らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

圓遊

「後生鰻」という噺

20220718110806『後生鰻』
今日はこの噺です。季節的にもちょうど良いと思います。

【原話】
元々は『淀川』という上方落語の演目で、明治期に東京へ移植されたそうで、別題は『放生会』とも言います。

【ストーリー】
る大家の主人は超極端な信心家で、夏場に蚊が刺していても、つぶさずに必死にかゆいのを我慢している。ある日、浅草の観音様さまの帰りがけ、鰻屋の前を通ると、親方が鰻をまな板の上へ乗せて包丁を入れようとしているところに遭遇した。
「何をする気だ!?」
「二階のお客様のご注文で、蒲焼に…」
「残酷じゃないか!!」
隠居、早速、義憤を感じて、鰻の助命交渉を開始する。すったもんだの末、鰻を二円で買い取って、前の川にボチャーン。「あー、いい功徳(くどく)をした」

スーッと帰ってしまう。翌日、また同じ鰻屋で、同じように二円…ボチャーン!「あー、いい功徳をした」
そんなことが続くこと四・五日。
隠居さえ現れれば、仕事もしないで確実に日銭が転がり込むんだから、鰻屋はほとんど何もしないで左うちわになっていた。
仲間もうらやんで、「どうでえ、あの隠居付きでおめえの家ィ買おうじゃねえか」。
ところが…ある日を境に、この隠居がぱたりと来なくなった。
吹っかけすぎたのが災いして、ほかの鰻屋へ流れていってしまったのだろうか。女房と心配していると、久しぶりに向こうから『福の神』がやって来る。
「ウーン…。あれは具合が悪いんだな。ああいうのは、いつくたばっちまうかしれねえ。今のうちに、ふんだくれるだけふんだくっとこう」
一儲けしようとするが、ちょうど鰻が切れて商売を休んでいるところで、商売は開店休業状態。
「あの金魚…昨日死んだ? ネズミ…そんなに簡単には捕まえられないか。えーと…」
生きているものならいいだろうと、自分の赤ん坊を割き台の上に乗っけた。驚いたのは隠居。
「おいおい、それをいったい如何する気だ?」
「へえ、蒲焼きにするんで」
「馬鹿野郎。なんてことをしやがる。これ、いくらだ」
隠居、生き物の命にゃ換えられないと、赤ん坊を百円で買い取り、
「今度はこの様な非常な親のところに生まれてくるんじゃ無いよ」
そう言って、前の川にボチャーン!
「あー、いい功徳をした」

【演者】
三代目金馬師を始め、志ん生師を始め、三代目小圓朝師や四代目圓遊師が演じていました。個人的にですが、中学生の時に圓遊師で聴いたのは今でも忘れられません。

【注目点】
最近の若手ではオチを変えたり、筋を足したりしていますが、
なんか変……と言うより噺を壊してる感じですね。
歌丸師は赤ん坊じゃなく、女将さんにしています。「いい功徳……」の下りを鰻屋に言わせています。これだとブラック的な要素が逆になり、趣旨と違ってきますね。
残酷なようだけど、私は最後は赤ん坊の方が良いと思いますね。
その方が単なる笑い話ではなく教訓としても優れていると思います。

最近ではもはや元のオチは殆ど聴かれなくなりました。最近の時世を読んでるのかも知れませんが元の良さが完全に無くなっていますね。現役の噺家さんはこれで良しと考えているのでしょうか?
 尤も故歌丸師でさえ変えていましたから私がこんな事を言うのは無駄なのかも知れません。

『能書』
落語にモラルを求める野暮な噺家さんは、この結末を変えようとしますが、
料簡違いもはなはだしく、このブラックなオチにこそ、エセヒューマニズムを超越した、人間の愚かしさへの率直な認識があると思うのです。
歌丸師の改作がぎりぎりでしょうね。
「一眼国」と並ぶ、毒と諷刺の効いたショートショートのような名編の一つでしょう。(元は)

『ネタ』
虚空菩薩とは正式には虚空蔵菩薩と言い、真の知恵を虚空のように無尽蔵に持ち、これを信仰すれば知恵と福徳を授かると言われています。
鰻は虚空菩薩の使いとも变化しか姿とも言われており、虚空菩薩を信心する方は鰻を食べません。有名なところでは、故志ん朝師が信心するにあたり、それまで好きだった鰻を断ちました。

「堀の内」という噺

c3d2d8c1『堀の内 』
いよいよ緊急事態宣言だそうです。寄席も休みで芸協の真打披露興行は秋に順延だそうですし、今やってる落語協会の真打披露興行は中断です、凄いことになって来ました。
私が楽しみにしていた地元の亀有で行われる予定だった、小三治、三三親子会も順延の末に日が変わりましたが中止になりました。

【原話】
古くからある噺で、元は宝暦2年(1752)刊の笑話本「軽口福徳利」や寛政10(1798)年刊「無事志有意」等にも見られます。
上方では「いらちの愛宕詣り」と言いまして「いらち」とは「あわてもの」の意味です。

【ストーリー】
病気の様な粗忽者がなんとか直そうと、堀の内のお祖師様に歩いてお参りに行くということになりました。カミさんに弁当を作って貰い、お賽銭も用意して出掛けます。
 しばらく歩いて、お祖師様は何処かと聞くと、ここは両国だ、神田から来たならまるで反対だと教えられ、
やっとのことでお祖師様に着いて賽銭を投げ入れたが、財布ごと投げて一文無しに。弁当を食べようと広げてみるとカミさんの腰巻きで包んだ枕と言う有様。
 家に辿り着いて文句を言うと、なんと隣の家。
伜の金坊を連れて湯に行けと言われ、おぶってやろう、やけに重いな、あたしだよ。
 子供をおぶって歩いていると、おとっつぁん湯屋を通り過ぎたよ。湯に浸かって尻を掻いても感じないと思ったら、隣の男が誰だい人の尻をいじっているのは、という始末。
 伜の背中を流してやろう、やけに広い背中だな。おとっつぁん、風呂場の腰板だよ。
まあ、その慌てモノぶりが半端ではありません。
「粗忽の釘」の亭主といい勝負かも知れません。もしかしたら本人か?
ちなみに、江戸っ子は「おそっさま」と言います。

【演者】
個人的には四代目圓遊師、そして志ん朝師ですね。
あと、お参りするお寺が浅草の浅草寺という設定で演じた先代文治師も良かったですね。特に伸治の頃が最高でした。また八代目圓蔵師もよくやっていました。良かったですが先の三名の次という感じでしたね。圓蔵師のファンの方申し訳ありません。

【注目点】
上方は噺の筋そのものが違っていて、前半は東京と少し違っていて、いらちの喜六が京の愛宕山へ参詣に行くのに、正反対の北野天満宮に着いてしまったりのドタバタの後、賽銭は三文だけあげるようにと女房に言い含められたのに、間違えて三文残して
あと全部やってしまう、というように細かくなっています。
最後は女房に「不調法いたしました」と謝るところで終わらせます。
湯に行く途中に間違えて八百屋に入り、着物を脱いでしまうくすぐりや朝起きて、笊で水を汲んだり、猫で顔を拭いたり、電柱に挨拶したり、ストーリーにあまり関係ないを入れることもあります。

伸縮自在なので、時間がないときにはサゲまでいかず、途中で切ることもよくあります。
ですから今でも寄席でよく掛かる演目の一つです。

『ネタ』
このお祖師様こと妙法寺ですが、正式には「厄よけ祖師 堀之内 妙法寺」というそうです。
山号寺号は、日円山妙法寺となります。
何でも由来は、1261年(弘長元年)、日蓮聖人が伊豆に流された時のこと。
お供を許されなかった弟子の日朗上人が、師を慕って像を彫りました。
2年後に戻った日蓮聖人が、その像に魂を入れたのですが、その時、聖人が42歳の厄年だったので、
像は「厄よけ祖師(日蓮大菩薩(ぼさつ))」といわれるようになった、と伝えられています。
今は、妙法寺の祖師堂の厨子(ずし)にまつられており、境内に入るだけで厄よけになるという、有り難さです。
住所は、東京都 杉並区堀ノ内3の48の8ですね。環七に面しています。

「お見立て」という噺

20200214115609『お見立て』
前の演題が不評なので記事を更新します。
そこでお彼岸も近いのでこの噺です。

【原話】
文化5年(1808年)に出版された笑話本・「噺の百千鳥」の一遍である『手くだの裏』です。


【ストーリー】
田舎者の杢兵衛(もくべえ)大尽が登楼し、花魁の喜瀬川を呼ぼうとする。
じつは大尽、喜瀬川から「逢いたい」という手紙を貰い、やってきたのですが、喜瀬川は店の若い者に「あんな田舎者はいやだよ」などと言って逢おうとしない。
じつは、必要な金の工面をしようと、杢兵衛大尽に手紙を出したのだが、もう金の算段がついたので逢う必要は無いという。
間に入った若い者の喜助は、喜瀬川に入れ知恵されるがままに「花魁はいま体の具合が悪くてお目にかかれません」と断りを言うが、大尽は「それじゃあ見舞いにいくべえ。
部屋はどこだ」と言い出す始末。
仕方が無く「入院をしているのです」と言えば「どこの病院だ。そこへ行こう」と食い下がる。嘘はだんだんエスカレートし、ついに喜瀬川は大尽に逢えない悲しさのため、死んでしまったということに!
どこまで行っても素直な大尽は涙を流し「墓参りに行くべえ」と発案。喜助も引き下がれなくなり、大尽を山谷の適当な寺へ案内するのですが、中に入ると、墓がずらりと並んでいる。
いいかげんに一つ選んで「へえ、この墓です」。
杢兵衛お大尽、涙ながらに線香をあげ、ノロケを言いながら『南無阿弥陀仏、ナムアミダブツ』…。
「ゲホ…ゲホ…!! 線香のたきすぎだぁ!」
火事場みたいな煙を扇子で払い、ひょいと戒名を見ると…。
全く違うので慌てて別の墓に案内するが、これも違う何と子供の墓。
次々と案内するものの、違う墓ばかり、当たり前なのですが。
「いったいどれが喜瀬川の墓だ」
「へい、宜しいのをお見立て願います」

【演者】
昭和の噺家だと柳橋先生や圓遊師などが印象に残っています。もちろん志ん生師、志ん朝師親子も演じました。
今でも多くの噺家が演じています。

【注目点】
明治の初めまでは、、店の格子の前で花魁が顔見せをする『張り見世』というシステムがあったそうで、遊びに来た客は、格子越しにその様子を眺めながら、「よろしいのをお見立てを願います」という若い衆の言葉を聴いて、その晩の女性を選んだという。
そこから来たオチです。

『ネタ』
その昔(明治の初め)は「田舎漢」とかいて「いなかもの」とルビを振っていたそうで、その頃の噺だそうです。
圓遊師は舞台をキャバレーに変えて演じた事もあるそうです。

「後生鰻」という噺

97fc935d『後生鰻』
今日はこの噺です。季節的には早いですげど、うかうかしてると鰻が食べられなりそうですので(笑

【原話】
元々は『淀川』という上方落語の演目で、明治期に東京へ移植されたそうで、別題は『放生会』とも言います。

【ストーリー】
る大家の主人は超極端な信心家で、夏場に蚊が刺していても、つぶさずに必死にかゆいのを我慢している。ある日、浅草の観音様さまの帰りがけ、鰻屋の前を通ると、親方が鰻をまな板の上へ乗せて包丁を入れようとしているところに遭遇した。
「何をする気だ!?」
「二階のお客様のご注文で、蒲焼に…」
「残酷じゃないか!!」
隠居、早速、義憤を感じて、鰻の助命交渉を開始する。すったもんだの末、鰻を二円で買い取って、前の川にボチャーン。「あー、いい功徳(くどく)をした」

スーッと帰ってしまう。翌日、また同じ鰻屋で、同じように二円…ボチャーン!「あー、いい功徳をした」
そんなことが続くこと四・五日。
隠居さえ現れれば、仕事もしないで確実に日銭が転がり込むんだから、鰻屋はほとんど何もしないで左うちわになっていた。
仲間もうらやんで、「どうでえ、あの隠居付きでおめえの家ィ買おうじゃねえか」。
ところが…ある日を境に、この隠居がぱたりと来なくなった。
吹っかけすぎたのが災いして、ほかの鰻屋へ流れていってしまったのだろうか。女房と心配していると、久しぶりに向こうから『福の神』がやって来る。
「ウーン…。あれは具合が悪いんだな。ああいうのは、いつくたばっちまうかしれねえ。今のうちに、ふんだくれるだけふんだくっとこう」
一儲けしようとするが、ちょうど鰻が切れて商売を休んでいるところで、商売は開店休業状態。
「あの金魚…昨日死んだ? ネズミ…そんなに簡単には捕まえられないか。えーと…」
生きているものならいいだろうと、自分の赤ん坊を割き台の上に乗っけた。驚いたのは隠居。
「おいおい、それをいったい如何する気だ?」
「へえ、蒲焼きにするんで」
「馬鹿野郎。なんてことをしやがる。これ、いくらだ」
隠居、生き物の命にゃ換えられないと、赤ん坊を百円で買い取り、
「今度はこの様な非常な親のところに生まれてくるんじゃ無いよ」
そう言って、前の川にボチャーン!
「あー、いい功徳をした」

【演者】
三代目金馬師を始め、三代目小圓朝師や四代目圓遊師が演じていました。個人的にですが、中学生の時に圓遊師で聴いたのは今でも忘れられません。

【注目点】
最近の若手ではオチを変えたり、筋を足したりしていますが、
なんか変……と言うより噺を壊してる感じですね。
歌丸師は赤ん坊じゃなく、女将さんにしています。「いい功徳……」の下りを鰻屋に言わせています。これだとブラック的な要素が逆になり、趣旨と違ってきますね。
残酷なようだけど、私は最後は赤ん坊の方が良いと思いますね。
その方が単なる笑い話ではなく教訓としても優れていると思います。

『能書』
落語にモラルを求める野暮な噺家さんは、この結末を変えようとしますが、
料簡違いもはなはだしく、このブラックなオチにこそ、エセヒューマニズムを超越した、人間の愚かしさへの率直な認識があると思うのです。
歌丸師の改作がぎりぎりでしょうね。
「一眼国」と並ぶ、毒と諷刺の効いたショートショートのような
名編の一つでしょう。

『ネタ』
虚空菩薩とは正式には虚空蔵菩薩と言い、真の知恵を虚空のように無尽蔵に持ち、これを信仰すれば知恵と福徳を授かると言われています。

圓遊師と圓楽師

9e2be9b0.jpg今日は、音源を整理してたら圓遊師匠の「堀の内」が出てきたので、これを上げました。
上がってると思ったら、無くて(最近こういうボケが多い)おかしいなぁ〜
と思いつつ上げました。
志ん朝師匠のも抱腹絶倒ものですが、圓遊師匠のも楽しいです。

今日の生放送は四天王の特集だそうです。楽しみですねえ。
夜は仕事なので、聞ける処まで聞くつもりです。四時半頃までならなんとかなるかな?

2ch等の掲示板で圓楽師の評価が色々言われているようです。
その多くは「特別ヘタとは思わないが、四天王の他の噺家と並べるのは如何か?」と言う意見が多い様でした。
晩年の高座しか見ていない方はそう思うんでしょうかね?
私が思うに、師匠は他の三人のよい所をバランス良く持った方ではないかと思うのです。
志ん朝の江戸弁、柳朝の歯切れの良さ、談志の考察力、そのひとつひとつは抜きん出ていなくても、その全てが内包されていると思います。
私も以前は、何か物足りないなと思った事がありましたが、良い頃の音源等を何回も聞いて思いなおしました。
晩年口調が怪しかったのは、入歯が合わなかったせいです。
志ん朝師も晩年は入歯で悩んでいました。永六輔氏に良い歯医者の紹介を頼んでいた程です。
圓楽師は高座で、喋っている内に入歯が落ちてしまった事もありました。
そんな事で随分悩んでいたそうです。
小朝師に悩みを告げられた事もあったそうです。
その為二年程は高座に上がりませんでした。(90年頃から95年頃迄は本格的な活動は控えていた)
まあ、批評するのは簡単ですからね。私も含めてですが・・・・
これから聞く方は良い頃の音源を聞いて下さい。

追伸・・・・明日四日は、桂吉朝師の命日ですね。
 
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