『百川』
やっと良い陽気になってきました。春盛りですしそろそろ夏祭り(神田祭など)の噂も聞こえて来たので取り上げました。この噺はCM落語の原点とも言われていますね。
【原話】
実在の江戸懐石料理の名店・百川が宣伝のため、実際に店で起こった事件を落語化して流布させたとも、創作させたともいわれます。
似たような成り立ちの噺に「王子の狐」があります。こちらも料理屋「扇屋」の宣伝とも云われています。
【ストーリー】
田舎者の百兵衛さんが、料亭、百川に奉公に上がったのですが、初日のお目見えから、羽織りを来たまま客の注文を聞くことになりました。
向かった先は魚河岸の若い衆の所です。最初に
「儂、シジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)だ」
と言いましたが、田舎訛りなので河岸の若い衆は「四神剣の掛合人」と勘違いします。
昨年のお祭りで遊ぶ銭が足りなくなり「四神剣」を質に入れたことについて、隣町から掛合いに来たのだと。その後、言葉の行き違いで、百兵衛がクワイの金団を丸呑みする事になり、何とかこれをこなします。
再び呼ばれ、本当の事が判り、常磐津の歌女文字師匠に
「若い衆が今朝から四、五人来てる山王祭」
と伝えるように言われたが、名前を忘れたら「か」が付く有名な人だと云われます。
長谷川町まで行って「か」の有名な人だと訪ねると、鴨池医師だと教えられ「けさがけで四、五人きられた」と伝えたので、先生は慌てて往診の準備に取替かかります。
とりあえず、伝言を貰って帰ってきて伝えるのですが、若い衆は何だか判りません。
その内に、鴨池医師が来て様子が判ると「お前なんか、すっかり抜けている抜け作だ」と怒鳴られます。しかし、百兵衛さん
「抜けてるって、どの位で」
「どの位もこの位もねえ、端から終いまでだ!」
そんなことはねえ、カモジ、カメモジ・・・ハア抜けてるのは一字だけだ!」
【演者】
この噺は圓生師が存命の頃は圓生師にトドメを指すと云われていた噺です。
当時でも、志ん生師や馬生師が演じ、録音も残っています。
現在では多くの噺家さんが演じています。
でも正直、圓生師を凌ぐ噺家さんは居ないと言うのが私の感想です。
さん喬師は2月あたりからやっていますね(最近は飽きたとも言っているそうですが……)
【注目点】
文字で書いてるとピンと来ませんが、実際に音で聴くと、その可笑しさが感じられる噺です。
また、江戸の祭りの風習が噺の中に出て来るので、その意味でも楽しいです。
『能書』
料亭「百川」は日本橋浮世小路にあった店で、江戸でも有数の料理屋で、向島にあった「八百善」と並んで幕末のペリーの来航の際には、料理の饗応役を御仰せつかり千人分の料理を出したそうです。その時の値段が一人前3両だったとも言われています。
献立は今でも残っていて、私も見た事がありますが、今の人の口に合うかどうか疑問ですね。一つだけ、良いなと思ったのは、「柿の味醂漬け」と言うもので、果物の柿を皮を剥いて、本味醂を掛けたものです。
これは私も試しに作って食べましたが、中々乙な味がしました。かの池波正太郎先生もお気に入りだったそうです。
『ネタ』
よく、江戸の三大祭と云いますが、実際は「江戸の二大祭り」です。と言うのも、江戸の祭りで、神田明神の「神田祭」と、赤坂日枝神社の「山王祭」が江戸の二大祭りなのです。
それは何故かと言うと、この二つの祭りだけが、将軍家から祭りの支度金として百両を賜ったからです。
その為、この二つの祭りの山車や神輿は江戸城内に入る事が許されました。その山車や神輿を将軍が上覧をしました。
ある記録によると、未明に山下御門に山車や神輿が集まり、江戸城内に入場して練り歩き、将軍が上覧して、最後の山車が常盤橋御門から出て行ったのが日が暮れた頃だったと言います。
それぐらい盛大に行われたので、この二つの祭りは交互に隔年で行われる事になりました。
神田祭は、江戸幕府開府以前に徳川家康が会津征伐において上杉景勝との合戦に臨んだ時や、関ヶ原の合戦においても神田大明神に戦勝の祈祷を命じ、神社では毎日祈祷を行っていたそうです。、9月15日の祭礼の日に家康が合戦に勝利し天下統一を果たしたのでそのため特に崇敬するところとなり、神田祭は徳川家縁起の祭として以後盛大に執り行われることになったと言います。
山王祭は、江戸の町の守護神であった神田明神に対して日枝神社は江戸城そのものの守護を司ったために、幕府の保護が手厚かったので将軍も上覧をしたと言うことです。
歌川広重の『名所江戸百景』にも収められていますね。
「蛇足」
安藤鶴夫氏によると故郷に帰った百兵衛さんの辞世の句が
「組重の中恐ろしきくわい哉」
と詠んだそうです。 でも生涯慈姑を見ると身体が震え続けたそうです。(ホントかよw)
やっと良い陽気になってきました。春盛りですしそろそろ夏祭り(神田祭など)の噂も聞こえて来たので取り上げました。この噺はCM落語の原点とも言われていますね。
【原話】
実在の江戸懐石料理の名店・百川が宣伝のため、実際に店で起こった事件を落語化して流布させたとも、創作させたともいわれます。
似たような成り立ちの噺に「王子の狐」があります。こちらも料理屋「扇屋」の宣伝とも云われています。
【ストーリー】
田舎者の百兵衛さんが、料亭、百川に奉公に上がったのですが、初日のお目見えから、羽織りを来たまま客の注文を聞くことになりました。
向かった先は魚河岸の若い衆の所です。最初に
「儂、シジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)だ」
と言いましたが、田舎訛りなので河岸の若い衆は「四神剣の掛合人」と勘違いします。
昨年のお祭りで遊ぶ銭が足りなくなり「四神剣」を質に入れたことについて、隣町から掛合いに来たのだと。その後、言葉の行き違いで、百兵衛がクワイの金団を丸呑みする事になり、何とかこれをこなします。
再び呼ばれ、本当の事が判り、常磐津の歌女文字師匠に
「若い衆が今朝から四、五人来てる山王祭」
と伝えるように言われたが、名前を忘れたら「か」が付く有名な人だと云われます。
長谷川町まで行って「か」の有名な人だと訪ねると、鴨池医師だと教えられ「けさがけで四、五人きられた」と伝えたので、先生は慌てて往診の準備に取替かかります。
とりあえず、伝言を貰って帰ってきて伝えるのですが、若い衆は何だか判りません。
その内に、鴨池医師が来て様子が判ると「お前なんか、すっかり抜けている抜け作だ」と怒鳴られます。しかし、百兵衛さん
「抜けてるって、どの位で」
「どの位もこの位もねえ、端から終いまでだ!」
そんなことはねえ、カモジ、カメモジ・・・ハア抜けてるのは一字だけだ!」
【演者】
この噺は圓生師が存命の頃は圓生師にトドメを指すと云われていた噺です。
当時でも、志ん生師や馬生師が演じ、録音も残っています。
現在では多くの噺家さんが演じています。
でも正直、圓生師を凌ぐ噺家さんは居ないと言うのが私の感想です。
さん喬師は2月あたりからやっていますね(最近は飽きたとも言っているそうですが……)
【注目点】
文字で書いてるとピンと来ませんが、実際に音で聴くと、その可笑しさが感じられる噺です。
また、江戸の祭りの風習が噺の中に出て来るので、その意味でも楽しいです。
『能書』
料亭「百川」は日本橋浮世小路にあった店で、江戸でも有数の料理屋で、向島にあった「八百善」と並んで幕末のペリーの来航の際には、料理の饗応役を御仰せつかり千人分の料理を出したそうです。その時の値段が一人前3両だったとも言われています。
献立は今でも残っていて、私も見た事がありますが、今の人の口に合うかどうか疑問ですね。一つだけ、良いなと思ったのは、「柿の味醂漬け」と言うもので、果物の柿を皮を剥いて、本味醂を掛けたものです。
これは私も試しに作って食べましたが、中々乙な味がしました。かの池波正太郎先生もお気に入りだったそうです。
『ネタ』
よく、江戸の三大祭と云いますが、実際は「江戸の二大祭り」です。と言うのも、江戸の祭りで、神田明神の「神田祭」と、赤坂日枝神社の「山王祭」が江戸の二大祭りなのです。
それは何故かと言うと、この二つの祭りだけが、将軍家から祭りの支度金として百両を賜ったからです。
その為、この二つの祭りの山車や神輿は江戸城内に入る事が許されました。その山車や神輿を将軍が上覧をしました。
ある記録によると、未明に山下御門に山車や神輿が集まり、江戸城内に入場して練り歩き、将軍が上覧して、最後の山車が常盤橋御門から出て行ったのが日が暮れた頃だったと言います。
それぐらい盛大に行われたので、この二つの祭りは交互に隔年で行われる事になりました。
神田祭は、江戸幕府開府以前に徳川家康が会津征伐において上杉景勝との合戦に臨んだ時や、関ヶ原の合戦においても神田大明神に戦勝の祈祷を命じ、神社では毎日祈祷を行っていたそうです。、9月15日の祭礼の日に家康が合戦に勝利し天下統一を果たしたのでそのため特に崇敬するところとなり、神田祭は徳川家縁起の祭として以後盛大に執り行われることになったと言います。
山王祭は、江戸の町の守護神であった神田明神に対して日枝神社は江戸城そのものの守護を司ったために、幕府の保護が手厚かったので将軍も上覧をしたと言うことです。
歌川広重の『名所江戸百景』にも収められていますね。
「蛇足」
安藤鶴夫氏によると故郷に帰った百兵衛さんの辞世の句が
「組重の中恐ろしきくわい哉」
と詠んだそうです。 でも生涯慈姑を見ると身体が震え続けたそうです。(ホントかよw)