はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

桂文楽

「心眼」という噺

796b3a9c『心眼』
今日は圓朝師作と言われるこの噺です。
写真は噺出て来る茅場町のお薬師様「智泉院」の薬師像 です。

【原話】
三遊亭圓朝師が、弟子で盲人の音曲師だった円丸の、横浜での体験談をもとにまとめあげたといわれます

【ストーリー】
横浜から顔色を変えて”梅喜(ばいき)”が歩いて帰ってきます。聞くと弟に「穀潰しのドメクラ」と何回も言われたという。それが悔しくて翌日自宅の馬道から茅場町の薬師様へ「どうか、目が明きます様に」と、願掛けに通った。女房”お竹”の優しい取りなしもあって、満願の日、願い叶って目が明きます。
その時薬師様のお堂の上で声を掛けられたのですが、馬道の上総屋さんの顔も分からない。
目が明くと道も分からないので、上総屋さんに手を引いてもらって帰ります。
色々な物にビックリして眺めていると綺麗な芸者を見つけます。
お竹と比べるとどっちが綺麗ですかと尋ねると、本人を目の前にしては失礼だが、東京で何番目という化け物の方に近いが、心だては東京はおろか日本中でも指を折るほどの貞女だ。似たもの夫婦の逆で、梅喜はいい男だがお竹さんはマズイ女だ。芸者の小春も役者よりお前の方がいい男だと言ってたぐらいだと、聞かされます。
浅草仲見世を通り、観音様でお詣りしていると、上総屋さんは何時の間にかいなくなって仕舞います。
その時、知り合いの芸者”小春”が梅喜を見つけて、食事にと富士下の”待合い”に誘った。
お竹は上総屋の知らせで観音堂に目が明いた梅喜が居ると知らされ喜んで来てみると、二人連れが待合いに入る所を見ます。中の二人は酒に任せて、化け物女房は放り出すから、いしょになろうと相談していると、お竹が踏み込んで、梅喜の胸ぐらを締め上げた。「勘弁してくれ、苦し〜い。お竹、俺が悪い。うぅ〜」 。
「梅喜さん、どうしたの?」、うなされていたので梅喜を揺り起こした。夢であった。「一生懸命信心してね」、「あ〜ぁ、もう信心はやめた」、「昨日まで思い詰めた信心を、どうしてよす気になったの」
「盲目というものは妙なものだね、寝ている内だけ良〜く見える」。

【演者】
何と言っても黒門町の高座が見事です。音だけでは解りにくいのですが、映像で見ると、その所作や盲人を表現する様は見事と言う他ありません。

【注目点】
圓朝師の原作では少し展開が違うそうです。
亭主の目が開くなら自分の目がつぶれてもいいと、密かに薬師に願掛けしていた女房・お竹の願いが聞き届けられ、梅喜は開眼するものの、お竹の目はつぶれます。
梅喜と小春が富士下(浅草馬道の富士浅間神社の坂下)の
「釣堀」という料亭にしけこんだと聞いて、お竹が女按摩に化けて乗り込み、さんざん恨みごとを並べたあげく、堀に身を投げ……というところで梅喜の目が覚めます。
サゲは「目が覚めたら何も見えない」という、割合平凡なサゲです。

『能書』
池波正太郎さんの記述ですが、戦後間もない頃に人形町「末広」で文楽師が「心眼」と「王子の幇間」を演じたそうです。両方共戦時中は禁演落語でしたから演じる事は出来ませんでした。それが解けて晴れて演じられた文楽師はそれは見事な高座だったそうです。

『ネタ』
「心眼」とは「物事の大事な点を見通す、鋭い心の動きの事を言うのだそうです。

「厄払い」という噺

b9c2969c『厄払い』
節分が過ぎると暦の上では春になります。早く暖かかくなって欲しいですね。

【原話】
この噺は黒門町の十八番で有名ですね。
原話は不詳で、文化年間(1804〜18)から口演されてきました。
東西ともに演じられますが、上方の方はどちらかというとごく軽い扱いで、厄払いのセリフを地口オチで演じる噺ですね。


【ストーリー】
与太郎が二十歳になってもぶらぶらしているので、叔父さんが厄払いの口上を教えます。
自分で稼いだ銭で、おっかさんに小遣いでもやってみろ、泣いて喜ぶからと、早速厄払いに出掛けさましたが、
「えー、厄払い」と口ごもっているところへ、「御厄払いましょう、厄落とし」と本職が出てきました。

本職に邪魔だと怒られて路地に入ったら、面白そうな厄払いだと呼び止められました。
 厄払いの前に銭を催促して、豆をもらっていよい口上を始めたのですが、
「あぁら、目出度いな目出度いな」と始めたのは良いが、後が分からなくなったので、叔父さんが書いてくれた紙を懐から出して読み始めます・・・
「……鶴は十年」「鶴は千年だろう」
「あそうか点が付いてるから千年だ」
「亀は……読めねえ、おや裏の店と同じ字だ、裏の店は何ていうんだい」「よろずやだ」
「鶴は千年、亀はよろず年」

ここまで読むと、与太郎、めんどうくさくなって逃げ出してしまいます。
「おい、表が静かになった。開けてみな」
「へい。あっ、だんな、厄払いが逃げていきます」
「逃げていく? そういや、いま逃亡(=東方)と言ってた」

【演者】
これはもう黒門町にとどめを刺すでしょう。現役では小三治師ですかね。

【注目点】
節分は本来は各季節の始まりでして、立春、立夏、立秋、立冬の前日のことを指します。江戸時代以降では、立春(2月4日)の前日である2月3日を節分とする場合がほとんどで、旧暦では、立春が一年の始まり(元旦)だったとされています。つまり、2月3日の節分は、今で言うところの「大晦日(おおみそか)」にあたるわけです。節分の日には、神社やお寺で「節分絵」「節分祭」や「厄除け祈願祭」などが行なわれますが、これは、旧暦の大晦日にあたる2月3日に一年の厄を祓って新しい一年を迎えましょうという古くからの風習が今に残ったものです。

『能書』
厄払いはもうかなり行われなくなりましたが、その昔は、祝儀等は江戸では十二文、明治では一銭から二銭をおひねりで与え、節分には、それに主人の年の数に一つ加えた煎り豆を、他の節季には餅を添えてやるならわしでした。
今では、「ひとがた」の紙に名前と年を書いて神社に奉納して厄払いをしてもらう処もあります。

『健二のネタ』
古くは節分だけの営業でしたが、文化元(1804)年以後は正月六日と十四日、旧暦十一月の冬至、大晦日と、年に
計五回、夜に廻ってくるようになりました。この噺では、前に述べた通り大晦日の設定ですが今の大晦日ではありません。

年末はこの噺で「富久」

 2106eafe本当に寒くなって来ました。皆様も健康には充分ご注意下さいね。と言う訳で今回からはこの噺を取り上げてみたいと思います。
・『富久』
江戸時代の実話をもとに、円朝師が創作したといわれる噺ですが、速記もなく、詳しいことは分かりません。

・【ストーリー】
 久蔵は腕の良い幇間ですが、酒癖が悪くて贔屓をみんなしくじって、浅草安部川町で一人暮らしをしています。
近くで出会った知り合いの吉兵衛から売れ残った最後の千両富買って、大事な富籤だからと大神宮様のお宮の中に隠します。
 ところが、その夜、芝方面が火事だと聞いて、芝の旦那の元へ火事見舞いに駆けつけ、詫びが叶います。
鎮火の後の振舞い酒に酔って寝ていると日本橋見当が火事だと起こされる。
駆けつけると自宅は丸焼け、旦那の家に戻ってくると、旦那は親切にも店に置いてくれるというので、久蔵は田丸屋の居候になります。
 翌朝、旦那が作ってくれた奉加帳を持って、寄付を募っている途中、湯島天神へ行ってみると久蔵が買った番号が千両の大当たり。
当たったと喜ぶが、火事で籖も焼けたことに気づき落胆します。
 とぼとぼと自宅の焼け跡に戻った久蔵に、鳶頭が、天照皇大神宮様は縁起物だから持ち出して正面に飾ったと告げます。
「あった」
「久さん、この暮れは楽に越せるね」
「大神宮様のおかげで近所の御祓をします」

・【演者】
もうこれは、沢山の噺家さんが演じていますが、有名なのは文楽師と志ん生師でしょうね。
特に文楽師は「落語研究会」に予告しておきながら、「練り直しが不十分」という理由で何度も延期したので、評論家の安藤鶴夫師に「富久ならぬ富休」と揶揄されていたそうです。
文楽師はすぐれた描写力で冬の夜の寒さと人情の温かさを的確に描写し、この噺を押しも押されもせぬ十八番にまで練り上げました。対する志ん生師は久蔵に写実性を求め、失業した幇間久蔵が貧乏と言う生活苦になっても、びくともしないバイタリティ溢れる人物像を拵えています。

【注目点】
この噺でよく話題になるのが、浅草から芝まで久蔵が走っていくのは遠すぎると言う事でした。
酒を飲んで寝ているのですから、無理があるのではと言う意見です。
そこで旦那の店を日本橋横山町に変えたりして演じていました。
また、久蔵の長屋を日本橋の竈河岸として演じる噺家さんもいます。

・『能書』
この噺でキモとなるのが大神宮様のお宮ですが、伊勢神宮を祭る神棚の事です。
浅草の歳の市などで売っていました。
当時、伊勢参宮は出来たとしても庶民にとっては生涯一度でして、
大半の市民にとっては夢でした。ならば、せめて江戸にいながら
参拝ができるようにと、伊勢神宮が代用品に売り出していたものでした。
かなり高価なもので、買うのは芸者や幇間など、水商売に従事している者が殆どでした。。
ですから、久蔵は芸人の見栄で、無理しても豪華なものを買ったのでした。

『ネタ』
五代目志ん生師や五代目柳家小さん師は久蔵の長屋が浅草、商店が芝とする長大な距離を設定し、その道中を久蔵が一瞬で駆け回るナンセンスな演出方法をとっています。それも聴きどころです。

愛宕山に登ってみたら……

EclEdo3j『愛宕山』
え〜早いものでこの前マッカーサーが上陸したと思ったらもう春です!
なので私の好きな「愛宕山」です。
この噺は上方落語がルーツです。東京では文楽師の十八番でした。
3代目圓馬師が東京風に脚色したのを圓馬師から文楽師に伝わったものです。
文楽師は、晩年は医師から止められていたにもかかわらず、高座に掛けて、その後楽屋で暫く横になっていたそうです。それだけ、最後の処で力が入ったのですね。
最近では志ん朝師がやり、その後かなりの噺家さんがやります。
志ん朝師のも良かったですね、文楽師が省略した下りも入れて、一八と旦那の絡みも見事でした。

【原話】
上方に古くからあった噺を三代目圓馬師が東京に持って来ました。だから、事実上の圓馬師の弟子でもあった文楽師はこの噺を受け継いだのです。
【ストーリー】
あらすじは上方と東京では若干違いますので、東京でやります

京都見物に来た旦那、あらかた見てしまったので、明日は愛宕山に行こうと思いつきます。
連れの幇間の一八に言うのですが、「朝飯前」と言う返事。
翌日、一同連れ立って愛宕山へとやって来ます。

調子のいいことを言う一八を見て、旦那は繁造を一八にぴったり着かせる。「どんなことがあっても上までひっぱりあげろ。連れてこないと暇を出すよ」と脅して、いざ出発。
大きい口を叩いていた一八は、最終的には繁造に押してもらって、やっとのことで途中の休憩所まで辿りつきます。

茶屋で休んでいるときに一八が土器投げ(かわらけなげ)の的を見つけます。
向こうに輪がぶらさがっていて、そこにお皿を投げて上手く輪をくぐらせるという遊び。
旦那がやってみせると、負けん気の強い一八、また「朝飯前」だと嘯く。が、もちろんやってみるとうまくいかない。

そこで旦那が趣向を凝らし、取り出したのが小判三十枚。
煎餅を放る人がいるんだから、それより重量のある小判ならうまく放れて面白いだろうと。
そんなもったいないことを、と止める一八を無視して旦那は投げ続けます。
小判が惜しい一八は自分を的にしろと叫ぶが、旦那は三十枚全てを投げきってしまう。

さて、投げてしまった小判はどうするか。旦那は「あんなものは惜しくない。取りたきゃ取れ」と言う。
そう言われては取りに行くしかないが、そこは崖っぷち、狼もうろうろしているというし、そう簡単に降りてはいけません。
そこで、傘を落下傘代わりにして飛び降りるというもの。皆が見つめる中、なかなか飛び降りられない一八を見て、旦那が繁造に「後ろから突け」と命じ、一八は無理矢理下へ落とされるます。

さて、崖を降りた一八、目の色を変えて小判を集めはじめます。全ての小判を拾い終えた一八に
 旦那「皆貴様にやるぞ」
 一八「ありがとうございます」
 旦那「どうやって上がる」
困った一八に、旦那は「先に行くぞ」と薄情な言葉を残します。

さて弱った一八、突然服を脱ぎ、脱いだ服を裂き始める。どうしたどうしたと旦那達が見守る中、裂いた布で縄をよって、竹をしならせ、その反動でどうにかこうにか崖上へ無事上ることができました。

上にたどりついた一八に、
 旦那「偉いやつだね、貴様は生涯屓にするぞ」
 一八「ありがとうございます」
 旦那「金はどうした」
 一八「あ、忘れてきました」

【演者】
やはり八代目文楽師が抜きん出ていますね。志ん朝師も良かったですね。白黒ですが映像が残っています。

【注目点】
東京では下男の繁造が登場しますが、上方ではふたりとも大阪を食い詰めて京都にやって来た幇間と言う設定です。
そこで、この二人によって、京都の悪口が始まります。大阪と京都の対抗意識が底辺に流れています。
この辺は東京人にはその対抗意識と言うのが正直良く分かりません。(^^)

『能書』
上方版では小判は20両で、それも一気に投げて仕舞います。勿体無いと思うのは私だけでしょうか?
それと、一八が登る時に口ずさむ歌が違います。
東京は、『コチャエ節』で、上方は、『梅にも春』です。

『ネタ』
この噺の嘘は、京都の「愛宕山」ではかわらけ投げは行われていないと言う事です。
同じ山系に属する高雄山の神護寺で行われているそうです。
江戸でも王子の飛鳥山、谷中の道灌山で盛んに行われました。
志ん朝師はこの噺を演じる前に、香川県高松市の屋島で実際にかわらけ投げをおこなっています。
愛宕山にも一門で登っています。

「富久」を考える

index『富久』
 年末になるとジャンボ宝くじが売り出されますね。皆さんはお買いになられたでしょうか? 世の中には当たった方がいらっしゃるですよね。羨ましいような……。一攫千金を願うのはいつの時代も変わらぬようで、今日は「富久」です。

【原話】
江戸時代の実話をもとに、円朝師が創作したといわれる噺ですが、速記もなく、詳しいことは分かりません。
もうこれは、沢山の噺家さんが演じていますが、有名なのは文楽師と志ん生師でしょうね。

【ストーリー】
 久蔵は腕の良い幇間ですが、酒癖が悪くて贔屓をみんなしくじって、浅草安部川町で一人暮らしをしています。
近くで出会った知り合いの吉兵衛から売れ残った最後の千両富買って、大事な富籤だからと大神宮様のお宮の中に隠します。
 ところが、その夜、芝方面が火事だと聞いて、芝の旦那の元へ火事見舞いに駆けつけ、詫びが叶います。
鎮火の後の振舞い酒に酔って寝ていると日本橋見当が火事だと起こされる。
駆けつけると自宅は丸焼け、旦那の家に戻ってくると、旦那は親切にも店に置いてくれるというので、久蔵は田丸屋の居候になります。
 翌朝、旦那が作ってくれた奉加帳を持って、寄付を募っている途中、湯島天神へ行ってみると久蔵が買った番号が千両の大当たり。
当たったと喜ぶが、火事で籖も焼けたことに気づき落胆します。
 とぼとぼと自宅の焼け跡に戻った久蔵に、鳶頭が、天照皇大神宮様は縁起物だから持ち出して正面に飾ったと告げます。
「あった」
「久さん、この暮れは楽に越せるね」
「大神宮様のおかげで近所の御祓をします」

【演者】
文楽師は「落語研究会」に予告しておきながら、「練り直しが不十分」という理由で何度も延期したので、評論家の安藤鶴夫師に「富久ならぬ富休」と揶揄されていたそうです。
文楽師はすぐれた描写力で冬の夜の寒さと人情の温かさを的確に描写し、この噺を押しも押されもせぬ十八番にまで練り上げました。対する志ん生師は久蔵に写実性を求め、失業した幇間久蔵が貧乏と言う生活苦になっても、びくともしないバイタリティ溢れる人物像を拵えています。

【注目点】
この噺でよく話題になるのが、浅草から芝まで久蔵が走っていくのは遠すぎると言う事でした。
酒を飲んで寝ているのですから、無理があるのではと言う意見です。
そこで旦那の店を日本橋横山町に変えたりして演じていました。
また、久蔵の長屋を日本橋の竈河岸として演じる噺家さんもいます。

『能書』
やはりこの噺の聴きどころは久蔵が旦那の店に駆けつけるシーンと、富くじに対する久蔵の心理描写でしょうね。当たっているのに、その肝心の富札が無いと言うジレンマですね。
この辺を味わいたいものですね。

『ネタ』
江戸時代の富くじは実際のところは、大変に流行して、多くの神社仏閣が発売したり、色々な金額のくじも発売され大騒ぎになったそうです。そこで幕府はこれを禁止してしまったそうです。
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