
今日はこの噺です。特別春の噺という訳でもないでしょうが、なんとなくそんな感じがします。
『原話』
この「抜け雀」という噺、調べると、どうも出自がはっきりしていない様です。それでもよく調べて見ると1703年の「軽口御前男」の「山水の掛物」が原型だろうとされています。
講釈ネタだという説もあるのですが、その中で面白いのが、京都・知恩院七不思議の一で、襖絵から朝、雀が抜け、餌をついばむという伝説です。
圓生師も「子別れ・上」で熊さんが、「知恩院の雀ァ抜け雀」と、言っていますので、有名だった?のでしょうね。
そのせいか、上方落語として発展してきた様です。
東京では志ん生師以前に演じた噺家があまりいない様です。七代目の朝寝坊むらく師がやっていたそうです。また三代目金馬師もやったそうです。志ん生師がどのようにしてこの噺を仕入れたのか、分かって無いそうです。講釈ネタと言うのも志ん生師が講談に一転向したので、その線から出たのかかも知れません。今の形を作ったのは志ん生師なので、この噺は古今亭の噺とも言えるのです。
『演者』
志ん生、志ん朝師を始め古今亭一門の噺家さんがよく演じています。今は結構やる方も多いですね。
『ストーリー』
小田原宿に現れた若い男、粗末な身なりをしています。
袖を引いたのが、夫婦二人だけの小さな旅籠の主人で、案内すると、男は、おれは朝昼晩一升ずつのむ
と、宣言し、その通り、七日の間、一日中大酒を食らって寝ているだけです。
そうなると勘定のほうが心配なので、女将さんが主人の尻をたたき、催促にやります。
すると、金は無いが、自分は狩野派の絵師だからと、衝立に墨で雀の絵を描きます。
江戸へ行き、帰りに寄って金を払うから、それまでこの絵を売ってはならぬと言い残して旅立ってしまいます。
翌日、主が雨戸を開けて日の光が射し込むと、絵の中の雀が飛び出して外で餌を啄み、戻って来て元の絵の中にピタッと収まります。
これが評判になって、毎日客が訪れ大繁盛。小田原の殿様の耳に入り、絵を千両で買い取るとの話を、絵師との約束があるので泣く泣く断ります。
その後、年配の武士が訪れ、止り木がないので雀はいずれ落ちて死ぬからと、雀が抜け出た隙に、画面に鳥籠を描きます。すると戻って来た雀は鳥籠の中にピタッと収まります。
見間違うばかりに身なりを整えて、江戸から戻って来た絵師に事情を話すと、絵を一目見て、描いたのは自分の父親だと言います。
「雀を描いた貴方も名人だが、鳥かごを描いたお父さんも名人ですねえ、親子二代で名人とは、めでたい」
ところが絵師は、
「なんという親不幸をしてしまったか」
と嘆きます。
「どうしてですか?」
「親をカゴカキにしてしまった」
【注目点】
大阪の「雀旅籠」は、舞台も同じ小田原宿ということも含め、筋や設定は東京の「抜け雀」とほとんど同じですね。
特に桂文枝代々の持ちネタだったそうで、近代では三代目文枝師のほか、二代目立花家花橘師、
二代目三木助師も得意にしていたといいます。
『能書』
この噺から判るのは、駕篭かきと言う職業が、あまり良く思われていなかった。と言う事実ですね。
どれだけ剣呑で、評判のよくない輩だったかですね。
まあ落語でも「蜘蛛駕籠」とか色々噺にも出て来るので皆さんも御存知だと思いますがね。
『ネタ』
桂米朝師は
「この噺は四代目文枝師に教わりました。大体が桂派の噺で元は雀が室内を飛び回り、障子を開けるとバタバタと絵に収まるという形でしたが、東京式にいっぺん外に飛び出す形にしました」
と語っています。