はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

桂文楽

「鰻の幇間」という噺

8044bfee『鰻の幇間』
明日が土用丑の日なので鰻の噺を出そうと思ったのですが「素人鰻」は昨年も出しているので久しぶりにこの噺を取り上げます

【原話】
明治の中期に実際にあった話を落語化したそうです

【ストーリー】
炎天下の街を幇間の一八があちらこちらと得意先を回って、なんとかいい客を取り込もうとするのですが、何しろ夏は辛い季節。金のありそうな上客は、避暑だ湯治だと、東京を後にしてしまっていて捕まりません。
今日も一日歩いて、一人も客が捕まりません。このままだと幇間の日干しが出来上がるから、こうなったら手当たり次第と覚悟を決め、向こうをヒョイと見ると、見覚えのある旦那。でもその浴衣姿の旦那が誰だか思い出せなません。せめて昼飯でも御馳走になろうと企んで、よいしょを始めます。
 旦那が言うには、湯屋に行く途中だから長居はできないので近くの鰻屋に行こう。自慢の下駄を脱いで二階に上がり、香香で一杯始め、鰻が出てきた。旦那がはばかりに立ったので、お供しようとすると、いちいち付いて回るのが鬱陶しい、はばかりくらい一人で行けると言うので、部屋で待つことにした。
 いつまで経っても旦那が戻らないので迎えに立つと、便所をのぞくとモヌケのから。
偉い! 粋なもんだ、勘定済ましてスーッと帰っちまうとは。と思いますが、仲居が「勘定お願いします」と来ます。仲居が言うには
「お連れさんが、先に帰るが、二階で羽織着た人が旦那だから、あの人にもらってくれと」
「じょ、冗談じゃねえ。どうもセンから目つきがおかしいと思った。家の事訊くと。とセンのとこ、センのとこってやがって……なんて野郎だ」
その上、勘定書が九円八十銭。「だんな」が六人前土産を持ってったそう。
一八、泣きの涙で、女中に八つ当たりしながら、
なけなしの十円札とオサラバし、帰ろうとするとゲタがない。
「あ、あれもお連れさんが履いてらっしゃいました」

【演者】
これは黒門町の十八番でした。それ以前には初代小せん師が得意にしていたそうです。
六代目圓生師はこの噺を「圓生百席」に入れました。それほど得意ではなかったこの噺を入れた理由は、「文楽師のは一八が何処に行ってもアテが外れてしまって目論見が狂って次第に焦って行く過程が省かれていた。一八だってベテランの幇間だからそう簡単にはあんなに簡単に騙されはしない」と語っていました。「その心理面が描かれていないと最後の一八の悔しさが薄れてしまう」という事でした。この意見に私も賛成です。

【注目点】
やはり羊羹を二棹抱えて炎天下を歩く一八と、騙されてから仲居に色々な能書きを言うシーンでしょうね。特に文楽師の「この紅生姜……」のくだりが好きです。

『能書』
因みにこの男は落語国三大悪人の一人だそうです。
後の二人は、「付き馬」の男、「突き落とし」の連中だそうです。(異説もあり、付き馬、突き落とし、居残り)

『ネタ』
時間の関係か、向こうからくる風呂へ行く、浴衣姿の男を取り巻くところから入る落語家さんが多いようです。個人的にですが、それではこの噺を初めて聴く人はこの噺の面白さを半分も理解出来ないでしょうね。

七月になりました! この噺「船徳」

33cda358 え〜七月になりました! そこで今回は名作とも言える「船徳」です。

『船徳 』
 八代目文楽師で余りにも有名な夏の噺ですね。もう演じる噺全てが十八番と言っていた師ですが、特にこの噺は有名です。
晩年は体調不良でこの噺を演じるのを医者に止められていたのにもかかわらず「落語研究会」で演じたので、高座を下がってから暫く安静にしたいたそうです。白黒ですが映像に残っていますね。

【原話】
元は、「お初徳兵衛浮名の桟橋」という、近松の「曽根崎心中」の登場人物の名を借りた長編の人情噺だったのですが、明治期に初代(鼻の)圓遊師が発端を改作して、滑稽噺としました。

【ストーリー】
女遊びに夢中になり親族会議で勘当され、女の元にしけこんだ若旦那の徳さん。
金が無くなり、追い出されてフラフラ歩いている所を船宿の親方が引き取りました。
しばらく居候を決め込んでいたですが、船頭にしてくれと親方に頼みます。
もちろん親方は断るのですが、それなら他所でと脅かす始末で、結局修行を始めます。

教える方も教わる方もいい加減で、、根っからの優男なので、腕が上がりません。
四万六千日で、他の船頭が出払った日、馴染み客が来て、無理やり頼まれ船を出しましたが、
もやいを解かずに動かそうとしたり、一騒動です。
何とか出た途端に竿を流して慌てて櫓に切り替えると、同じ所をぐるぐる回り、
川辺の石垣にくつっけてしまいました。

お客の傘で押してもらったら蝙蝠傘が石垣に刺さって取れなくなります。
戻れと言う客に「戻れない!、諦めなさい、傘と命とどっちが大事か」と説得する始末。
 
どうにかこうにか桟橋の近くまで来た所で、客を降ろしたが、陸に上がった客が、大丈夫かと声をかけると
「すいません、誰か船頭を呼んでください」

【演者】
もう八代目文楽師を筆頭に色々な噺家さんが演じています。古今亭志ん朝師も文楽師に負けない高座を聴かせてくれます。皆さんも好きな噺家さんで聴いてみて下さい。

【注目点】
やはり船の上の徳さんと川岸に居る人との会話の描写だと思います。距離が離れているので演じ方が難しいです。

『能書』
船宿大升は柳橋で、神田川と隅田川が合流する辺りです。
目的地の大桟橋は、、榎本滋民氏によると待乳山聖天の側にある今戸橋の手前にあったそうです。
鼻の圓遊師の速記には、徳さんの実家は夫婦養子を取る事になりそれに家業を継がせるという事を人づてに聴いたという描写があるので、船頭になる理由がうなずけますね。

『ネタ』
「四万六千日」とは、浅草寺に、この日参拝すると四万六千日分参拝したことと同じ功徳があるというご縁日のことです。本当にあるかは、判りませんw

志ん生師も「お初徳兵衛」で演じています。(船徳とは違いますが)
今ではほとんどの噺家さんが一度は演じているでしょうね。
志ん朝師も若い頃から自信のある噺だったそうで、結構高座に掛けたそうです。
「お初徳兵衛」ではこの後一人前の船頭になり、いい男なので評判になります。

「心眼」という噺

796b3a9c『心眼』
今日は圓朝師作と言われるこの噺です。
写真は噺出て来る茅場町のお薬師様「智泉院」の薬師像 です。

【原話】
三遊亭圓朝師が、弟子で盲人の音曲師だった円丸の、横浜での体験談をもとにまとめあげたといわれます

【ストーリー】
横浜から顔色を変えて”梅喜(ばいき)”が歩いて帰ってきます。聞くと弟に「穀潰しのドメクラ」と何回も言われたという。それが悔しくて翌日自宅の馬道から茅場町の薬師様へ「どうか、目が明きます様に」と、願掛けに通った。女房”お竹”の優しい取りなしもあって、満願の日、願い叶って目が明きます。
その時薬師様のお堂の上で声を掛けられたのですが、馬道の上総屋さんの顔も分からない。
目が明くと道も分からないので、上総屋さんに手を引いてもらって帰ります。
色々な物にビックリして眺めていると綺麗な芸者を見つけます。
お竹と比べるとどっちが綺麗ですかと尋ねると、本人を目の前にしては失礼だが、東京で何番目という化け物の方に近いが、心だては東京はおろか日本中でも指を折るほどの貞女だ。似たもの夫婦の逆で、梅喜はいい男だがお竹さんはマズイ女だ。芸者の小春も役者よりお前の方がいい男だと言ってたぐらいだと、聞かされます。
浅草仲見世を通り、観音様でお詣りしていると、上総屋さんは何時の間にかいなくなって仕舞います。
その時、知り合いの芸者”小春”が梅喜を見つけて、食事にと富士下の”待合い”に誘った。
お竹は上総屋の知らせで観音堂に目が明いた梅喜が居ると知らされ喜んで来てみると、二人連れが待合いに入る所を見ます。中の二人は酒に任せて、化け物女房は放り出すから、いしょになろうと相談していると、お竹が踏み込んで、梅喜の胸ぐらを締め上げた。「勘弁してくれ、苦し〜い。お竹、俺が悪い。うぅ〜」 。
「梅喜さん、どうしたの?」、うなされていたので梅喜を揺り起こした。夢であった。「一生懸命信心してね」、「あ〜ぁ、もう信心はやめた」、「昨日まで思い詰めた信心を、どうしてよす気になったの」
「盲目というものは妙なものだね、寝ている内だけ良〜く見える」。

【演者】
何と言っても黒門町の高座が見事です。音だけでは解りにくいのですが、映像で見ると、その所作や盲人を表現する様は見事と言う他ありません。

【注目点】
圓朝師の原作では少し展開が違うそうです。
亭主の目が開くなら自分の目がつぶれてもいいと、密かに薬師に願掛けしていた女房・お竹の願いが聞き届けられ、梅喜は開眼するものの、お竹の目はつぶれます。
梅喜と小春が富士下(浅草馬道の富士浅間神社の坂下)の
「釣堀」という料亭にしけこんだと聞いて、お竹が女按摩に化けて乗り込み、さんざん恨みごとを並べたあげく、堀に身を投げ……というところで梅喜の目が覚めます。
サゲは「目が覚めたら何も見えない」という、割合平凡なサゲです。

『能書』
池波正太郎さんの記述ですが、戦後間もない頃に人形町「末広」で文楽師が「心眼」と「王子の幇間」を演じたそうです。両方共戦時中は禁演落語でしたから演じる事は出来ませんでした。それが解けて晴れて演じられた文楽師はそれは見事な高座だったそうです。

『ネタ』
「心眼」とは「物事の大事な点を見通す、鋭い心の動きの事を言うのだそうです。

「厄払い」という噺

b9c2969c『厄払い』
節分が過ぎると暦の上では春になります。早く暖かかくなって欲しいですね。

【原話】
この噺は黒門町の十八番で有名ですね。
原話は不詳で、文化年間(1804〜18)から口演されてきました。
東西ともに演じられますが、上方の方はどちらかというとごく軽い扱いで、厄払いのセリフを地口オチで演じる噺ですね。


【ストーリー】
与太郎が二十歳になってもぶらぶらしているので、叔父さんが厄払いの口上を教えます。
自分で稼いだ銭で、おっかさんに小遣いでもやってみろ、泣いて喜ぶからと、早速厄払いに出掛けさましたが、
「えー、厄払い」と口ごもっているところへ、「御厄払いましょう、厄落とし」と本職が出てきました。

本職に邪魔だと怒られて路地に入ったら、面白そうな厄払いだと呼び止められました。
 厄払いの前に銭を催促して、豆をもらっていよい口上を始めたのですが、
「あぁら、目出度いな目出度いな」と始めたのは良いが、後が分からなくなったので、叔父さんが書いてくれた紙を懐から出して読み始めます・・・
「……鶴は十年」「鶴は千年だろう」
「あそうか点が付いてるから千年だ」
「亀は……読めねえ、おや裏の店と同じ字だ、裏の店は何ていうんだい」「よろずやだ」
「鶴は千年、亀はよろず年」

ここまで読むと、与太郎、めんどうくさくなって逃げ出してしまいます。
「おい、表が静かになった。開けてみな」
「へい。あっ、だんな、厄払いが逃げていきます」
「逃げていく? そういや、いま逃亡(=東方)と言ってた」

【演者】
これはもう黒門町にとどめを刺すでしょう。現役では小三治師ですかね。

【注目点】
節分は本来は各季節の始まりでして、立春、立夏、立秋、立冬の前日のことを指します。江戸時代以降では、立春(2月4日)の前日である2月3日を節分とする場合がほとんどで、旧暦では、立春が一年の始まり(元旦)だったとされています。つまり、2月3日の節分は、今で言うところの「大晦日(おおみそか)」にあたるわけです。節分の日には、神社やお寺で「節分絵」「節分祭」や「厄除け祈願祭」などが行なわれますが、これは、旧暦の大晦日にあたる2月3日に一年の厄を祓って新しい一年を迎えましょうという古くからの風習が今に残ったものです。

『能書』
厄払いはもうかなり行われなくなりましたが、その昔は、祝儀等は江戸では十二文、明治では一銭から二銭をおひねりで与え、節分には、それに主人の年の数に一つ加えた煎り豆を、他の節季には餅を添えてやるならわしでした。
今では、「ひとがた」の紙に名前と年を書いて神社に奉納して厄払いをしてもらう処もあります。

『健二のネタ』
古くは節分だけの営業でしたが、文化元(1804)年以後は正月六日と十四日、旧暦十一月の冬至、大晦日と、年に
計五回、夜に廻ってくるようになりました。この噺では、前に述べた通り大晦日の設定ですが今の大晦日ではありません。

年末はこの噺で「富久」

 2106eafe本当に寒くなって来ました。皆様も健康には充分ご注意下さいね。と言う訳で今回からはこの噺を取り上げてみたいと思います。
・『富久』
江戸時代の実話をもとに、円朝師が創作したといわれる噺ですが、速記もなく、詳しいことは分かりません。

・【ストーリー】
 久蔵は腕の良い幇間ですが、酒癖が悪くて贔屓をみんなしくじって、浅草安部川町で一人暮らしをしています。
近くで出会った知り合いの吉兵衛から売れ残った最後の千両富買って、大事な富籤だからと大神宮様のお宮の中に隠します。
 ところが、その夜、芝方面が火事だと聞いて、芝の旦那の元へ火事見舞いに駆けつけ、詫びが叶います。
鎮火の後の振舞い酒に酔って寝ていると日本橋見当が火事だと起こされる。
駆けつけると自宅は丸焼け、旦那の家に戻ってくると、旦那は親切にも店に置いてくれるというので、久蔵は田丸屋の居候になります。
 翌朝、旦那が作ってくれた奉加帳を持って、寄付を募っている途中、湯島天神へ行ってみると久蔵が買った番号が千両の大当たり。
当たったと喜ぶが、火事で籖も焼けたことに気づき落胆します。
 とぼとぼと自宅の焼け跡に戻った久蔵に、鳶頭が、天照皇大神宮様は縁起物だから持ち出して正面に飾ったと告げます。
「あった」
「久さん、この暮れは楽に越せるね」
「大神宮様のおかげで近所の御祓をします」

・【演者】
もうこれは、沢山の噺家さんが演じていますが、有名なのは文楽師と志ん生師でしょうね。
特に文楽師は「落語研究会」に予告しておきながら、「練り直しが不十分」という理由で何度も延期したので、評論家の安藤鶴夫師に「富久ならぬ富休」と揶揄されていたそうです。
文楽師はすぐれた描写力で冬の夜の寒さと人情の温かさを的確に描写し、この噺を押しも押されもせぬ十八番にまで練り上げました。対する志ん生師は久蔵に写実性を求め、失業した幇間久蔵が貧乏と言う生活苦になっても、びくともしないバイタリティ溢れる人物像を拵えています。

【注目点】
この噺でよく話題になるのが、浅草から芝まで久蔵が走っていくのは遠すぎると言う事でした。
酒を飲んで寝ているのですから、無理があるのではと言う意見です。
そこで旦那の店を日本橋横山町に変えたりして演じていました。
また、久蔵の長屋を日本橋の竈河岸として演じる噺家さんもいます。

・『能書』
この噺でキモとなるのが大神宮様のお宮ですが、伊勢神宮を祭る神棚の事です。
浅草の歳の市などで売っていました。
当時、伊勢参宮は出来たとしても庶民にとっては生涯一度でして、
大半の市民にとっては夢でした。ならば、せめて江戸にいながら
参拝ができるようにと、伊勢神宮が代用品に売り出していたものでした。
かなり高価なもので、買うのは芸者や幇間など、水商売に従事している者が殆どでした。。
ですから、久蔵は芸人の見栄で、無理しても豪華なものを買ったのでした。

『ネタ』
五代目志ん生師や五代目柳家小さん師は久蔵の長屋が浅草、商店が芝とする長大な距離を設定し、その道中を久蔵が一瞬で駆け回るナンセンスな演出方法をとっています。それも聴きどころです。
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