最後は売り払ってしまうぞと、もみ合いになったところに、勝五郎が割って入ってきます。
貞按は懐の小刀を抜いてもみ合いになりましたが、勝五郎は小手を打つと貞按は刀を落としました。
貞按はさすが元侍、慌てず小烏丸を抜いてかざすと、烏が群れ集まってくるかと思いきや、雀ばかりが集まってきます。
おかしいと、よ〜く見ると竹光ででした。

オチの所は「八橋船」と同じですね。どちらが先かは分かりませんが・・・

小烏丸という刀ですが、wiki等によると、
桓武天皇の時代、大神宮(伊勢神宮)より遣わされた八尺余りある大鴉によってもたらされたと伝えられ、小烏丸の名はその大鴉の羽から出てきたとの伝承に由来する。刀工「天国」作と伝えられる。
後に平貞盛が平将門、藤原純友らの反乱を鎮圧する際に天皇より拝領し、以後平家一門の家宝となる。壇ノ浦の合戦後行方不明になったとされている。
後に江戸時代になって伊勢家で保管されていることが判明し、明治維新後に対馬の宗家に渡った後、明治天皇に献上された。
現在は宮内庁委託品として宮内庁で保管保存されています。

石町なんてのは現在では日銀のある所ですが、三越の裏ですね。
たまに三越に車で買い物に行くときにこのあたりを通ります。
お金の博物館等があります。
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