らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2020年12月

桂宮治さんが真打昇進 !

2461  芸術協会の桂宮治さんが抜擢で真打に昇進します。入門して13年だそう。正直、遅いぐらいだと思った。
 彼を最初に見たのは、二つ目に昇進してお披露目の時だった。芸協でも落協でも前座から二つ目に昇進した時にはお披露目で寄席に出番が回って来る。
 正直なところ、両協会とも真打の数が多すぎて溢れかえっている状態なので、普通の二つ目さんは普通の寄席には、まず出番は回って来ない。但し、昇進した時のお披露目の時だけは出番が回って来る。
 寄席はまず、前座さんが一席やり、この時に開場となりお客さんが入って来る。次に二つ目さんが出て一席。その後は若手真打が登場して行くのが通常の流れとなっている。
 通常はこの二つ目の出番の時にお披露目で出させて貰えるのだが、宮治さんの時は、最近芸協がたまに採用してるのだが、仲入り後の「喰い付き」に出て来たのだった。お披露目と思って油断していたのだが、その二つ目になりたてとは思えない達者ぶりに驚いた。何より高座が明るくなるのだ。
「なんだこいつは!」
 そう思って経歴をネットで調べると三十過ぎての入門と判った。どうりで人生経験が豊かだから噺の運びが上手いのだと思った。
 それからは芸協の芝居が楽しみになった。数年目には
「早く抜擢で真打にさせれば良いのに」
 そう思いながら高座を眺めていた。
 前の会長の歌丸師が抜擢をしない方針だったから仕方ないのだが、それでももどかしかった。
 晴れて今回、昇進ということでお目出度い限りだと思う。寄席を沸かしてコロナなぞ吹き飛ばして欲しいと思う。
 桂宮治師、新しい出発点として是非頑張って欲しいです!

 今年も当ブログに訪問戴き、ありがとうございます!
 来年も相変わりませず。宜しくご贔屓の程お願い致します。m(_ _)m
皆様も良いお年を迎えられますように。

「穴どろ」という噺

eca8ff3b『穴どろ』
 今日は暮れの噺でもあるこの噺です。

【原話】
原話は、嘉永年間(1848年~1854年)に出版された笑話本・「今年はなし」の一遍である『どろ棒』です。
上方だと「子盗人」というタイトルですね。


【ストーリー】
三両の金策がつかないある男。家に帰ると、女房から「豆腐の角に頭をぶっつけて死んでおしまい」と、ののられます。
頭に来て家を飛び出しますが、あてはありません。
立派な蔵が有る商家の庭先に出ました。奉公人達がそろって遊びに出かけた様ですが、裏木戸がバタンバタンしているので、教えてあげようと庭先に入り、部屋うちを覗くと宴会の後と見えて料理が沢山残っていいます。
「こんにちは」と言いながら上がり込んで、冷や酒や残りの料理に手を付け始めた。朝から何も食べていなかったので、気持ちよく食べ飲んだ。ここで、この家の人に見つかったらなんて言おうかとか、やな女だが嫁に来たてはいい女であったとか一人酒をしているまに酔ってしまった。
 やっと一人歩きができる程の子供が顔を見せた。あやしながら後ずさりをしていると、踏み板がずれていたので、穴蔵に落ちてしまった。「だれだ〜、俺を突き落としたのは、何を盗んだ〜」、大きな声でわめいていたので主人が出てきて、事の一件を悟って、泥棒だからと頭 (かしら)を呼びに行かせる。あいにく頭は出かけて居ず、留守番の”亀さん”が駆けつけてくれた。
 あっしの背中はこっちが上り龍でこっちが下り龍、泥棒なんか怖くはないし、ふんじばって叩き出しちゃう。頼もしそうな亀さんではある。子供のお祝いの日だから縄付きは出したくない。お前さんが中に入って泥棒を抱き上げて欲しいと頼みます。
ところがナンだカンだと言って中々降りていきません。
旦那はしびれを切らして、一両上げるからと言い出します。
それでも中々降りないので、金額が二両に上がります。
じゃあと言うのですが、喉首に食らいつくと言われて又々おじけづきます。
とうとう旦那は「じゃ三両出す」と言い出します。
それを聴いた男は「三両ならこちらで上がって行く」

【演者】
何と言っても文楽、志ん生師の高座が良いですね。
個人的には八代目圓蔵師でよく聴きました。

【注目点】
現在の型は初代三遊亭圓右師や初代柳家三語楼師のものだそうです。

『能書』
「穴庫」というものが登場したのは、1656年(明暦2年)に日本橋本町の商家に作られたのが最初だそうです。

『ネタ』
昔は、たいした事が無けれは、お上には通報しなかったそうですね。
自分達で始末していた様です。こんな未遂でも当時でも立派な犯罪になりました。
今でも不法侵入ですがね。

「中村仲蔵」という噺

2d43192f『中村仲蔵』
今日は12月14日なのでこの噺にしました!

【原話】
この噺は、江戸末期〜明治初期の名脇役だった三世仲蔵(1809〜85)の自伝的随筆「手前味噌」の中に初代の苦労を描いた、ほとんど同内容の逸話があるので、それをもとにした講談が作られ、さらに落語に仕立てたものと思われます。

【ストーリー】
芝居修行を続けて名題に昇格した中村仲蔵が、どんな大役がもらえるかと期待していると、
与えられた役は、つまらない場面なので客が食事をする弁当幕と呼ばれると、忠臣蔵五段目の端役、定九郎だった。
気落ちして上方修行に出るという仲蔵に女房が、あんたにしか出来ない定九郎を演じろって言う期待じゃないのかいと励まします。
ある日、妙見様にお詣りに行った帰りに、雨に振られ蕎麦屋に駆け込む。
そこに後から来た侍の姿に衝撃を受け、役作りの参考にします。
それから、衣装と見栄に工夫を重ね、斬新な定九郎を作り上げて演じます。
見事な演技に、観客は掛け声も忘れて、ただうなるだけだった。客席が静かなので、ウケなかったと勘違いし、また上方修行へと旅立とうとします。
途中で「昨日の定九郎を見たかい、素晴らしかった」との話を小耳に挟み、これを女房に伝えるために家に戻る。
 そこで親方に呼ばれ、昨日の芝居は良かったと褒められ、褒美に煙草入れをもらって家に戻り、女房に礼を言います。
失敗したの、うまくいったのって、私しゃ煙に巻かれちまうよ。
 「おお!もらったのが煙草入れ」

【演者】
 圓生師を始め、八代目正蔵師や歴代の名人上手が手にかけています。
 それぞれに良さがあります。

【注目点】
このサゲは八代目正蔵師のサゲです。その他にも噺家さんによって色々とあります。
 この中村仲蔵が、名作仮名手本忠臣蔵の五段目で斧定九郎を工夫して現在の型にしたという実録談で、
それまではつまらない役でした。

『能書』
 ”稲荷町”から”名題”になった稀代なる名優で屋号を栄屋、俳名を秀鶴。江戸時代に、中村仲蔵ほどの出世をしたものはなく、他に幕末になって市川小団次しかないという名優であった。寛政二年(1790)4月23日死去。享年55歳。墓は谷中霊園に有ります。
仲蔵の生涯については、松井 今朝子さんの「仲蔵狂乱」に詳しく書かれています。
かなり面白い本ですので、興味のある方は一読をオススメします。

『ネタ』
元々の話は、座頭と立作者が当時は役を決めたようで、立作者の金井三笑は芸の上での喧嘩から仲蔵に五段目の斧定九郎一役だけといういじわるしたのがそもそもの話の始まりと言う事です。
 圓生師の「圓生百席」では詳しく語っていますが、その為時間が長くなってしまってます。CDと言う自由に聴ける媒体ならではですね。生の高座だと時間の関係で無理でしょうね。

「蛇足」
この噺の舞台となった年は1766年(明和3年)9月の市村座だそうです。

「淀五郎」という噺

a253bea7『淀五郎』
 今日は久々にこの噺です

【原話】
江戸時代の歌舞伎の世界を背景に、芸に生きる役者の哀歓を描いた名作と言われています。
 実在の噺と言われています

【ストーリー】
 初日を前に「仮名手本忠臣蔵」の塩冶判官の役者が急病で出られなくなりました。
座頭の市川團蔵は、前から見込みがあると目をつけていた若手の澤村淀五郎を抜擢する事にします。
 淀五郎はここぞと張り切るが、自分では解らないものの、他から観ると演技が上手く行きません。その為、肝心の四段目「判官切腹の場」になると、大星由良之助役の團蔵は舞台に来ないで花道で平伏したまま。
 そんな事が2日続き、評判が悪くなって仕舞います。皮肉屋の團蔵ならではの叱咤激励なのですが、淀五郎には分かりません。
「親方、どのように判官を勤めたらよろしゅうございますか」
 と團蔵に聞くも、
「お前は役者だろ。そんな事も分からないなら、本当に腹を切れ!お前みてえな下手な役者は腹を切って死んじまえ」
 と言われて仕舞います。
 思い余った淀五郎は、舞台で本当に腹を切ろうと思い込みます。そして、その前に憎い團蔵を殺してしまおうと心に決め、世話になった初代中村仲蔵のもとに暇乞いに行くのですが、様子を察した仲蔵に諭されます。おまけに、判官切腹の正しい演じ方まで教えてくれます。
 仲蔵の有難い忠告を胸に淀五郎は徹夜で稽古する淀五郎。その甲斐あって、翌日、淀五郎は見違える様に上達し、團蔵も
「大したもんだ!富士のお山は一晩で出来たっていうが、あの野郎、一晩で判官を作りやがった」
 と感心し、舞台に来て淀五郎の判官の傍で平伏します。それに気づいた淀五郎
「ウ〜ム、待ちかねた!」

【演者】
圓生師を始め正蔵師、志ん生師等歴代の名人、上手が演じてきました。

【注目点】
話術もさながら、淀五郎演ずる判官の切腹の様が、仲蔵のアドバアイスにより見違えるように上手くなる様子がお客さんにも判る様に演じる必要があるので、歌舞伎の知識と、演技力が問われますので、難しい演目と言われています。

『能書』
この噺はよく、「團蔵より、仲蔵がいいね〜」等と言われますが、團蔵の心の内側まで聴いている者に悟れる様にしなくってはならず、かなりの技量を要求されます。
オチは仮名手本忠臣蔵 四段目の判官と由良助のシーンから来ています。
聞き手も歌舞伎を知らないと楽しめませんね。

『ネタ』
江戸時代の芝居小屋は上演中でも客が出入り自由だったのですが、誰も何も言いませんでした。
でも、ひとつだけ例外がありました。それが忠臣蔵の四段目で「由良之助はまだか」とまちかねる塩冶判官が自らの腹に刀を突き立てたその時に、由良之助が早駕篭で到着するという緊張感満点の大見せ場は、「出物止め」、上方では「通さん場」と言って、決して途中入場、退場を許さなかったそうです。

「蛇足」
 この頃の芝居は朝早くから幕が開きました。観客も通しで熱心に見ている訳ではなく、飲み食いしながら、時には観客同士が語らいながらの観劇でした。
 芝居の中での見せ場が来ると、顔を照らす黒子が登場し、観客によく判る様にしました。この時は、熱心に見たそうで、時には掛け声も掛かったそうです。
 また役者の階級は 下立役(稲荷町)−中通り(チュウドオリ)−相中(アイチュウ)−相中見習い−相中上分−名題下−名題(ナダイ)と格が上がっていったので、淀五郎は相中上分・名題下を飛び越え名題に抜擢されたので、やはり舞い上がるほど喜んだのでしょうね。

「四段目」という噺

b8258f07『四段目』
12月も8日になりましたので。そろそろ忠臣蔵関連の噺も良さそうと思い今日はこの噺にしました。

【原話】
忠臣蔵を題材にした噺ですが、元は1771年に出版された『千年草』の一遍、「忠信蔵」が類話です。
 上方落語「蔵丁稚」が明治期に東京に移植されました。

【ストーリー】
 仕事をさぼって芝居見物に出かけていたことがばれた定吉は、蔵の中に閉じこめられます。
「昼も食べていないのでお腹が空いているので、それからにしてくださ〜い。」と、お願いしたが駄目でした。
蔵の中は真っ暗で心細く、おまけにお腹がすいてきます。
空腹を紛らわそうと、定吉は、今見てきたばかりの四段目を思い浮かべながら順々に情景を思い出しながら一人芝居をし始めました。
 あまりの空腹に「旦那〜、お腹がすいてんですよ〜、助けてくださ〜い!」、だれも返事はない。
「そうだ、芝居の事を考えていたら空腹も忘れていられる」と、蔵の中の道具を持ち出して、本格的に演じ始めた。カタギヌ、三方、刀、カエシの代わりに手ぬぐいで、所作を夢中でまね始めます。
そこへ女中のおキヨどんが、物干しから覗くと、暗がりの中で定吉が諸肌になり、キラキラするものを腹に突き立てようとしているから、びっくり仰天。
「旦那様、定どんが蔵の中で腹を切ってます!」
「なに! しまったすっかり忘れていた。さっきから腹がへった、腹がへったと言っていたけれど、それを苦にして……。おい、なにか食べ物を。あぁ、お膳でも何でもいい」。
と、旦那自らおひつを抱えて、蔵に走り、がらがらと扉を開けて、
「ご膳(御前)」
「くっ、蔵の内でか(由良之助か)」
「ははっ」
「うむ、待ちかねた」

【演者】
多くの噺家さんが演じています。個人的に好きなのは志ん朝師ですね。現役では遊雀師がいい味出しています。

【注目点】
実に愉快な噺で、好きな噺です。
 江戸っ子は芝居見物が大変好きで歌舞伎が一番人気だったそうです。
この定吉も、ご多分にもれず芝居好きで、店の仕事をさぼって、芝居小屋に足を運ぶ一人だったんですね。
 当時、一番人気だったのは『仮名手本忠臣蔵』で、中でも、塩治判官の切腹場面である四段目は、芝居通の見るものとして大変好まれていたそうです。

『能書』
東京と上方では細部が違っていますし、時代によっても噺に登場する役者の名が違って来ます。
古い音源を聴くとその辺も楽しみの一つです。
東京では、團十郎や海老蔵の名が出てきますが、上方では中村鴈治郎と片岡仁左衛門となります。
 米朝師は「お客さんを、ちょっと芝居を見ているような気分にさせないとなりません」と語っていました。

『ネタ』
四段目は、噺の中で定吉も語っていましたが、前段の高師直への刃傷で、切腹を命じられた塩冶判官が、九寸五分の短刀を腹に突き立てた時に、花道から大星由良之助が駆けつける名場面です。当時の江戸では、「忠臣蔵」を知らぬ者などないので、単に「蔵」だけで十分通用したそうです。

昔は「忠臣蔵四段目」の判官は一日一段と決まっていて、切腹したらそのまま帰宅したそうです。

「御神酒徳利」という噺

b1aa204c『御神酒徳利』
 え〜寒くなって参りました。そろそろ冬の噺でも良かろうと思いこの演題を上げました。

【原話】
この噺には「占い八百屋」と言う題名もあり、柳家の噺家さんは題名は同じでもこちらの型で演じます。
三遊派は今日紹介するやり方で、圓生師が御前口演で演じた噺です。元は上方落語で、三代目小さん師が移植しました。これが「占い八百屋」です。

【ストーリー】
日本橋馬喰町の大店の旅籠刈豆屋吉左衛門で働く通い番頭の善六さん。
年に一度の十二月十三日大掃除の時、先祖が徳川様から頂いた銀の葵のご紋の入った一対の家宝の御神酒徳利が台所に転がっているのを見つけました。
しまうところがないので水瓶の中に入れ、そのまま忘れてしまったのです。
このお神酒徳利で大神宮様にお神酒を上げるのが慣わしになっているんもですが、後で徳利が無いと大騒ぎ。善六さん家に帰ってから思い出したが、今更自分がしたとは言えません。
すると 、おかみさんは父親が易者だったので、徳利のあるところは判っているからソロバン占いをして、出せばいいと言ます。
生涯に三度だけ占う事が出来るという触れ込みで、占う事にしました。無事徳利が見つかったというので、ご主人は大喜び。
 この見事な、不思議な占いを宿に泊まっていた鴻池の支配人が知り、実は鴻池の一人娘が難病にかかり、その原因がどうしてもわからない、それを何とか占って欲しいと依頼をします。
善六さんは本当に占いが出来るわけがないので、引き受けたくないのですが、おかみさんにそそのかされて、こんなチャンスはめったにない上に三十両が貰える、占いは適当にやればいいからと大阪にしぶしぶ行くことになりました。
 善六さん、支配人と大阪に向かう道中、神奈川宿で、滝の橋の新羽屋 (にっぱや)源兵衛という鴻池の定宿に泊まろうと立ち寄った のですがどうも様子がおかしいのです。
訳を聴くと、女将は四,五日前に薩摩武士が泊り、金七十五両と幕府への密書が入っている巾着が無くなったので、内部の者に嫌疑がかけられ、主人源兵衛は取調中で連れていかれているとの事です。。
 これを聞いた支配人、じゃここにおいでになる占いの善六先生に見てもらったらいい、まだ1回あるからお願いしますという。
もとより占いを知らない善六さんは 、お供えにハシゴだワラジだ大きなおむすびだと夜逃げの算段。
すると夜中に女中が善六の部屋にやって来て「自分が親の病気を治したいばっかりに盗んだ」と白状しました。隠し場所は嵐で壊れた庭の稲荷の社 (やしろ)の床板に隠したと聞いて女を帰します。
早速宿の女将を呼んで、あたかもソロバン占いに掛が出たと、在りかを当てたので宿中大喜び。新羽屋から礼にもらった三十両の内女に5両与え、女将には稲荷の社を直すように諭し大阪に。
 三度目の占いに掛かった時は、苦しい時には神頼みで、水垢離を続けた処、満願の日に神奈川宿の稲荷大明神が夢に現れ、稲荷の社の修復と信心が戻った事への感謝をあらわし、「鴻池家の乾(いぬい=北西)の隅の柱の四十二本目の土中に観音像が埋もれているから、これを掘りだして崇めれば娘の病気はたちどころに治る」と教示されます。
早速掘ってみると夢の通り観音像が出てきたので鴻池家ではこれを機に米蔵を開いて大阪三郷の貧民に施しをしたので、慈善の徳で娘の病気は全快しました。
 善六さんは鴻池から金を出してもらって馬喰町に立派な旅籠屋を建て、いままでの貧乏暮らしが一躍大金持ちになりました。
もともとソロバン占いで成功したので、生活が桁違いに良くなった・・・

柳家の型では主人公は八百屋さんで、出入りの大店で女中さんに嫌がらせを受けた腹いせに、徳利を隠して、その後占いで当てた様に演じます。ほとんど同じですが、三島の宿での出来事で、困って夜中に逃げ出して仕舞います。

【演者】
この型では六代目圓生師が有名ですね。昭和天皇の御前口演もしました。
他に「占い八百屋」で小三治師が演じています。
「占い八百屋」は、八百屋が主人公になっていて、神奈川の宿で逃げ出して「今度は先生が紛失した」とサゲています。

【注目点】
日本橋馬喰町は江戸随一の宿屋街で、東海道筋からの旅人はもとより、江戸に全国から集まった「お上りさん」はほとんど、ここの旅宿にワラジを脱ぎました。
噺中の「刈豆屋吉左衛門」は馬喰町の総取り締まりで、実在の人物です。
「御神酒徳利」とは、神前に備える対になった徳利のことで、神社等では錫制で、他には伊万里や備前・丹波・瀬戸等があります。噺では圓生師は銀、小三治師は錫製です。

『能書』
圓生師がこの噺を御前口演に選んだのは、悪人が出てこない、トントン拍子に事が運んでおめでたい等の理由だったそうです。

『ネタ』
圓生師は上方からやって来た五代目馬生師から教わったそうです。だから元の型なんですね。
 
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