はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

桂文枝

悋気の独楽と言う噺

230cda2d今日は先日「時代劇CH」で扇辰さんのこの噺を見たのですが、出来が悪かったですね。以前やっていたのとは違い臭かったです。
見た方もいらっしゃるでしょうがあれはいけませんね。
と言う訳で「悋気の独楽」です。

元はというか、今でも立派な上方落語です。
三代目の小さん師が移植したのですが、何故か当初は東京にはあまり根付きませんでした。
最も最近はかなりの噺家さんが高座に掛けています。
あのこぶ蔵もやってます、よせば良いのに・・・・・

四代目の志ん生師が音曲の素養を生かし、
この噺を「喜撰」と題して改作しています。

後半の独楽回しの部分を切り、小僧が清元の「喜撰」に
熱中するあまりお内儀さんを小突くので、
「おまえ、人を茶に(=馬鹿に)するね」
「へい、今のが喜撰(宇治茶の銘柄と掛けた)です」
というサゲにしました。
八代目の柳枝師の録音が「喜撰小僧」として残っていますし、
最近は柳亭市馬師が高座に掛けています。

あらすじは・・・夜になるといつも外出する旦那。それを「女のところでは」とあやしく思った女房は、小僧に後をつけさせる。するとやはり、旦那は妾のところへ。小僧に気づいた旦那は、小僧を買収し、妾の家に連れて行く。そこでは、3つの独楽でその晩の旦那の身の振り方を占うことにしていた。小僧は、その辻占の独楽をみやげにもらって帰ってくるのだが・・・・

結構好きな演目ですね。貞吉が重要な役回りをするのですが、子供なので抜けている処があるんですね。
まあ、そこが面白いし、かわいい処ですね。続きを読む

「鍬潟」という噺

20110826_2309065今日は「鍬潟」という噺です。

原話は安永6(1777)年に大坂で刊行された笑話本、「新撰噺番組」巻五の「一升入る壺は一升」です
上方落語で、東京にいつ移植されたかは、不詳だそうです。
5代目圓生師が高座に掛けていたそうです。
それを6代目圓生師が継承しました。
私は高座でこの噺を芸協の若手の高座で聴きましたが、「逃げの噺」として演じていたそうです。
志ん生師だと「義眼」というところですね。

身長が二尺二寸(68センチ)という小さな男が隣の長屋の甚兵衛さんに、自分の身長の事を嘆くと、
甚兵衛さんは、「背丈はどうにもならないが、おまえさんが奮起すれば、誰にも負けない働きができる」
と言って、昔の大坂相撲の鍬潟という力士の話をします。
その鍬潟も、三尺二寸(97センチ)しか身長が無かったのです。

ある時、江戸で無敵の大関・雷電為右衛門と鍬潟を対戦させようと云う事になりまして、鍬潟が江戸にやってきます。
鍬潟は策を考えまして、エイの油を体中に塗りたくります。
いざ対戦という時になり、雷電は鍬潟を捕まえようとしますが、滑って中々つかめません。
さんざん追い駆けっこをした挙げ句、滑ってつんのめったところを、鍬潟が足にくいついたので、雷電たまらず土俵下へ、という、前代未聞の一番になります。

「おのれ鍬潟、来年はみてろよ」と雷電は捲土重来を期します。
さて翌年今度は雷電が大阪にやってきて、鍬潟の家を訪ねます。
すると7人もの子沢山です。
「勝負師は子供を作ると弱くなると言って作らんもんだが、あんたはこんなにも沢山の子供を作って、
なを、あの勝負根性」
「見事なもの、是非兄弟の縁を結んでくれ」
そう雷電は鍬潟に頼みます。
鍬潟は「あんさんが兄で・・・」といいますが、
「いや、勝負に勝ったあんたが兄さんだ!」
そう言って兄弟の契を結びました。
8尺の雷電が4尺の鍬潟の弟になったというお噺でした。

これを聴いた男は自分も奮発して相撲取りになります。
そして猛稽古をして修行を積みます。
ある日、稽古疲れで、家に帰ると高イビキ。
起こされると、布団から手足が出ていたから、
稽古のおかげで背が伸びたと喜んだ。
女房、
「足が出るわけさ。そりゃ座布団だもの」

鍬潟は、架空の力士ですが雷電は実在の力士で、江藩主松平家の抱え力士で、怪力無双、優勝相当25回、
生涯成績は254勝10敗2分14預かり5無勝負、勝率9割6分2厘。
文化8(1811)年2月、43歳で引退。
という記録が残っています。

江戸時代には、小人力士や巨人力士、子供力士などを見世物的に巡業の看板にする事がありました。
でも、実際に割りを組んで、相撲は取らせる事は無かったそうです。

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夏の暑〜い時分のお噺

knd_fbk今日は「船弁慶」です。
あまり上方落語を取り上げないのは、ブログ主の私が上方落語を良く知らないからですが、たまにはね……

私が若い頃は露の五郎兵衛師が夏になると、鈴本でトリを取ってまして、必ず聴きに行きました。
実際の高座を見た経験が少ないと言うのは、取り上げるのには気が引けますね。
この演目は鈴本で昔、聴きました。ほとんど忘れてますけどww

ある日、喜六が家でぼんやりと留守番をしていると、友人の清八が「涼みがてら大川で舟遊びをしよう」と誘いに来ます。
いつも人の金でおごってもらっているので「弁慶」と馬鹿にされるとこぼす喜六ですが、今日は参加費の三分を立て替えてやると言われ、折しも帰ってきた女房のお松に喧嘩の仲裁で行くと嘘をついて、いそいそと出かけて行きます。

その道中、女房に頭の上がらない喜六は、清八に喜六はお松の恐ろしさについて色々と話し出します。

《焼き豆腐を買ってくるように言われて家を出たものの,こともあろうに二度も違うものを買ってしまう。お松は猫名撫で声で「ああ、御苦労はん。ちょっとあんさんに話あるよってこっちおいはなれ。」と言うなり喜六を引っ立てると井戸端に引きずって行く。怖がってしまった喜六は「なにするねん。」と叫ぶが、お松は怒り心頭。「何いうてねん。人がちょっと甘い顔したらつけ上がりくさって、ど性骨入れ替えてるんじゃ。」と井戸の水を頭からザボ…。喜六が「カカ冷たいワイ!!」というと、「冷たいンならこないたる。こっち来さらせ。」今度は縁側に引きずっていかれ、大量のお灸をすえられて「熱い!!」「熱いンならこないしたる!」と、また井戸水…。これを何度も繰り返され、熱いと冷たいで焼き豆腐を思い出した》

これを聞いた清八も唖然となってしまいます

大川に到着。喜六は遊山船に乗り込む。周囲の人が『弁慶』と言うのを待ち構えていたが、清八が先回りして口止めしていたため断念、芸子と散々飲み食いして清八と「源平踊りや。」と褌一丁で踊り出します。

一方のお松も、幼馴染に連れられて難波橋に涼みにやって来ます。
友人に言われ、ふと覗いた川面に旦那が遊ぶ船を発見します。
「まあ。いややの。あれうちの人やないか。嘘吐きさらしよったな。きい〜!くやしい〜。」

頭にきたお松は、ものすごい勢いで川原まで駆けていくと停泊していた船に乗り、夫の遊ぶ船に突っ込んでいき、喜六の顔を引っ掻く。喜六もぎょっとするがそこは友達の手前、「何さらすんじゃ。」と酒の勢いもあってお松を川の中へ突き落としてしまう。幸い川は浅く、お松はすぐに立ち上がってきたのだがなんか様子が変なのです。
流れてきた竹ざおをつかむや「そもそもーこれーはー、平知盛ー幽霊なり…」と狂い出す。

周囲が呆然とする中、一人落ち着いていた喜六。やおら手ぬぐいを取り上げると、それで数珠を作って祈りだし。「その時喜六は少しも騒がず、数珠をさらさら押し揉んで。東方大威徳、・・・」と「船弁慶」の知盛と弁慶の俄を始めます。

当然、こんな騒ぎが人目につかない訳が無いので、いつしか橋の上には人だかりが出来て
「もうし、あれ何だすねん。」「知らんのかいな。弁慶やってんのが幇間。川ン中立ってのが仲居でんな。『船弁慶』の俄やってのや。こら褒めたらなあきまへんで。」「ああ、そうでっか。ようよう、川の知盛はんも秀逸なら、船の上の弁慶はんも秀逸。よう!よう!船の上の弁慶はん!弁慶はん!」
等と大騒ぎ。それを聞いた喜六は

「何ィ!弁慶やと。今日は三分の割り前じゃい!」

この演目は五代目松鶴師の十八番だったそうです。
それを文枝師(五代目)が若い頃教わり、10年以上寝かせて高座に掛けたそうです。

演題は能楽の「船弁慶」から取り入れたのでしょうが、詳しく知らなくても楽しい噺で、
夏の舟遊びの雰囲気が楽しめます。続きを読む

「煮売屋」は「二人旅」と同じ噺?

20100524_564550今日は上方落語の「煮売屋」です。東京の「二人旅」ですね。

喜六と 清八の二人連れが「お伊勢参り」に行くと言う東の旅シリーズの一つですね。

旅の道中で腹が減り、煮売屋を見つけて寄るのですが、この煮売屋の婆さんが一筋縄では行かない人物で、二人を煙に撒くと言う筋ですね。

東京では「二人旅」と云う演題になっています。
東京の旅の噺は基本的に「三人旅」ですので、どうして此の噺だけが二人の道連れなのか不思議です。

元々は、四代目柳家小さん師が東京に移したもので、東京で演じられるようになったのは、早くても大正後期以後の事です。東京版では二人の間で都々逸などの言葉遊びを行います。

上方でも此の噺は「七度狐」の一部で、時間の都合でこの辺だけしか演じられない時にこの題が付くようです。

都々逸等の演出は四代目小さん師の演出ですが、三代目三遊亭円馬師が上方の「七度狐」をそのまま
江戸っ子二人組として演じた速記があり、その中で二人が珍俳句をやりとりするくだりがあるので、
その辺りもヒントになっているのかもしれません。


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小さくても・・・ああ勘違い!

20110826_2309065今日は「鍬潟」という噺です。

原話は安永6(1777)年に大坂で刊行された笑話本、「新撰噺番組」巻五の「一升入る壺は一升」です
上方落語で、東京にいつ移植されたかは、不詳だそうです。
5代目圓生師が高座に掛けていたそうです。
それを6代目圓生師が継承しました。
私は高座でこの噺を聴いた事が無いのですが、「逃げの噺」として演じていたそうです。
志ん生師だと「義眼」というところですね。

身長が二尺二寸(68センチ)という小さな男が隣の長屋の甚兵衛さんに、自分の身長の事を嘆くと、
甚兵衛さんは、「背丈はどうにもならないが、おまえさんが奮起すれば、誰にも負けない働きができる」
と言って、昔の大坂相撲の鍬潟という力士の話をします。
その鍬潟も、三尺二寸(97センチ)しか身長が無かったのです。

ある時、江戸で無敵の大関・雷電為右衛門と鍬潟を対戦させようと云う事になりまして、鍬潟が江戸にやってきます。
鍬潟は策を考えまして、エイの油を体中に塗りたくります。
いざ対戦という時になり、雷電は鍬潟を捕まえようとしますが、滑って中々つかめません。
さんざん追い駆けっこをした挙げ句、滑ってつんのめったところを、鍬潟が足にくいついたので、雷電たまらず土俵下へ、という、前代未聞の一番になります。

「おのれ鍬潟、来年はみてろよ」と雷電は捲土重来を期します。
さて翌年今度は雷電が大阪にやってきて、鍬潟の家を訪ねます。
すると7人もの子沢山です。
「勝負師は子供を作ると弱くなると言って作らんもんだが、あんたはこんなにも沢山の子供を作って、
なを、あの勝負根性」
「見事なもの、是非兄弟の縁を結んでくれ」
そう雷電は鍬潟に頼みます。
鍬潟は「あんさんが兄で・・・」といいますが、
「いや、勝負に勝ったあんたが兄さんだ!」
そう言って兄弟の契を結びました。
8尺の雷電が4尺の鍬潟の弟になったというお噺でした。

これを聴いた男は自分も奮発して相撲取りになります。
そして猛稽古をして修行を積みます。
ある日、稽古疲れで、家に帰ると高イビキ。
起こされると、布団から手足が出ていたから、
稽古のおかげで背が伸びたと喜んだ。
女房、
「足が出るわけさ。そりゃ座布団だもの」

鍬潟は、架空の力士ですが雷電は実在の力士で、江藩主松平家の抱え力士で、怪力無双、優勝相当25回、
生涯成績は254勝10敗2分14預かり5無勝負、勝率9割6分2厘。
文化8(1811)年2月、43歳で引退。
という記録が残っています。

江戸時代には、小人力士や巨人力士、子供力士などを見世物的に巡業の看板にする事がありました。
でも、実際に割りを組んで、相撲は取らせる事は無かったそうです。




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