a2e0bc8d『大師の杵 』
弘法大師とは、空海上人とも呼ばれ、日本に真言宗を広めた偉いお坊さんですね。
知らない人は居ないと思いますが……という訳で今日寄席が休みですが、この噺です。

『原話』
 空海上人は没後90年近く経たのちに大師の呼称を贈られました。これを謚号(しごう)と云います。それ以降民間信仰の対象となり、北海道を除く各地に五千以上の伝承が生まれました。平間村の伝承もそのひとつだと思われます。

『演者』
現役では春風亭小朝師がよくやってます。
また談志師や五代目圓楽師もやっていました。

『ストーリー』
空海上人22歳の時、武蔵の国・橘郡(たちばなごおり)平間村、今の神奈川県川崎に来た時、名主の源左衛門宅に宿をとって布教しました。
美しく学徳もあり、若い空海に信者も増えていきます。
宿の娘”おもよ”さんは村きっての絶世の美人でしたが、最近、そのおもよさんが痩せてきたと言う。
婆やさんが話を聞いてみると、「御上人様のことが好きで・・・」と恋の病をうち明けます。
 ご主人源左衛門が上人に掛け合って当家に入って欲しいと懇願したが、仏道の修行中の身と言って断られてしまいます。
 この事を娘に言う訳にもゆかないので、おもよさんに
「若い僧なので今夜綺麗に化粧して彼の寝床に忍び込んできなさい」
 とけしかけた。
 おもよさんが寝室に忍び込んでみると、 部屋の中はもぬけの殻で、布団に手を入れると餅つきの杵(きね)が置いてあった。これは上人が残した何かのナゾではないかと思います。
一人娘と出家の身だから「想い杵(キレ)」と言うのかしら、はたまた「ついてこい、付いて来い」と言っているのか解りませんが、惚れた弱み、上人を追いかけます。
 六郷の渡しに来てみると一刻(とき)前に上人を渡したと船頭から聞き、今の時間で2時間前では女の身では追いつく事も出来ません。
悲観のあまり多摩川に身を投げてしまいます。上人は変な胸騒ぎがするので引き返してみると、夜も白々と明ける頃、村人に囲まれた冷たいおもよさんの骸(むくろ)に対面します。
その死を悲しみ、名主の源左衛門宅に戻り、おもよさんの菩提を毎日弔りました。
近隣の人がそれを見て庵を造り、その名を「おもよ堂」。それが徐々に大きくなって、今の川崎大師になりました。伝説では、大師堂の奥には今も「弘法身代わりの杵」が安置されていると言う事です。
 尊体か杵か、どちらが本当か川崎の坊さんに、
「お厨子の中は杵だそうですね?」と聞くと
「なぁに、それは臼(嘘)だ。」

【注目点】
空海上人には23〜29歳の約7年間に空白があり、この時期上人の足跡が解っていないそうです。その空白の7年間での出来事が落語『大師の杵』だと言われています、平間村にはこの期間の伝承が残っているそうです。
 その伝承について裏付けるような話があるそうです。それは江戸末期・松亭金水の人情本『閑情末摘花』の中に出てくるとか。
『閑情末摘花』は全五編巻からなっており、このうちの第三編巻之中に同じ話が載っています。

『能書』
川崎大師は、川崎大師のHPから引用しますと……。
今を去る880余年前、崇徳天皇の御代、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく、 ようやくこの川崎の地に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮らしを立てていました。兼乗は深く仏法に帰依し、とくに弘法大師を崇信していましたが、 わが身の不運な回り合せをかえりみ、また当時42歳の厄年に当たりましたので、 日夜厄除けの祈願をつづけていました。
 ある夜、ひとりの高僧が、兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、 海上に放ちしことあり。已来未(いらいいま)だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられました。
 兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられました。それは、大師の尊いお像でした。 兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。
 その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、ここに、大治3年(1128)一寺を建立しました。そして、兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。これが、今日の大本山川崎大師平間寺のおこりであります。
 法灯をかかげて、悠久ここに880余年、御本尊のご誓願宣揚と正法興隆を目指す根本道場として、川崎大師平間寺は、今、十方信徒の心からなる 帰依をあつめています。

『ネタ』
この噺も「源平」などと同じように地噺ですので、演者の力量が問われますね。