『胴乱の幸助』
今日は「胴乱の幸助」です。
上方落語ですが、最近では東京でも演じる噺家さんもいます。
その時は「胴乱幸助」と「の」の字が無くなります。
『原話』
上方落語の切ネタで、東京には五代目圓生師が移植しました。
『演者』
三代目桂米朝師、二代目桂枝雀師、三代目桂文我師、桂文珍師、東京では、上方ネタを演じた二代目桂小南師などがいますし、芸協の若手でもごくたまに聴くことがあります。
『ストーリー』
粗筋は上方の方で書きますと。
阿波の徳島から出てきて、一代で身代を築いた働き者の割り木屋の親父の幸助さん。いつも腰に胴乱をぶらさげて歩いています。
喧嘩の仲裁をするのが道楽で、喧嘩なら子供の喧嘩、犬の喧嘩でも割って入るという。
往来で喧嘩を見つけると中に割って入り、必ず近くの料理屋で説教し仲直りさせご馳走するのを楽しんでいる。
今日も喧嘩を探して歩いていると、幸助さんが来るのを見つけ、喧嘩のまねをして酒にありつこうと二人組がなれあい喧嘩をはじめる。
これが本当の喧嘩になってしまった所へ幸助さんが割って入る。
料理屋へ連れて行き、仲直りさせ酒、さかなをふるまう。二人組はずうずうしくみやげまでせしめる。
もっと大きな派手な喧嘩はないものかと歩いていると、浄瑠璃の稽古屋の前へ来る。中では「桂川連理柵」(かつらがわれんりのしがらみ)お半長右衛門帯屋の段の嫁いじめの所を稽古している。
幸助さん、これを聞くとすっかり本当の嫁いじめだと思って中へ飛び込む。
驚いた稽古屋の師匠が、これは京都の話だと説明するが、浄瑠璃など知らない幸助さんはそれならもめごとを収めに京都に行って来るといい場所や店の名を紙に書いてもらい京都へ向う。
大阪の八軒屋から三十石船に乗り伏見で降り、柳の馬場押小路虎石町の呉服屋に入った幸助さん、お半長右衛門の一件をかたづけに来たと話し始めるが番頭はちんぷんかんぷん。
番頭は話の中にお半とか長右衛門とか帯屋が出てくるのでやっと浄瑠璃の「お半長」の話だと分かり馬鹿馬鹿しくて大笑いする。
それでもまだ本気な幸助さんは、お半と長右衛門をここへ出せと言う。
番頭
「お半も、長右衛門もとうの昔に桂川で心中しました」
幸助
「え、死んだか、汽車で来たらよかった」
『能書』
とまあ、明治の初め頃の汽車と船が共存していた時代の噺です。これは東京版でもそう変りはありません
この先は同じ展開で、京都まで行くのです。オチも同じでした。今日のは途中で落としています。それは、無一文の酒好き二人が、幸助さんお仲裁の酒を目当てに、目の前でケンカ始めます。幸助さんは仲裁をして、両方に意見を言います。
「オメェー達、オレが居なかったらどうなってたと思うんだ!?」
「ハイ、ケンカは起きてなかったデス」
と言うオチになっています。
『ネタ』
胴乱とは、革製の方形をした小袋。古くは筒卵,銃卵とも書くそうです。
元来は鉄砲の弾丸入れで腰にさげていた。喫煙の風習が広まると火打石やタバコ入れ,さらには印判,薬入れとしても使われるようになったそうです。
幕末に各藩で洋式調練が行われるようになると,オランダ兵のパトローンタスをまねた肩掛胴乱,負皮(おいかわ)胴乱が兵士の間で流行したとあります。
肩掛胴乱なんてショルダーバッグですね。
「蛇足」
評論家の矢野誠一氏は、五代目三遊亭圓生師が演じたものの速記本を読み
「違和感のあるのは否めない」
と評しています。理由として同演目が
「義太夫が暮らしの中にはいりこんでいた風土なしには、成立しない噺であり、純粋の上方落語」でもある。また義太夫節が一般的でなかった東京への移植は無理だった。と語っています。
また桂米朝師も「この噺は京阪間に汽車が開通し、三十石船と共存していた僅かな時代設定に限られます。浄瑠璃が盛んだった(上方で)昭和初期まではかなり受けたと思います」と語っています。
「さらに」
東京版では三遊亭歌奴師が2013年頃に演じている記録があります。その時は幸助さんは炭屋のおやじと設定されています。しかも、わざわざ東京から京都まで行くというバカバカしさがあります。
今日は「胴乱の幸助」です。
上方落語ですが、最近では東京でも演じる噺家さんもいます。
その時は「胴乱幸助」と「の」の字が無くなります。
『原話』
上方落語の切ネタで、東京には五代目圓生師が移植しました。
『演者』
三代目桂米朝師、二代目桂枝雀師、三代目桂文我師、桂文珍師、東京では、上方ネタを演じた二代目桂小南師などがいますし、芸協の若手でもごくたまに聴くことがあります。
『ストーリー』
粗筋は上方の方で書きますと。
阿波の徳島から出てきて、一代で身代を築いた働き者の割り木屋の親父の幸助さん。いつも腰に胴乱をぶらさげて歩いています。
喧嘩の仲裁をするのが道楽で、喧嘩なら子供の喧嘩、犬の喧嘩でも割って入るという。
往来で喧嘩を見つけると中に割って入り、必ず近くの料理屋で説教し仲直りさせご馳走するのを楽しんでいる。
今日も喧嘩を探して歩いていると、幸助さんが来るのを見つけ、喧嘩のまねをして酒にありつこうと二人組がなれあい喧嘩をはじめる。
これが本当の喧嘩になってしまった所へ幸助さんが割って入る。
料理屋へ連れて行き、仲直りさせ酒、さかなをふるまう。二人組はずうずうしくみやげまでせしめる。
もっと大きな派手な喧嘩はないものかと歩いていると、浄瑠璃の稽古屋の前へ来る。中では「桂川連理柵」(かつらがわれんりのしがらみ)お半長右衛門帯屋の段の嫁いじめの所を稽古している。
幸助さん、これを聞くとすっかり本当の嫁いじめだと思って中へ飛び込む。
驚いた稽古屋の師匠が、これは京都の話だと説明するが、浄瑠璃など知らない幸助さんはそれならもめごとを収めに京都に行って来るといい場所や店の名を紙に書いてもらい京都へ向う。
大阪の八軒屋から三十石船に乗り伏見で降り、柳の馬場押小路虎石町の呉服屋に入った幸助さん、お半長右衛門の一件をかたづけに来たと話し始めるが番頭はちんぷんかんぷん。
番頭は話の中にお半とか長右衛門とか帯屋が出てくるのでやっと浄瑠璃の「お半長」の話だと分かり馬鹿馬鹿しくて大笑いする。
それでもまだ本気な幸助さんは、お半と長右衛門をここへ出せと言う。
番頭
「お半も、長右衛門もとうの昔に桂川で心中しました」
幸助
「え、死んだか、汽車で来たらよかった」
『能書』
とまあ、明治の初め頃の汽車と船が共存していた時代の噺です。これは東京版でもそう変りはありません
この先は同じ展開で、京都まで行くのです。オチも同じでした。今日のは途中で落としています。それは、無一文の酒好き二人が、幸助さんお仲裁の酒を目当てに、目の前でケンカ始めます。幸助さんは仲裁をして、両方に意見を言います。
「オメェー達、オレが居なかったらどうなってたと思うんだ!?」
「ハイ、ケンカは起きてなかったデス」
と言うオチになっています。
『ネタ』
胴乱とは、革製の方形をした小袋。古くは筒卵,銃卵とも書くそうです。
元来は鉄砲の弾丸入れで腰にさげていた。喫煙の風習が広まると火打石やタバコ入れ,さらには印判,薬入れとしても使われるようになったそうです。
幕末に各藩で洋式調練が行われるようになると,オランダ兵のパトローンタスをまねた肩掛胴乱,負皮(おいかわ)胴乱が兵士の間で流行したとあります。
肩掛胴乱なんてショルダーバッグですね。
「蛇足」
評論家の矢野誠一氏は、五代目三遊亭圓生師が演じたものの速記本を読み
「違和感のあるのは否めない」
と評しています。理由として同演目が
「義太夫が暮らしの中にはいりこんでいた風土なしには、成立しない噺であり、純粋の上方落語」でもある。また義太夫節が一般的でなかった東京への移植は無理だった。と語っています。
また桂米朝師も「この噺は京阪間に汽車が開通し、三十石船と共存していた僅かな時代設定に限られます。浄瑠璃が盛んだった(上方で)昭和初期まではかなり受けたと思います」と語っています。
「さらに」
東京版では三遊亭歌奴師が2013年頃に演じている記録があります。その時は幸助さんは炭屋のおやじと設定されています。しかも、わざわざ東京から京都まで行くというバカバカしさがあります。