はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

古今亭志ん生

「柳田格之進」という噺

0929『柳田格之進』
 今日は、この噺です。古今亭一門の噺ですね。

【原話】
誇り高い武士の生きざまを描いた人情噺の傑作ですが元は講談の「柳田の堪忍袋」とも云われています。
志ん生師が講談時代に覚えて人情噺にしたのかと思いきや、明治25年、「碁盤割」で「百花園」に掲載された
三代目柳枝師の速記があるそうです。ほかは古い口演記録がなくいので詳し事は不明です。

【ストーリー】
彦根の城主井伊氏のご家来で柳田格之進という文武両道に優れ品性正しく潔癖な浪人がました。
正直すぎて人に疎まれて浪人をしていて、浅草阿倍川町の裏長屋に娘”きぬ”と二人で住んでいます。
娘の助言で碁会所に顔を出すと、馬道一丁目に住んでいる質屋、万屋源兵衛と気が合っていつも二人で対局をしていました。

それなら私の家でと言うことになり、万屋源兵衛の家のはなれで指す様になり懇意になります。
終わると二人は一献傾けて楽しんでいて、毎日を過ごしていましたが、8月15日の中秋の名月十五夜の晩に月見としゃれながら夢中で指して、一杯ご馳走になり帰ってきました。

万屋源兵衛の店ではその晩に集金したばっかりの50両の金子が紛失して仕舞います。
二人が指している時に無くなったのだから、相手の柳田様が「もしかしたら・・」と番頭が言うのを振り切って話を納めた主人ですが、収まらないのは番頭・徳兵衛。
 
番頭の一心で、翌日柳田の長屋を訪ねて、事の次第を話し、「もしかしたら柳田様がご存じかと・・」「拙者が盗んだというのか」「思い違いではと・・」「私はどんなことがあっても、人の物を盗むという事はない!」「お上に届けて裁いてもらいますが・・」「それでは私が50両作りましょう。明日昼に来なさい」。
番頭が帰った後、娘の忠告で「裁きになれば潔白は晴れるが、その汚名は拭えないので、腹を切る」と言うところ、「私が身を沈めてお金を作ります」。
 
翌日番頭に50両を渡し「その金ではないので、後日金が出たらどうする」「そんなことはないが、その時は私と主人源兵衛の首を差し上げます」。その事を源兵衛に報告すると、源兵衛は謝りに番頭を連れて安倍川町の裏長屋に来てみると、すでに柳田は家を引き払った後で、落胆して戻る源兵衛。
店の者にも、出入りの者にも頼んで柳田を捜したが見つかりませんでした。

 煤払いの日、額縁の裏から50両が出てきました。「そうすると、あの柳田様の50両は・・・」。
どんなことがあってもと源兵衛は柳田様を捜させたのですが、見つかりませんでした。
 
年が改まって、4日、山の手の年始挨拶に番頭は出入りの頭を連れての帰り道、雪が降り始めた湯島の切り通しにさしかかった時、籠屋をいたわって歩いて坂を登ってくる侍が目に入ります。
蛇の目傘の内の贅沢なこしらえが目に止まって、見とれてやり過ごそうとしたその時、侍から声をかけられました。

何とその侍が柳田格之進で、今では300石に取り上げられていると言います。
「湯島の境内に良い店があるから」と連れて行くが番頭は閻魔様に連れて行かれるようで人心地もしません。
店で50両が見つかったことを話し、許しを請うが、明日昼頃万屋に伺うので、体をよく洗って置けと言い残します。
 
翌朝、源兵衛は番頭を使いに出して、柳田を迎え非礼を詫びたが、使いに出ないで待っていた番頭は「私がしたことだから」と主人をかばうが、娘の手前勘弁出来ないと二人を並べて切り捨てると言います。
刀を振り下ろすと、床の間の碁盤が真っ二つになって二人は一命を取り留めます。
二人の主従の真心が心に響いて手元が狂ったと言います。
 
さっそく、半蔵松葉から”きぬ”さんを身請けしてきて、娘に詫びたが、娘も父上の為ならと快く応じます。
 前よりも柳田と源兵衛は深い付き合いをするようになり、番頭の徳兵衛ときぬは夫婦となり万屋の夫婦養子になりめでたく収まります。
二人は仲が良くてまもなく男の子を産んだ。その男の子を柳田が引き取り、家名を継がせたと言う「柳田の堪忍袋の一席」でした。

【演者】
これはもう志ん生師を始め古今亭一門の噺家さんが数多く演じています。
今では他の一門の噺家さんも演じています。

【注目点】
娘さんが気が触れてしまったり、亡くなっていたりと悲しい終わり方をさせる噺家さんもいますが、志ん朝師はハッピ−エンドに終わらせています。このほうが後味はいいですね。
変わった所では圓楽師が、、越前屋がお花を身請けし、久兵衛とめあわせた上、産まれた長男が越前屋を、次男が柳田家を継ぐというハッピーエンドで終わらせています。

『能書』
仕官がかなったのに、娘を身請けしないのがスッキリしないなど今の感覚だと理解できない部分もある噺ですね。(それが武士の清さに繋がるのでしょうか?)

『ネタ』
柳田格之進の名前も角之進と表す時もあります。
志ん生師が、
「親が囲碁の争いをしたから、
娘が娼妓(しょうぎ=将棋)になった」
という地口のオチをつけたことがありますが、余り使わなかったそうです。

らくだは役に立たないものの代名詞?

ph_01『らくだ』
今日は「らくだ」です

【原話】
もとは上方落語の「らくだの葬礼」言う噺です。
三代目小さん師が東京に移植したものです。

【ストーリー】
乱暴者で町内の鼻つまみ者のらくだの馬がフグに当たってあえない最期を遂げた。
兄弟分の、これまた似たような男がらくだの死体を発見し、葬式を出してやろうというわけで、らくだの家にあった一切合切の物を売り飛ばして早桶代にすることに決めた。
そこに通りかかった紙屑屋を呼び込んで買わせようとしたが、一文にもならないと言われる。

そこで、長屋の連中に香典を出させようと思い立ち、紙屑屋を脅し、月番のところへ行かせた。
みんならくだが死んだと聞いて万々歳だが、香典を出さないとなると、らくだに輪をかけたような凶暴な男のこと、何をするかわからないのでしぶしぶ、赤飯でも炊いたつもりでいくらか包む。

それに味をしめた兄弟分、いやがる紙屑屋を、今度は大家のところに、
今夜通夜をするから、酒と肴と飯を出してくれと言いに行かせたが、
「店賃を一度も払わなかったあんなゴクツブシの通夜に、そんなものは出せねえ」
と突っぱねられる。
「嫌だと言ったら、
らくだの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」と言っても
「ぜひ一度見てえもんだ」と、大家は一向に動じない。

紙屑屋の報告を聞いて怒った男、それじゃあというので、紙屑屋にむりやり死骸を背負わせ、
大家の家に運び込んだので、さすがにけちな大家も降参し、酒と飯を出す。

横町の漬物屋を同じ手口で脅迫し、早桶代わりに営業用の四斗樽をぶんどってくると、
紙屑屋、もうご用済だろうと期待するが、なかなか帰してくれない。
酒をのんでいけと言う。
女房子供が待っているから帰してくれと頼んでも、俺の酒がのめねえかと、すごむ。

モウ一杯、モウ一杯とのまされるうち、だんだん紙屑屋の目がすわってきて、逆に、
「やい注げ、注がねえとぬかしゃァ」と酒乱の気が出たので、さしものらくだの兄弟分もビビりだし、
立場は完全に逆転。

完全に酒が回った紙屑屋が「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、
俺の知り合いの落合の安公に焼いてもらいに行こうじゃねえか。
その後は田んぼへでも骨をおっぽり込んでくればいい」

相談がまとまり、死骸の髪を引っこ抜いて丸めた上、樽に押し込んで、
二人差しにないで高田馬場を経て落合の火葬場へ。

いざ火葬場に着くと、死骸がない。
どこかへ落としたのかともと来た道をよろよろと引き返す。
途中で、願人坊主が一人、酔って寝込んでいたから、死骸と間違えて桶に入れ、
焼き場で火を付けると、坊主が目を覚ました。
「アツツツ、ここはどこだ」
「ここは火屋(ひや)だ」
「冷酒(ひや)でいいから、もう一杯くれ」

【演者】
三笑亭可楽師や古今亭志ん生師、三遊亭圓生師が有名ですね。

【注目点】
上方版では登場人物に名前がちゃんとあり、死人は「らくだの卯之助」、兄弟分は「脳天熊」です。
屑屋さんは名前は久六だそうです。(教えて戴きました)
大抵は前半の屑屋さんが酒を飲んで、立場が逆転する処で切ります。

『能書』
噺の中に登場する、”かんかんのう”は「かんかん踊り」ともいい、清国のわらべ唄「九連環」が元唄です。
九連環は「知恵の輪」のこと。
文政3年(1820)から翌年にかけ、江戸と大坂で大流行。
飴屋が面白おかしく町内を踊り歩き、禁止令が出たほどです。

『ネタ』
上方では何と言っても松鶴師でしょうね。志ん朝師と談志師が若い頃、松鶴師の「らくだ」を見て、
あまりの凄さに絶句したという有名な事がありました。
ちなみに、終盤に登場する火屋(火葬場)の所在地は、江戸では落合、上方では千日前となっています。
落合の博善社の火葬場には皇室専用の所もあります。

黄金餅はなかった!

f0cd4883『黄金餅』
 やっと桜が咲き始めましたね。都心は満開などと言っていますが上野や墨田は五分咲きですね。人は多かったですが……。そこで今日は時期的に少し早いですが「黄金餅」という噺です。

【原話】

三遊亭圓朝師の創作と言われています。かなりダークな噺ですが古今亭志ん生師が言い立ての道中付けを入れて今のような飄逸味溢れる噺にしました。

【ストーリー】
下谷の山崎町の裏長屋に、薬を買うのも嫌だというケチの”西念”という乞食坊主が住んで居ました。
隣に住む金山寺味噌を売る”金兵衛”が、身体を壊して寝ている西念を見舞い、食べたいという餡ころ餅を買ってやりますが、家に帰れと言います。
隣に帰って壁から覗くと、西念があんこを出して、そこに貯めた2分金や1分金を詰め込んで、一つずつ全部、丸飲みしてしまいます。
 その後、急に苦しみだしてそのまま死んでしまいました。
金兵衛は飲み込んだ金を取り出したく工夫をするが出来ず。焼き場で骨揚げ時に、金を取り出してしまおうと考えます。
 長屋一同で、漬け物ダルに納め、貧乏仲間なもので夜の内に、葬列を出して、下谷の山崎町を出まして、
あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私(志ん生)もくたびれた。

何とか麻布絶口釜無村の木蓮寺へ着きます。
貧乏木蓮寺で、葬儀の値段を値切り、焼き場の切手と、中途半端なお経を上げて貰い、仲間には新橋に夜通しやっている所があるから、そこで飲って、自分で金を払って帰ってくれ言い返して仕舞います。
 桐ヶ谷の焼き場に一人で担いで持って来て、朝一番で焼いて、腹は生焼けにしてくれと脅かしながら頼み、新橋で朝まで時間を潰してから、桐ヶ谷まで戻り、遺言だから俺一人で骨揚げするからと言い、持ってきたアジ切り包丁で、切り開き金だけを奪い取って、骨はそのまま、焼き場の金も払わず出て行ってしまいます。

 その金で、目黒に餅屋を開いてたいそう繁盛したという。江戸の名物「黄金餅」の由来でございます。

【演者】
 これは志ん生師に止めをさすでしょう。道中付けは聴いていても楽しくなりますし、談志師が言い立てを一旦言った後に現代の道順に替えてもう一度言い直した高座がひかります。それでも志ん生師を越える高座は出ていないと思います。

【注目点】
この噺は、幕末を想定しているそうですが、金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを感じさせてくれます。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったそうです。
谷山崎町とは、いまの上野駅と鶯谷駅の間あたりで、明治になって「万年町」と名前が変わったそうですが、凄まじい貧乏な町だったそうです。
一方の麻布も江戸の外れで当時の人は行きたがない所だったとか、
絶口釜無村とは架空の地名ですがこれも貧乏を強調していますね。
これでもかと貧乏を強調することで、逆に貧乏を笑い飛ばしてしまうと言う趣向ですね。
さすが志ん生師の噺だと感じます。

『能書』
この噺の眼目は、金兵衛が最初は普通の人間だったのが、西念のお金を見てから人格が変わって行く所ですね。その点に注目してください。笑いも多いですが、本当は人間の本質を描いたかなり怖い噺なのです。それを志ん生師が面白く変えたのですね。
ちなみに「黄金餅」という餅菓子は実際は無かったそうです。

『ネタ』
道中付けと並んで楽しいのが、木蓮寺の和尚のいい加減なお経です。
「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。
虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。」
「なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。
アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」
と言う実にいい加減で楽しいお経です。
でも圓朝全集ではちゃんとしたお経が書かれています。志ん生師はそれでは面白くないと考えて改変したのでしょうね。

 桐ケ谷の焼き場(斎場)は今でもあります。東京博善社という会社が行っています。
博善社は都内各地にありますが、落合の斎場は皇室の為の特別な場所があります。一般人は入ることが出来ません。
 それと落合は「らくだ」という噺にも出て来ますね。

「黄金餅」という噺

001 今日は「黄金餅」という噺です。

【原話】

三遊亭圓朝師の創作と言われています。かなりダークな噺ですが古今亭志ん生師が言い立ての道中等を入れて今のような飄逸味溢れる噺にしました。

【ストーリー】
下谷の山崎町の裏長屋に、薬を買うのも嫌だというケチの”西念”という乞食坊主が住んで居ました。
隣に住む金山寺味噌を売る”金兵衛”が、身体を壊して寝ている西念を見舞い、食べたいという餡ころ餅を買ってやりますが、家に帰れと言います。
隣に帰って壁から覗くと、西念があんこを出して、そこに貯めた2分金や1分金を詰め込んで、一つずつ全部、丸飲みしてしまいます。
 その後、急に苦しみだしてそのまま死んでしまいました。
金兵衛は飲み込んだ金を取り出したく工夫をするが出来ず。焼き場で骨揚げ時に、金を取り出してしまおうと考えます。
 長屋一同で、漬け物ダルに納め、貧乏仲間なもので夜の内に、葬列を出して、下谷の山崎町を出まして、
あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私(志ん生)もくたびれた。
 何とか麻布絶口釜無村の木蓮寺へ着きます。
貧乏木蓮寺で、葬儀の値段を値切り、焼き場の切手と、中途半端なお経を上げて貰い、仲間には新橋に夜通しやっている所があるから、そこで飲って、自分で金を払って帰ってくれ言い返して仕舞います。
 桐ヶ谷の焼き場に一人で担いで持って来て、朝一番で焼いて、腹は生焼けにしてくれと脅かしながら頼み、新橋で朝まで時間を潰してから、桐ヶ谷まで戻り、遺言だから俺一人で骨揚げするからと言い、持ってきたアジ切り包丁で、切り開き金だけを奪い取って、骨はそのまま、焼き場の金も払わず出て行ってしまいます。

 その金で、目黒に餅屋を開いてたいそう繁盛したという。江戸の名物「黄金餅」の由来でございます。

【演者】
 これは志ん生師に止めをさすでしょう。談志師が言い立てを一旦言った後に現代の道順に替えてもう一度言い直した高座がひかります。今でも志ん生師を越える高座は出て居ないと思います。

【注目点】
この噺は、幕末を想定しているそうですが、金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを感じさせてくれます。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったそうです。

『能書』
この噺の眼目は、金兵衛が最初は普通の人間だったのが、西念のお金を見てから人格が変わって行く所ですね。その点に注目してください。笑いも多いですが、本当は人間の本質を描いたかなり怖い噺なのです。それを志ん生師が面白く変えたのですね。
ちなみに「黄金餅」という餅菓子は実際は無かったそうです。

『健二のネタ』
道中付けと並んで楽しいのが、木蓮寺の和尚のいい加減なお経です。
「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。
虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。」
「なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。
アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」
と言う実にいい加減で楽しいお経です。

 桐ケ谷の焼き場(斎場)は今でもあります。東京博善社という会社が行っています。
博善社は都内各地にありますが、落合の斎場は皇室の為の特別な場所があります。一般人は入ることが出来ません。
 それと落合は「らくだ」という噺に出て来ます。

「らくだ」という噺

idotyawan12月も節分を過ぎて立春となりました。
ここの所体調を崩していまして、未だ本調子ではありませんが、更新を余りサボっても(充分サボってますがw)いけませんので春の噺を取り上げる事にします。
 そこで「らくだ」です。
乱暴者で町内の鼻つまみ者のらくだの馬がフグに当たってあえない最期を遂げた。
兄弟分の、これまた似たような男がらくだの死体を発見し、葬式を出してやろうというわけで、らくだの家にあった一切合切の物を売り飛ばして早桶代にすることに決めた。
そこに通りかかった紙屑屋を呼び込んで買わせようとしたが、一文にもならないと言われる。

そこで、長屋の連中に香典を出させようと思い立ち、紙屑屋を脅し、月番のところへ行かせた。
みんならくだが死んだと聞いて万々歳だが、香典を出さないとなると、らくだに輪をかけたような凶暴な男のこと、何をするかわからないのでしぶしぶ、赤飯でも炊いたつもりでいくらか包む。

それに味をしめた兄弟分、いやがる紙屑屋を、今度は大家のところに、
今夜通夜をするから、酒と肴と飯を出してくれと言いに行かせたが、
「店賃を一度も払わなかったあんなゴクツブシの通夜に、そんなものは出せねえ」
と突っぱねられる。
「嫌だと言ったら、
らくだの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」と言っても
「ぜひ一度見てえもんだ」と、大家は一向に動じない。

紙屑屋の報告を聞いて怒った男、それじゃあというので、紙屑屋にむりやり死骸を背負わせ、
大家の家に運び込んだので、さすがにけちな大家も降参し、酒と飯を出す。

横町の豆腐屋を同じ手口で脅迫し、早桶代わりに営業用の四斗樽をぶんどってくると、
紙屑屋、もうご用済だろうと期待するが、なかなか帰してくれない。
酒をのんでいけと言う。
女房子供が待っているから帰してくれと頼んでも、俺の酒がのめねえかと、すごむ。

モウ一杯、モウ一杯とのまされるうち、だんだん紙屑屋の目がすわってきて、逆に、
「やい注げ、注がねえとぬかしゃァ」と酒乱の気が出たので、さしものらくだの兄弟分もビビりだし、
立場は完全に逆転。

完全に酒が回った紙屑屋が「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、
俺の知り合いの落合の安公に焼いてもらいに行こうじゃねえか。
その後は田んぼへでも骨をおっぽり込んでくればいい」

相談がまとまり、死骸の髪を引っこ抜いて丸めた上、樽に押し込んで、
二人差しにないで高田馬場を経て落合の火葬場へ。

いざ火葬場に着くと、死骸がない。
どこかへ落としたのかともと来た道をよろよろと引き返す。
途中で、願人坊主が一人、酔って寝込んでいたから、死骸と間違えて桶に入れ、
焼き場で火を付けると、坊主が目を覚ました。
「アツツツ、ここはどこだ」
「ここは火屋(ひや)だ」
「冷酒(ひや)でいいから、もう一杯くれ」

もとは上方落語の「らくだの葬礼」言う噺です。
三代目小さん師が東京に移植したものです。
噺の冒頭でらくだがふぐに当たって死んだと言う描写がありました。春先のふぐには毒が強くなる種類もいますので、この噺が春の噺だと言う訳です。それに春なら道端で酔って寝ても風邪を引かない可能性もあると言う訳です。(寒いとは思いますがねえ?)

上方版では登場人物に名前がちゃんとあり、死人は「らくだの卯之助」、兄弟分は「脳天熊」です。
屑屋さんはない様ですね。

東京でも可楽師や志ん生師、圓生師等大師匠が得意にしました。
大抵は前半の屑屋さんが酒を飲んで、立場が逆転する処で切ります。

上方では何と言っても松鶴師でしょうね。志ん朝師と談志師が若い頃、松鶴師の「らくだ」を見て、
あまりの凄さに絶句したという有名な事がありました。
ちなみに、終盤に登場する火屋(火葬場)の所在地は、江戸では落合、上方では千日前となっています。
落合の博善社の火葬場には皇室専用の所もあります。

噺の中に登場する、”かんかんのう”は「かんかん踊り」ともいい、清国のわらべ唄「九連環」が元唄です。
九連環は「知恵の輪」のこと。
文政3年(1820)から翌年にかけ、江戸と大坂で大流行。
飴屋が面白おかしく町内を踊り歩き、禁止令が出たほどです。続きを読む
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