らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2021年04月

都内四件の寄席休業へ!

9d35afa3 東京都内の寄席四件が東京都の休業要請を受けましたが、日常生活に必要との観点から営業を続けていました。
 実は私も26日に浅草に行ったのですが、整理券を貰ってその順番に入場、その際には体温チェックと手指の消毒が求められました。
 場内は椅子が一つおきに開放されており、間の席はロープで括られていました。また一番前の席は座れないようにやはりロープが張られていました。開放されていた席は全体で定員の半分ぐらいの感じでした。
 お客の入はさらにそれの半分ぐらいでしたね。噺家も自虐的なマクラを振る演者もいましたが、概ね普段と変わりない感じでした。お客もマスク越しなのでダイレクトな笑いはありませんでしたが、それでも結構ウケていました。
「やはり来てよかった」
 久々(一月ぶり)だったので心が開放された感じでした
 それが偽らざる感想でした。このまま続けば良いと思っていましたが、
本日4月28日になって東京都との再協議の結果、5月1日から11日まで四件の寄席が休業することになりました。これは驚きとともに少しやるせない気持ちになりました。
 寄席のが感染拡大に繋がるとは思っていません。通勤電車や相変わらず街に繰り出している方の方が危険だと思います。
 特に芸協は真打披露興行が控えていただけに影響は大きいでしょうね。
 正直東京都や政府のコロナ対策は核心をつかず、周りだけ対策してる感じがします。
 それはやはりオリンピックありきなのでしょう。寄席が駄目でもっと多くの観客を入れるオリンピックが良いというのは少し納得出来ませんね。

都内4寄席、5月1日から一転休業 閣僚要請、都と再協議

「釜どろ」という噺

4f0203f3『釜どろ』
 今日は普段は寄席などでは聴く機会があまりないと思いますがこの噺です。

『原話』
1773年の「近目貫」の『大釜』が元です。ちなみに上方では「釜盗人」

『演者』
四代目橘家圓蔵師が得意にしていたそうです。
三代目小圓朝師もやっていました。
今は柳家三三師がやりますね。

『ストーリー』
大泥棒・石川五右衛門の手下の泥棒、親分が釜ゆでになったというので、
放っておけば今に捕まって、こちとらも天ぷらにされてしまうと心配になった。
そこで、親分の追善と将来の予防を兼ね、世の中にある釜という釜を全部盗み出し、
片っ端からぶちこわしちまおうと妙な計画を立てたが、さしあたり、大釜を使っているのは豆腐屋だから、
そこからとりかかろうと相談がまとまる。
ある豆腐屋の老夫婦、釜を盗られては商売上がったりなので、爺さんが釜の中に入り寝ずの番をすることに。 しかし酒を飲んだために寝込んでしまい、その間に釜は二人の泥棒によって盗まれてしまった。
泥棒が釜を運んでいると、釜の中から声がする。しまいには、釜が揺れるのを地震と勘違いして起きた爺さんが顔を出したので、釜を投げ出して泥棒は逃げた。
爺さんが釜から出てみると、そこは一面の野原。
「しまった、今度は家を盗まれた」

【注目点】
ことわざに、「月夜に釜を抜かれる」というのがあり
古くから、油断して失敗する意味で
大元をたどれば、この噺は、この諺を前提に作られたと思われます。

『能書』
明治34年8月、「文藝倶楽部」所載の六代目朝寝坊むらく師の速記がもっとも古く、
現行のやり方は、オチも含めてほとんど、むらくの通りだそう。
戦後は小圓朝師が得意にしていたそうです。
噺の筋は単純なので、演者の力量で噺を進めるので、あまり上手くない噺家さんだと、だれますね。

『ネタ』
「カマ」の語源は一説に朝鮮語とも言われ、また竃から転じたとも言われています。
既に平安期には使われていたそうです。

「景清」という噺

081ae900『景清 』
今日は「景清」です。

『原話』
笑福亭吾竹師の作といわれていて、後世に改作などを繰り返し現在の形になったとされています。
3代目圓馬師によって東京にも伝えられました。

『演者』
東京ではやはり黒門町こと八代目文楽師ですね。三代目圓馬師直伝ですね。

『ストーリー』
東京版の粗筋を……。
 腕のいい木彫師の定次郎はふとした事から目が見えなくなっていました。
お医者さんにもかかっていたが見放され、信心で治るものならと、赤坂の円通寺の日朝さまに日参し、今日が満願の日でありました。
 確かに御利益があって、昨日ぼーっとではあったが光を感じるようになっていたのですが、嬉しさのあまり母親の意見を振り払い夜通し願掛けをしていますた。しかし、隣に婦人が同じように願掛けしていて、その婦人にちょっかいを出して信心どころではなくなって仕舞いました。すると目の前が真っ暗になって、前よりは悪くなってしまいました。ヤキモチもいい加減にしろと、啖呵を切って帰ってきてしまいます。
 石田の旦那の勧めで上野の清水の観音様に願掛けする事になりましたが、前回の仏罰があるので三七21日ではなく100日それがいけなければ200日と短気を起こさずに通うようにと意見されます。
 そして、今日はその満願日。しかし、目に変化は現れません。今度は観音様を罵倒しているところに、石田の旦那が現れ意見をされます。
母親が、目が開いたらこの仕立て下ろしの着物が縞ものだと分かるだろうし、帰ったら赤飯と鯛の焼き物と少しのお酒を用意して待っていてくれる。それを考えると帰れない、と言います。
 それを無理に手を引き、坂を下って池之端の弁天様にお参りし、帰ろうとした途端、真っ黒い雲が現れ雷が鳴り始めました。真っ暗になって凄まじい雷雨になります。土橋まで来るとなお激しくなり、旦那も逃げ帰ってしまい、定次郎は気を失って倒れます。9時の鐘を聞くとすーっと雨がやんで、定次郎も気が付きます。
「う〜寒い、旦那は居ないし……あぁ! 目が……、目が開いた。(指折り数える定次郎)有り難うございます」
 とって返してその晩は夜通し祈願して、翌朝母親を連れてお礼参り。目がない方に目が出来たという、めでたい話でした。

【注目点】
最後の定次郎が目が開いたシーンは感動的ですらあります。
上方ですと、最初は「柳谷観音」で次は清水寺です。そして清水寺の揚柳観世音。観音は、定次郎の眼は前世の因縁があって治らぬが、その代わりに景清の奉納した眼を貸し与える。と言う事で目が見える様になりますが、目玉と共に豪傑の精まで入ってしまったと見えてやたらに強くなって。
大名行列に暴れ込み、歌舞伎の景清よろしく名乗りを挙げ、殿様の駕籠の前に立ちはだかって見得を切ってしまいます。
殿様「そちは気でも違ったか」 定次郎「いや、眼が違った」 とサゲます。

『能書』
上方だと長くなるので文楽師は目が開いたところで、「おめでたい噺で……」と切って下げています。

『ネタ』
日朝さまと言うのは、日蓮宗身延山久遠寺の貫首で、眼病守護及び学業成就の行学院日朝上人(にっちょう しょうにん、1422〜1500)の事です。
仏の心を備える功徳を積んで清浄の肉眼と心の眼を開かれたので”眼病守護の日朝さま”と崇められるようになったそうです。
上野の清水の観音様は、天海大僧正が「東叡山寛永寺」を開いた時に、比叡山にならい、江戸の守護の意味を持たせて、比叡山や京都の有名な寺院になぞらえた堂舎を建立しましたが、清水観音堂もその内のひとつです。
池之端の弁天様は不忍池の中島に、寛永寺が弁財天を祀ったお堂の事ですね。

「蛇足」
 桂米朝師は
「ぐっと泣かせる所のある噺ですが、あまりしめ過ぎても行けず、変にくすぐってもいけません。笑いも涙も自ずから生じてくるもので、ありがたい……と思っています」
 と述べています。

「寿限無」という噺

79184e65寿限無』
 今日はこれです。

『原話』
無住法師の著書『沙石集』を始め、狂言や民間伝承、信州の子守唄など全国各地に類話が見られるそうです。

『演者』
前座噺ですのでほぼ全ての噺家さんがやるか、かってやったと思われます。

『ストーリー』
めでたく玉のような男の子が産まれたというので、親御さんは犬応び。
なんとかわが子にめでたい名前をつけたい一心から、亭主は知恵者の寺の和尚に名づけ親になってもらおうと相談に出かけることにした。
「なにかこう、長生きができそうで、一生食いっぱぐれのないような名前をお頼み申します」
 等と調子の良い頼みをします。色々考えたのですが、どれもイマイチでしてピンと来ません。そこで和尚は、 
「そうじゃ、今思い出したが、『無期限の寿命』を衣す言葉がお経の中にある。それを含んだ言葉として『寿限無』というのはどうじゃな?」
「へえ、そりゃ長生きしそうだな......、和尚さんそういうのほかに何かありませんかねえ?」
「まだいくらでもある。『五劫の摺りりれ』というのはどうじゃ?一劫は三1年に一度天人が天降って、下界の大岩を衣で撫でる。その岩が摺り切れてしまうまでの時間を一劫という。瓦劫はその瓦倍だから、ほとんど永遠と同じ意味になるな」
「なるほど......いゃ、さすがですねえ和尚さん、で、ほかには何かありませんか?」
 亭主は、和尚さんに縁起がよくて長生きをしそうな言葉を次つぎに聞き出し挙句、
「この辺でなんとか手をうちやしよう。じゃ、そいつを全部紙に書いてください。家に帰ってかかあに見せて相談しますから......」
 家に帰ってかみさんに相談するも、なかなか話がまとまらない。そこで亭主は、
「ええぃ、少しぐらい長えからって捨てちまうのは勿体ねえや」
 ということで、ついた名前が・・・
 寿限無寿限無、五劫の摺り切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末、食う寝る所に住む所、ヤブラコウジのブラコウジ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助
と言う長い名前。
 やがて、名前のせいなのか、子供はすくすくと育ちまして、ある日の事。学校へ行くのにもいちいち名前を呼ぶのでもう大変!何時までも、何時までも時間が掛かるので、学校は夏休みになっちゃった。

【注目点】
この他にも色々なパターンがあります。
よく有るのは喧嘩してタンコブをこさえてきた友達が言いつけに来ると、名前が長いので、
タンコブが引っ込んでしまうと言うもの。これが一般的ですね。
ブラックなのもありまして、寿限無が川に落ちてしまい、友達が家に家族の助けを呼びに来るのですが、名前が長いので、溺れて死んじゃった。というものです。
これはさすがにマズイのか滅多にお目に掛かれませんね。
目出度い噺なのに、お祝いの席で出来なくなりますね。

『能書』
技術的には、子供とおかみさん、父親でそれぞれ言い立てのテンポが違いますので、
そこを気を付けないとイケませんね。

『ネタ』
初代の三語楼師はコブを拵えた子供の家に夫婦で謝りに行って「ウチの寿限無……」と繰返して「かかあ水を一杯くれ」と落としていたそうです。
このやり方は私は高座では聴いたことがないですね。誰かやっているのでしょうか?

「看板のピン」という噺

da172c35『看板のピン 』
今日は久しぶりにこの噺です。

『原話』
生粋の江戸落語で、よく博打の噺のマクラにも使われることが多いです。
「へっつい幽霊」や「狸賽」などですね。また「品川心中」のマクラでも聴いたことがあります。


『演者』
三代目三木助師や四代五代小さん師を始め多くの噺家が演じています。
寄席でも大抵かかる噺ですね。

『ストーリー』
町内の若い衆が博打を打っているところへ隠居がやって来ました。
隠居は若い衆を戒めながらも、一回きりという約束で彼らの博打に仲間入りすることになります。
そこで胴を持つことになった隠居ですが、賽子を振ったところ、壺皿の中から賽子が表に転がり出てしまいました。しかもその賽子ははっきりとピン(一)の目が出ているのがありありと見えているというのに、隠居はそのことにまるで気がついていません。
若い衆はこぞってピンに張りましたが、実はこの賽子は看板で、本当の賽子はちゃんと壺皿の中にあったのです。こうして隠居にやり込められてしまった若い衆たちは、これで反省するかというと、そんなことは全くなく、自分も同じことをしてやろうと他の賭場へ行き、そっくり隠居と同じセリフを言いますがこれがトンチンカン。
むりやり胴を取ると、わざとピンを出して、「さあ、張んな。みんな一か。そう目がそろったら、看板のピンは、こうして片づけて」
「あれ、おい、ピンは看板かい」
「オレが見るところ、中は五だな。
みんな、これに懲りたらバクチは……ああっ!中もピンだ」

【注目点】
古い落語通の方は三代目三木助の手さばきが見事だったとの証言が残っています。

『能書』
通の人からすれば、この噺はあまりにも有名な噺で、「鸚鵡返し」の典型的なのですが、後半は非常にトリッキーな構成になっているので、一度聞いてしまうと二度目以降は騙される快感がなくなってしまうと思う人もいるでしょうがそこはベテランや上手な噺家さんで聴きたいですね。

『ネタ』
上方でも演じられますが上方には桂米朝師が移植したそうです。

「猫久」という噺

5924d2a720ff0e25043b26d080ed65c4_600『猫久』
今日は久しぶりにこの噺です。

『原話』
原話は不詳で、幕末の嘉永年間ごろから口演されてきた、古い江戸落語で、明治中期の二代目小さん師が完成させた噺で、それ以来代々小さん師が工夫を重ね現代まで伝わってきました。

『演者』
やはり柳家の噺家さんで口演されているようです。

『ストーリー』
 長屋の熊さんの向かいに住んでいる久六は、いつもおとなしく、猫の久六と呼ばれています。その猫久が、ある日、血相を変えて家に帰ってきて、刀を出せと女房に言いつける、あわてて止めると思いの外、女房は刀を三度押し戴いてから亭主に渡し、猫久は駆けだして行来ます。
 向かいで一部始終を見ていた熊さんは、床屋に行って、大声で親方にその話しをします。
それを、たまたま奥で聞いていた侍が、それは天晴れ、女の鑑であると感心して、
「よおっく承れ。日ごろ猫とあだ名されるほど人柄のよい男が、血相を変えてわが家に立ち寄り、剣を出せとはよくよく逃れざる場合。また日ごろ妻なる者は夫の心中をよくはかり、これを神前に三ベンいただいてつかわしたるは、先方にけがのなきよう、夫にけがのなきよう神に祈り夫を思う心底。見共にも二十五になるせがれがあるが、ゆくゆくはさような女をめとらしてやりたい。後世おそるべし。貞女なり孝女なり烈女なり賢女なり、あっぱれあっぱれ」
 と言われますが、熊さんにはその実よく分かりません。いただく方が本物なんだと感心して、家に帰ります。
 すると、かみさんが、イワシイワシとがなり立てるので、さっきの侍の真似をしてやろうと思います。
「オレが何か持ってこいって言ったら、てめえなんざ、いただいて持ってこれめえ」
「そんなこと、わけないよ」
 等と言い合っているうち、イワシを本物の猫がくわえていってしまいます。
「ちくしょう、おっかあ、そのその摺粉木でいいから、早く持って来いッ。張り倒してやるから」
「待っといでよう。今あたしゃいただいてるところだ」

【注目点】
この噺のキモは途中で出て来る侍です。
侍の怖さを感じさせないと、この噺は面白くありません。
侍が怖いので熊さんは何だか良く判らないのに、納得したフリをしてしまうのです。
武士と町人は、身分が違ったので、普通は身分が違うから、もとよりふつうに話ができるものではないのですが、江戸時代とはそう云う世界だったという事ですね。

『能書』
実は二尺以下なら町人でも護身用に刀を持つことが出来ました。

『ネタ』
江戸の家庭では実は、魚を卸すのは亭主の役割だったとか。しかも長屋の戸口にまで色々な物売りが来るのでほとんどの女将さんはその出来合いのおかずを買って済ませていたそうです。
 
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