はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

タグ:懐かしい噺家さん

hqdefault今日は柳好師のことです。好きな噺家さんの一人ですね。

【三代目春風亭柳好】1887年4月24日 – 1956年3月14日
今日は少し古いですが(私も生の高座は見たことがありません。なんせ生まれる前なので)当時大人気を博したと言われている噺家さんです。

・「出囃子」  『梅は咲いたか』

・「芸風」
「唄い調子」と言われる口調が特徴で、唄を歌うように噺をするのです。
四代目志ん生(鶴本の志ん生)師を真似たものだそうですが、見事な芸で、お客はおろか
黒門町をはじめ、談志師等を魅了しました。あの圓生師でさえ納得させたと言われています。
立川談志師は、柳好師について、あの『現代落語論』で触れています。
『ガマの油』で人気のあった春風亭柳好が、「梅は咲いたか」、の出ばやしで、高座へ上がると、パッと高座に花が咲いたように明るくなったもので、専売特許といってよい『野ざらし』、そして『棒だら』、ああいった噺はもう聞けないと思うし、聞いた者だけが自慢できる楽しみがあった。
柳好の芸の特徴は、噺の全篇を謳いあげるような雰囲気になり、先代の鶴本の志ん生もそうだったというが、噺全体がトーンのよく効いた音楽のような感じで、抑揚のよさ、緩急自在な呼吸、いうならばおとなの楽しむ一級の娯楽品、映画でいうと、さしずめ007といったところかもしれない。

・「芸歴」
1912年2代目談洲楼燕枝に入門し燕吉
1913年、1914年ころに春風亭錦枝
1917年に6代目春風亭柳枝の門下で柳好で真打ちに昇進

・「エピソード」
発売CDの奥付より
昭和31(1956)年3月14日に、専属だったラジオ東京(現在のTBS)のスタジオで『穴泥』を収録し、その後に向かった鈴本で脳溢血で倒れ、その夜に亡くなっている。翌日の追悼番組の中で放送されたが、このCDにはその際の正岡容のメッセージも併せて収録されており貴重な音源といえるだろう。明治20(1887)年生まれ、享年70歳。落語芸術協会の所属だった。
突然の死だったそうです。

・「得意演目」
「野ざらし」、「がまの油」、「鰻の幇間」、「電車風景」、「二十四孝」、「たちきり

vol_pict06今日は可楽師匠のことです。

【八代目三笑亭可楽】1898年〈明治31年〉1月3日 – 1964年〈昭和39年〉8月23日
今回は、いぶし銀のような芸風が光った八代目可楽師です。ちなみに三笑亭可楽というのは噺家の名前で一番古い名前で「山椒は小粒でピリリと辛い」の洒落です。
・「出囃子」『勧進帳』

・「芸風」
一見苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながらぼやくように噺を勧めます。この話しっぷりが本当に可笑しく、ボヤけばボヤくほど笑いの渦が巻き起こります。
最初は、極めて地味で動作が少なく、一般大衆受けする華やかなものではなかったのですが少数ながら熱烈な愛好者がおり「可楽が死んだらもう落語は聞かない」とまで語る者もいた。それがジャズマンの人々です。可楽師の話すリズムがまるでジャズのようだった。と言われています。熱狂的とも言えるファンでした。フッランク永井さんは特に有名です。

・「芸歴」
1915年に初代三遊亭圓右に入門して「右喜松」
1922年に翁家馬之助で真打昇進
1940年4月に6代目春風亭小柳枝となり、
1946年5月に8代目可楽を襲名
次々と師匠を変えていたので長いこと売れませんでした。

.「エピソード」
独特の渋い低音と妙に舌足らずの語り口。「べらんめえ」口調ながら、不思議と礼儀正しく、客との距離感は絶妙戦後芸が開花しました。
そもそも噺家になろうと思ったのも、上野黒門町の経師屋の家に生まれ、家業を継ぐべく修行していたのですが、父親の家作に出入りしていた五代目古今亭志ん生の呑気な生活ぶりに憧れを抱き、噺家になったというのが真相だそうです。
曰く「噺家は夕方から仕事すれば良いので楽そうだ」と思ったとか。

・「得意演目」
『らくだ』『今戸焼』が絶品。『二番煎じ』『反魂香』『うどんや』『岸柳島』『鰻の幇間』
『芝浜』『子別れ』も演じました。

27728359今日から数回に渡って「懐かしい噺家さん」を特集致します。
名人と呼ばれた訳ではないが、多くのお客さんに愛された噺家さんを取り上げて行きたいと思います。まずはこの師匠
・【六代目 春風亭柳橋】明治32年(1899年)10月15日 – 昭和54年(1979年)5月16日

・「出囃子」大阪せり

・「芸風」
眉毛の長い大店の隠居のような風貌が印象的でした。若いころから売れに売れたのですが、晩年は若手に出番を譲って軽いネタしかやりませんでしたが、それでも楽しませて貰いました。
吉田茂首相など多くの政治家に愛されたそうです。その為、晩年は「柳橋先生」と呼ばれていましたが、私は噺家さんがそのように呼ばれるのが良いとは思えません。
まあ、一般のお客にはそんな素振りは見せませんでしたが……。

・「芸歴」
明治43年(1910年)、9歳で子供落語家として初舞台 春風亭柳童
1917年 真打昇進  春風亭柏枝
1921年 4代目春風亭小柳枝襲名
大正15年(1926年)2月、柳橋を襲名。師の初代華柳の意見を入れて亭号は春風亭のままにする 本来、柳橋は麗麗亭が亭号。
日本芸術協会(今の落語芸術協会)を創設し、44年間、会長を務めた。この間、名実共に落語界の頂点であり続け、絶対権力者として君臨した。また、弟子をよく育て、弟子たちもまた落語界を代表する噺家へと育った。

・「エピソード」
子供の頃TVでよく見ましたね。実演は2〜3回位かな?覚えているのは・・・
もう軽い噺しかやりませんでしたね。
残された音源を聴いてみると、中々どうして楽しい師匠です。
7代目の柳橋師もそうでしたが、柳橋節とも言う口調は独特で、何時の間にか
噺の世界へ誘われて仕舞います。
若い頃売れに売れて、あまりの凄まじさに六代目圓生師が、「あのまま行ったら、私は本気で柳橋さんの弟子になろうとしました」と言ったのは有名な話で、真意は兎も角、それほど凄い売れ方だったそうです。

「湯屋番」で若旦那が番台から落ちる処で、本当に高座から落ちる演出をして、拍手喝采だったとか。
晩年の姿だけを見て、全く歯牙にも掛けない落語ファンや評論家がいるのは悲しい事です。
よく言われている得意な噺「大山詣り」や「花見酒」、「蒟蒻問答」等の他に、余り書かれていませんが、柳好師で有名な「野ざらし」等も絶品でした。

柳橋の名前は本来は”麗々亭”と言う亭号ですが、何故か六代目からは春風亭に替えました。
だから、人によっては、柳橋としては六代目だが、春風亭柳橋としては初代だと言う研究家も居ます。

先日紹介した「青菜」ですが、私は盛夏の噺だと思っていましたが、初夏の噺でした。
先日落語DEデートで柳橋先生の「青菜」では、冒頭でちゃんと「目に青葉、山不如帰、初鰹」と言っています。それに鰯も旬はこの季節なんですね。
晩年の事は色々言われていますが、私にとっては楽しい噺を聴かせてくれる師匠でした。

・「得意演目」
『時そば』『碁どろ』『長屋の花見』『天災』『猫久』『野ざらし』『青菜』『おせつ徳三郎』『星野屋』『二番煎じ』『一目上がり』『お見立て』『粗忽の釘』『試し酒』『大山詣り』『子別れ』『目黒のさんま』など。

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