最近、落語界で世間が注目する出来事がありました。
圓楽一門会の好楽師が弟子の好の助さんに真打昇進を期に自分が名乗っていた林家九蔵を襲名させようとしたいた所、九代目正蔵一門から横槍が入り、急遽取りやめになったと言うニュースでした。
これについては、落語協会の噺家さんは概ね賛成のようです。他の一門でも賛成の方が大勢いらっしゃるみたいですね。
昨日(3月7日)テレビで、桂米助師が「八代目一門と九代目一門は別な系統の林家だと認識していた」と語っていました。
私もそれと同じように思っていました。正蔵の名前は色々と変遷があり恐らくテレビのコメンテータでは理解出来ないと思います。正しい歴史が判らないのに安易なコメントは差し控えて欲しいと思いました。色々と想う事はありますが、一言だけ
「こぶ蔵は正蔵を名乗ってるならもっと稽古しろ! それと『あやめ浴衣』は八代目の出囃子だ。使うのをやめろ!」
私事で申し訳ありませんでした。では今日の噺の話です。
『紺屋高尾』
色々と考えましたが今日はこの噺です。
【原話】
元の話は浪曲とも講談ネタとも言われています。それを圓生師が落語にしたモノです。
同じ系統の噺に志ん生師が演じた「幾代餅」があります。
八代目柳枝師が演じた「搗屋無限」も似た噺ですね」
【ストーリー】
神田紺屋町、染物屋の吉兵衛さんの職人で久蔵さんが寝付いてしまいました。
話を聞くと、国元に帰るため初めて吉原に連れて行かれ、当世飛ぶ鳥を落とす勢いの三浦屋の高尾太夫の道中を見て恋患いになり、錦絵を買い求めたのですが、全て高尾太夫に見える始末。
そこで、旦那は方便で、向うは売り物買い物、10両で会えるだろうから3年働き9両貯めて1両足してそれで連れて行くと言われ、久さん元気になって働きます。
3年後、その金で買うから渡してくれと親方に言うと、まさか本気だったのかと、気持ちよく着物も貸してくれて送り出してくれる事になります。
お玉が池の医者の竹之内蘭石先生に、連れて行って貰う事になります。
蘭石先生に流山の大尽になりすま様に言われ、首尾良く高尾太夫に会えます。
挨拶の後、「こんどは何時来てくんなます」そう言われ、思わず「3年経たないとこれないのです」と泣きながら全て本当のことを話すと、高尾は感動し、こんなにも思ってくれる人ならと、「来年の2月15日に年(年季)が明けたら、わちきを女房にしてくんなますか」。
久さんうなずき、夫婦の約束をする。揚げ代は私が何とかしますし、持参した10両と約束の証にと香箱の蓋を太夫から貰って、久さんは亭主の待遇で帰って来る。
夢うつのまま神田に帰ってきた久蔵は、それから前にも増して物凄いペースで働き出した。
「来年の二月十五日…あの高尾がお嫁さんにやってくる」、それだけを信じて。
仲間内の小言も何のその、翌年約束の日に、高尾は久蔵の前に現れ、めでたく夫婦になります。
【演者】
やはり六代目圓生師にトドメを指すでしょう。今では三遊派だけではなく広く演じられています。
変わったところでは本来柳家の立川流では談志師を始め談春師などが演じます。
古今亭は流石に「幾代餅」ですね。(でもこの噺をしていた古今亭の人がいましたけどね)
【注目点】
有名な高尾太夫は諸説有るが11人いたそうです。
そのうち四代目が「反魂香」に出てきた「仙台高尾」でこの紺屋高尾は五代目だそうです。
子供3人をもうけて、八四才の天命を全うしたとのこと。
『能書』
吉原の太夫と言う名称は最高級の遊女で初期の頃には大勢いましたが、育て上げるまでに時間と資金が掛かったので、
享保(1716〜)には4人に減り、宝暦10年(1760)には玉屋の花紫太夫を最後に太夫はいなくなったそうです。
太夫というのは、豪商、大名相手の花魁で見識があり美貌が良くて、教養があり、吉原ナンバーワンの花魁。
文が立って、筆が立ち、茶道、花道、碁、将棋が出来て、三味線、琴の楽器が出来て、歌が唄えて、和歌、俳諧、が出来た。それも人並み以上に。借金の断りもできたと言うスーパーマンですね。
逆を言えば、吉原の客が豪商や大名から庶民になって来て、必要が無くなってきたと言う事ですね。
『ネタ』
圓生師はここで噺を終わらせていますが、この先もありまして、
夫婦となって店を開いた久蔵と高尾が、商売繁盛のために考案したのが手拭いの早染め(駄染め)と言うもの。 浅黄色のこの染物は、吉原に繰り出す酔狂の間で大流行したと言われていいます。
「かめのぞき」と言う名が付いていますが、その由来は・・・・
「高尾が店に出て、藍瓶をまたいで染めるのを見ていた客が、高尾が下を向いていて顔が見えないので争って瓶の中をのぞき込んだ」とも、あるいは瓶にあそこが写らないか覗き込んだとも・・・どっちでしょうね。(^^)
圓楽一門会の好楽師が弟子の好の助さんに真打昇進を期に自分が名乗っていた林家九蔵を襲名させようとしたいた所、九代目正蔵一門から横槍が入り、急遽取りやめになったと言うニュースでした。
これについては、落語協会の噺家さんは概ね賛成のようです。他の一門でも賛成の方が大勢いらっしゃるみたいですね。
昨日(3月7日)テレビで、桂米助師が「八代目一門と九代目一門は別な系統の林家だと認識していた」と語っていました。
私もそれと同じように思っていました。正蔵の名前は色々と変遷があり恐らくテレビのコメンテータでは理解出来ないと思います。正しい歴史が判らないのに安易なコメントは差し控えて欲しいと思いました。色々と想う事はありますが、一言だけ
「こぶ蔵は正蔵を名乗ってるならもっと稽古しろ! それと『あやめ浴衣』は八代目の出囃子だ。使うのをやめろ!」
私事で申し訳ありませんでした。では今日の噺の話です。
『紺屋高尾』
色々と考えましたが今日はこの噺です。
【原話】
元の話は浪曲とも講談ネタとも言われています。それを圓生師が落語にしたモノです。
同じ系統の噺に志ん生師が演じた「幾代餅」があります。
八代目柳枝師が演じた「搗屋無限」も似た噺ですね」
【ストーリー】
神田紺屋町、染物屋の吉兵衛さんの職人で久蔵さんが寝付いてしまいました。
話を聞くと、国元に帰るため初めて吉原に連れて行かれ、当世飛ぶ鳥を落とす勢いの三浦屋の高尾太夫の道中を見て恋患いになり、錦絵を買い求めたのですが、全て高尾太夫に見える始末。
そこで、旦那は方便で、向うは売り物買い物、10両で会えるだろうから3年働き9両貯めて1両足してそれで連れて行くと言われ、久さん元気になって働きます。
3年後、その金で買うから渡してくれと親方に言うと、まさか本気だったのかと、気持ちよく着物も貸してくれて送り出してくれる事になります。
お玉が池の医者の竹之内蘭石先生に、連れて行って貰う事になります。
蘭石先生に流山の大尽になりすま様に言われ、首尾良く高尾太夫に会えます。
挨拶の後、「こんどは何時来てくんなます」そう言われ、思わず「3年経たないとこれないのです」と泣きながら全て本当のことを話すと、高尾は感動し、こんなにも思ってくれる人ならと、「来年の2月15日に年(年季)が明けたら、わちきを女房にしてくんなますか」。
久さんうなずき、夫婦の約束をする。揚げ代は私が何とかしますし、持参した10両と約束の証にと香箱の蓋を太夫から貰って、久さんは亭主の待遇で帰って来る。
夢うつのまま神田に帰ってきた久蔵は、それから前にも増して物凄いペースで働き出した。
「来年の二月十五日…あの高尾がお嫁さんにやってくる」、それだけを信じて。
仲間内の小言も何のその、翌年約束の日に、高尾は久蔵の前に現れ、めでたく夫婦になります。
【演者】
やはり六代目圓生師にトドメを指すでしょう。今では三遊派だけではなく広く演じられています。
変わったところでは本来柳家の立川流では談志師を始め談春師などが演じます。
古今亭は流石に「幾代餅」ですね。(でもこの噺をしていた古今亭の人がいましたけどね)
【注目点】
有名な高尾太夫は諸説有るが11人いたそうです。
そのうち四代目が「反魂香」に出てきた「仙台高尾」でこの紺屋高尾は五代目だそうです。
子供3人をもうけて、八四才の天命を全うしたとのこと。
『能書』
吉原の太夫と言う名称は最高級の遊女で初期の頃には大勢いましたが、育て上げるまでに時間と資金が掛かったので、
享保(1716〜)には4人に減り、宝暦10年(1760)には玉屋の花紫太夫を最後に太夫はいなくなったそうです。
太夫というのは、豪商、大名相手の花魁で見識があり美貌が良くて、教養があり、吉原ナンバーワンの花魁。
文が立って、筆が立ち、茶道、花道、碁、将棋が出来て、三味線、琴の楽器が出来て、歌が唄えて、和歌、俳諧、が出来た。それも人並み以上に。借金の断りもできたと言うスーパーマンですね。
逆を言えば、吉原の客が豪商や大名から庶民になって来て、必要が無くなってきたと言う事ですね。
『ネタ』
圓生師はここで噺を終わらせていますが、この先もありまして、
夫婦となって店を開いた久蔵と高尾が、商売繁盛のために考案したのが手拭いの早染め(駄染め)と言うもの。 浅黄色のこの染物は、吉原に繰り出す酔狂の間で大流行したと言われていいます。
「かめのぞき」と言う名が付いていますが、その由来は・・・・
「高尾が店に出て、藍瓶をまたいで染めるのを見ていた客が、高尾が下を向いていて顔が見えないので争って瓶の中をのぞき込んだ」とも、あるいは瓶にあそこが写らないか覗き込んだとも・・・どっちでしょうね。(^^)