らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

※このブログでは個人などへの誹謗中傷のコメントは見つけ次第削除させて頂きます。 落語好きの人の為のブログですので。

「穴泥」という噺について

20241130152815『穴どろ』
今年も明日から師走12月です。早いものですね。という訳で今日は暮れの噺でもあるこの噺です。

【原話】
原話は、嘉永年間(1848年~1854年)に出版された笑話本・「今年はなし」の一遍である『どろ棒』です。
上方だと「子盗人」というタイトルですね。


【ストーリー】
三両の金策がつかないある男。家に帰ると、女房から「豆腐の角に頭をぶっつけて死んでおしまい」と、ののられます。
頭に来て家を飛び出しますが、あてはありません。
立派な蔵が有る商家の庭先に出ました。奉公人達がそろって遊びに出かけた様ですが、裏木戸がバタンバタンしているので、教えてあげようと庭先に入り、部屋うちを覗くと宴会の後と見えて料理が沢山残っていいます。
「こんにちは」と言いながら上がり込んで、冷や酒や残りの料理に手を付け始めた。朝から何も食べていなかったので、気持ちよく食べ飲んだ。ここで、この家の人に見つかったらなんて言おうかとか、やな女だが嫁に来たてはいい女であったとか一人酒をしているまに酔ってしまった。
 やっと一人歩きができる程の子供が顔を見せた。あやしながら後ずさりをしていると、踏み板がずれていたので、穴蔵に落ちてしまった。「だれだ〜、俺を突き落としたのは、何を盗んだ〜」、大きな声でわめいていたので主人が出てきて、事の一件を悟って、泥棒だからと頭 (かしら)を呼びに行かせる。あいにく頭は出かけて居ず、留守番の”亀さん”が駆けつけてくれた。
 あっしの背中はこっちが上り龍でこっちが下り龍、泥棒なんか怖くはないし、ふんじばって叩き出しちゃう。頼もしそうな亀さんではある。子供のお祝いの日だから縄付きは出したくない。お前さんが中に入って泥棒を抱き上げて欲しいと頼みます。
ところがナンだカンだと言って中々降りていきません。
旦那はしびれを切らして、一両上げるからと言い出します。
それでも中々降りないので、金額が二両に上がります。
じゃあと言うのですが、喉首に食らいつくと言われて又々おじけづきます。
とうとう旦那は「じゃ三両出す」と言い出します。
それを聴いた男は「三両ならこちらで上がって行く」

【演者】
何と言っても文楽、志ん生師の高座が良いですね。
個人的には八代目圓蔵師でよく聴きました。
また三代目柳好師も晩年に演じました。(亡くなる前)
 今でも寄席でもたまに聴くことが出来ます。

【注目点】
現在の型は初代三遊亭圓右師や初代柳家三語楼師のものだそうです。

『能書』
「穴庫」というものが登場したのは、1656年(明暦2年)に日本橋本町の商家に作られたのが最初だそうです。
ですのでこの噺の舞台は日本橋界隈ということになりますね。

『ネタ』
昔は、たいした事が無けれは、お上には通報しなかったそうですね。
自分達で始末していた様です。こんな未遂でも当時でも立派な犯罪になりました。
今でも不法侵入ですがね。

桂雀々師の訃報に接して

 小春日和の暖かさを貪んでいたら、とんでもない知らせが飛び込んで来ました。

 東京で活動されている桂雀々師が、なんと!お亡くなりになったというニュースでした。何でも10月に倒れられてリハビリ中だったとのことです。それにしても、享年64とは早すぎます。
 師は東京の寄席にも出演されていたので、幾度か高座を拝見しました。また、録音や放送でも数え切れないほどの上方落語を聴かせて頂きました。
 芸風は、個人的な感想で言えば、師匠の枝雀氏師を思わせながらも、自身の個性を噛み合わせた、素敵な噺家さんだったと思っています。これから名人・上手の道を歩まれると思っていただけに、残念でなりません。
 謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

「洒落小町」という噺について

20241120101134『洒落小町』
今日は「洒落小町」です。この噺も最近は聴かなくなりました。
私のあやふやな記憶ではここ数年で一度だけですね。確か芸協の芝居でした。芸協はたまに絶滅危惧種の噺を若手がしてくれます(笑)

【原話】
元は上方の「口合小町」と言う噺で、初代桂文治師が文化年間に作った上方落語を東京に移植したものです。
東京では八代目文治師や圓生師が演じていました。

【ストーリー】
ガチャガチャお松と呼ばれるうるさいカミさんが、亭主が穴っ入りばかりで、家に寄り付かないと愚痴をこぼします。
 旦那は、在原業平の話を聞かせます。

 業平は毎夜妾の生駒姫の所に通うが、嵐の日に、雨が降ったくらいで来ないとは、男は薄情者だと思われるから行きなさいと、妻が蓑笠を整えて送り出しました。
業平は妻の態度が怪しいと、庭蔭に隠れて見ていると、縁側で妻が琴を弾きながら、夫の無事を願う和歌を詠います。
これを聞いた業平は反省して妾通いを止めたと言う。で
「お前に和歌など無理だから洒落で笑わせろ」
 と教えます。それから、お松が家に帰り、薄化粧をして夫の帰りを待っています。
 亭主が帰る早々、湯は、食事は、酒はと、せかすものだから、怒り出しました。洒落を言っても通じなません。出て行こうとするところを、蓑笠を出して突き飛ばしたので、夫はどぶに嵌ってしまいました。
 ここで和歌を詠むんだと、一首詠んだ夫は行ってしまいました。旦那の家に行って訳を話すと
「その歌は狐の歌だ」
「狐? ああ、それでまた、穴っ入り(あなっぱいり)に出掛けたんだ」 

【演者】
八代目文治師や圓生師ですね。

【注目点】
これは、文章で読むより聴いてもらった方が面白い噺です。
最近はあまり聴きませんねえ。
一部ではこの噺を出来る噺家さんは余りいないとの事です。

『能書』
「口合」とは地口、言葉の洒落を指す上方の言葉だそうです。むこうでは「くっちゃい」とも発音するのだとか・・・・・・。
 上方の「口合小町」では、小野小町が、
「ことわりや日の本ならば照りもせめさりとてはまた天(あめ)が下とは」
という雨乞いの歌を詠んだところ、七日続いて雨が降ったという「雨乞い小町」の伝説があります。
 サゲはこれを踏まえ、亭主が降参して、茶屋通いはやめると謝ると、
「まあうれしい。百日の日照りがあったら知らして」
「どないするのや?」
「口合(洒落)で、雨降らせてみせるわ」
 と、なっています。
 まあ正直、これでは今は通じませんね。

『ネタ』
穴っぱいりとは、今で言う浮気の事で、情婦のもとに行ったきり帰らないのを、
狐が穴に籠もることに例えたものです。

「やかん」という噺

20241113112315『やかん』
今日はこの噺です。秋の噺なんですね。
先日、浅草の夜席に行きましたら、三遊亭藍馬師が、この噺を演じていました。お客が少ない(約40人前後)の為か余りウケていませんでした。私が見るに決して下手ではありませんが、少ないお客を掴みきれていない感じがしました。その後に出た三遊亭吉馬師や三笑亭夢花師は結構ウケていましたし、笑福亭里光師もかってはお客を掴み切れない感じでしたが、この日は見事に掴んでいました。噺の上手さ以外にこの様な点も大事なのですね。

【原話】
原話は、明和9年(1772年)に刊行された『鹿の子餅』の一遍である「薬罐」という話です。

【ストーリー】
この世に知らないものはないと広言する隠居。
長屋の八五郎が訪ねるたびに、別に何も潰れていないが、愚者、愚者と言うので、一度へこましてやろうと物の名の由来を次から次へと訪ねます。
ところが隠居もさるもの、妙てけれんなこじつけで逃げていきます。
色々な事を聞いたのですが、中々埒があかないので、とうとう薬缶の由来について訪ねます。
少々戸惑った隠居でしたが、ひらめくと滔々と語ります。
 やかんは、昔は軍用に使い、本来は水沸かしというべきもので、もっと大きかった。
 戦の最中大雨の夜、油断をして酒に酔っていると、突然の襲撃に、夜討ちでござる、夜討ちだぁと叫んでみんな大慌て。
 具足を付けたまま寝ていたひとりの若大将が、ガバッと跳ね起きたが兜がない。近くにあった大きな水沸かしの湯を空けて頭に被ると、馬の蹄を蹴立てて敵陣に切込む。敵方は雨のように矢が射るが、当たっても矢がカーン、当たっても矢カーンと跳ね返される。それでやかんという。また、熱いまま被ったので蒸れて毛がすっかり抜けてしまい、それから禿頭をやかん頭という。
 ツルは顎紐に、蓋は口にくわえて面の代わり、口は敵の名乗りを聞くための耳だ、
耳が下を向いているのは雨が入らないように。
 どうして耳が片方しかないんだい?
 片方がないのは、寝る時に枕をあてるため……。

【演者】
三代目金馬師や六代目圓生師をはじめ多くの噺家さんが演じています。
今でも寄席で必ずと言って良いほどよくかかります。

【注目点】
実は余り言われていませんが、「根問」というのは上方落語の題名で、江戸落語ではこのように誰かに聴く噺でも「根問」という題名はつけられていません。
まあ「浮世根問」とかありますけどね。これも上方落語の演目ですしね。
この噺もそうですし、「千早振る」などもついていませんね。そのあたりを考えると面白いです。

『能書』
落語には「根問いもの」と呼ばれるジャンルがあります。
大抵は、八五郎が隠居の処に行き、色々な事を聞くという設定です。
問われた隠居は、、実は知らないのにさも知っていたかのように話すという具合です。
代表的な噺に「千早ふる」「浮世根問」「商売根問」それに「恋根問」なんてのもあります。それから「絵根問」なんてのも有るみたいです。(勿論、聴いたことはありません)

『ネタ』
その昔は知ったかぶりをする人を「やかん」と呼んだそうです。落語以外では聞いたことありません。ホントかしら?

「蛇足」
大凡ですが、噺の途中で魚や動物の名前の由来が出てきたら「やかん」。世界の果てとか宇宙の果てなんて話が出て来たら「浮世根問」だと思っていれば間違いありません。(たまにごっちゃにやる方もいますがw)

「三軒長屋」という噺について

20241107155020アメリカの次期大統領がトランプ氏に再び決まったということで、安倍さんが居たらなぁ〜、と思った方は私以外にいるでしょうか? という訳で今日は久しぶりにこの噺です。でもこれは立冬にかける噺なのか?

『三軒長屋』
別名を「楠運平」とも言います。長いので寄席などでは半分で切ることも多いですし、そもそも余り寄席では掛かりません。出会えた方は幸運だと思ってください。

【原話】
 1807年の喜久亭壽暁のネタ帳に「楠うん平」とあります。恐らくこれが元だと思います。1826年の「あごのかきがね」の「是は尤も」に当時の様子が詳しく書かれています。
 橘家圓喬師や四代目小さん師によって今に伝わっています。

【ストーリー】
ある三軒続きの長屋。住んでいるのは、向かって右端が鳶の頭の政五郎。
左端が「一刀流」の看板を掲げて剣術道場を開いている楠運平橘正国(くすのき うんぺいたちばなのまさくに)という浪人。
 この二人に挟まれて住んでいるのが、高利貸しの伊勢屋勘右衛門のお妾さん。
 ある日お妾、勘右衛門に
「両隣がうるさくって血のぼせがするから引っ越したい」
 とせがむ。
「鳶の頭の家では日ごろから荒っぽい若い者が出入りして、酒を飲んでは大騒ぎ、時期となると朝から木遣りの稽古を始めてやかましい。剣術の先生宅は、大勢の門弟が明け暮れ稽古、これまたうるさいことこの上ない」
 それを聞いて、
「たかが喧騒に負けて引っ越すのも馬鹿らしい」
 と勘右衛門、もうすぐ抵当流れになるので、そうなったら両隣の借り主を追い出して長屋を一軒の妾宅にするつもりだから、と妾に話す。そう言って妾をなだめているところを聞いたこの家の女中で早速、井戸端で話してしまったおかげで計画は筒抜け。怒ったのが頭のかみさんで、
「家主ならともかく、伊勢屋の妾ごときに店立てされるなんて! あたしは嫌だよ!」
 と亭主を焚きつける。
 頭、少し考えていたが、翌朝になると羽織をしょって楠運平先生の道場へ赴き「かくかくしかじか」とご注進。
「何と!? あの薬缶頭が店立てを迫っておる、と?」
「門弟一同率いて勘右衛門と一戦に及ばん」
と息巻く楠先生をなだめた頭、何やらヒソヒソと耳打ち。
 翌日、伊勢屋に現れた楠先生
「拙者、道場が手狭になった故、転居をいたすことに相成り申した。しかれど懐が厳しいため、費用捻出を目的に千本試合を催すことに致しました」
 他流・多門の剣客が集まり、金を出して試合をする。それを集めて転居費用とするという。
「本来は竹刀での勝負でござるが、意趣遺恨のある場合は真剣勝負もござるゆえ、首の二つや三つ、腕の五本や六本はお宅に転げ込むかもしれませぬ……その時はどうぞご容赦を」
 話を聞いた勘右衛門、震え上がって
「引っ越しの金をお出ししますから、試合はどうかご勘弁を」
 と平身低頭。
 五十両を受け取った楠先生が引き上げると、入れ違えに伊勢屋に現れたのは頭。
「引っ越すことになったんですがね、金がねぇんで花会を開こうかと思うんですよ」
 宴会には酒が付き物。ただでさえ気性の荒い若い者どもが、酒を飲んだらどういうことになるか。気をつけはしますがね、何しろ、肴に鮪の刺身を出すんで、おあつらえ向きに包丁があるじゃありませんか。斬り合いになって首の二十や三十……」
 勘右衛門は、脅かしてもだめだよ、引っ越し料が欲しいのなら正直にそう言えと、また五十両。帰ろうとする頭に、勘右衛門
「そう言えば、剣術の先生も同じような事を言っていたんだよ。お前さん方、いったいどこへ越すんだい?」と尋ねると、
「へえ、あっしが先生のところへ越して、先生があっしのところへ」

【演者】
最近では志ん生師や圓生師、それから志ん朝師などが有名ですね。

【注目点】
この噺が出来た当時は既に身分制度が崩壊し始めていた。という説がありましたが、最近では身分制度そのものはそれほど厳格なものでは無かったとなっています。裕福な商人が憚っていたそうです。だからこの様な噺ができたのでしょうね。面白いですね。
また権力に対抗する団結みたいな感じもありそのあたりは少し現代的でもあります。

『能書』
人物の出入りが多いため、よほどの実力者でないと演じ切る事が出来ない大作とされています。
個人的には鳶の頭の女将さんを演じるのが難しいと思っています。

『ネタ』
二階のついた上等な長屋は横丁や新道、小路などにあり、裏長屋などとは違う扱いになっていたそうです。

「碁どろ」という噺について

20241025132438『碁どろ』
 10月も終わろうというのに余り秋らしくない日々が続いていますが、皆様はどうお過ごしでしょうか? 西田敏行さんが、お亡くなりになりショックを受けてる今日この頃です。という訳で今日はこの噺です。

【原話】
元は上方落語「碁打盗人」で、明治中期に三代目小さん師が四代目桂文吾師に教わり東京に持ち帰りました。

【ストーリー】
主人が、友人を呼んで碁を一局することになまります。前に碁に夢中になって畳を焦がしてしまったことがあり、その結果「碁は碁、煙草は煙草」と分けて、一局打った後にゆっくり煙草を吸おうと決め、二人は碁盤に向かいます。
 でも直ぐに「おい!煙草がないぞ!」
 と吸わないという約束も忘れてしまいます。そこは奥方、気を利かして、煙草盆に紅生姜を入れて女中と湯に行ってしまいます。。
 そうとは知らぬ二人、碁に夢中です。打ちながら煙草に火を点けようとしても紅生姜だから点きません。
「あれ!?おかしいなあ。点かねえ」
 と言いながらも、碁盤ばかり見つめています。
 そこへ一人の泥棒が入って来ます。二人は気が付きません。泥棒は仕事をして引上げようとしたら、パチリ!という碁石を打つ音がします。
 静かな夜更けだからとても響きます。何とこの泥棒も碁好きときているから、堪りません。
「あっ!やっているな。…手はどうかな。…あっ? それはいけない。もしもし、だめですよォ!」
 と、自身が泥棒に入ったのを忘れて、二人の対局に首を突っ込む始末。二人も、まさか泥棒とは気付きません。
「アンタ何言ってるの。これでなくちゃあ駄目なんだ。うるさいねえ。あれ? 知らない人だ」
と初めて気がつきますが、碁盤に目を落とします。そして
「お前は誰だいっと、いくか」
 とパチリ。何と相手も
「じゃあ。わたくしもお前は誰だいっと!」パチリ。
 そこで泥棒
「へへ。泥棒です」
「泥棒さんか」パチリ。
「よくいらしゃったねえ」とパチリ。

【演者】
柳家の噺家さんの他志ん朝師なども演じていました。
昭和では6代目春風亭柳橋先生や小圓朝師も得意にしていました。

【注目点】
柳橋先生は、このオチとは少し違っていて「これからちょいちょいいらっしゃい」とサゲていました。

『ネタ』
落語に登場する煙草盆は香道具から改良工夫されたそうです。江戸時代は女性も子供も結構喫煙していたそうですね。

「蛇足」
 とにかく手練れな噺家さんが演じると爆笑ものです。寄席でもたまに掛かります。小せん師とか隅田川馬石師とか聴いた覚えがあります。

「紋三郎稲荷」という噺について考える

20241018155032『紋三郎稲荷』
西田敏行さんがお亡くなりになられました。謹んで御冥福をお祈り申し上げます。噺家さんを演じることのできる俳優さんもどんどん少なくなってしまいますね。みなさんは噺家が似合う俳優さんというと誰を連想しますか? という噺と関係のないことを振って今回はこの噺です。この噺の主人公なんか西田さんが演じたら良かったと思うのです。

【原話】
1802年享和2年の随筆集の「古今雑談思出草紙」からと言われています。または寛政10(1798)年刊「無事志有意」中の「玉」です。

【ストーリー】
常陸(茨城県)笠間八万石、牧野越中守の家臣、山崎平馬。参勤交代で江戸勤番に決まりましたが、風邪をひいてしまい、同僚の者より二、三日遅れて国元を出発しまた。
季節は初冬、旧暦十一月で、病み上がりですから、かなり厚着をしての道中となりました。
取手の渡しを渡ると、往来に駕籠屋が二人います。病後でもあり、風も強いので乗ることにします。
交渉すると駕籠屋が八百文欲しいと言うところ、気前よく酒手込みで一貫文はずみました。
途中、心地よくうとうとしていると、駕籠屋の後棒が先棒に、
「この頃は値切らなければ乗らない客ばかりなのに、言い値で乗るとはおかしい、お稲荷さまでも乗っけたんじゃねえか」
と話しているのが、耳に入ります。
はて、どういうわけでそう言うのかとよく考えるとどうやら、、寒いので背割羽織の下に、胴服といって狐の毛皮を着込んでいました。その毛皮の尻尾がはみ出し、駕籠の外に先が出ていいて、それが稲荷の化身の狐と間違われたことに気がつきます。
洒落気がある平馬なので、からかってやろうと尻尾を動かすと、駕籠屋は仰天。そこで、「わしは紋三郎(稲荷()の眷属だ」
等と出まけせを言ったから、駕籠屋はすっかり信じ込みます。その上、途中の立て場でべらべら吹聴するので、ニセ稲荷はすっかり閉口。
 松戸の本陣の主人、高橋清左衛門なる者が大変に紋三郎稲荷を信仰しているため、平馬はそこに連れていかれてしまいます。下りて駕籠賃を渡すと駕籠屋、
「木の葉に化けるなんてことは……」
「たわけたことを申せ。それは野狐のすることだ」
主人の清左衛門は、駕籠屋から話を聞いて大喜び。羽織袴で平馬の部屋に現れ
「紋三郎稲荷さまにお宿をいただくのは、冥加に余る次第にございます。
中庭にささやかながらお宮をお祭りし、ご夫婦のお狐さまも祠においであそばします」
 と挨拶しましたので、、平馬は
「駕籠屋のやつ、ここの親父にまでしゃべった、どうも弱った」
 と思いましたが、いっそしばらく化け込もうと決めます。
 清左衛門が、夕食はおこわに油揚げなどと言いだすので、平馬はあわてて
「そんなものは初心者の狐のもので、わしほどになると何でも食うから、酒のよいのと、
ここの名物の鯰鍋、鯉こくもよい」
等と言うので、贅沢な狐だと思いながらも、粗相があってはと、主人みずから給仕する歓待ぶりです。
平馬は、酔っぱらって調子に乗り、
「この間は王子稲荷と豊川稲荷の仲裁をした」
 などと吹きまくるのです。
 そのうち近所の者が、稲荷さまがお泊りと聞いて大勢「参拝」に押しかけたというので、
「それは奇特なことである。もし供物、賽銭などあらば申し受けると伝えよ」
「へへー」
 等とやります。
喜んだ在所の衆、拝んでは部屋に再選を放り込んでいくので、平馬は片っ端から懐へ入れてしまいます。
平馬は儲かったので、バレないうちにずらかろうと、縁側から庭に下り、切戸を開け一目散。
 それを祠の下で見ていた狐の亭主、
「おっかあ」
「なんだい、おまいさん」
「化かすのは、人間にはかなわねえ」

【演者】
明治から大正にかけ、「品川の円蔵」こと四代目橘家円蔵が得意にした噺で、六代目圓生師に受け継がれました。
二代目円歌師の高座が有名です。二代目円歌師没後は圓生師が、その後は三代目円歌師が演じていました。
今は、柳家一琴師や入船亭扇辰師が演じています。

【注目点】
圓生師はそれまでの道中の名前等がいい加減だったので、本を読み修正したそうです。この辺に圓生師の気質が表れていますね。

『能書』
紋三郎稲荷とは、茨城県笠間市の笠間稲荷の通称です。
「紋三郎」の通称の由来は、常陸国(いまの茨城県)笠間藩、牧野家初代藩主・牧野貞通の一族の牧野門三郎にちなむものとされます。
祭神は宇迦之御魂神(うかのみかまのかみ)で、創建は白雉(はくち)年間(650〜654)と相当古いです。
伏見稲荷、豊川稲荷と共に、日本三代稲荷の一つで、現在も五穀豊穣の祭神として、信仰を集めています。

『ネタ』
背割羽織とは、別名「ぶっさき羽織」「ぶっさばき」とも呼びます。
武士が乗馬や旅行の際に着用した、背中の中央から下を縫い合わせていない羽織です。
 
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