『文七元結』
暮なので、今日は冬の噺でも大物のこの噺です。
【原話】
圓朝師の創作で有名ですが、八代目正蔵師の説によると、それ以前に同種の噺があり、圓朝師が自分の創作部分を加えて、人情話に作りなおしたそうです。真意はわかりませんが、きっと全く違った噺になっているのでしょう。
また、明治の政治家井上馨らが江戸っ子の気質とは、と問われてこの噺を作ったと言う説もあります。
【ストーリー】
左官の長兵衛は、腕は立つのだが、無類のばくち好きが高じて、仕事もせずに借金を抱えています。
年の瀬も押し迫るある日、前夜の負けがこんで、身ぐるみ剥がれて半纏一枚で賭場から帰されると、
女房のお兼が泣いている。
聞くと、娘のお久がいなくなったという。どうしたのかと、夫婦喧嘩をしているところに、普段より世話になっている吉原の女郎屋の大店、角海老から使いのものが来ます。
取り込み中だから後にしてくれというと、他でもない、その娘のお久のこと、角海老の女将の所に身を寄せているというではありませんか。
女房の着物を一枚羽織って角海老へ行ってみると、お久は、身売りをして金を工面し、父に改心してもらいたいので、お角のところへ頼み込んだのだというではありませんか。
女将は、自身の身の回りをさせるだけで店には出さないから、次の大晦日までに金を貸してやるが、大晦日を一日でも過ぎたら、女郎として店に出すという約束で、長兵衛に五十両の金を渡します。
情けない思いをし、しかし改心しきった長兵衛が、帰り道に吾妻橋にさしかかると、身投げをしようとしている男がいます。
訳を聞くと、白銀町の鼈甲問屋「近江屋」の奉公人(文七)で、お遣いに頼まれ、取りにいった売り上げをすられたので、死んでお詫びをしようというところだったと言います。
死んでお詫びを、いや、死なせねぇと押し問答が続いた後、長兵衛は、自分の娘のお久が身を売って五十両を工面してくれたことをはなし、その金でお前の命が助かるのなら、娘は死ぬわけではないのでと、無理矢理五十両を押し付けて、逃げるように帰ってゆくのでした。
文七がおそるおそる主人卯兵衛の元に帰り、長兵衛からもらった金を差し出すと、それはおかしい、お前が遣いにいった先で碁に熱中するあまり、売り上げをそっくりそのまま忘れてきてしまったものを、先方は既に届けてくれて金はここにある、一体どこから、また別の五十両が現れたのかと、主人が問いただすと、文七はことの顛末を、慌てて白状します。
翌日、卯兵衛は何やら段取りを済ませ、文七をお供に長兵衛の長屋へと赴きます。
実は文七が粗相をやらかし…と、事の次第を説明し、五十両を長兵衛に返そうとするが、長兵衛は、江戸っ子が一度出したものを受け取れるか!と受け取りません。
もめた挙句に長兵衛ようやく受け取り、またこれがご縁ですので文七を養子に、近江屋とも親戚付き合いをと、祝いの盃を交わし、肴をと、表から呼び入れたのが、近江屋が身請けをしたお久が現れます。
家族三人で嬉し涙にくれます。
後に、文七とお久が夫婦になり、近江屋から暖簾を分けてもらい、元結いの店を開いたという、文七元結由来の一席。
【演者】
もう、歴代の大師匠が演じていますので、圓生師、正蔵師、志ん生師、皆いいです。個人的にですが小三治師も良かったですね。志ん朝師は個人的にですが、吾妻橋で50両を渡すシーンが少し長いと思っていましたが、「そこが良いんだ」と言う意見を伺いました。色々とありますね。
志ん朝師は個人的にですがこの噺よりも「唐茄子屋政談」の方が相対的に出来が良いと思っています。
【注目点】
元結とは男性のチョンマゲや女性の日本髪の元を束ねて紐で結わえて固定します。この、糊で固く捻ったこよりで製した紙紐が元結です。当時、非常に弱く扱いにくかった為、文七はそこで修行を積みながら元結改良に日夜苦心を重ね、遂に光沢のある丈夫な元結造りに成功、販路を江戸に求めると、たちまち髪結床から注文が殺到、これを契機に江戸に卸問屋を開業して後、「文七元結」の名で国中の評判になりました。
『能書』
この文七元結を拵えた、桜井文七と言う人は実在の人物で、1683年美濃国生まれで、元結の多い長野県飯田で修行したあと江戸で活躍したそうです。名前が。江戸で有名で代々襲名されていたため圓朝師がモデルにしたそうです。
やはりこの噺は暮れに粋に聴きたいですね。
暮なので、今日は冬の噺でも大物のこの噺です。
【原話】
圓朝師の創作で有名ですが、八代目正蔵師の説によると、それ以前に同種の噺があり、圓朝師が自分の創作部分を加えて、人情話に作りなおしたそうです。真意はわかりませんが、きっと全く違った噺になっているのでしょう。
また、明治の政治家井上馨らが江戸っ子の気質とは、と問われてこの噺を作ったと言う説もあります。
【ストーリー】
左官の長兵衛は、腕は立つのだが、無類のばくち好きが高じて、仕事もせずに借金を抱えています。
年の瀬も押し迫るある日、前夜の負けがこんで、身ぐるみ剥がれて半纏一枚で賭場から帰されると、
女房のお兼が泣いている。
聞くと、娘のお久がいなくなったという。どうしたのかと、夫婦喧嘩をしているところに、普段より世話になっている吉原の女郎屋の大店、角海老から使いのものが来ます。
取り込み中だから後にしてくれというと、他でもない、その娘のお久のこと、角海老の女将の所に身を寄せているというではありませんか。
女房の着物を一枚羽織って角海老へ行ってみると、お久は、身売りをして金を工面し、父に改心してもらいたいので、お角のところへ頼み込んだのだというではありませんか。
女将は、自身の身の回りをさせるだけで店には出さないから、次の大晦日までに金を貸してやるが、大晦日を一日でも過ぎたら、女郎として店に出すという約束で、長兵衛に五十両の金を渡します。
情けない思いをし、しかし改心しきった長兵衛が、帰り道に吾妻橋にさしかかると、身投げをしようとしている男がいます。
訳を聞くと、白銀町の鼈甲問屋「近江屋」の奉公人(文七)で、お遣いに頼まれ、取りにいった売り上げをすられたので、死んでお詫びをしようというところだったと言います。
死んでお詫びを、いや、死なせねぇと押し問答が続いた後、長兵衛は、自分の娘のお久が身を売って五十両を工面してくれたことをはなし、その金でお前の命が助かるのなら、娘は死ぬわけではないのでと、無理矢理五十両を押し付けて、逃げるように帰ってゆくのでした。
文七がおそるおそる主人卯兵衛の元に帰り、長兵衛からもらった金を差し出すと、それはおかしい、お前が遣いにいった先で碁に熱中するあまり、売り上げをそっくりそのまま忘れてきてしまったものを、先方は既に届けてくれて金はここにある、一体どこから、また別の五十両が現れたのかと、主人が問いただすと、文七はことの顛末を、慌てて白状します。
翌日、卯兵衛は何やら段取りを済ませ、文七をお供に長兵衛の長屋へと赴きます。
実は文七が粗相をやらかし…と、事の次第を説明し、五十両を長兵衛に返そうとするが、長兵衛は、江戸っ子が一度出したものを受け取れるか!と受け取りません。
もめた挙句に長兵衛ようやく受け取り、またこれがご縁ですので文七を養子に、近江屋とも親戚付き合いをと、祝いの盃を交わし、肴をと、表から呼び入れたのが、近江屋が身請けをしたお久が現れます。
家族三人で嬉し涙にくれます。
後に、文七とお久が夫婦になり、近江屋から暖簾を分けてもらい、元結いの店を開いたという、文七元結由来の一席。
【演者】
もう、歴代の大師匠が演じていますので、圓生師、正蔵師、志ん生師、皆いいです。個人的にですが小三治師も良かったですね。志ん朝師は個人的にですが、吾妻橋で50両を渡すシーンが少し長いと思っていましたが、「そこが良いんだ」と言う意見を伺いました。色々とありますね。
志ん朝師は個人的にですがこの噺よりも「唐茄子屋政談」の方が相対的に出来が良いと思っています。
【注目点】
元結とは男性のチョンマゲや女性の日本髪の元を束ねて紐で結わえて固定します。この、糊で固く捻ったこよりで製した紙紐が元結です。当時、非常に弱く扱いにくかった為、文七はそこで修行を積みながら元結改良に日夜苦心を重ね、遂に光沢のある丈夫な元結造りに成功、販路を江戸に求めると、たちまち髪結床から注文が殺到、これを契機に江戸に卸問屋を開業して後、「文七元結」の名で国中の評判になりました。
『能書』
この文七元結を拵えた、桜井文七と言う人は実在の人物で、1683年美濃国生まれで、元結の多い長野県飯田で修行したあと江戸で活躍したそうです。名前が。江戸で有名で代々襲名されていたため圓朝師がモデルにしたそうです。
やはりこの噺は暮れに粋に聴きたいですね。