はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

タグ:金原亭馬生

tanikazw_otaki『佐野山』
 今日はこの噺です。暑くて秋という感じはしないのですがね。

【原話】
江戸時代に実在した力士の噺です。
モデルになつた力士は佐野山條助と言い、文化年間の力士ですが噺としては寛政になっています。
ちなみに今の親方の名前は、佐ノ山龍二で現役の頃は大関の千代大海です。

【ストーリー】
江戸の相撲取り、佐野山は幕内にまで入った力士でしたが、、母親が病気になり、看病に時間を費やすうち、相撲の成績がジリ貧に。
とうとう幕下の一番下まで下がってしまいました。
「ああ、これでおれの相撲もおしまいか」そんな佐野山の嘆きを耳にした横綱・谷風は佐野山との取り組みを希望します。
当時全盛の横綱・谷風と連敗続きの佐野山の取り組みに相撲贔屓は驚きます。
「あんなに実力差があったんでは勝負になるまい」という声や、
「明日の取り組みは遺恨相撲で、女をとられた谷風が佐野山を投げ殺すらしい」などという噂が飛び交います。
魚河岸や大旦那連中は100両、200両、花柳界のお姉さんまで佐野山に祝儀約束をします。
それもそのはず、勝てる見込みは無いから、みんな言いたい放題、無責任に言っている始末。 
さて、いよいよ千秋楽結びの一番。
谷風には思惑があったのでした……。

【演者】
五代目春風亭柳朝師や十代目馬生師が有名です。現役では権太楼師が演じていますね。

【注目点】
横綱・谷風は実在した力士ですが、佐野山に関しては?居なかったという説もあるそうですが、佐野山は確かに実在の力士で、この噺のモデルは江戸時代の文化頃に活躍した人物だと思います。

『能書』
江戸時代の大横綱で谷風梶之助は名人を通り越して人格者でした。その
谷風が生涯一回だけ八百長相撲をヤッタという噺ですが・・・創作ですw

『ネタ』
当時の相撲興行は晴天十日でしたから、十日で終わる事は少なかった様です。
雨が続くと10日が2倍にも3倍にも興行日が延びてしまうのですね。
もちろん会場は両国の回向院で開催されました。

s_002u『そば清 』
立秋が過ぎましたが相変わらず暑いですが、今日からは秋の噺を取り上げます。
 今回は、お蕎麦の食べる枚数を賭けるお噺です。お蕎麦は好きですね。皆さんは如何ですか?

【原話】
1672年の「一休関東咄」の中の「大食いばなしのこと」からです。
ちなみに、上方落語でお餅を食べる「蛇含草」は別な話1716年の「軽口はこの玉」の「牡丹餅が大小」と言うお話からです。
【ストーリー】
蕎麦屋で無駄話をしている江戸っ子連中。蕎麦を食べていた見慣れない男の食いっぷりに感心し、『男が蕎麦を何枚食べられるか』で賭けをすることにしました。
翌日、再びやってきた男に声をかけます。蕎麦の大食いを提案します。
何だかんだと言ってましたが、承諾します。
やってみると、あっと言う間に食べて一分貰って帰ってしまいます。
シャクに障った連中は翌日二分用意すると、男がやってくるのを待ち構えて…。
「今度は二分だ、三十枚」となりなます。
今度も、たわいなく食べて掛金を貰って帰って仕舞います。
呆然としている連中に店の奥で酒を飲んでいた男が声をかける。
「あの人はね、本名を清兵衛さん、通称『そば清』さんという蕎麦の大食いで有名な人なんですよ。何でも、蕎麦の賭けで家を3件も建てたとか…」
このまま引き下がっては江戸っ子の恥。やけになった連中は、執念で一両の金を用意して清兵衛さんを待ち構えて、
「今度は五十枚だ! 勝ったら一両やろう!!」
一両の金には食指が動きましたが、流石に五十枚も食べる自信の無い清兵衛さん。仕事があるからと店を逃げ出し、そのまま信州へ商売に出かけてしまいます。
数ヵ月後、商売を終え、帰ろうとした清兵衛は山中で迷子になります。
途方にくれていると、向こうに狩人がいるのを発見。声をかけようとするが…狩人が何かを狙っているのに気づき、それが終わるまで待つことにします。
気になって向こうを覗いてみると、そこに居たのはなんと大蛇!
固唾を呑んで見守っていると、狩人の一瞬の隙をついて大蛇が狩人を飲んでしまいます。
しかし…流石に丸呑みはきつかったようで、大蛇の腹はボールのように膨らみ七転八倒。
傍に生えていた黄色い草を、長い舌でペロペロ…。
たちまち膨れていた腹が小さくなって、悠々と行って仕舞います。
「へー、あの草は消化の薬になるんだ。これを使えば…」
清兵衛さんはほくそ笑み、その草を摘めるだけ摘んで江戸へ持ち帰ります。
江戸に戻った清兵衛さんが蕎麦屋に行くと、やはり江戸っ子たちが待ち構えています。
この前の勝負、受ける事になり、蕎麦屋には大勢の野次馬がつめかけ、清兵衛の前に大盛りのそばがずらり。
食べだすと、その速いこと、そばの方から清兵衛の口に吸い込まれていくようで、みるみるうちに三十、四十…。
このあたりでさすがの清兵衛さんも苦しくなり、肩で息を始めます。
体に毒だから、もうここらで降参した方が身のためだという忠告をよそに、「少し休憩したいから」と言って廊下に出て、障子をピタリと閉めさせて例の草をペロリペロリ……。
いつまでたっても出て来ないので、おかしいと思って一同が障子を開けると…。
そばが羽織を来て座っていたと言う。

【演者】
 古今亭志ん生師や長男の十代目 金原亭馬生師、それに次男の志ん朝師が良いですね。志ん朝」師が兄馬生師の法事の後に高座に上がり、少しほろ酔いで演じたものも良いですね。
 今でも多くの噺家が演じています。
【注目点】
演者の中には、サゲを言った後に、草の解説をする師匠がいますが、これは無粋です。(草が本当は人間を消化する草だったと言う事)
そのくらいは想像力を発揮して欲しいですね。このコラムを読んでいる方は作家さんばかりなので、その心配は無いですね。
『能書』
蕎麦は、元禄の頃から「蕎麦切り」として食べられ始められたそうです。忠臣蔵の義士が討ち入り前に食べたと言われていますが、うどんではなかったのか? と言う説もあるそうです。
それまでは「蕎麦がき」と言って単に蕎麦粉を熱湯で練って、醤油などを付けて食べていました。
「うわばみ」は大きな蛇の事ですが、日本には青大将以上の大きな蛇はいませんので、南方から来た考えだと言われています。
『健二のネタ』
モデルになった「清兵衛さん」は実在の人物で、天保11年から8年間朝昼晩とも蕎麦を食べ通した江戸の名物男で神田鍛冶町に住んでいたそうです。

 蕎麦は、本当は「コロッケ蕎麦」が落語通が食べる蕎麦なんですね(ネタです!)
 ではまた〜

G2619152W『水屋の富』
あまりにも暑いので夏の噺が続きますが、これで終わらせ、次回からは秋の噺にしようと思っています。夏の噺の最後はこの噺

【原話】
原話は明和5年刊の笑話本「軽口片頬笑」中の「了簡違」、安永3年刊「仕形噺」中の「ぬす人」、
さらに文政10年刊「百成瓢」中の「富の札」などで、いくつかの小咄をつなぎあわせてできた噺です。

【ストーリー】
ある水屋、独り者で身寄りはなし、わずらったら世話をしてくれる人間もないから、
どうかまとまった金が欲しいと思っている矢先に、千両富が当ります。
小判を、腹巻と両袖にいっぱい入れてもまだ持ちきれないので、股引きを脱いで先を結び、
両股へ残りをつっ込んで背負うと、勇んでわが家へ帰ります。
しかし商売の辛い処、休む訳には行きません。
 そこで床下に金を隠して出かけるのですが、泥棒が入ったらどうしようとか、
畳を一畳上げて根太板をはがし、丸太が一本通っているのに五寸釘を打ち込み、先を曲げて金包みを引っかけます。これで一安心と商売に出たものの、まだ疑心暗鬼は治まりません。
 すれ違った野郎が実は泥棒で、自分の家に行くのではないかと跡をつけてみたり、
一時も気が休まりません。
夜は夜で、毎晩、強盗に入られてブッスリやられる夢を見てうなされる始末です。
 隣の遊び人が博打でスッテンテンになり、手も足も出ないので、金が欲しいとぼやいていると、水屋が毎朝竿を縁の下に突っ込み、帰るとまた同じことをするのに気がつきます。
なにかあると、留守に忍び込んで根太をはがすと、案の定金包み。取り上げるとずっしり重い。しめたと狂喜して、そっくり盗んでずらかります。
 一方水屋、いつものように、帰って竹竿(たけざお)で縁の下をかき回すと、感触がありません。根太をはがしてみると、金は影も形もない。
「ああ!これで苦労がなくなった」

【演者】
三代目小さん師の十八番でしたが、戦後は志ん生師の独壇場でした。
息子の馬生師や志ん朝師も演じていました。

【注目点】
如何にも落語らしい噺ですが、十代目馬生師は「文七」や「鰍沢」以上の難しい噺だと語っていたそうです。
苦労の割にはウケない損な噺だとか。

『能書』
水屋さんとは、昔江戸では井戸等を掘っても海水等が交じった水しか出ない地域がかなりありました。
江戸市中は水道井戸がありましたが、水道の届いていない地域もありました。
そんな地域に飲み水を売って歩いたのが、水屋さんでした。
また、白玉等を入れて甘く冷やしたモノ等も売ったそうです。

水道を桝(ます)という取水口からくみ取って販売して歩いたそうです。
毎日市中を歩き重い桶を前後2桶で1荷(か)と数えていたそうですが、
これでわずかの4 文。当時かけ蕎麦が16 文ですからねえ、如何に安かったか。

今から考えたらこんな仕事はだれやもらないと思いますが、
それでもお得意がいて、どこの家の水がめにはこのぐらいの水がまだあるか分かっていて、独り者の家などは留守にしても、水がめのふたの上に小銭を置いておけば
そこへ水屋さんが寄って水を補給してくれたそうです。

『ネタ』
この噺には、運命をありのままに受け入れる哲学を説き、江戸庶民に広く普及していた、石田梅岩の
石門心学の影響が見られると云われているそうですが、そこまで大げさに考えるのもねえ……。

hqdefault暫くは、私の思い出に残る噺家さんを取り上げて行こうと思います。最初は、古今亭志ん生師の長男で、志ん朝師のお兄さんの十代目金原亭馬生師です。

十代目金原亭馬生
1928年〈昭和3年〉1月5日〜1982年〈昭和57年〉9月13日)

言わずと知れた五代目古今亭志ん生の長男。長女は女優池波志乃で、夫である中尾彬は義理の息子になります。

出囃子『鞍馬』 ですが、晩年の僅かな期間だけは父の出囃子『一丁入り』に変えました。これは私の考えですが、恐らく後に癌に侵されるのですが、生来の病弱で、自分が長生き出来ないと悟って父親の出囃子を使ったのだと思います。それ以来『一丁入り』は寄席や落語会では出囃子としては流れていません。

高座は繊細で父親とも弟の志ん朝師とも違います。演じている間は高座に何とも言えない優しさが溢れます。これが特徴でした。
だからキッチリとしていたか、というと意外にラフで、演目もその場で決めていたそうです。それでも通用してしまっていました。そのことは「笠碁」を演じた高座にも現れています。
「東京落語会」で演じた高座とCDで発売されている高座とではかなり違います。どちらも面白いのですが、個人的には「東京落語会」の高座が良いですね。余分な言葉を排除して、仕草、目線などでお客を笑わせています。

経歴
1943年(昭和18年)8月 父・5代目古今亭志ん生に入門。芸名はむかし家今松(4代目)
1944年(昭和19年)9月 古今亭志ん朝(初代)に改名
1948年(昭和23年) 古今亭志ん橋を襲名して真打昇進。
1949年(昭和24年)10月 10代目金原亭馬生を襲名。
1982年(昭和57年)8月30日 第260回東横落語会で「船徳」を口演。最後の高座となる。
9月13日 逝去。享年54。戒名「心光院清誉良観馬生居士」

喉頭がんを患ったのですが、「自分は噺家だから声が無くなるのは困る」と手術を拒否しました。その為、最後はかなり苦しんだそうです。
最後の高座「船徳」口演した時ですが、見ていた人も「かなり辛そうだった」と言っています。
この事で好対照だったのが立川談志師で、最後は手術をして声を失って筆談をしていたそうです。でも、この事は弟子にも一切知らせませんでした。声を失ってからは家族水入らずで過ごしたそうです。この時、落語家立川談志はこの世から居なくなったのだと思います。残りの人生を松岡 克由、個人に戻って過ごしたのだと思います。無くなる寸前まで噺家として生きた馬生師と家族の為に最後は個人に戻った談志師。どちらも面白いと思いました。
でも馬生師はカッコイイです! 粋な噺家さんNO1です!

P_20150402_180006-1桜も東京では、そろそろ終わりか? 等と言われていますが、週末までは見られるそうです。

落語協会のHPですが「工事中」が多く使えない状態が続いています。
寄席は休み無しなのですから、早く使えるようにして欲しいものです。

そこで今日は「花見の仇討」です。
仲の良い三人が花見の趣向を考えていて、一人がいい案が浮かんだ様です。
「仇討ちの芝居をやって受けようじゃねえか、筋書きはこうだ。」
二人の巡礼が上野の山で親の仇に出会って「やあ珍らしや、お主は親の仇、尋常に勝負しろ」
「何をこしゃくな、返り討ちだ」と仇討ちの果し合いを始める。
 競り合っているところへ、六部が仲裁に入り、お芝居だったと明かすって寸法だ。

 四人が夫々、敵役の浪人、巡礼二人、六部の役に別れて、現場で落ち合うことになりました。
 当日、六部役の男が上野の山へ上ろうかという時にうるさ型の叔父さんに捕まって説教を食らい、
酒を飲まされて寝てしまいます。
 
一方、巡礼には成行きで、助太刀の侍が着いてしまったから、話が更にややこしくなって仕舞いました。
 筋書き通り果し合いを始たが、いつまで経っても六部の仲裁が入りません。
、場が持たなくなった三人が揃って逃げ出すと、助太刀の侍が
「逃げるには及ばない、勝負は五分だ」
「勝負は五分でも肝心の六部が来ない」

柳家と三遊亭系は舞台を上野でやってます。古今亭系は飛鳥山が多いかな。
江戸時代、遊興が許されていたのは、向島と飛鳥山です。
ここで疑問、なぜ向島で演じる噺家さんがいなかったのだろう?
まあ、当時の都心から上野以外は離れていました。
飛鳥山は一日がかりの行楽地であった訳で、向島は通常は船で行く所。
そうすると叔父さんの話や何かで、噺にボロがでて、辻褄が合わなくなる恐れがあります。
それに明治になると上野の山でも遊興が許可されたので、設定を作り直したのでしょう。

正蔵師匠も飛鳥山で演じていました。
明治になって敵討ちが禁止になり、舞台がどうしても江戸時代限定となりました。
上方落語では「桜ノ宮」と言います。
騒動を起こすのが茶番仲間ではなく、
浄瑠璃の稽古仲間という点が東京と異なりますが、後の筋は変わりません。
五代目笑福亭松鶴師が得意とし、そのやり方が子息の六代目松鶴師や桂米朝師に伝わりました。

明治期に「花見の趣向」「八笑人」の題で演じた四代目橘家円喬師が、「桜の宮」を一部加味して十八番とし、
これに三代目三遊亭円馬師が立ち回りの型、つまり「見る」要素を付け加えて完成させました。続きを読む

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