らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

粗忽長屋

「粗忽長屋」という噺

20220206091014『粗忽長屋』
 今日は「粗忽長屋」です。まあ春の噺としても良いのではないでしょうか。

【原話】
1708年「かす市頓作」の「袈裟切にあぶなひ事」が原話と言われています。また1807年の喜久亭壽暁のネタ帳「滑稽集」に「そそっかしい男おれでハない」とあります。
 
【ストーリー】 
 粗忽者の八五郎が浅草寺の門前で人だかりに出くわします。
聞けば、行き倒れの亡骸が発見されたが身元がわからず困っていると言うのです。
むりやり人垣をわけ、亡骸を見た八五郎は仰天。
「こいつは熊だ。あいつに教えなくちゃならねえ」
八五郎は長屋の隣人、熊五郎が死んだと思いこみ「本人を呼んでくる」と長屋へ飛んでいきます。
実は、熊五郎も粗忽者なので、「おれは死んだ気がしねえ」などと言いながら、八五郎と一緒に浅草寺へ向かいます。
「死人」の熊五郎を連れて戻ってきた八五郎に、周囲の人達はすっかり呆れてしまいます。
どの様に説明しても2人の誤解は解消できないので、世話役はじめ一同頭を抱えこんで仕舞います。
あげくに、熊五郎はその死人の顔を見て、悩んだ挙句、「間違い無く自分である」と確認する始末です。
「自分の体」を腕で抱いてほろほろと涙を流す熊五郎と見守る八五郎。2人とも本気なのです。
周囲の人の止めるのも聞かずに。体を持って帰ろうとする始末。
抱き抱えて居ると、熊五郎は八五郎に訪ねます。
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だろう?」

【演者】
 個人的には五代目古今亭志ん生師と五代目柳家小さん師が双璧ですね。現役では人間国宝の柳家小三治師、そして落語協会会長の柳亭一馬師がよいですね。元々が滑稽噺ですので、柳家の噺家さんが良く演じています。

【注目点】
 お噺そのものが、自分の死骸を引き取りに行く噺なので、お客に「そんな馬鹿な事」と思わせないように演じなければなりません。その意味で、兄貴分の男がやたらに「お前は死んでる」とか「死ぬ」と言うセリフを喋らせてはイケマセン。白けてしまいますからね。兎に角お客を正気に返さぬ様にトントンとサゲまで運んで欲しいです。と、五代目の小さん師は語っていました。
 また「最後のセリフは『死んでいるのは俺だが抱いているのは誰だろう』とやってはいけない。『抱かれているのは俺だが抱いている俺はだれだろう』と言わないといけない」と語っていました。せっかくナンセンスに引き込まれていた客が現実に引きもどされて白けてしまうとも語っていました。これは師匠の四代目の教えだそうです。

『能書』
 もう一人の自分が存在するというのは、ドッペルゲンガーですね。これは精神分裂病に分類されています。(二重身)
 都市伝説ではこれを見ると死期が近いとか?
 
『ネタ』
 行き倒れが担ぎこまれた、「自身番」」とは、町内に必ず一つはあり、防犯・防火に協力する事務所です。昼間は普通、町役(おもに地主)の代理である差配(大家)が交代で詰め、表通りに地借りの商家から出す店番(たなばん)1名、事務や雑務いっさいの責任者で、町費で雇う書役(しょやく)1名と、都合3名で切り盛りしたそうです。
 行き倒れの死骸の処理は、原則として自身番の役目なので、身元引受人が名乗り出れば確認のうえ引き渡し、そうでなければお上に報告後回向院などの無縁墓地に投げ込みで葬る義務がありました。
 その場合の費用、死骸の運搬費その他は、すべて町の負担でしたので、自身番にすれば、かえって引き取ってくれたのは、渡りに船だったかも知れないと思います。

落語に登場する食べ物について その1 お酒

shizzle1今日は冬に戻ったように寒いですね。関東でも雪が降っています。皆様も体調管理にお気をつけください。

初夏の噺をするには少し早いので、色々と無い知恵を絞って考えたのですが、本業が食べ物に関する業種ですので前回色々とコメントを頂いたので図に乗って、今回は落語と食べ物に関して考えてみたいと思います。
 落語には色々な食べ物が登場しますが、一番多いのはお酒でしょうね。そこで第1回は落語に登場するお酒について考えてみたいと思います。

 落語に登場するお酒は「青菜」の「柳影」以外は日本酒だと思います。今でも我々が飲んでいますが、当時(江戸時代)の日本酒と今のとでは若干違うものなんですね。
 江戸時代の初め頃まではいわゆる「どぶろく」でした。これが灘の酒蔵で誤って炭を落としてしまった事から澄んだ清酒が出来たそうです。ま、これが一つ。
 それと今では日本酒に使う麹は白麹ですが当時は黒麹でした。黒麹は白麹より発酵する程度が強く、出来上がったお酒はアルコールは18〜20度程度でしたが、甘みと酸味が強く癖のあるものでした。

 ですから当時の酒蔵ではこれを水で薄めて樽などに詰めて出荷していたそうです。それでも出来たてはキツイ感じでしたが上方から江戸に船で運ぶ途中に揺られて熟成されて美味しくなったそうです。これが「下りもの」と呼ばれて、良くないものを「くだらない」と呼ぶようになったのは有名ですね。
 また、当時は砂糖が大変貴重なものだったので、男性は甘い日本酒を飲むことで甘味を味わっていました。
 
現代の研究者が同じ製法で作ってみたところ、かなり甘く濃く出来たそうです。そこで薄めたところ5度程度が一番飲みやすかったそうです。それは当時と同じなんですね。当時の記録を見ると作った量と流通の量が全く合わないそうです。流通の方が倍以上多いそうです。つまり水で薄めたものが流通していたという事ですね。
 ですから噺に登場する人物はアルコールに関しては、今よりも薄いものを飲んでいたのですね。

 ですから、「試し酒」の久造さんはアルコールで言えば、今の半分程度だったという事ですね。でもその前に同じだけ飲んでいるので凄い事には変わりありませんね。
 それと今と違って経験と感で作っていたので発酵が上手く行かない事も結構あったそうです。そんなお酒を飲んで亡くなった方もいるそうです。ですから「粗忽長屋」で馬道に出ていた夜明かしで酒を飲んで、雷門あたりで行き倒れになったという事は当時ではあり得た事なんですね。そんな事を思いながら聴き慣れた噺を楽しむのも一興かと思います。

 鬼平が昼間から2合の酒を飲んでるシーンがありますが、現代に換算すると缶ビール(350mL)1缶程度なんですね。これなら今でも真夏に飲んじゃう人いるでしょ? いないか(笑)

粗忽長屋という噺

a0663894『粗忽長屋』
 今日は「粗忽長屋」です。

【原話】
寛政年間(1789〜1800)の笑話本『絵本噺山科』にある小咄です。
 
【ストーリー】 
 粗忽者の八五郎が浅草寺の門前で人だかりに出くわします。
聞けば、行き倒れの亡骸が発見されたが身元がわからず困っていると言うのです。
むりやり人垣をわけ、亡骸を見た八五郎は仰天。
「こいつは熊だ。あいつに教えなくちゃならねえ」
八五郎は長屋の隣人、熊五郎が死んだと思いこみ「本人を呼んでくる」と長屋へ飛んでいきます。
実は、熊五郎も粗忽者なので、「おれは死んだ気がしねえ」などと言いながら、八五郎と一緒に浅草寺へ向かいます。
「死人」の熊五郎を連れて戻ってきた八五郎に、周囲の人達はすっかり呆れてしまいます。
どの様に説明しても2人の誤解は解消できないので、世話役はじめ一同頭を抱えこんで仕舞います。
あげくに、熊五郎はその死人の顔を見て、悩んだ挙句、「間違い無く自分である」と確認する始末です。
「自分の体」を腕で抱いてほろほろと涙を流す熊五郎と見守る八五郎。2人とも本気なのです。
周囲の人の止めるのも聞かずに。体を持って帰ろうとする始末。
抱き抱えて居ると、熊五郎は八五郎に訪ねます。
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だろう?」

【演者】
 個人的には五代目古今亭志ん生師と五代目柳家小さん師が双璧ですね。現役では人間国宝の柳家小三治師、そして落語協会会長の柳亭一馬師がよいですね。元々が滑稽噺ですので、柳家の噺家さんが良く演じています。

【注目点】
 お噺そのものが、自分の死骸を引き取りに行く噺なので、お客に「そんな馬鹿な事」と思わせないように演じなければなりません。その意味で、兄貴分の男がやたらに「お前は死んでる」とか「死ぬ」と言うセリフを喋らせてはイケマセン。白けてしまいますからね。兎に角お客を正気に返さぬ様にトントンとサゲまで運んで欲しいです。

『能書』
 もう一人の自分が存在するというのは、ドッペルゲンガーですね。これは精神分裂病に分類されています。(二重身)

『ネタ』
 行き倒れが担ぎこまれた、「自身番」」とは、町内に必ず一つはあり、防犯・防火に協力する事務所です。昼間は普通、町役(おもに地主)の代理である差配(大家)が交代で詰め、表通りに地借りの商家から出す店番(たなばん)1名、事務や雑務いっさいの責任者で、町費で雇う書役(しょやく)1名と、都合3名で切り盛りしたそうです。
 行き倒れの死骸の処理は、原則として自身番の役目なので、身元引受人が名乗り出れば
確認のうえ引き渡し、そうでなければお上に報告後回向院などの無縁墓地に投げ込みで葬る義務がありました。
 その場合の費用、死骸の運搬費その他は、すべて町の負担でしたので、自身番にすれば、かえって引き取ってくれたのは、渡りに船だったかも知れないと思います。




粗忽だらけの長屋

reg_15-266x300先日、牧伸二さんの自殺を取り上げたばかりですが、今日は、「粗忽長屋」です。
まあ、落語好きなら、ここは洒落で行きたいと思います。

原話は寛政年間(1789〜1800)の笑話本『絵本噺山科』にある小咄です。
「永代橋」なんかが同じたぐいの噺ですね。

粗忽者の八五郎が浅草寺の門前で人だかりに出くわします。
聞けば、行き倒れの亡骸が発見されたが身元がわからず困っていると言うのです。
むりやり人垣をわけ、亡骸を見た八五郎は仰天。
「こいつは熊だ。あいつに教えなくちゃならねえ」
八五郎は長屋の隣人、熊五郎が死んだと思いこみ「本人を呼んでくる」と長屋へ飛んでいきます。
実は、熊五郎も粗忽者なので、「おれは死んだ気がしねえ」などと言いながら、八五郎と一緒に浅草寺へ向かいます。

「死人」の熊五郎を連れて戻ってきた八五郎に、周囲の人達はすっかり呆れてしまいます。
どの様に説明しても2人の誤解は解消できないので、世話役はじめ一同頭を抱えこんで仕舞います。

あげくに、熊五郎はその死人の顔を見て、悩んだ挙句、「間違い無く自分である」と確認する始末です。
「自分の体」を腕で抱いてほろほろと涙を流す熊五郎と見守る八五郎。2人とも本気なのです。
周囲の人の止めるのも聞かずに。体を持って帰ろうとする始末。
抱き抱えて居ると、熊五郎は八五郎に訪ねます。
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だろう?」

この噺は正直、小さん師か志ん生師にトドメを刺すと個人的には思います。
志ん生師がいいんですよ。本当に!!

行き倒れが担ぎこまれた、「自身番」」とは、町内に必ず一つはあり、防犯・防火に協力する事務所です。
昼間は普通、町役(おもに地主)の代理である差配(大家)が交代で詰め、
表通りに地借りの商家から出す店番(たなばん)1名、事務や雑務いっさいの責任者で、
町費で雇う書役(しょやく)1名と、都合3名で切り盛りしたそうです。

行き倒れの死骸の処理は、原則として自身番の役目なので、身元引受人が名乗り出れば
確認のうえ引き渡し、そうでなければお上に報告後回向院などの無縁墓地に投げ込みで葬る義務がありました。

その場合の費用、死骸の運搬費その他は、すべて町の負担でしたので、自身番にすれば、かえって渡りに船だったかも知れないと思います。
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粗忽長屋と言うより粗忽だらけの長屋

reg_15-266x300今日は、「粗忽長屋」です。
この噺、取り上げていない様なのでね。

原話は寛政年間(1789〜1800)の笑話本『絵本噺山科』にある小咄です。
「永代橋」なんかが同じたぐいの噺ですね。

粗忽者の八五郎が浅草寺の門前で人だかりに出くわします。
聞けば、行き倒れの亡骸が発見されたが身元がわからず困っていると言うのです。
むりやり人垣をわけ、亡骸を見た八五郎は仰天。
「こいつは熊だ。あいつに教えなくちゃならねえ」
八五郎は長屋の隣人、熊五郎が死んだと思いこみ「本人を呼んでくる」と長屋へ飛んでいきます。
実は、熊五郎も粗忽者なので、「おれは死んだ気がしねえ」などと言いながら、八五郎と一緒に浅草寺へ向かいます。

「死人」の熊五郎を連れて戻ってきた八五郎に、周囲の人達はすっかり呆れてしまいます。
どの様に説明しても2人の誤解は解消できないので、世話役はじめ一同頭を抱えこんで仕舞います。

あげくに、熊五郎はその死人の顔を見て、悩んだ挙句、「間違い無く自分である」と確認する始末です。
「自分の体」を腕で抱いてほろほろと涙を流す熊五郎と見守る八五郎。2人とも本気なのです。
周囲の人の止めるのも聞かずに。体を持って帰ろうとする始末。
抱き抱えて居ると、熊五郎は八五郎に訪ねます。
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だろう?」

この噺は正直、小さん師か志ん生師にトドメを刺すと個人的には思います。
談志師は「主観長屋」と題を替えていますが、正直感心しませんね。
理屈じゃ無いと思います。
理屈だったら、こんな馬鹿馬鹿しいい事は無い訳で、そこをこしらえていくので落語になると思うのです。
この辺が正直、談志師の弱点だと思いますね。
頭の回転が良すぎる故の悲劇だと思います。

行き倒れが担ぎこまれた、「自身番」」とは、町内に必ず一つはあり、防犯・防火に協力する事務所です。
昼間は普通、町役(おもに地主)の代理である差配(大家)が交代で詰め、
表通りに地借りの商家から出す店番(たなばん)1名、事務や雑務いっさいの責任者で、
町費で雇う書役(しょやく)1名と、都合3名で切り盛りしたそうです。

行き倒れの死骸の処理は、原則として自身番の役目なので、身元引受人が名乗り出れば
確認のうえ引き渡し、そうでなければお上に報告後回向院などの無縁墓地に投げ込みで葬る義務がありました。

その場合の費用、死骸の運搬費その他は、すべて町の負担でしたので、自身番にすれば、かえって渡りに船だったかも知れませんね。
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