今日は、ちょっと季節的に遅いのですが「江島屋騒動」別名「江島屋怪談」を取り上げます。
本名題を「鏡ヶ池操松影(かがみがいけ・みさをのまつかげ)」といい、全十五席からなります。
制作は明治2年で、円朝師が30歳の時です。
五代目志ん生師と今輔師が並んでこの噺を得意にしました。噂では馬生師もこの噺を演じたそうですが、
中々良かったと言われてます。
今日は、長い噺なのですがあらすじの全てを書いて見ます。
川の佐賀町に住む、倉岡元庵(くらおか・げんあん)と言う医者が亡くなった。残された女房のお松と娘のお里(さと)は医者が出来ないので、故郷の下総の大貫(おおぬき)村に引き下がった。
村の権右衛門が訪ねてきて、「名主の源右衛門からの頼みで、息子の源太郎が見初めてしまったのでお里を嫁にくれ」との依頼であった。娘の幸せになる事だからと思ったが、貧乏なので嫁に出せない。名主の方では母親ともに面倒を見るという。その上、支度金として50両出すという。
婚礼は早いほうがイイという。婚礼衣装は誂えていたら間に合わないので、古着にする事にした。天保2年9月江戸に出て、芝神明の祭りを見て、芝日陰町の古着屋街の大きな店構えの江島屋に入った。婚礼衣装や普段着を45両2分で買い求め、船便で送らせた。
婚礼は10月3日に決まった。権右衛門が仲人だとやって来た。花嫁は馬に揺られて名主宅まで行くのが当時の習慣であった。歩き始めると雨が降りだし、着く頃には濡れ放題に濡れてしまった。
どの家でもその晩、嫁に飯の給仕をさせた。7〜80人もの来客にかいがいしく飯盛りをしていたが、酒が回ってきて、着物を触る奴や裾を踏んづけて眺める奴が出てきた。そこにお替わりの声が掛かったので、「ハイ」と立ち上がると、婚礼衣装はのり付けされたイカモノで下半身が取れてしまった。ワァーッとみんなは笑ったが、お里はそこに泣き崩れてしまった。名主は怒って「破談だぁ、やめたー。」と言う事で、婚礼は破談になり家に帰ってきた。
お里さんが居ないので探しに行くと、十七になるお里は神崎(こうざき)の土手に恨みの着物の片袖をちぎって、柳に掛けて身を投げてしまった。その死骸も上がらなかった。
ここまでが上で、最近はこの部分はあまりやりませんね。
これからが、今日の音源でも紹介する部分です。
江島屋の番頭金兵衛が商用で下総に行き、夜になって道に迷い、そのうえ雪までちらつきだす始末です。
ふと見ると、田んぼの真ん中に灯が見えたので、宿を頼むと「お入りなさい」
と声を掛けたのは六十七、八の、白髪まじりの髪をおどろに振り乱した老婆。
目が見えないらしい。
寒空にボロボロの袷(あわせ)一枚しか着ていないから、あばら骨の一枚一枚まで数えられる。
金兵衛に、老婆はここは藤ケ谷新田だと教え、疲れているだろうから次の間でお休みと言います。
うとうとしているうちに、きな臭い匂いが漂ってきたので、障子の穴からのぞくと、
婆さんが友禅の切れ端を裂いて囲炉裏にくべ、土間に向かって、五寸釘をガチーン、ガチーンとやっています。
あっけに取られている金兵衛に気づき、老婆が語ったところでは、
江島屋のイカモノのため娘が自害し、自分も目が不自由にされた恨みで、
娘の形見の片袖をちぎり、囲炉裏(いろり)にくべて、中に「目」の字を書き、それを突いた上、
受取証に五寸釘を打って、江島屋を呪いつぶすとすさまじい形相でにらむので、
金兵衛はほうほうの体で逃げだした。
江戸へ帰ってみると、おかみさんが卒中で急死、その上小僧が二階から落ちて死に、
いっぺんに二度の弔いを出すという不運続き。
ある夜、金兵衛が主人に呼ばれて蔵に入ると、若い島田に結った娘がスーッと立っている。
ぐっしょりと濡れ、腰から下がない。
「うわーッ」と叫んで、主人に老婆のことをぶちまけますが、
主人は聞き入れません。
番頭が仕方噺でその時の様子を語りますと・・・
「つまり、目を書きまして、こっちにある片袖を裂いて、おのれッ、江島屋ッ」
ガッと目の字を突くと真似をすると、主人が目を押さえてうずくまる。
見ると植え込みの間から、あの婆さんが縁側へヒョイッ。
側にヒョイと上がってくるのを見た金兵衛は「ワァ〜ァッ」と目を回してしまいました。
これがもとで江島屋がつぶれるという・・・・・
イカモノとは、見てくれだけの偽者のことで、語源は「いかにも立派そうに見える」からとも、
武士で、将軍に拝謁できないお目見え以下の安御家人を「以下者」と呼んだことからともいいます。
本当の江島屋は、大正末期ごろまで、末裔が木挽町(現・中央区銀座2〜8丁目)で質屋をしていたとのこと。
場所柄、芝居関係者の「ごひいき」が多く、界隈では知らぬ者のない、結構大きな店だったとか。
事実と芝居は違うのですねえ。
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本名題を「鏡ヶ池操松影(かがみがいけ・みさをのまつかげ)」といい、全十五席からなります。
制作は明治2年で、円朝師が30歳の時です。
五代目志ん生師と今輔師が並んでこの噺を得意にしました。噂では馬生師もこの噺を演じたそうですが、
中々良かったと言われてます。
今日は、長い噺なのですがあらすじの全てを書いて見ます。
川の佐賀町に住む、倉岡元庵(くらおか・げんあん)と言う医者が亡くなった。残された女房のお松と娘のお里(さと)は医者が出来ないので、故郷の下総の大貫(おおぬき)村に引き下がった。
村の権右衛門が訪ねてきて、「名主の源右衛門からの頼みで、息子の源太郎が見初めてしまったのでお里を嫁にくれ」との依頼であった。娘の幸せになる事だからと思ったが、貧乏なので嫁に出せない。名主の方では母親ともに面倒を見るという。その上、支度金として50両出すという。
婚礼は早いほうがイイという。婚礼衣装は誂えていたら間に合わないので、古着にする事にした。天保2年9月江戸に出て、芝神明の祭りを見て、芝日陰町の古着屋街の大きな店構えの江島屋に入った。婚礼衣装や普段着を45両2分で買い求め、船便で送らせた。
婚礼は10月3日に決まった。権右衛門が仲人だとやって来た。花嫁は馬に揺られて名主宅まで行くのが当時の習慣であった。歩き始めると雨が降りだし、着く頃には濡れ放題に濡れてしまった。
どの家でもその晩、嫁に飯の給仕をさせた。7〜80人もの来客にかいがいしく飯盛りをしていたが、酒が回ってきて、着物を触る奴や裾を踏んづけて眺める奴が出てきた。そこにお替わりの声が掛かったので、「ハイ」と立ち上がると、婚礼衣装はのり付けされたイカモノで下半身が取れてしまった。ワァーッとみんなは笑ったが、お里はそこに泣き崩れてしまった。名主は怒って「破談だぁ、やめたー。」と言う事で、婚礼は破談になり家に帰ってきた。
お里さんが居ないので探しに行くと、十七になるお里は神崎(こうざき)の土手に恨みの着物の片袖をちぎって、柳に掛けて身を投げてしまった。その死骸も上がらなかった。
ここまでが上で、最近はこの部分はあまりやりませんね。
これからが、今日の音源でも紹介する部分です。
江島屋の番頭金兵衛が商用で下総に行き、夜になって道に迷い、そのうえ雪までちらつきだす始末です。
ふと見ると、田んぼの真ん中に灯が見えたので、宿を頼むと「お入りなさい」
と声を掛けたのは六十七、八の、白髪まじりの髪をおどろに振り乱した老婆。
目が見えないらしい。
寒空にボロボロの袷(あわせ)一枚しか着ていないから、あばら骨の一枚一枚まで数えられる。
金兵衛に、老婆はここは藤ケ谷新田だと教え、疲れているだろうから次の間でお休みと言います。
うとうとしているうちに、きな臭い匂いが漂ってきたので、障子の穴からのぞくと、
婆さんが友禅の切れ端を裂いて囲炉裏にくべ、土間に向かって、五寸釘をガチーン、ガチーンとやっています。
あっけに取られている金兵衛に気づき、老婆が語ったところでは、
江島屋のイカモノのため娘が自害し、自分も目が不自由にされた恨みで、
娘の形見の片袖をちぎり、囲炉裏(いろり)にくべて、中に「目」の字を書き、それを突いた上、
受取証に五寸釘を打って、江島屋を呪いつぶすとすさまじい形相でにらむので、
金兵衛はほうほうの体で逃げだした。
江戸へ帰ってみると、おかみさんが卒中で急死、その上小僧が二階から落ちて死に、
いっぺんに二度の弔いを出すという不運続き。
ある夜、金兵衛が主人に呼ばれて蔵に入ると、若い島田に結った娘がスーッと立っている。
ぐっしょりと濡れ、腰から下がない。
「うわーッ」と叫んで、主人に老婆のことをぶちまけますが、
主人は聞き入れません。
番頭が仕方噺でその時の様子を語りますと・・・
「つまり、目を書きまして、こっちにある片袖を裂いて、おのれッ、江島屋ッ」
ガッと目の字を突くと真似をすると、主人が目を押さえてうずくまる。
見ると植え込みの間から、あの婆さんが縁側へヒョイッ。
側にヒョイと上がってくるのを見た金兵衛は「ワァ〜ァッ」と目を回してしまいました。
これがもとで江島屋がつぶれるという・・・・・
イカモノとは、見てくれだけの偽者のことで、語源は「いかにも立派そうに見える」からとも、
武士で、将軍に拝謁できないお目見え以下の安御家人を「以下者」と呼んだことからともいいます。
本当の江島屋は、大正末期ごろまで、末裔が木挽町(現・中央区銀座2〜8丁目)で質屋をしていたとのこと。
場所柄、芝居関係者の「ごひいき」が多く、界隈では知らぬ者のない、結構大きな店だったとか。
事実と芝居は違うのですねえ。
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