はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

古今亭志ん生

「黄金餅」という噺

001 今日は「黄金餅」という噺です。

【原話】

三遊亭圓朝師の創作と言われています。かなりダークな噺ですが古今亭志ん生師が言い立ての道中等を入れて今のような飄逸味溢れる噺にしました。

【ストーリー】
下谷の山崎町の裏長屋に、薬を買うのも嫌だというケチの”西念”という乞食坊主が住んで居ました。
隣に住む金山寺味噌を売る”金兵衛”が、身体を壊して寝ている西念を見舞い、食べたいという餡ころ餅を買ってやりますが、家に帰れと言います。
隣に帰って壁から覗くと、西念があんこを出して、そこに貯めた2分金や1分金を詰め込んで、一つずつ全部、丸飲みしてしまいます。
 その後、急に苦しみだしてそのまま死んでしまいました。
金兵衛は飲み込んだ金を取り出したく工夫をするが出来ず。焼き場で骨揚げ時に、金を取り出してしまおうと考えます。
 長屋一同で、漬け物ダルに納め、貧乏仲間なもので夜の内に、葬列を出して、下谷の山崎町を出まして、
あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私(志ん生)もくたびれた。
 何とか麻布絶口釜無村の木蓮寺へ着きます。
貧乏木蓮寺で、葬儀の値段を値切り、焼き場の切手と、中途半端なお経を上げて貰い、仲間には新橋に夜通しやっている所があるから、そこで飲って、自分で金を払って帰ってくれ言い返して仕舞います。
 桐ヶ谷の焼き場に一人で担いで持って来て、朝一番で焼いて、腹は生焼けにしてくれと脅かしながら頼み、新橋で朝まで時間を潰してから、桐ヶ谷まで戻り、遺言だから俺一人で骨揚げするからと言い、持ってきたアジ切り包丁で、切り開き金だけを奪い取って、骨はそのまま、焼き場の金も払わず出て行ってしまいます。

 その金で、目黒に餅屋を開いてたいそう繁盛したという。江戸の名物「黄金餅」の由来でございます。

【演者】
 これは志ん生師に止めをさすでしょう。談志師が言い立てを一旦言った後に現代の道順に替えてもう一度言い直した高座がひかります。今でも志ん生師を越える高座は出て居ないと思います。

【注目点】
この噺は、幕末を想定しているそうですが、金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを感じさせてくれます。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったそうです。

『能書』
この噺の眼目は、金兵衛が最初は普通の人間だったのが、西念のお金を見てから人格が変わって行く所ですね。その点に注目してください。笑いも多いですが、本当は人間の本質を描いたかなり怖い噺なのです。それを志ん生師が面白く変えたのですね。
ちなみに「黄金餅」という餅菓子は実際は無かったそうです。

『健二のネタ』
道中付けと並んで楽しいのが、木蓮寺の和尚のいい加減なお経です。
「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。
虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。」
「なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。
アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」
と言う実にいい加減で楽しいお経です。

 桐ケ谷の焼き場(斎場)は今でもあります。東京博善社という会社が行っています。
博善社は都内各地にありますが、落合の斎場は皇室の為の特別な場所があります。一般人は入ることが出来ません。
 それと落合は「らくだ」という噺に出て来ます。

「らくだ」という噺

idotyawan12月も節分を過ぎて立春となりました。
ここの所体調を崩していまして、未だ本調子ではありませんが、更新を余りサボっても(充分サボってますがw)いけませんので春の噺を取り上げる事にします。
 そこで「らくだ」です。
乱暴者で町内の鼻つまみ者のらくだの馬がフグに当たってあえない最期を遂げた。
兄弟分の、これまた似たような男がらくだの死体を発見し、葬式を出してやろうというわけで、らくだの家にあった一切合切の物を売り飛ばして早桶代にすることに決めた。
そこに通りかかった紙屑屋を呼び込んで買わせようとしたが、一文にもならないと言われる。

そこで、長屋の連中に香典を出させようと思い立ち、紙屑屋を脅し、月番のところへ行かせた。
みんならくだが死んだと聞いて万々歳だが、香典を出さないとなると、らくだに輪をかけたような凶暴な男のこと、何をするかわからないのでしぶしぶ、赤飯でも炊いたつもりでいくらか包む。

それに味をしめた兄弟分、いやがる紙屑屋を、今度は大家のところに、
今夜通夜をするから、酒と肴と飯を出してくれと言いに行かせたが、
「店賃を一度も払わなかったあんなゴクツブシの通夜に、そんなものは出せねえ」
と突っぱねられる。
「嫌だと言ったら、
らくだの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」と言っても
「ぜひ一度見てえもんだ」と、大家は一向に動じない。

紙屑屋の報告を聞いて怒った男、それじゃあというので、紙屑屋にむりやり死骸を背負わせ、
大家の家に運び込んだので、さすがにけちな大家も降参し、酒と飯を出す。

横町の豆腐屋を同じ手口で脅迫し、早桶代わりに営業用の四斗樽をぶんどってくると、
紙屑屋、もうご用済だろうと期待するが、なかなか帰してくれない。
酒をのんでいけと言う。
女房子供が待っているから帰してくれと頼んでも、俺の酒がのめねえかと、すごむ。

モウ一杯、モウ一杯とのまされるうち、だんだん紙屑屋の目がすわってきて、逆に、
「やい注げ、注がねえとぬかしゃァ」と酒乱の気が出たので、さしものらくだの兄弟分もビビりだし、
立場は完全に逆転。

完全に酒が回った紙屑屋が「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、
俺の知り合いの落合の安公に焼いてもらいに行こうじゃねえか。
その後は田んぼへでも骨をおっぽり込んでくればいい」

相談がまとまり、死骸の髪を引っこ抜いて丸めた上、樽に押し込んで、
二人差しにないで高田馬場を経て落合の火葬場へ。

いざ火葬場に着くと、死骸がない。
どこかへ落としたのかともと来た道をよろよろと引き返す。
途中で、願人坊主が一人、酔って寝込んでいたから、死骸と間違えて桶に入れ、
焼き場で火を付けると、坊主が目を覚ました。
「アツツツ、ここはどこだ」
「ここは火屋(ひや)だ」
「冷酒(ひや)でいいから、もう一杯くれ」

もとは上方落語の「らくだの葬礼」言う噺です。
三代目小さん師が東京に移植したものです。
噺の冒頭でらくだがふぐに当たって死んだと言う描写がありました。春先のふぐには毒が強くなる種類もいますので、この噺が春の噺だと言う訳です。それに春なら道端で酔って寝ても風邪を引かない可能性もあると言う訳です。(寒いとは思いますがねえ?)

上方版では登場人物に名前がちゃんとあり、死人は「らくだの卯之助」、兄弟分は「脳天熊」です。
屑屋さんはない様ですね。

東京でも可楽師や志ん生師、圓生師等大師匠が得意にしました。
大抵は前半の屑屋さんが酒を飲んで、立場が逆転する処で切ります。

上方では何と言っても松鶴師でしょうね。志ん朝師と談志師が若い頃、松鶴師の「らくだ」を見て、
あまりの凄さに絶句したという有名な事がありました。
ちなみに、終盤に登場する火屋(火葬場)の所在地は、江戸では落合、上方では千日前となっています。
落合の博善社の火葬場には皇室専用の所もあります。

噺の中に登場する、”かんかんのう”は「かんかん踊り」ともいい、清国のわらべ唄「九連環」が元唄です。
九連環は「知恵の輪」のこと。
文政3年(1820)から翌年にかけ、江戸と大坂で大流行。
飴屋が面白おかしく町内を踊り歩き、禁止令が出たほどです。続きを読む

文七元結という噺

41e0cc95今年もあと10日余りとなりました。皆さんにとって今年は如何でしたでしょうか?
今日は暮れの噺と言われる「文七元結」です。

圓朝師の創作で有名ですが、八代目正蔵師の説によると、それ以前に同種の噺があり、圓朝師が自分の創作部分を加えて、人情話に作りなおしたそうです。真意はわかりませんが、きっと全く違った噺になっているのでしょう。
また、明治の政治家井上馨らが江戸っ子の気質とは、と問われてこの噺を作ったと言う説もあります。

もう、歴代の大師匠が演じていますので、圓生師、正蔵師、志ん生師、皆いいです。現役では小三治師がダントツですね。志ん朝師は個人的にですが、吾妻橋で50両を渡すシーンがややくどいと思うのです。

左官の長兵衛は、腕は立つのだが、無類のばくち好きが高じて、仕事もせずに借金を抱えています。
年の瀬も押し迫るある日、前夜の負けがこんで、身ぐるみ剥がれて半纏一枚で賭場から帰されると、
女房のお兼が泣いている。
聞くと、娘のお久がいなくなったという。どうしたのかと、夫婦喧嘩をしているところに、普段より世話になっている吉原の女郎屋の大店、角海老から使いのものが来ます。
取り込み中だから後にしてくれというと、他でもない、その娘のお久のこと、角海老の女将の所に身を寄せているというではありませんか。
女房の着物を一枚羽織って角海老へ行ってみると、お久は、身売りをして金を工面し、父に改心してもらいたいので、お角のところへ頼み込んだのだというではありませんか。
女将は、自身の身の回りをさせるだけで店には出さないから、次の大晦日までに金を貸してやるが、大晦日を一日でも過ぎたら、女郎として店に出すという約束で、長兵衛に五十両の金を渡します。

情けない思いをし、しかし改心しきった長兵衛が、帰り道に吾妻橋にさしかかると、身投げをしようとしている男がいます。
訳を聞くと、白銀町の鼈甲問屋「近江屋」の奉公人(文七)で、お遣いに頼まれ、取りにいった売り上げをすられたので、死んでお詫びをしようというところだったと言います。
死んでお詫びを、いや、死なせねぇと押し問答が続いた後、長兵衛は、自分の娘のお久が身を売って五十両を工面してくれたことをはなし、その金でお前の命が助かるのなら、娘は死ぬわけではないのでと、無理矢理五十両を押し付けて、逃げるように帰ってゆくのでした。

文七がおそるおそる主人卯兵衛の元に帰り、長兵衛からもらった金を差し出すと、それはおかしい、お前が遣いにいった先で碁に熱中するあまり、売り上げをそっくりそのまま忘れてきてしまったものを、先方は既に届けてくれて金はここにある、一体どこから、また別の五十両が現れたのかと、主人が問いただすと、文七はことの顛末を、慌てて白状します。

翌日、卯兵衛は何やら段取りを済ませ、文七をお供に長兵衛の長屋へと赴きます。
実は文七が粗相をやらかし…と、事の次第を説明し、五十両を長兵衛に返そうとするが、長兵衛は、江戸っ子が一度出したものを受け取れるか!と受け取りません。
もめた挙句に長兵衛ようやく受け取り、またこれがご縁ですので文七を養子に、近江屋とも親戚付き合いをと、祝いの盃を交わし、肴をと、表から呼び入れたのが、近江屋が身請けをしたお久が現れます。
家族三人で嬉し涙にくれます。
後に、文七とお久が夫婦になり、近江屋から暖簾を分けてもらい、元結いの店を開いたという、文七元結由来の一席。

吾妻橋は夏の「唐茄子屋政談」でも登場しますし、その他にでも色々登場する落語の聖地ですね。(’だれも聖地巡礼しないけどww)

この文七元結を拵えた、桜井文七と言う人は実在の人物で、1683年美濃国生まれで、元結の多い長野県飯田で修行したあと江戸で活躍したそうです。名前が。江戸で有名で代々襲名されていたため圓朝がモデルにしたそうです。

元結とは男性のチョンマゲや女性の日本髪の元を束ねて紐で結わえて固定します。この、糊で固く捻ったこよりで製した紙紐が元結です。当時、非常に弱く扱いにくかった為、文七はそこで修行を積みながら元結改良に日夜苦心を重ね、遂に光沢のある丈夫な元結造りに成功、販路を江戸に求めると、たちまち髪結床から注文が殺到、これを契機に江戸に卸問屋を開業して後、「文七元結」の名で国中の評判になりました。続きを読む

らくだと言う噺

ph_01今日は「らくだ」です。どうもこの噺は春の噺とされている様なので。この時期(暦の上では春)でも良かろう?と思うのです。
でも正直言ってもう少し後の時期だと思うのですが・・・

乱暴者で町内の鼻つまみ者のらくだの馬がフグに当たってあえない最期を遂げた。
兄弟分の、これまた似たような男がらくだの死体を発見し、葬式を出してやろうというわけで、らくだの家にあった一切合切の物を売り飛ばして早桶代にすることに決めた。
そこに通りかかった紙屑屋を呼び込んで買わせようとしたが、一文にもならないと言われる。

そこで、長屋の連中に香典を出させようと思い立ち、紙屑屋を脅し、月番のところへ行かせた。
みんならくだが死んだと聞いて万々歳だが、香典を出さないとなると、らくだに輪をかけたような凶暴な男のこと、何をするかわからないのでしぶしぶ、赤飯でも炊いたつもりでいくらか包む。

それに味をしめた兄弟分、いやがる紙屑屋を、今度は大家のところに、
今夜通夜をするから、酒と肴と飯を出してくれと言いに行かせたが、
「店賃を一度も払わなかったあんなゴクツブシの通夜に、そんなものは出せねえ」
と突っぱねられる。
「嫌だと言ったら、
らくだの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」と言っても
「ぜひ一度見てえもんだ」と、大家は一向に動じない。

紙屑屋の報告を聞いて怒った男、それじゃあというので、紙屑屋にむりやり死骸を背負わせ、
大家の家に運び込んだので、さすがにけちな大家も降参し、酒と飯を出す。

横町の豆腐屋を同じ手口で脅迫し、早桶代わりに営業用の四斗樽をぶんどってくると、
紙屑屋、もうご用済だろうと期待するが、なかなか帰してくれない。
酒をのんでいけと言う。
女房子供が待っているから帰してくれと頼んでも、俺の酒がのめねえかと、すごむ。

モウ一杯、モウ一杯とのまされるうち、だんだん紙屑屋の目がすわってきて、逆に、
「やい注げ、注がねえとぬかしゃァ」と酒乱の気が出たので、さしものらくだの兄弟分もビビりだし、
立場は完全に逆転。

完全に酒が回った紙屑屋が「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、
俺の知り合いの落合の安公に焼いてもらいに行こうじゃねえか。
その後は田んぼへでも骨をおっぽり込んでくればいい」

相談がまとまり、死骸の髪を引っこ抜いて丸めた上、樽に押し込んで、
二人差しにないで高田馬場を経て落合の火葬場へ。

いざ火葬場に着くと、死骸がない。
どこかへ落としたのかともと来た道をよろよろと引き返す。
途中で、願人坊主が一人、酔って寝込んでいたから、死骸と間違えて桶に入れ、
焼き場で火を付けると、坊主が目を覚ました。
「アツツツ、ここはどこだ」
「ここは火屋(ひや)だ」
「冷酒(ひや)でいいから、もう一杯くれ」

もとは上方落語の「らくだの葬礼」言う噺です。
三代目小さん師が東京に移植したものです。

上方版では登場人物に名前がちゃんとあり、死人は「らくだの卯之助」、兄弟分は「脳天熊」です。
屑屋さんは無い様ですね。

東京でも可楽師や志ん生師、圓生師等大師匠が得意にしました。
大抵は前半の屑屋さんが酒を飲んで、立場が逆転する処で切ります。

上方では何と言っても松鶴師でしょうね。志ん朝師と談志師が若い頃、松鶴師の「らくだ」を見て、
あまりの凄さに絶句したという有名な事がありました。
ちなみに、終盤に登場する火屋(火葬場)の所在地は、江戸では落合、上方では千日前となっています。
落合の博善社の火葬場には皇室専用の所もあります。

噺の中に登場する、”かんかんのう”は「かんかん踊り」ともいい、清国のわらべ唄「九連環」が元唄です。
九連環は「知恵の輪」のこと。
文政3年(1820)から翌年にかけ、江戸と大坂で大流行。
飴屋が面白おかしく町内を踊り歩き、禁止令が出たほどです。続きを読む

淀五郎と言う噺

75fc956f今日はそろそろ十二月も近いのでこの噺です。

江戸時代の歌舞伎の世界を背景に、芸に生きる役者の哀歓を描いた名作と言われています。
圓生師を始め正蔵師、志ん生師等歴代の名人、上手が演じてきました。
話術もさながら、淀五郎演ずる判官の切腹の様が、仲蔵のアドバアイスにより見違えるように上手くなる様子がお客さんにも判る様に演じる必要があるので、歌舞伎の知識と、演技力が問われますので、難しい演目と言われています。

初日を前に「仮名手本忠臣蔵」の塩冶判官の役者が急病で出られなくなりました。
座頭の市川團蔵は、前から見込みがあると目をつけていた若手の澤村淀五郎を抜擢する事にします。

淀五郎はここぞと張り切るが、自分では解らないものの、他から観ると演技が上手く行きません。
その為、肝心の四段目「判官切腹の場」になると、大星由良之助役の團蔵は舞台に来ないで花道で平伏したまま。
そんな事が2日続き、評判が悪くなって仕舞います。

皮肉屋の團蔵ならではの叱咤激励なのですが、淀五郎には分かりません。
「親方、どのように判官を勤めたらよろしゅうございますか」と團蔵に聞くも、「お前は役者だろ。そんな事も分からないなら、本当に腹を切れ!お前みてえな下手な役者は腹を切って死んじまえ」と言われて仕舞います。

思い余った淀五郎は、舞台で本当に腹を切ろうと思い込みます。そして、その前に憎い團蔵を殺してしまおうと心に決め、世話になった初代中村仲蔵のもとに暇乞いに行くのですが、様子を察した仲蔵に諭されます。
おまけに、判官切腹の正しい演じ方まで教えてくれます。
仲蔵の有難い忠告を胸に淀五郎は徹夜で稽古するのでした・・・
その甲斐あって、翌日、淀五郎は見違える様に上達し、團蔵も「大したもんだ!富士のお山は一晩で出来たっていうが、あの野郎、一晩で判官を作りやがった」と感心し、舞台に来て淀五郎の判官の傍で平伏します。それに気づいた淀五郎「ウ〜ム、待ちかねた!」

この噺はよく、「團蔵より、仲蔵がいいね〜」等と言われますが、團蔵の心の内側まで聴いている者に悟れる様にしなくってはならず、かなりの技量を要求されます。
オチは仮名手本忠臣蔵 四段目の判官と由良助のシーンから来ています。
聞き手も歌舞伎を知らないと楽しめませんね。

江戸時代の芝居小屋は上演中でも客が出入り自由だったのですが、誰も何も言いませんでした。
でも、ひとつだけ例外がありました。それが忠臣蔵の四段目で「由良之助はまだか」とまちかねる塩冶判官が自らの腹に刀を突き立てたその時に、由良之助が早駕篭で到着するという緊張感満点の大見せ場は、「出物止め」、上方では「通さん場」と言って、決して途中入場、退場を許さなかったそうです。

この頃の芝居は朝早くから幕が開きました。観客も通しで熱心に見ている訳ではなく、飲み食いしながら、
時には観客同士が語らいながらの観劇でした。
芝居の中での見せ場が来ると、顔を照らす黒子が登場し、観客によく判る様にしました。
この時は、熱心に見たそうで、時には掛け声も掛かったそうです。

役者の階級は 下立役(稲荷町)−中通り(チュウドオリ)−相中(アイチュウ)−相中見習い−相中上分−名題下−名題(ナダイ)と格が上がっていったので、淀五郎は相中上分・名題下を飛び越え名題に抜擢されたので、やはり舞い上がるほど喜んだのでしょうね。
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