らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

圓生

「真景累ヶ淵」という噺

b6b4525d『真景累ヶ淵』
前回は「牡丹燈籠」をやったので今回は「真景累ヶ淵」を軽くやってみたいと思います。

『原話』
圓朝師によって1869年、師が21歳の時に創作された怪談噺で、江戸時代に流布した「累ヶ淵」の説話を下敷きにした作品です。当時の演題は『累ヶ淵後日の怪談』でした。

『演者』
 歴代の名人上手が演じています。圓生師、正蔵師、最近では歌丸師と演者は枚挙にいとまがありません。
また「豊志賀の死」はかなりの噺家が演じています。 
現在では、「宗悦殺し」「深見新五郎」「豊志賀の死」「お久殺し」 「迷いの駕籠」「お累の死」「聖天山」が語られています。
また歌丸師は「聖天山」の後の「お熊の懺悔」まで演じています。

『ストーリー』
旗本深見新左衛門が金貸しの鍼医皆川宗悦を切り殺したことを発端に両者の子孫が次々と不幸に陥っていく話と、名主の妻への横恋慕を発端とする敵討ちの話を組み合わせていますが、後の話の方はほとんど現在では語られていません。
先程も書きましたが、1859年の作で当初の演目は「累ヶ淵後日の怪談」でした。1887年から1888年にかけて、小相英太郎による速記録が『やまと新聞』に掲載され、さらに1888年に単行本が出版されました。

【注目点】
明治期の評論家の小島政二郎氏は「所々筋に無理があるのは仕方ないとして、登場人物の男女の仲の描写なども無茶苦茶なところがあるのだが、このどうにもならない無茶苦茶な感じを圓喬師は見事に描いて見せている」と評しています。
このあたりがきちんと描写されていないと因果応報の噺にならない訳なんですね。

『能書』
有名な「豊志賀の死」は
根津七軒町に住む富本の師匠豊志賀は,出入りの煙草屋新吉と年が離れているがいい仲になります。
実は豊志賀は宗悦の長女で、弟子の若いお久との仲を邪推したせいか,豊志賀の顔に腫物ができ、
これがどんどん腫れて来ます。
看病に疲れた新吉が,戸外でお久と出くわします。そして2人で鮨屋の2階に上がると,急にお久の顔が豊志賀のように見えます。
びっくりしてお久を置き去りにして勘蔵の家に戻ると、重病の豊志賀が来ているとの事。
駕籠に乗せて戻そうとすると,七軒町の隣人がやって来て,豊志賀が死んだという報せが来ます。
駕籠にいるはずだと一笑に付して中をのぞくと無人で、戻ると豊志賀は自害しており、今後新吉の妻を7人まで取り殺すという遺書を見つけるのです……。
これから新吉の身に色々なことが続けて起ります。

『ネタ』
有名な話ですが、題名に「真景」とつけたのは当時。圓朝師の隣家に住み懇意にしていた漢学者の信夫恕軒が発案者と言われています。もちろん「神経」を意識してつけたそうです。

「人形買い」という噺

608984bc『人形買い』
雛人形には遅いし五月人形には少し早いですが今のうちにやっておきます。

『原話』
元は上方落語で、1834年に初代林屋正蔵師の「落噺年中行事」の「五月かぶと人形」が既に体裁を整えています。他では、三代目三遊亭円馬師が明治末年に東京に移植しましたという説がありますが、このコラムの常連で素晴らしい方でもあります立花家蛇足さんによると、既に明治42年に柳亭燕枝(後の二代談洲楼燕枝)の明治42年の速記が遺っているそうです。圓馬師以前に東京で演じられていたみたいですね。
 ちなみに円馬師の元の型は、人形屋の主人が親切から負けてくれる演出でした。それを、三代目三木助師と圓生が直伝で継承し、それぞれ得意にしていました。

『演者』
やはり三代目三木助師や六代目圓生師でしょうね。圓生一門の弟子孫弟子が演じていますし、三木助師ゆかりの弟子だった噺家さん(入船亭)の一門が高座に掛けています。また権太楼師等、季節になると演者が現れます。

『ストーリー』
長屋の神道者の赤ん坊が初節句で、ちまきが配られたので、長屋中で祝いに人形を贈ることになりました。
 月番の甚兵衛が代表で長屋二十軒から二十五銭ずつ、計五円を集め、人形を選んでくることになったのですが、、買い方がわかりません。
 女房に相談すると、
「来月の月番の松つぁんは人間がこすからいから、うまくおだててやってもらいな」
 それを本人にそっくり言って仕舞います。行きがかり上、しかたなく同行することになったが、転んでもただで起きない松つぁん、人形を値切り、冷や奴で一杯やる金をひねり出す腹づもりだといいます。
 人形屋に着くと、店番の若旦那をうまく丸め込み、これは縁つなぎだから、この先なんとでも埋め合わせをつけると、十円の人形を四円に負けさせることに成功します。候補は豊臣秀吉のと神宮皇后の二体で、どちらに決めるかは長屋に戻り、うるさ方の易者と講釈師の判断を仰がなければなりません。
 そこで、青っぱなを垂らした小僧に二体を担がせて店を出るのですが、ところがこの小僧が云うのには、
「この人形は実は一昨年の売れ残りで、処分に困り、旦那が云うのには、
『店に出しておけばどこかの馬鹿が引っかかって買っていく』」
 と吹っ掛けて値段をつけた代物で、あと二円は値切れたとバラして仕舞います。
 帰って易者に伺いを立てると、早速、卦を立てああだこうだと言います。
「神宮皇后になさい」
 というご託宣を受けて帰ろうとすると、
「見料五十銭置いていきなさい」
 と言われて、これで酒二合が一合に目減って仕舞います。
 講釈師のところへ行くと、とうとうと「太閤記」をまくしたてる。
「それで先生、結局どっちがいいんで」
「豊臣家は二代で滅んだから、縁起がよろしくない。神宮皇后がよろしかろう」
 それだけ聞けば十分と、退散しようとすると
「木戸銭二人前四十銭置いていきなさい」
 これで冷や奴だけになったと嘆いていると
「座布団二枚で十銭」
 これで余得は無くなって仕舞いました。
 神道者に人形を届けにいくと、
「そも神宮皇后さまと申したてまつるは、人皇十四代仲哀天皇の御后にて……」
 と講釈を並べ立てるから松つぁん慌てて
「待った待った、講釈料は長屋へのお返しからさっ引いてください」

【注目点】
圓生師は、長屋から集金せず、辰んべという男が博打で取った金を、前借するという段取りです。

『能書』
古い落語ファンのかたに以前聴いた処、「時期になると三木助が気持ちよさそうにやってたよ」
 という事でした。

『ネタ』
「神道者」とは日本固有の民族信仰の「神道」を心棒していて、それを民間の職業的行者のことです。加持祈祷を生業にしていました。

「中村仲蔵」という噺

2d43192f『中村仲蔵』
今日は12月14日なのでこの噺にしました!

【原話】
この噺は、江戸末期〜明治初期の名脇役だった三世仲蔵(1809〜85)の自伝的随筆「手前味噌」の中に初代の苦労を描いた、ほとんど同内容の逸話があるので、それをもとにした講談が作られ、さらに落語に仕立てたものと思われます。

【ストーリー】
芝居修行を続けて名題に昇格した中村仲蔵が、どんな大役がもらえるかと期待していると、
与えられた役は、つまらない場面なので客が食事をする弁当幕と呼ばれると、忠臣蔵五段目の端役、定九郎だった。
気落ちして上方修行に出るという仲蔵に女房が、あんたにしか出来ない定九郎を演じろって言う期待じゃないのかいと励まします。
ある日、妙見様にお詣りに行った帰りに、雨に振られ蕎麦屋に駆け込む。
そこに後から来た侍の姿に衝撃を受け、役作りの参考にします。
それから、衣装と見栄に工夫を重ね、斬新な定九郎を作り上げて演じます。
見事な演技に、観客は掛け声も忘れて、ただうなるだけだった。客席が静かなので、ウケなかったと勘違いし、また上方修行へと旅立とうとします。
途中で「昨日の定九郎を見たかい、素晴らしかった」との話を小耳に挟み、これを女房に伝えるために家に戻る。
 そこで親方に呼ばれ、昨日の芝居は良かったと褒められ、褒美に煙草入れをもらって家に戻り、女房に礼を言います。
失敗したの、うまくいったのって、私しゃ煙に巻かれちまうよ。
 「おお!もらったのが煙草入れ」

【演者】
 圓生師を始め、八代目正蔵師や歴代の名人上手が手にかけています。
 それぞれに良さがあります。

【注目点】
このサゲは八代目正蔵師のサゲです。その他にも噺家さんによって色々とあります。
 この中村仲蔵が、名作仮名手本忠臣蔵の五段目で斧定九郎を工夫して現在の型にしたという実録談で、
それまではつまらない役でした。

『能書』
 ”稲荷町”から”名題”になった稀代なる名優で屋号を栄屋、俳名を秀鶴。江戸時代に、中村仲蔵ほどの出世をしたものはなく、他に幕末になって市川小団次しかないという名優であった。寛政二年(1790)4月23日死去。享年55歳。墓は谷中霊園に有ります。
仲蔵の生涯については、松井 今朝子さんの「仲蔵狂乱」に詳しく書かれています。
かなり面白い本ですので、興味のある方は一読をオススメします。

『ネタ』
元々の話は、座頭と立作者が当時は役を決めたようで、立作者の金井三笑は芸の上での喧嘩から仲蔵に五段目の斧定九郎一役だけといういじわるしたのがそもそもの話の始まりと言う事です。
 圓生師の「圓生百席」では詳しく語っていますが、その為時間が長くなってしまってます。CDと言う自由に聴ける媒体ならではですね。生の高座だと時間の関係で無理でしょうね。

「蛇足」
この噺の舞台となった年は1766年(明和3年)9月の市村座だそうです。

「三軒長屋」という噺

building_nagaya『三軒長屋』
今日は「三軒長屋」を取り上げてみたいと思います。
恐らくちゃんと取り上げるのは初めてだと思います。
別名を「楠運平」とも言います。

【原話】
1807年の喜久亭壽暁のネタ帳に「楠うん平」とあります。恐らくこれが元だと思います。
 1826年の「あごのかきがね」の「是は尤も」に当時の様子が詳しく書かれています。
 橘家圓喬師や四代目小さん師によって今に伝わっています。

【ストーリー】
ある三軒続きの長屋。住んでいるのは、向かって右端が鳶頭(とびがしら)の政五郎、
左端が「一刀流」の看板を掲げて剣術道場を開いている楠運平橘正国(くすのき うんぺいたちばなのまさくに)という浪人。
 この二人に挟まれて住んでいるのが、高利貸しの伊勢屋勘右衛門のお妾さん。
 ある日お妾、勘右衛門に
「両隣がうるさくって血のぼせがするから引っ越したい」
 とせがむ。
「鳶頭の家では日ごろから荒っぽい若い者が出入りして、酒を飲んでは大騒ぎ、時期となると朝から木遣りの稽古を始めてやかましい。剣術の先生宅は、大勢の門弟が明け暮れ稽古、これまたうるさいことこの上ない」
 それを聞いて、
「たかが喧騒に負けて引っ越すのも馬鹿らしい」
 と勘右衛門、もうすぐ抵当流れになるので、そうなったら両隣の借り主を追い出して長屋を一軒の妾宅にするつもりだから、と妾に話す。そう言って妾をなだめているところを聞いたこの家の女中で早速、井戸端で話してしまったおかげで計画は筒抜け。怒ったのが鳶頭のかみさんで、
「家主ならともかく、伊勢屋の妾ごときに店立てされるなんて! あたしは嫌だよ!」
 と亭主を焚きつける。
 鳶頭、少し考えていたが、翌朝になると羽織をしょって楠運平先生の道場へ赴き「かくかくしかじか」とご注進。
「何と!? あの薬缶頭が店立てを迫っておる、と?」
「門弟一同率いて勘右衛門と一戦に及ばん」
と息巻く楠先生をなだめた鳶頭、何やらヒソヒソと耳打ち。
 翌日、伊勢屋に現れた楠先生
「拙者、道場が手狭になった故、転居をいたすことに相成り申した。しかれど懐が厳しいため、費用捻出を目的に千本試合を催すことに致しました」
 他流・多門の剣客が集まり、金を出して試合をする。それを集めて転居費用とするという。
「本来は竹刀での勝負でござるが、意趣遺恨のある場合は真剣勝負もござるゆえ、首の二つや三つ、腕の五本や六本はお宅に転げ込むかもしれませぬ……その時はどうぞご容赦を」
 話を聞いた勘右衛門、震え上がって
「引っ越しの金をお出ししますから、試合はどうかご勘弁を」
 と平身低頭。
 五十両を受け取った楠先生が引き上げると、入れ違えに伊勢屋に現れたのは鳶頭。
「引っ越すことになったんですがね、金がねぇんで花会を開こうかと思うんですよ」
 宴会には酒が付き物。ただでさえ気性の荒い若い者どもが、酒を飲んだらどういうことになるか。気をつけはしますがね、何しろ、肴に鮪の刺身を出すんで、おあつらえ向きに包丁があるじゃありませんか。斬り合いになって首の二十や三十……」
 勘右衛門は、脅かしてもだめだよ、引っ越し料が欲しいのなら正直にそう言えと、また五十両。帰ろうとする鳶頭に、勘右衛門
「そう言えば、剣術の先生も同じような事を言っていたんだよ。お前さん方、いったいどこへ越すんだい?」と尋ねると、
「へえ、あっしが先生のところへ越して、先生があっしのところへ」

【演者】
最近では志ん生師や圓生師、それから志ん朝師などが有名ですね。

【注目点】
この噺が出来た当時は既に身分制度が崩壊し始めていて、既に裕福な商人の身分意識があったと判りますね。面白いですね。
また権力に対抗する団結みたいな感じもありそのあたりは少し現代的でもあります。

『能書』
人物の出入りが多いため、よほどの実力者でないと演じ切る事が出来ない大作とされています。
個人的には鳶の頭の女将さんを演じるのが難しいと思っています。

『ネタ』
二階のついた上等な長屋は横丁や新道、小路などにあり、裏長屋などとは違う扱いになっていたそうです。

「三年目」という噺

93d8e555『三年目』
今日は今日は夫婦の情愛を美しく描いたこれです(笑

『原話』
1803年の「遊子珍問学」の「孝子経曰人之畏不可不畏」が原作と言われています。

『演者』
この演目は名人と謳われた四代目圓喬師が得意にしていたそうです。だから志ん生師や圓生師等が演じました。志ん生師は亡くなった前妻を可愛く演じてました。圓生師は可憐な感じでしたね。弟子の圓楽師もよく演じていました。

『ストーリー』
病にふせった女房が、自分が亡き後夫の再婚相手の事を思うと死に切れないというので、旦那は「生涯独身でいる、もし再婚することになったら婚礼の晩に化けて出てくればいい」と約束をする。それを聞いた女房は安心したのか、すぐに亡くなってしまう。
女房に死なれた旦那は、最初は後の生涯を独身で通そうとしたものの、周りの薦めを断りきれずついに結婚することに。婚礼の晩、待てども待てども古女房の亡霊は出てこない。そのうち1月経ち、1年経ち、、三年経ったところで、死んだ女房のお墓参りに行った日に、ついに古女房の亡霊が出てくる。
何故、既に子供も生まれている今になってやっと出て来るんだと旦那が女房の亡霊を問い詰めると、納棺のときに髪に剃刀を当てられた女房はそんな姿で旦那の前に出るのが嫌で、髪が伸びるまで待っていた。

【注目点】
『日本の怪談』(安田孝明著)にこれとは逆の様な話があり、
事故で行方不明死となって正規に埋葬されなかった若い女の幽霊が、髪が残ったままでは成仏できないと言って僧侶に剃髪を求める話があります。
昔は成仏してお釈迦さまの弟子になるので頭の毛を剃ったそうです。
今は死者に化粧等をして綺麗にして送りますね。

『能書』
上方ですとちょっと様子が違って来ます。
演題も「茶漬幽霊」となります。
 サゲが違っていて、旦那が昼食の茶漬けを食べているところに先妻の幽霊が現われ、なぜ夜に出て来ない、と問われて、「夜は怖いから」という下げになっています。こちらの方が落語的な要素は強いですね。

『ネタ』
昔は納棺のときに仏様の髪の毛を剃っていたみたいですね。これがわからないとオチもよくわかりません

「なめる」という噺

b2632bf3-s『なめる』
 今日は敢えてこの噺を取り上げました。季節的には夏では無い気がしますが……。
正直、あの圓生師が演じていて、十八番にも入っている噺なので今日まで残っていますが、後味は余り良くありません。。

『原話』
1691年の「露がはなし」の「疱瘡の養生」から

『演者』
四代目圓生、四代目圓蔵、四代目柳枝、初代三語楼や五代目小勝など錚々たる師匠が演じています。勿論、六代目圓生師も演じていました。落語研究会などでも演じています。、

『ストーリー』
 江戸時代、猿若町に中村座、市村座、河原崎座といういわゆる三座とよばれた芝居小屋が有りました頃のお噺で、、久しぶりに見物しようとやって来たある男。三座とも大入りで、どこも入れません。
 ようやく立見で入れてもらいましたが、何処かで座りたいので、若い衆に相談すると、前の升席に十八、九のきれいなお嬢さんが、二十五、六の年増女を連れて見物してるので、大変な音羽屋びいきなので、あそこで掛け声を掛けると良いかも知れないと教えられて、云われた通りに声を掛けていると、年増女が男に
「あなたは音羽屋びいきのようですが、うちのお嬢さまもそうなので、良かったら自分たちの升で音羽屋をほめてやってほしい」
 と、声をかけられました。願ってもないことと、ずうずうしく入り込み、弁当やお茶までごちそうになって喜んでいると、年増女が
「あなた、おいくつ」と、聞く。
 二十二と答えると、ちょうど良い年回りだ、と思わせぶりなことを言います。聞けば、お嬢さんは体の具合が悪く、目と鼻の先の先の業平の寮で養生中だという。
そこで自然に「お送りいたしましょう」「そう願えれば」
と話がまとまり、芝居がハネた後、期待に胸をふくらませてついていくと、
大店の娘らしく、大きな別宅だが、女中が五人しか付いていないとのことで、ガランと静か。お嬢さんと差し向かいで、酒になります。改めて見ると、その病み疲れた細面は青白く透き通り、ぞっとするような美しさ。
 そのうちお嬢さんがもじもじしながら、お願いがある、と言います。
ここだと思って、お嬢さんのためなら命はいらないと力むと、
「恥ずかしながら、私のお乳の下にあるおできをなめてほしい。
かなえてくだされば苦楽をともにいたします」という、妙な望み。
「苦楽ってえと夫婦に。よろしい。いくつでもなめます。お出しなさい」
 お嬢さんの着物の前をはだけると、紫色に腫れ上がり、膿が出てそれはものすごいものがひとつ。
「これはおできじゃなくて大できだ」
とためらったが、お嬢さんが無理に押しつけたから、否応なくもろになめてしまいました。
 その「見返り」と迫った途端、表でドンドンと戸をたたく音がします。
聞くと、本所表町の酒乱の伯父さんで、すぐ刃物を振り回して暴れるから、急いでお帰りになった方がいいと言うので、しかたなく、その夜は引き上げる事にします。
 翌日友達を連れて、うきうきして寮へ行ってみると、ぴったり閉まって人の気もありません。
隣の煙草屋の親父に尋ねると、笑いながら
「あのお嬢さんのおできが治らないので易者に聞くと、二十二の男になめさせれば治るとのこと。
そこで捜していたが、昨日芝居小屋で馬鹿野郎を生け捕り、色仕掛けでだましてなめさせた。
そいつが調子に乗って泊まっていく、と言うので、女中があたしのところに飛んできたから、
酒乱の伯父さんのふりをして追い出した。今ごろ店では全快祝いだろうが、あのおできの毒をなめたら七日はもたねえてえ話だ」
と言ったから、哀れ、男はウーンと気絶して仕舞います。
「おい、大丈夫か。ほら気付け薬の宝丹だ。なめろ」
「う〜ん、なめるのはもうこりごりだ」

【注目点】
この噺はその昔はおできの箇所が乳の下ではなく、もっと下の足の付け根あたりだったと言う事です。
つまりバレ噺の範疇だったと言う事ですね。

『能書』
宝丹と言うのは今もある、上野の守田治兵衛商店で販売する胃腸薬です。
今は粉薬ですが、昔は練り薬で舐めて使用したそうです。

『ネタ』
 この噺「なめる」は宝丹宣伝の為に創作された落語とも云われています。
又、「転宅」の元にもなったと言う説もあります。
別題を「重ね菊」とも言い、音羽屋(尾上菊五郎)の紋の一つで、同時にソノ方の意味も掛けているとか。
なめる動作では「薬缶なめ」もありますね。
 
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