今日は昨日命日だった五代目小さん師について書いてみたいと思います。
1915年(大正4年)1月2日生まれ - 2002年(平成14年)5月16日)没
本名、小林 盛夫
出囃子は、序の舞
生まれは長野ですが5歳の時に東京へ出てきました。
1933年(昭和8年)6月 - 4代目柳家小さんに入門。前座名は栗之助。
1936年(昭和11年) - 歩兵第3連隊に入隊。二・二六事件を体験する。
1939年(昭和14年)3月 - 除隊される。二つ目に昇進し、柳家小きんに改名
1947年(昭和22年)9月 - 復員。真打に昇進し、9代目柳家小三治を襲名。真打昇進興行中に、師匠小さんが急死。
8代目桂文楽の預かり弟子になる。
1950年(昭和25年)9月 - 5代目柳家小さんを襲名
1972年(昭和47年)3月 - 6代目三遊亭圓生の後任で落語協会7代目会長就任。
1977年(昭和52年)12月 -落語協会を社団法人化し、正式名称を社団法人落語協会とする。
1995年(平成7年)5月31日 - 落語家初の重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。
1996年(平成8年) 2月 - 脳梗塞のため入院。療養ののち高座に復帰
1996年(平成8年)8月1日 - 落語協会会長を退任し、落語協会最高顧問就任。
2002年(平成14年) - 5月16日心不全のため死去。87歳没。従五位を贈られる。
と錚々たる経歴です。
若い頃は三代目三木助師と義兄弟の契を結んでおり、三木助師は自分の長男に、小さん師の本名小林 盛夫を付けた事は有名です。
特筆すべきはあの二・二六事件に実際に一兵卒として参加した事で、本人は知らなかったそうですが、
命令で警視庁占拠にも加わったそうです。
その時に上官の命令で「子ほめ」を一席やったそうですが、まるでウケなかったそうです。そりゃそうだ!
私なんかも何回も高座を見ていますが、特に面白いくすぐりを連発する訳ジャナイんです。
最初はボソボソと話していますが、いつの間にか噺に引きこまれて仕舞います。
流れが自然と言うか、そのままなんですね。それが凄いですね。
人間国宝に内定した時、「これ以上芸がうまくなる事は無いんだが、下手になったら返すのかい?」と
係官に言ったそうです。最高ですね(^^)
また弟子の数が多く、小さん一門を形成しています。ハッキリ数えた事はありませんが孫弟子も入れると60人以上になりますね。
芸風に関してですが、上方の方は小さん師の芸が「よく判らない」とか「どこが面白いの?」と言う事を聴きます。
少し聴いていると、判ってくるのでしょうが、とっつき難さは感じるのでしょうか?
色々な噺を直したりしています。有名なのは「長短」でこれは小咄程度の噺だったのを小さん師が一席に噺に仕立てました。これは簡単そうに見えて難しい噺なので真打の噺とされています。
また、落語以外でも百面相等は素晴らしい芸でしたね。
色々なエピソードは皆さんの方が詳しいかも知れませんね。
1915年(大正4年)1月2日生まれ - 2002年(平成14年)5月16日)没
本名、小林 盛夫
出囃子は、序の舞
生まれは長野ですが5歳の時に東京へ出てきました。
1933年(昭和8年)6月 - 4代目柳家小さんに入門。前座名は栗之助。
1936年(昭和11年) - 歩兵第3連隊に入隊。二・二六事件を体験する。
1939年(昭和14年)3月 - 除隊される。二つ目に昇進し、柳家小きんに改名
1947年(昭和22年)9月 - 復員。真打に昇進し、9代目柳家小三治を襲名。真打昇進興行中に、師匠小さんが急死。
8代目桂文楽の預かり弟子になる。
1950年(昭和25年)9月 - 5代目柳家小さんを襲名
1972年(昭和47年)3月 - 6代目三遊亭圓生の後任で落語協会7代目会長就任。
1977年(昭和52年)12月 -落語協会を社団法人化し、正式名称を社団法人落語協会とする。
1995年(平成7年)5月31日 - 落語家初の重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。
1996年(平成8年) 2月 - 脳梗塞のため入院。療養ののち高座に復帰
1996年(平成8年)8月1日 - 落語協会会長を退任し、落語協会最高顧問就任。
2002年(平成14年) - 5月16日心不全のため死去。87歳没。従五位を贈られる。
と錚々たる経歴です。
若い頃は三代目三木助師と義兄弟の契を結んでおり、三木助師は自分の長男に、小さん師の本名小林 盛夫を付けた事は有名です。
特筆すべきはあの二・二六事件に実際に一兵卒として参加した事で、本人は知らなかったそうですが、
命令で警視庁占拠にも加わったそうです。
その時に上官の命令で「子ほめ」を一席やったそうですが、まるでウケなかったそうです。そりゃそうだ!
私なんかも何回も高座を見ていますが、特に面白いくすぐりを連発する訳ジャナイんです。
最初はボソボソと話していますが、いつの間にか噺に引きこまれて仕舞います。
流れが自然と言うか、そのままなんですね。それが凄いですね。
人間国宝に内定した時、「これ以上芸がうまくなる事は無いんだが、下手になったら返すのかい?」と
係官に言ったそうです。最高ですね(^^)
また弟子の数が多く、小さん一門を形成しています。ハッキリ数えた事はありませんが孫弟子も入れると60人以上になりますね。
芸風に関してですが、上方の方は小さん師の芸が「よく判らない」とか「どこが面白いの?」と言う事を聴きます。
少し聴いていると、判ってくるのでしょうが、とっつき難さは感じるのでしょうか?
色々な噺を直したりしています。有名なのは「長短」でこれは小咄程度の噺だったのを小さん師が一席に噺に仕立てました。これは簡単そうに見えて難しい噺なので真打の噺とされています。
また、落語以外でも百面相等は素晴らしい芸でしたね。
色々なエピソードは皆さんの方が詳しいかも知れませんね。
今日は「夏泥」を聴いいて下さい
初めてナマの落語を聴いたのは、高校の入学祝いに父が連れていってくれた浅草演芸ホールです。その時の主任が先代小さん師匠「時そば」でした。40年近く前のことです。
平成ヒトケタ代の新宿末廣亭で、落語協会の昼席中入前はだいたい先代小さん師匠でした。ちょうど今の米丸師のようなポジションですね。
小さん師匠は数十席聴いていますが、すべて寄席の高座です。
メクリが「小さん」に替わると、客席は構えることなくごく自然に噺を聴く雰囲気になりました。今考えると凄いことです。
小三治師でも、出の一瞬緊張感が走ります。