はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

金原亭馬生

十代目 金原亭馬生師の思い出

hqdefault暫くは、私の思い出に残る噺家さんを取り上げて行こうと思います。最初は、古今亭志ん生師の長男で、志ん朝師のお兄さんの十代目金原亭馬生師です。

十代目金原亭馬生
1928年〈昭和3年〉1月5日〜1982年〈昭和57年〉9月13日)

言わずと知れた五代目古今亭志ん生の長男。長女は女優池波志乃で、夫である中尾彬は義理の息子になります。

出囃子『鞍馬』 ですが、晩年の僅かな期間だけは父の出囃子『一丁入り』に変えました。これは私の考えですが、恐らく後に癌に侵されるのですが、生来の病弱で、自分が長生き出来ないと悟って父親の出囃子を使ったのだと思います。それ以来『一丁入り』は寄席や落語会では出囃子としては流れていません。

高座は繊細で父親とも弟の志ん朝師とも違います。演じている間は高座に何とも言えない優しさが溢れます。これが特徴でした。
だからキッチリとしていたか、というと意外にラフで、演目もその場で決めていたそうです。それでも通用してしまっていました。そのことは「笠碁」を演じた高座にも現れています。
「東京落語会」で演じた高座とCDで発売されている高座とではかなり違います。どちらも面白いのですが、個人的には「東京落語会」の高座が良いですね。余分な言葉を排除して、仕草、目線などでお客を笑わせています。

経歴
1943年(昭和18年)8月 父・5代目古今亭志ん生に入門。芸名はむかし家今松(4代目)
1944年(昭和19年)9月 古今亭志ん朝(初代)に改名
1948年(昭和23年) 古今亭志ん橋を襲名して真打昇進。
1949年(昭和24年)10月 10代目金原亭馬生を襲名。
1982年(昭和57年)8月30日 第260回東横落語会で「船徳」を口演。最後の高座となる。
9月13日 逝去。享年54。戒名「心光院清誉良観馬生居士」

喉頭がんを患ったのですが、「自分は噺家だから声が無くなるのは困る」と手術を拒否しました。その為、最後はかなり苦しんだそうです。
最後の高座「船徳」口演した時ですが、見ていた人も「かなり辛そうだった」と言っています。
この事で好対照だったのが立川談志師で、最後は手術をして声を失って筆談をしていたそうです。でも、この事は弟子にも一切知らせませんでした。声を失ってからは家族水入らずで過ごしたそうです。この時、落語家立川談志はこの世から居なくなったのだと思います。残りの人生を松岡 克由、個人に戻って過ごしたのだと思います。無くなる寸前まで噺家として生きた馬生師と家族の為に最後は個人に戻った談志師。どちらも面白いと思いました。
でも馬生師はカッコイイです! 粋な噺家さんNO1です!

「花見の仇討」と言う噺

P_20150402_180006-1桜も東京では、そろそろ終わりか? 等と言われていますが、週末までは見られるそうです。

落語協会のHPですが「工事中」が多く使えない状態が続いています。
寄席は休み無しなのですから、早く使えるようにして欲しいものです。

そこで今日は「花見の仇討」です。
仲の良い三人が花見の趣向を考えていて、一人がいい案が浮かんだ様です。
「仇討ちの芝居をやって受けようじゃねえか、筋書きはこうだ。」
二人の巡礼が上野の山で親の仇に出会って「やあ珍らしや、お主は親の仇、尋常に勝負しろ」
「何をこしゃくな、返り討ちだ」と仇討ちの果し合いを始める。
 競り合っているところへ、六部が仲裁に入り、お芝居だったと明かすって寸法だ。

 四人が夫々、敵役の浪人、巡礼二人、六部の役に別れて、現場で落ち合うことになりました。
 当日、六部役の男が上野の山へ上ろうかという時にうるさ型の叔父さんに捕まって説教を食らい、
酒を飲まされて寝てしまいます。
 
一方、巡礼には成行きで、助太刀の侍が着いてしまったから、話が更にややこしくなって仕舞いました。
 筋書き通り果し合いを始たが、いつまで経っても六部の仲裁が入りません。
、場が持たなくなった三人が揃って逃げ出すと、助太刀の侍が
「逃げるには及ばない、勝負は五分だ」
「勝負は五分でも肝心の六部が来ない」

柳家と三遊亭系は舞台を上野でやってます。古今亭系は飛鳥山が多いかな。
江戸時代、遊興が許されていたのは、向島と飛鳥山です。
ここで疑問、なぜ向島で演じる噺家さんがいなかったのだろう?
まあ、当時の都心から上野以外は離れていました。
飛鳥山は一日がかりの行楽地であった訳で、向島は通常は船で行く所。
そうすると叔父さんの話や何かで、噺にボロがでて、辻褄が合わなくなる恐れがあります。
それに明治になると上野の山でも遊興が許可されたので、設定を作り直したのでしょう。

正蔵師匠も飛鳥山で演じていました。
明治になって敵討ちが禁止になり、舞台がどうしても江戸時代限定となりました。
上方落語では「桜ノ宮」と言います。
騒動を起こすのが茶番仲間ではなく、
浄瑠璃の稽古仲間という点が東京と異なりますが、後の筋は変わりません。
五代目笑福亭松鶴師が得意とし、そのやり方が子息の六代目松鶴師や桂米朝師に伝わりました。

明治期に「花見の趣向」「八笑人」の題で演じた四代目橘家円喬師が、「桜の宮」を一部加味して十八番とし、
これに三代目三遊亭円馬師が立ち回りの型、つまり「見る」要素を付け加えて完成させました。続きを読む

中村仲蔵と言う噺

2d43192f先日は「淀五郎」だったので今日は「中村仲蔵」です。

の噺は、江戸末期〜明治初期の名脇役だった三世仲蔵(1809〜85)の自伝的随筆「手前味噌」の
中に初代の苦労を描いた、ほとんど同内容の逸話があるので、それをもとにした講談が作られ、
さらに落語に仕立てたものと思われます。

芝居修行を続けて名題に昇格した中村仲蔵が、どんな大役がもらえるかと期待していると、
与えられた役は、つまらない場面なので客が食事をする弁当幕と呼ばれると、忠臣蔵五段目の端役、定九郎だった。
気落ちして上方修行に出るという仲蔵に女房が、あんたにしか出来ない定九郎を演じろって言う期待じゃないのかいと励まします。
ある日、妙見様にお詣りに行った帰りに、雨に振られ蕎麦屋に駆け込む。
そこに後から来た侍の姿に衝撃を受け、役作りの参考にします。
それから、衣装と見栄に工夫を重ね、斬新な定九郎を作り上げて演じます。
見事な演技に、観客は掛け声も忘れて、ただうなるだけだった。客席が静かなので、ウケなかったと勘違いし、また上方修行へと旅立とうとします。
途中で「昨日の定九郎を見たかい、素晴らしかった」との話を小耳に挟み、これを女房に伝えるために家に戻る。
 そこで親方に呼ばれ、昨日の芝居は良かったと褒められ、褒美に煙草入れをもらって家に戻り、女房に礼を言います。
失敗したの、うまくいったのって、私しゃ煙に巻かれちまうよ。
 「おお!もらったのが煙草入れ」

この中村仲蔵が、名作仮名手本忠臣蔵の五段目で斧定九郎を工夫して現在の型にしたという実録談で、
それまではつまらない役でした。
 ”稲荷町”から”名題”になった稀代なる名優で屋号を栄屋、俳名を秀鶴。江戸時代に、中村仲蔵ほどの出世をしたものはなく、他に幕末になって市川小団次しかないという名優であった。寛政二年(1790)4月23日死去。享年55歳。墓は谷中霊園に有ります。
仲蔵の生涯については、松井 今朝子さんの「仲蔵狂乱」に詳しく書かれています。
かなり面白い本ですので、興味のある方は一読をオススメします。

元々の話は、座頭と立作者が当時は役を決めたようで、立作者の金井三笑は芸の上での喧嘩から仲蔵に五段目の斧定九郎一役だけといういじわるしたのがそもそもの話の始まりと言う事です。
圓生師の「圓生百席」では詳しく語っていますが、その為時間が長くなってしまってます。
CDと言う自由に聴ける媒体ならではですね。
生の高座だと時間の関係で無理でしょうね。
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「しわいや」と言う噺

f0004905_2003237今日は「しわい屋」です。

落語「位牌屋」の冒頭部分が独立して出来た噺です。
サゲの部分は1776年の「夕涼新話集」の「金もち」です。

ある吝嗇家の処にこれまたケチな男がケチの極意を教わりにやってきます。
まず扇子の使い方から始まって、ご飯のおかず梅干しを食べていると聞くと
それは勿体無い、私なら見ていて酸っぱい唾液が口に一杯になったら、そこでご飯を食べる。
梅干しは減らない。
醤油を箸ですくって挟んで口に持っていく。醤油の香りでご飯を食べる。だのろくなのはありません。

本当の極意、秘伝を教えてくれと言われて、それならと裏庭に連れ出します。
大きな木があり、その木に掛かってる梯子を登る様に言います。
登り木にぶら下がると梯子を外して仕舞います。
「左の手」を離す様に言います。
言われた通りにすると、右も離すように言います。
「冗談じゃない、これを離したら死んじゃう!」
「だから、一旦握ったものは離しちゃいけない」

この他にもいわゆるケチの小咄を寄せ集めた噺ですので、
色々なパターンがある様です。
天井から大きな石をぶる下げて、その下で暮らすと、ハラハラの連続で汗をかくので着物が要らないだの、
色々あります。
上方では「始末の極意」とも言います。

サゲがもう一つあり、帰ろうとすると、部屋が暗くて足元が解らない。吝嗇家にマッチを借りようとすると、「目と目の間を殴るんだ。火花で明るく見えるうちに下駄を探せ」との返事。そんな事はとうに見越していた男、「だと思って裸足で来た」と言うと、吝嗇家が「だと思って、部屋中の畳を裏返しにしておいた」
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名人絵師二代

IMG_4839copy今日は「抜け雀」です。
この「抜け雀」という噺、調べると、どうも出自がはっきりしていない様です。
講釈ネタだという説もあるのですが、その中で面白いのが、京都・知恩院七不思議の一で、
襖絵から朝、雀が抜け出し、餌をついばむという伝説です。
圓生師も「子別れ・上」で熊さんが、「知恩院の雀ァ抜け雀」と、言っていますので、有名だった?のでしょうね。
そのせいか、上方落語として発展してきた様です。
東京では志ん生師以前に演じた噺家がいない様なので、志ん生師がどのようにしてこの噺を仕入れたのか、
分かって無いそうです。講釈ネタと言うのも志ん生師が講談に一転向したので、その線から出たのかかも知れません。
したがってこの噺は古今亭の噺とも言えるのです。

大阪の「雀旅籠」は、舞台も同じ小田原宿ということも含め、筋や設定は東京の「抜け雀」とほとんど同じですね。
特に桂文枝代々の持ちネタだったそうで、近代では三代目文枝師のほか、二代目立花家花橘師、
二代目三木助師も得意にしていたといいます。

小田原宿に現れた若い男、粗末な身なりをしています。
袖を引いたのが、夫婦二人だけの小さな旅籠の主人で、案内すると、男は、おれは朝昼晩一升ずつのむ
と、宣言し、その通り、七日の間、一日中大酒を食らって寝ているだけです。

そうなると勘定のほうが心配なので、女将さんが主人の尻をたたき、催促にやります。
すると、金は無いが、自分は狩野派の絵師だからと、衝立に墨で雀の絵を描きます。
江戸へ行き、帰りに寄って金を払うから、それまでこの絵を売ってはならぬと言い残して旅立ってしまいます。

翌日、主が雨戸を開けて日の光が射し込むと、絵の中の雀が飛び出して外で餌を啄み、戻って来て元の絵の中にピタッと収まります。
これが評判になって、毎日客が訪れ大繁盛。小田原の殿様の耳に入り、絵を千両で買い取るとの話を、
絵師との約束があるので泣く泣く断ります。
 
その後、年配の武士が訪れ、止り木がないので雀はいずれ落ちて死ぬからと、雀が抜け出た隙に、画面に鳥籠を描きます。
すると戻って来た雀は鳥籠の中にピタッと収まります。
 
見間違うばかりに身なりを整えて、江戸から戻って来た絵師に事情を話すと、
絵を一目見て、描いたのは自分の父親だと言います。
「雀を描いた貴方も名人だが、鳥かごを描いたお父さんも名人ですねえ、親子二代で名人とは、めでたい」
ところが、なんという親不幸をしてしまったかと嘆きます。
「どうしてですか?」「親をカゴカキにしてしまった」

この噺から判るのは、駕篭かきと言う職業が、あまり良く思われていなかった。と言う事実ですね。
どれだけ剣呑で、評判のよくない輩だったかですね。

まあ落語でも「蜘蛛駕籠」とか色々噺にも出て来るので皆さんも御存知だと思いますが……続きを読む
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