はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

荒川

荒川と言う川 その6 人々の暮らし愛された風景

過去5回に渡って荒川について書いて来ましたが、いよいよ今回で最後です。
かなり私的になって仕舞いましたが、個人のブログと言う事でご勘弁戴きたいと思っています。
さて最後は、開削後の風景を愛した人々についてです。
img059開削後の荒涼とした風景を最も愛したのは、永井荷風です。
彼は荒涼とした荒川を何度も訪れ、随筆「放水路」を表しています。特に荒川と綾瀬川にはさまれた中土手と呼ばれる所を訪れて散策し、スケッチ等も残しています。
彼は「盧萩と雑草と空との外、何物も見ぬこと、人と合わぬ事が良い」と語っていたそうです。
このスケッチは、「断腸亭日記」に書かれた挿絵です。昭和7年1月22日だそうですが、私が幼い頃見た景色と殆ど変わっていませんね。それだけ何も無かったのです。



他にも、鏑木清方、岡本かの子、田山花袋、や漫画家の滝田ゆうが作品を残しています。
img062これは清方の「葛西橋放水路河口」です。荒涼とした感じがよく出ていますね。
このように以前とは違う景色が生まれましたが、それを愛した人々も大勢生まれたと言う事ですね。
また、映画などでは「東京物語」や「下町の太陽」、近年では「3年B組金八先生」等が荒川とその周辺を舞台としています。

最後に、江戸期以前、長禄年間(1457-60)に書かれた、江戸の地図を貼り付けたいと思います。
かなり拡大しますので、是非拡大して御覧ください。
当時からあった村や地名、又家康入府以前の街道の様子等や整備される以前の河川の様子等、
かなり大雑把ですが昔を思うと楽しいと思います。「この川はこの頃からあったのだ!」なんて発見がありますよ。(^^)
img061最後に、出来の悪いレポートでしたが、最後まで御覧戴き、有難う御座いました。
今回の「人々の暮らし」はひとつにまとめようと思ったのですが、長くなるので分割し二回に分けました。
今後、何かありましたら、また地元の歴史について書いてみたいと思います。

荒川と言う川 その5 人々の暮らし’清箸砲弔い

荒川の経緯について書いて来ましたが、ここで違う側面から書いてみたいと思います。

2315-4荒川放水路が開削される以前、葛西と呼ばれるこの地方は、農村地帯でした。
主な作物は、小松菜、亀戸大根、千住葱、金町小蕪、本田瓜等が多く栽培されていました。
中でも小松菜、亀戸大根は有名で、小松菜は、旧幕時代徳川将軍が葛西地方に鷹狩に来たときに地方の名物として菜を献上し、はじめて「小松菜」の名称を得、以後引き続き献上する慣例となりました。
2315-3
又、亀戸大根は江戸時代から明治時代に現在の江東区亀戸周辺で栽培され、小振りで葉が柔らかいのが特徴で、辛味のある漬物として庶民に親しまれてきました。
大正初期にその最盛期を迎え、この頃から産地の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。

それから、この地域でもゼロメートル地帯と言われる所では、作物が育たず、米も実が出来ないので、藁を使った
しめ縄等を作っていました。江戸城に毎年治めていたそうです。
手前味噌になりますが、我が家には江戸城に入場する為の通行札があります。
区の文化財に指定されています。
江戸城の奥に入れるのは基本的に武士、それもちゃんとした大手門から入れるのは、大名クラスだけですので、特別な通行札が発行されました。
中に入ると十万石の格式があったそうです。
img_624644_19692234_1
堀切等は水害が酷い地域だったので、花菖蒲の栽培に適していたので、花菖蒲の栽培が盛んに行われました。
最盛期の大正時代には6箇所の菖蒲園が開いていました。
そこには遊園地が併設されていたり、園内には山河が造られていたり、趣向を競っていました。

荒川が開削されてからは、住宅化が進み、戦後は都心から焼けだされた方が住み着いたりして、このような作物や花の栽培は行われなくなりました。

いま、この地域を散策してもほんの数十年前までは、このあたりが、水郷地帯で風光明媚で都心から最も近い観光地だったとは信じられません。
それほどまでに、荒川放水路と言う川は人々の暮らしも、街の様子も全て変えてしまったのです。
それと引き替えに水害の恐怖からは逃れられたのです。
今回は簡単にしました。
次回は荒川をこよなく愛した、永井荷風の事を少し書いて、このシリーズを終わりにしたいと思います。

荒川と言う川 その4 開削によって移転した文化財

img053-1荒川の開削によって多くの文化施設や社寺が移転させられましたが、東照院若宮八幡もその一つです。
若宮八幡は文治年間(1185-1190)源頼朝が奥州征伐に向かう際に戦勝を祈願、無事勝利した後に戦勝を感謝して創建したといいます。その後江戸時代には、関東郡代伊奈備前守が再興、若宮村の鎮守社であったといいます。これは江戸時代に書かれた「江戸名所記」での当時の若宮八幡の様子です。
開削により一時は隅田川神社に合祀されましたが、近年、地元の氏子の方々により四つ木3丁目に再建されました。
左下は現在の若宮八幡
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若宮八幡
若宮八幡重ね若宮八幡の旧地と現在の位置に合わせた地図です。うっすらと赤くなってるのが旧地です。
現在は地図の右の「四つ木ランプ」”ラ”の字の処に移転してます。

古鎌倉街道これは、その若宮八幡を創建した源頼朝が奥州征伐に向かう際に通った、古代の東海道です。この先で荒川に突き当たっています。
他にも水戸道等も荒川の開削で分断されてしまいました。
その為、現在、足立区に編入されている、柳原は元々は荒川の中が中心だったので、葛飾の区域でしたが、これも変更されています。その為開削前と後では違う小学校に通う事になりました。


img055-1又、道路だけではなく、鉄道も大幅に路線の変更を余儀なくされました。
この地図の東武鉄道ですが、下の業平方面から上に向かって蛇行しながら伸びていますが、白黒の線が開設当時の路線( 砲如黒の実線が今の路線(◆砲任后
かなり川の真ん中に走って居ることがお判りと思いますが、そこだけでは無く大幅に変更されている事がお判りだと思います。
この川の路線のやや上に「堀切駅」がありました。ですから当時は堀切の入り口に駅があったのです。
今は完全に足立区側にありますが・・・・

このように色々なものが分断されてしまった為、人々の暮らしが一時は困難を極めました。
墓地の移転や先祖代々」の土地を手放さなければならなかったりして大変でした。なんたって当時は農業を営んでいた家が殆どだったからです。

荒川と言う川 その3 開削によって移転した文化財

荒川放水路開削によって、移転を余儀なくされた、文化財や施設等が多くあります。
その中には、神社仏閣がありました。
神社や寺院は多くの氏子や檀家によって支えられています。
開削によって、信仰の対象であったこれらの施設も移転した事により、人々の暮らしや生活が分断されてしまいました。
特にお祭りや各種行事も移転したことにより、生活を異にした為繋がりを失ってしまいました。

又、交通網も分断されてしまって、水戸道や佐倉道等の多くの石碑や道しるべ等の文化財も無くなってしまいました。
近代の乗り物鉄道も、東武鉄はその線路そのものが変更されました。
それは河川の部分にとどまりませんでした。
これから何回かは、その中から幾つかを紹介して見たいと思います。
img046まず最初は「浄光寺」こと「木根川薬師」です。これは江戸時代の「浄光寺」です。
平安時代の849年に開基と言われています。ご本尊の薬師如来像は伝教大師(最澄)作と言われています。
また、江戸時代には徳川家の祈願所として歴代の将軍が参拝しました。
今でも、寺には三代家光の資料や将軍家ゆかりの資料が残っています。
img049a⇦移転の様子を順番に見てみましょう。これは明治42年の一万分の1の地図です。
img049b⇦これは移転中の大正5年の同じ箇所の地図です。
img049c⇦最後に大正10年の様子です赤い丸が移転後(現在)で最後の地図の点線の丸が移転前の位置です。それぞれクリックすると拡大しますので、是非拡大して御覧になって下さい。
最後の地図ではもう京成電車が走っています。(赤い点線の丸のすこし上)

境内には、家光公お手植えの「登美の松」と言われる松が植わっています。
これは八代吉宗公命名と言われて」います。これも移転によって植え替えしました。
img051-1その後昭和22年に枯れてしまい、今は、二代目の松が植わっています。
木の根元には勝海舟の「登美の松」の碑があります。
これは移転の時の記念写真です。
また、ここには勝海舟の自筆の「西郷南洲留魂碑」もありましたが、寺院移転によって
海舟の墓地がある大田区の洗足池湖畔に移されました。
img048晩年の勝海舟です。
有名な幕末の頃の面影が少しありますね。

それからここは江戸時代、牡丹と杜若の名所で当時、江戸随一と言われ、多くの愛好家が訪れました。
開削による移転のため寺の規模は縮小され、牡丹と杜若は植え替える場所も無くなり現在に至っています。

次回は、若宮八幡や他の文化財の話をします。






荒川と言う川 その2 開削前の事など・・・

o0249037511286014086荒川が開削される地域は古くから「葛西」と呼ばれてきました。
今でも江戸川区にその名が残っていますが、この地を葛西氏が治めていた事によります。
広義の葛西とは、武蔵国葛飾郡を指します。
この地は江戸時代は、江戸近郊の行楽地として又、風光明媚な所として多くの観光客が訪れていました。
今は想像出来ないですがねww
それというのも、低地であるために眺望が素晴らしく、又河川や水路等が廻らされ水郷の様な景観だったそうです。
ですから、明治以降も人気で、都心から近い事で別荘地として持てはやされました。
少し時代は下がりますが、今の堀切菖蒲園の裏には、当時の相撲の春日野親方や、当時人気奇術師だった松旭斎天勝さんの別荘がありました。
当時は向島と陸続きでしたので、隅田川を船で登り、鐘ヶ淵から歩けば訳なかったのです。(当時の人は歩きましたからね)
この絵は江戸時代の鐘ヶ淵に綾瀬川が合流する所です。合歓の木の名勝だったそうです。
img041-2荒川」の意味は、「荒ぶる川」の意味です。
隅田川も尾久あたりは江戸時代は「荒川」と読んでいたそうです。
それより下流(千住大橋より下流と言う説あり)は「宮戸川」だの「角田川」「隅田川」とか言っていたそうです。
但しこれは俗称で、正式には1965年3月24日に出された政令までは「荒川」でした。
つまり、それまでは、荒川は「荒川放水路」であり、隅田川=荒川だったのです。
history04_05そんな地域に工事をする事になったのですが、それまでの工事は、ほとんどが人や馬を使って行っていましたが、この大規模な工事では、当時最新式の蒸気機関で動く最新鋭の掘削機や竣洩機などを使った工法が採用されました。
大正の大不況のため工事は度々延期したものの、岩淵に水門を造り中川河口まで全長22辧幅500mの放水路を建設し、大正13年に通水式を迎えました。それからさらに流域各地の工事を経て全体が完成したのは昭和5年。20年の歳月をかけた大工事でした。
history03_02そもそも、それまでの政府のこの辺の治水は、江戸時代と同じ考えで、江戸の市街地を守る為、隅田川の両岸に日本堤や隅田堤を設けそれより上流の水田地帯を遊水池(洪水時の河川の流水を一時的にはん濫させる土地)としました。
そのため、その地の農家は自分達で堤防を築いたり、家屋を高くしたり、避難用の船を確保したりと、大変でした。
ですから、本当に「荒ぶる川」だったのです。今では信じられませんが・・・

3-004東京に洪水が起きた時の為に本来の設計では荒川放水路の外側に水を溢れさせ、都心には洪水が起きない様にすると言う考えでしたが、鉄道や新たな道路の開通で、多少狂ってきました。
でも1951年の年のカスリーン台風ではこの機能が役に立ち、葛飾区の全域および江戸川区・足立区のほぼ半分の地域が浸水しました。
この浸水域の荒川放水路沿いの地域は地盤沈下により海面下の土地になっているので,湛水期間は半月を超えました。浸水家屋の大半は床上浸水でした.東京都(足立・葛飾・江戸川の3区)における浸水家屋は床上82,931,床下22,551となっており、埼玉県における浸水戸数40,040を大きく上回りました。
それでも、都心部「は安泰であり、当初の目的は達せられました。

次回は開削によって移転せざるを得なかった文化財等の話です。

※写真や地図はクリックすると拡大できます。地図等は是非拡大して御覧下さい。
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