はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

春風亭柳朝

もうすぐ四万六千日ですね。「船徳」

33cda358ご無沙汰をしておりました。怪我の具合も大分良くなりまして、そろそろこのブログも更新して行きたいと思います。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。またよろしくお願い致します。

 え〜六月もそろそろ終わりですね。来月に入りますと「四万六千日」があります。そこで再開第一は名作とも言える「船徳」です。

『船徳 』
 八代目文楽師で余りにも有名な夏の噺ですね。もう演じる噺全てが十八番と言っていた師ですが、特にこの噺は有名です。晩年は医師に止められていたそうですが、それでも演じて楽屋で苦しそうにしていた話は有名です。

【原話】
元は、「お初徳兵衛浮名の桟橋」という、近松の「曽根崎心中」の登場人物の名を借りた長編の人情噺だったのですが、明治期に初代(鼻の)圓遊師が発端を改作して、滑稽噺としました。

【ストーリー】
女遊びに夢中になり親族会議で勘当され、女の元にしけこんだ若旦那の徳さん。
金が無くなり、追い出されてフラフラ歩いている所を船宿の親方が引き取りました。
しばらく居候を決め込んでいたですが、船頭にしてくれと親方に頼みます。
もちろん親方は断るのですが、それなら他所でと脅かす始末で、結局修行を始めます。

教える方も教わる方もいい加減で、、根っからの優男なので、腕が上がりません。
四万六千日で、他の船頭が出払った日、馴染み客が来て、無理やり頼まれ船を出しましたが、もやいを解かずに動かそうとしたり、一騒動です。
何とか出た途端に竿を流して慌てて櫓に切り替えると、同じ所をぐるぐる回り、
川辺の石垣にくつっけてしまいました。

お客の傘で押してもらったら蝙蝠傘が石垣に刺さって取れなくなります。
戻れと言う客に「戻れない!、諦めなさい、傘と命とどっちが大事か」と説得する始末。
 
やっとこさっとこ桟橋の近くまで来た所で、客を降ろしましたが、陸に上がった客が、大丈夫かと声をかけると
「すいません、誰か船頭を呼んでください」

【演者】
もう八代目文楽師を筆頭に色々な噺家さんが演じています。古今亭志ん朝師も文楽師に負けない高座を聴かせてくれます。皆さんも好きな噺家さんで聴いてみて下さい。
個人的におすすめなのが、五代目春風亭柳朝師ですね。なんせ登場人物全てが江戸っ子と言う感じが好きです。

【注目点】
やはり船を漕ぎ出したあたりの船の上の徳さんと、川岸に居る人(竹屋のおじさん)との会話の描写だと思います。距離が離れているので演じ方が難しいです。
若い頃の小三治師はここだけの話ですが、やたら大声を張り上げていて、今なら考えられ無い演出をしていました。勿論、その後はそんな事はありません。

『能書』
船宿大升は柳橋で、神田川と隅田川が合流する当たりです。
目的地の大桟橋は、、榎本滋民氏によると待乳山聖天の側にある今戸橋の手前にあったそうです。ですから本職の船頭なら分けない距離ですが、初の船頭の徳さんには荷が重かったみたいですね。
鼻の圓遊師の速記には、徳さんの実家は夫婦養子を取る事になりそれに家業を継がせるという事を人づてに聴いたという描写があるので、船頭になる理由がうなずけますね。

『ネタ』
「四万六千日」とは、浅草寺に、この日参拝すると四万六千日分参拝したことと同じ功徳があるというご縁日のことです。本当にあるかは、判りません(笑

志ん生師も「お初徳兵衛」で演じています。(船徳とは違いますが)
今ではほとんどの噺家さんが一度は演じているでしょうね。
志ん朝師も若い頃から自信のある噺だったそうで、結構高座に掛けたそうです。
「お初徳兵衛」ではこの後一人前の船頭になり、いい男なので評判になります。(その後の甘いロマンスもあります)

落語四天王 1 春風亭柳朝

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え〜共編文庫の「落語コラム」とかぶりますが、四天王を一人ずつ紹介して行きたいと思います。
まずは春風亭朝柳師です。

1.【五代目春風亭柳朝】1929年10月29日 - 1991年2月7日

「出囃子」
 『さつまさ』
「芸風」
 もう、噺の中の人物がそのまま飛び出したような噺家さんでした。粋で鯔背で、ちょっと強面のお兄さんと言った感じでした。少し早口な感じが如何にも江戸っ子を思わせてくれました。
ポンポンと威勢よく繰り出される江戸っ子を彷彿とさせる口調で一見ぶっきらぼうの様な感じもしますが、テンポの良い噺ぶりに引きこまれて仕舞います。

「芸歴」
1950年3月、5代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)に入門、翌年再入門
1953年5月、二つ目に昇進し、照蔵に改名。
1962年5月、真打に昇進し、5代目春風亭柳朝を襲名

「エピソード」
立川談志師が師匠の他に唯一頭が上がらなかった人物だったそうです。理由は、談志師が前座の頃に嫌と言うほどからかわれたからだそうです。尤も柳朝師は単なる洒落のつもりだったとか。
談志師は晩年の感じを見ると意外と思うかも知れませんが、本来生真面目で、噺家特有の洒落が嫌いでした。その点は談志師の項で詳しく書きたいと思っています。
映画「のようなもの」(旧版)では若手噺家達に気前良く小遣いをあげるシーンがあります。これもいい感じです。

「得意演目」
個人的にですが、「宿屋の仇討」は抜群でした。登場してくる武士に存在感があり、「この怖さなら熊さんが大人しくなるのは仕方が無い」と思わせてくれました。
また「付き馬」も良かったです。
他には「三方一両損」「大工調べ」「船徳」など江戸っ子が活躍する噺ですね。また「駆け込み寺」という珍しい噺も持っていました。


言わずと知れた小朝師や一朝師の師匠です。他の一門は雑用から入らせるのですが、柳朝師は「落語家になるために入門したのだからやらなくて良い。その分稽古しろ」と言ってやらせなかったそうです。
この考えは一朝師の所では続いているそうです、春風亭一之輔師によると「ゆるい一門」だそうです。

また、「二朝会」と言う落語会をやっていました。もう一人の「朝」は古今亭志ん朝師です。もう凄い会で今では伝説となっています。
弟子の右朝師と正朝師が受け継いていましたが、惜しくも右朝師が早世してしまいました。

 次は圓楽師です

今でも親方の名に残る佐野山という名前

d3d3a271今日は大相撲で把瑠都関が引退と言う事なので、「佐野山」です。

横綱・谷風は実在した力士ですが、佐野山に関しては?居なかったという説もあるそうですが、
佐野山は確かに実在の力士で、この噺のモデルは江戸時代の文化頃に活躍した人物だと思います。

江戸時代の大横綱で谷風梶之助は名人を通り越して人格者でした。その
谷風が生涯一回だけ八百長相撲をヤッタという噺ですが・・・創作ですw

江戸の相撲取り、佐野山は幕内にまで入った力士でしたが、、母親が病気になり、看病に時間を費やすうち、相撲の成績がジリ貧に。
とうとう幕下の一番下まで下がってしまいました。
「ああ、これでおれの相撲もおしまいか」そんな佐野山の嘆きを耳にした横綱・谷風は佐野山との取り組みを希望します。
当時全盛の横綱・谷風と連敗続きの佐野山の取り組みに相撲贔屓は驚きます。
「あんなに実力差があったんでは勝負になるまい」という声や、
「明日の取り組みは遺恨相撲で、女をとられた谷風が佐野山を投げ殺すらしい」などという噂が飛び交います。
魚河岸や大旦那連中は100両、200両、花柳界のお姉さんまで佐野山に祝儀約束をします。
それもそのはず、勝てる見込みは無いから、みんな言いたい放題、無責任に言っている始末。 
さて、いよいよ千秋楽結びの一番。
谷風には思惑があったのでした・・・・・

当時の相撲興行は晴天十日でしたから、十日で終わる事は少なかった様です。
雨が続くと10日が2倍にも3倍にも興行日が延びてしまうのですね。
もちろん会場は両国の回向院で開催されました。
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落語、騙しのテクニック吉原編

oomon今日は「付き馬」です
吉原で「今は持ち合わせがないが、お茶屋のツケを集金すれば金ができるので、明日払いで良けりゃ遊んでってやるよ」ということでどんちゃん騒を始めます。
 翌朝、郭の中のお茶屋だから一緒に集金に行こうと、若い衆を連れ出し、ちょっと大門の外の空気を吸ってみようと、更に外に引っ張り出す。この後、風呂に入り飯を食って若い衆に払わせ、浅草の雷門まで来てしまいました。

 ここから中まで戻るのは面倒だから、近くの早桶屋の叔父さんに金をこしらえて貰おうと言い出します。
付き馬の牛太郎を外に待たせたまま、早桶の注文をして、外に聞こえるように「早くこしらえておくれ」と云います。
若い衆を呼んで「出来たら叔父さんから受け取ってくれ」と言い残して男は、帰ってしまいました。
「出来たけど、どうやって運ぶ」と聞かれて、早桶を注文したことを知らさせるが後の祭り。
棺桶代を請求されて金が無いというと、「おい奴(やっこ)、中まで馬に行け」

原話は元禄5年(1692年)に出版された笑話本・「噺かのこ」の第四巻、「薬屋にて人参を騙りし事」です。
又の題を「早桶屋」とも云い、圓生師はこの名で演じていました。

もともとは、薬屋で朝鮮人参をだまし取るという内容だったものですが、廓噺に変わりました。

私が最初に聴いた時(圓生師でしたが)疑問に思ったのは、早桶屋の事でした。
時代は「花やしき」等があり、どう見ても明治から大正です。
「図抜け一番小判型」等と言う座棺がそのころでも使っていたのかどうか?でした。
てっきり江戸時代迄だと思っていたのですが、違いました。
よく調べると、寝棺は火葬、座棺は土葬用と書いてありますが、一概にそうでも無いようです。
ある調べでは昭和21年の京都市では火葬の74%が座棺を使用していたそうです。
最も25年には半分に下がりますが・・・
つまり、戦後もある時期迄は座棺が結構使用されていたと言う事です。
小三治師は若い頃銭湯で、この早桶の職人だったお爺さんと仲良くなり、
色々と教わったそうです。
「そのうち、こうゆうのも話しておかないと忘れさられてしまうからな」
そう言ってたそうで、正にその通りですね。

付き馬の由来は、昔は吉原の馬子さんが其の物の家まで取りに行って」たのですが、
そのうちに、集金した金を持ち逃げする馬子が多くなったので、馬子じゃなくて、店の若い者に集金させる様になりました。そこから「付き馬」という様になりました。
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錦の袈裟と言う噺

nisikinokea今日は何とか時間がとれたので、更新します。
今日の演目は「錦の袈裟」です。

原話は、安永6年(1777年)に出版された笑話本・『順会話献立』の一遍である「晴れの恥」と言う話で、
元々は『袈裟茶屋』という上方落語です。

町内のある男がとなり町の連中が吉原で、緋縮緬の長襦袢で揃いの格好を見せて遊び、
あげくに「となり町の連中には出来まい」と言った事を聞きつけてきます。

当然面白く無い訳で、何とかその上を行って、となり町の連中の鼻を明かしてヤりたい処ですねえ。
色々な案が浮かびましたがイマイチです。
誰かが、「伊勢屋の番頭が、何枚か質流れの錦の布があり『なにかの時は使っていい』と言われていた事を思い出します。
「吉原へ乗り込んでそれを褌にして裸で総踊りをしよう」
「それで行こう!」と相談はまとまりましたが、一枚足りません。
頭を数えると丁度、与太郎の分です。
仕方なく、与太郎には自分で工面させることにします。

この辺が落語の良い所ですね。決して最初から仲間はずれにしません。
与太郎は女房に相談します。
この辺が今だと笑いを生み、又理解し難い処ですが、当時は玄人相手は完全な遊びで、いわゆる「浮気」の範疇に入りませんでした。
与太郎にとっては、大事な町内の付き合いなのです。

女房も何とか送り出したいと考えて、檀那寺の住職にお願いしておいで。『褌にする』とは言えないから『親類の娘に狐が憑いて困っております。和尚さんの錦の袈裟をかけると狐が落ちる、と聞いておりますので、お貸し願います』と言って借りてきなさい」
と言いつけます。
持つべきものは良い女房ですねえ・・・え?ちがう・・・そうかな?

知恵を授けられた与太郎、寺へやってきてなんとか口上をして、一番いいのを借りることができましたが、
和尚さんから「明日、法事があって、掛ける袈裟じゃによって、朝早く返してもらいたい」と念を押される。
そこで与太郎、「しくじったら破門になっても良いですから」等と言って借りてきます。

改めて見てみると輪っかが付いていたり少し可笑しいですが、そこは何とかします。
いよいよ、みんなで吉原に繰り込んで、錦の褌一本の総踊りとなる。女たちに与太郎だけがえらい評判です。
「あの方はボーッとしているようだが、一座の殿様だよ。高貴の方の証拠は輪と房だよ。
小用を足すのに輪に引っ掛けて、そして、房で滴を払うのよ」
「他の人は家来ね。じゃ、殿様だけ大事にしましょうね」

てんで、与太郎が一人だけ大モテです。
翌朝、与太郎がなかなか起きてこないので連中が起こしに行くと、まだ女と寝ている。
与太郎「みんなが呼びにきたから帰るよ」
女「いいえ、主は今朝は返しません」
与太郎「袈裟は返さない…? ああ、お寺をしくじる」


この噺は、志ん朝師を始め、小三治や故文朝師、柳朝師等そうそうたる噺家さんが演じています。
袈裟と言うのはお坊さんが着ている法衣の事で位で色や材質が変わるそうです。

いつ頃東京に来たのかはわかりませんが、初代小せん師が現在の型を作り上げたそうです。
上方の「袈裟茶屋」は主人公が幇間でかなり展開が違います。
東京みたいに町内の集団と言う事はありません、幇間三人の噺となっています。
袈裟を芸妓(げいこ=芸者)に取られそうになって、幇間が便所に逃げ出すという噺となっています。



※落語とは関係ありませんが、明日20日NHKラジオで「午後のマリアージュ」と言う番組の「リュウドウが行く」と言うコーナーで菖蒲園と我が静観亭が放送されます。生放送なのですがウチの人気料理を試食してもらいます。どうなるかは私も判りません。多分16時30分前後の放送です。続きを読む
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