らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

落語論

志ん朝師と小三治師

今日は更新が遅くなってしまいました。
いましがた仕事が終わったばかりなので、頭ん中が整理されていないどですが、不手際が一つ、去年の圓朝祭の奉納落語から、隅田川馬石師の噺をうpしたら、8/1付けで協会の落語動画がこれになっていました。トホホ。
MP4にして40Mに抑える為に色々やったのに・・・・

今日は、仕事の合間に生放送を楽しませて貰いました。良かったですねえ。
落語論では小三治、談志師と評論して、亡くなってしまった志ん朝師には
殆どふれていませんでしたね。チョット残念。そこで不肖私が少しばかり
書いてみましょう。あきれて読んでね。

志ん朝師匠の特徴は何と言ってもその、やや高く、テンポが良くリズミカルな江戸弁でしょう。って良く言いますが、江戸弁と言うより東京の東半分の日常使用している言葉だと思います。謳い調子を思わせるその言葉は、聞いている観客を官能の淵へと誘います。小三治師ほど情景を見せてくれる訳ではありませんが、それでも確実に江戸の世界へと誘ってくれます。
小三治師と違うのは、彼は言葉を切って間を作り、観客の創造力を掻き立て自分の世界へと誘い込みます。
 一方志ん朝師は言葉を切らず、繋いで観客に余計な間を与えずに官能の世界へと誘いこみます。
そして我々観客は志ん朝師匠と言うフィルターを通して、古典落語の世界を見る事になるのです。
聞き終わって、小三治師の高座からは何か重いモノが体に残ります。心地よい疲れの様な満足感でしょうかね。
志ん朝師の高座からは暖かく心地良い満足感が体を支配します。寄席の帰りに、夜道を急いでいると、少しずつ暖かさが逃げていきますが、それがとてもいとおしい気持ちになりますね。
 
まあむりを承知で書けば、小三治師が圓生型とすれば志ん朝師は文楽型でしょうかね。
お粗末ながらこんな事を書いてみました。
あした、圓歌師の「我孫子宿」をうpします。

落語論を読んで2

e9ec23b0.jpg夏休みで娘が、「友達が遊びに来るから、カレーを作って欲しい」と
私に言うじゃありませんか。母親に頼まず父親に頼む処が、我が家のいびつな関係を表していますな・・・
先日、「子供の頃、正楽師匠に切って貰ったピカチューは如何した?」
と聞いた処、「大事にしまいすぎて、しまった場所を忘れた」
と言い、「将来、子供が出来たら落語好きに育て、自慢して見せびらかして
やるんだ」と言っておりました。あー早く夏休み終わんないかな・・・
 
落語論で、小三治師匠の事を「客が自分もその世界に居るような錯覚を抱かせる」と言っていましたが、何回も高座に触れた身としては、「あれは錯覚だったの?」と言いたいですね。
 小三治師匠の高座は、長いマクラの間は”小三治ワールド”に入っても
たいした事はありません。他の噺家さんと大差はありません。そりゃ面白さは天と地位違いますが、本格的には錯覚は見ません。
しかし、一旦噺が始まると、回りの寄席の景色は消え、噺の世界に入って
しまいます。
たとえば、今なら「青菜」なんかを聞くと、自分が旦那の庭に居ると思ってしまうのです。旦那と植木屋のやり取りを庭の隅で聞いている自分がいるのです。
水を撒いた青々とした庭が眼前に広がるのです。
その点、CDやTV、ラジオで小三治師匠の噺を聞いても、錯覚までは見せてくれません。あってもライブに比べると弱いものです。
その意味では小三治師匠こそライブを体験しておかないと、本当の価値が
判らないと思います。
 まあ芸能はみんなそうですけどね。
 
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