らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

タグ:立川談志

20200414092916『代書屋』
 今日はこの噺です。新作ですが東西で広く演じられているので取り上げました。
代書屋さんというのは今で言う「行政書士」や「司法書士」のことです。

【原話】
これは、桂米朝師の師匠四代目米團治師が米之介を名乗っていた頃に作ったものだそうです。
【ストーリー】
代書屋さんに自分の履歴書を頼みに来た男。これがハチャメチャでして、「かけなさい」と言えば走りだす始末。学歴も職歴もめちゃくちゃ。なんとか修正を繰り返して出来上がる。署名してくれと言っても書けないというので仕方なく「辞書不能ニツキ代書」と判子を押してやります。
 その後、老人が来て、なんやらケチを付けまくって帰ってしまい、後で小僧さんがやってきて、さっきの老人の侘び料だといって金銭をだします。代書屋さんは、老人が書の大家と知り驚きます。
 領収書を書いて欲しいと言われ、書くと小僧さんにヘタだといわれるので、代わりに書いてくれと頼みます。書かれた領収書を見ると、”自署不能につき代書”

【演者】
これは上方では米朝一門を始め広く演じられています。三代目春團治もよく演じていました。東京では今は柳家権太楼師がよくやっていますね。尤も最後までは演じず。最初の男のところで冗談落ちにしています。

【注目点】
噺の中に出て来る「ガタロ」ですが、河童、河太郎のことのほか、川の底に沈んだゴミを掃除する人をも意味するそうです。
 五代目立川談志師が東京に移植したそうですが、ホントなのかな?
子供の頃に八代目助六師がテレビで演じて居た気がします。今のとは大分違うものですが……?
『ネタ』
四代目米團治師は大阪の今里に住んで本名で実際に代書屋を営んでいたことがあったそうです。実はドキュメント落語?
また米朝一門では「代書」として演じています。

903b2d43『源平盛衰記』
季節的な噺ではありませんが、壇ノ浦の合戦が旧暦3月なので取り上げてみたいと思います。

【原話】
この噺は古典の「平家物語」から題を録ったと言うより、「平家物語」をそのままダイジェストにした地噺ですね。
地噺と言うのは会話より説明が多い噺で演者のセンスが問われます。

【ストーリー】
平家はあまりにも権力を欲しいままにしたので、反乱が起こります。
「驕る平家は久しからず」と言われ、源氏が立ち上がります。
まず、木曽義仲による倶利伽羅峠での火牛の計から始まり、
源義経の鵯越の逆落とし、屋島の合戦で那須与一が扇を射落とす話が続き、
最後は壇ノ浦の最後に至りますが、そこは落語で、平家の最後なので、時子姫が入水して自害しようとして、
辞世の句を読みますが、その時、平家方の武士、能登守教経が踊り出します。踊る平家は久からず……。


【演者】
この噺は談志前と談志後で別れる噺だと思います。
談志師はこの噺を三平師から習い、そこに当時の世相や時事問題をねりこみ、早口でスピーディーな展開で、お客を圧倒しました。
それは、かの文楽師や圓生師も褒めたと言われています。

古くは初代遊三師、七代目正蔵師が有名です。現六代目文枝師が大阪に移植しました。
今では芸協の文治師が得意にしていますね。

【注目点】
談志師が黒門町に怒られた話
談志師の談話
文楽師匠に頭」から怒鳴られた。
「あんなものをやっちゃイケない」と言うのだ。
何故イケないのか、私には理解出来なかったが、兎に角イケないの一点ばり、
こっちは悔しいけど、相手が文楽師匠じゃ仕方がない。泣き寝入だ。
のちになって、聞いてみたら、「あいつは、近頃生意気になっているので、一度どこかでこっぴどく小言を言ってやろうと思っていたので、私言いました。

たまりませんね。でもそれだけ目立っていたのでしょうね。
評論家の虫明亜呂無氏も小ゑん時代のこの噺を聴いて絶賛しています。

『ネタ』
先程も書きましたが、今でも新文治師や小朝師等多くの噺家が演じていますが、談志師以降は全て談志師のやり方を参考にしている、と言っても良いと思います

51SXDXLtWsL._SX350_BO1,204,203,200_ 10月ももう終わりですね。11月になったらまた噺の解説に戻りたいと思いますので、もう少し私の戯言にお付き合いをお願い致します。

 先日ですが、ふらりと入った本屋で河出書房から出してる文藝別冊「古今亭志ん朝」というムック本を見つけたので買って読みました。
 内容は今まで色々な雑誌などに載せられた志ん朝師に関する記事を纏めたものでした。勿論師が生前書かれたエッセイ等も沢山載っています。
 特に面白かったのは談志師の志ん朝師に関する事です。亡くなった時に「良い時に死んだ。よかったよ」と言ったそうですが、その真意についてのくだりが特に面白かったです。
 談志師が言うには志ん朝師の絶頂期は三十代半ばだったそうです。その後は緩やかに落ちて行くばかりだったとか。
 噺では「愛宕山」を褒めていて「鰻の幇間」は駄目だと言っています。志ん朝師の華麗な芸が転換期に来ている。それを志ん朝師も判っていたとも言っています。老いて枯れた芸を見せぬ内に亡くなってしまった今「良い時に死んだ」としか言えないと……。
 惜しいと語っても生き返る訳は無いし、言ったところでしょうがない。「よかったよ、十分だよ。いま死んでよかったよ。もう、これからよくならないよ」と言った方が彼岸の彼方に居る本人は安心できるだろうとも書いていました。
 談志師は志ん朝師が亡くなる二年前に和服のハーフコートを貰ったそうです。一度は
「あまり着ないから」と断ったそうですが志ん朝師が「是非に」と言ったので貰ったそうです。談志師が亡くなるまで大事にしていたそうです。今は何処にあるのかは判りませんね。
 他には柳家小満ん師が書いていましたが、志ん朝師が芝居に出ていた頃にあるパーティで三木のり平さんに黒門町が挨拶をして
「志ん朝がお世話になっております。あれは落語界にとって”百年に一度の男”なんです。そのおつもりでお願いします」
 と言ったそうですそれだけ大事に考えていたのですね。
 最後に談志師の志ん朝師に対する評価を書いて終わりにしたいと思います。
「志ん朝は圓生同様、型から入っていく作品派である。加えて彼は芝居好きなくらいだから、形が良く、リズムも良く、噺の構成も上手い。現代の作品派としては最たるものだろう」
 これが全て語っているのではないでしょうか。

9b438ca8『山号寺号』
今日はこの噺です。先日寄席で市馬師が歌入で演じていました。

【原話】
かなり古い噺で、かの京都で辻噺をしていた、初代露の五郎兵衛師までさかのぼります。
最近では八代目柳枝や談志師が演じていました。
記録的には1707年の「露休置土産」の「はやるものには山号寺号」が原話です。

【ストーリー】
幇間の一八が、贔屓の若旦那に出会いました。
「若旦那どちらへ?」 
「ちょっと観音様にお参りにな。」
「浅草寺ですな」「いや観音様だ」
「若旦那、観音様とおっしゃいますが、本当は、金龍山浅草寺って言うんですよ。成田山景徳寺とかいう具合に、どこにでも山号寺号ってものがあります」
 「ほう、どこにでもあるのか? ここにもあるのなら一円のご祝儀をあげよう」
 「若旦那無茶を言っちゃいけませんや。お寺があればってことですが、せっかくだから考えましょうかね」
「車屋さん広小路ってのはどうですか? 山号寺号になってるでざんしょ」
「分かったよ、一円やるよ」
 この後、女将さん拭き掃除、乳母さん子が大事、床屋さん耳掃除、蕎麦屋さん卵とじ、と次から次と一円をせしめました。
 金がなくなった若旦那が、あたしもやってみたいね。そのお金をそっくり懐に入れて、
「一目散随徳寺」
「ああ、南無三仕損じ」

【演者】
まあ短いし長さも調整出来るのは寄席では良く掛かります。
八代目柳枝や談志師が有名ですかね。

【注目点】
このあらすじは談志師のものですが市馬師もこれでやってました。本来は成田山にお参りに行く途中で出会うのです。

『能書』
いくらでも新しいシャレが加えられるため演者によって自由自在で「看護婦さん赤十字」などと言うのもあります。
幇間の一八は涙ぐましい努力ですが、若旦那の方が一枚上手でしたね。(^^)

『ネタ』
山号寺号とは、古くからある言葉遊びの一種で、江戸で名高い医者のあだ名を「医王山薬師寺」等と洒落て遊んだのだそうです。

※昨日、芸協の噺家の三遊亭金遊師がお亡くなりになりました。急な事だったそうです。69歳とか、早いですね。師は結構、浅草でトリを取っており結構な大ネタも聴かせて頂きました。さっぱりとした淡々と語る芸風でした。
慎んでご冥福をお祈り致します。
https://news.goo.ne.jp/article/dailysports/entertainment/20190325113.html

d3075e38『九州吹き戻し』
時候柄この噺を取り上げます。被災された地域の皆様にお見舞い申し上げます。

【原話】
原話や、成立過程などはいっさい不明だそうです。
記録上は。、初代志ん生師(1809-56)が得意にしていたそうです。
おそらく、天保の頃だと思われます。
その志ん生師も、鈴々舎馬風師から金千疋(約二両二分)で譲ってもらったというので、起源はかなり古いと思われます。
圓朝師がこの志ん生師の噺を聴き、「自分にはとても出来ない」と言ったそうです。
その後、三代目円馬師が大正期に高座に掛けて、得意としました。
他に初代小せん師が演じ、戦後では四代目円馬が師匠譲りで持ちネタにしていたそうです。

【ストーリー】
あまりの放蕩三昧で勘当された、元若だんなのきたり喜之助ですが、それならいっそ、
遊びのしみ込んだ体を生かそうと幇間になりましたが、金を湯水のごとく使った癖が抜けず、
増えるのは不義理と借金ばかりです。
これでは江戸にいられないと、夜逃げ同然に流れ流れてとうとう肥後の熊本城下へやってきます。
 一文無しなのでどこも泊めてくれず途方にくれていると、「江戸屋」と云う看板が目に止まります。
その名前に懐かしくなり、上がり、酒、肴を頼んで飲み食いすると寝て仕舞います。
 翌朝、声を掛けられて起きてみると、昔なじみで、湯屋同朋町にいた大和屋のだんなです。こちらも江戸をしくじり、地へ流れ着き、今ではこの旅籠の主人です。ここは、地獄に仏とばかり、だんなに頼んで板場を手伝わせてもらい、時には幇間の「本業」を生かして座敷にも出るといったわけで、客の取り持ちはさすがにうまいので、にわかに羽振りがよくなりました。こうして足掛け四年辛抱して、貯まった金が九十六両。
 ある日、だんなが、「おまえさんの辛抱もようやく身を結んできたんだから、あと百両も貯めたらおかみさんをもらい、江戸屋ののれんを分けて末永く兄弟分になろう」
と言ってくれたが、喜之助はここに骨を埋める気はさらありません。日ごと夜ごと、江戸恋しさはつのるばかりです。
 どうしても帰りたいと話すと、苦笑しながらも、まあ、そんなに帰りたければと、
親切にも贔屓のだんな衆に奉賀帳を回して二十両余を足し前にし、餞別代わりに渡してくれました。
 出発の前夜、夢にまで見た江戸の地が踏めると、もういても立ってもいられない喜之助、
夜が明けないうちに江戸屋を飛び出し、浜辺をさまよっていると、折よく千五百石積の江戸行きの荷船の船乗りに出会いました。
 荷船に客を乗せることは天下のご法度だが、病気のおふくろに会いに行くならいいだろうと、特別に乗せてもらうことになりました。
 途中までは良い天気で順調だったのですが、玄界灘にさしかかるころ、
西の空から赤い縞(しま)のような雲が出たと思うと、雷鳴とともにたちまち大嵐となります。帆柱は折れ、荷打ちといって米俵以外の荷は全て海に投げ込み、一同、水天宮さまに祈ったが、嵐は二日二晩荒れ狂うと言うものすごさ。
 三日目の夜明けに打ち上げられたのが、薩摩の桜島で、江戸までは四百里、熊本からは二百八里。帰りを急ぎ過ぎたため、百二十里も吹き戻されたという話。

【演者】
最近では談志師が復活してCDなどでも聞くことが出来ます。
また、落語研究会で五街道雲助が熱演したり、菊志んさんが自分の勉強会で掛けたそうです。
談志師の弟子の談春さんが師匠ゆずりで高座に掛けています。

【注目点】
初代志ん生はこの噺を作り上げる為に銚子に出向いて暫く過ごして本当の海を知らない江戸っ子に海の怖さを噺に取り入れる工夫を考えたそうです。

『能書』
江戸時代は幕府の命令で三千石以上の大型船は軍用にするのを防ぐ意味もあり、建造は許されませんでした。
その為世界のトップクラスだった造船技術も遅れる事になります。

『ネタ』
噺を聴くと、大河ドラマみたいな感じがしますね。
三遊宗家の藤浦さんがこの噺の脚本を談志師匠の為に書いたそうです。
それを元に演じてるのだと思いますが、どうなんでしょう?
私は前半が、「居残り」みたいで好きになりました。
後半の嵐のシーンがなんか付け足しの様な気がしましたね。
うがった聴き方ですかね。

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