らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

タグ:古今亭志ん朝

10c67346『粗忽の使者』
  コロナで外出が制限されている今日ですが、何やら東京二十三区でも西の方は雪になっているそうです。
 そういう訳で今日は「粗忽の使者」です。


「原話」
 原話は、元禄14年(1701年)に出版された笑話本『軽口百登瓢箪』の第二巻の「そそうな寄合い」からです。
 同じ原話から成立した上方落語があり、そちらの方は『月並丁稚』というタイトルで故春團治師が演じていました。

「ストーリー」
 杉平柾目之正の家臣、地武太治部右衛門が、殿の使者として赤井御門守の屋敷を訪れました。
 使者の間に通され、田中三太夫が使者の口上を問うが思い出せません。
切腹すると言い出したが、説得すると、幼い頃より父に居敷を抓られて思い出すのが癖になっているので、三太夫に居敷を抓ってくれるように頼みます。
 三太夫がつねるが、蝿が留った程にも感じない、指先に力量のある御仁はおられぬか?
 と、これを聞いていたのが大工の”留っこ”で、素手じゃ敵わねえが、道具を使えば大丈夫とばかりに名乗り出ました。
 困っていた三太夫は、大工のままでは都合が悪いので、中田留太夫と侍の名を付けて羽織りに着替えさせます。留公が、踵みたいなタコになっている尻を閻魔でつねると、おお思い出しそうだ、もそっと手荒にと。尻の柔らかいところを探して全力で抓ると、
「おお、思い出した」
 すかさず次の間の三太夫が
「してご口上は」
「聞かずに参った」

「演者」
 志ん生師を始め、小さん師など多くの噺家さんが演じています。個人的には志ん朝師ですかねえ。現役では市馬師がよくやってますね。

「注目点」
今では演じられませんが、この後、治部右衛門が使者に失敗した申し訳に腹を切ろうとし、九寸五分の腹切刀と扇子を間違えているところに殿様が現れ、
「ゆるせ。御門守殿には何も用がなかった」
と、ハッピーエンドで終わる続きがあります。

「ネタ」
落語に出て来る殿様(大名)は赤井御門守と大体決まっていますが、
石高は、123,456石7斗8升9合半と言われています。
赤い御門があるので、将軍家とは姻戚関係があります。
ご先祖は公卿・算盤数得卿玉成で、任官して「八三九九守」となった人とか・・・ホントかよww
結構、いい暮らしをしてるとみえ、火焔太鼓を買ったりして気前の良い処もありますし、
「初音の鼓」ではしっかり負けさしています。
「妾馬」では八五郎を面白がって士分に取り立てています。

DzIRrI6V4AcR-vU『崇徳院』
 色々とありましたが、気を取り直して(自分が悪いのですがw)個人的に好きなこの噺です。
 崇徳院様と言えば百人一首の歌「瀬をはやみ」で有名ですが、これが落語になるとちょっと変わって来ます。
 梅の花も咲き始めましたしね。
【原話】
この作品は初代桂文治の作といわれ、上方落語の演目で、後に東京でも口演されるようになりました。

【ストーリー】
 若旦那が寝込んでしまったので、旦那様に頼まれて、幼なじみの熊さんが訊いてみると、
上野の清水堂で出会ったお嬢さんが忘れられないと言う……つまり恋煩いだったのです。
大旦那は熊さんに、そのお嬢さんを見つけてくれれば住んでいる三軒長屋をくれると言います。そこで熊さんはそのお嬢様を探しに出掛けます。腰に草鞋をぶら下げてもう一生懸命です。
 手掛かりは短冊に書かれた崇徳院の和歌で、
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の 割れても末に 逢わんとぞ思う」と言う歌のみです。
 かみさんに教えられた通り、往来の真ん中、湯屋、床屋など、人が集まるところで上の句
を詠むが、なかなか見つかりません。
熊さんがなんと三十七軒目の床屋で休んでいると、鳶頭が駆け込んできて、出入り先のお嬢様が恋煩いで寝込んでいると言うお嬢様の話を始めました。
清水院で出会った若旦那に会いたいというのです。手掛かりは、短冊に書かれた崇徳院の和歌だと言います。ついに出会ったのです!
 お互いに見つけたと、互いにこっちに来いと揉合いになり、床屋の鏡を割って仕舞います。
でも床屋の親方、心配するな。
「割れても末に買わんとぞ思う」

【演者】
 三代目 桂三木助師が有名です、個人的には三代目 古今亭志ん朝師が好きですね。若旦那と熊さんのやり取りがいいです!

【注目点】
 上方では見初める所が高津神社となっています。又、女性の方の頭に下さる御礼が300両と具体的になっています。上方では
「あんたのとこの若旦那は仁徳のある方ですなあ」
 と感心する床屋に、
「仁徳があるはずや、見初めたんが高津さんや」とするサゲもあるそうです。

『能書』
 最近では上方では、サゲをつけないやり方が多くなって来ているという事ですが、人気者だった二代目桂枝雀師が取っ組み合いのシーンを演じたあとサゲを付けずに「めでたく一対の夫婦が出来上がります。崇徳院というおめでたいおうわさでした」などと言って終える演出を取り入れましたが、やはり落とし噺ですのできちんとサゲを言って欲しいです。

『ネタ』
若旦那が寝込む噺は他に「千両みかん」などもありますが、この噺は最後がハッピーエンドで終わっているので後味が良いですね。これは重要なことで、トリでこの噺をやればお客さんは気分よく家に帰れる訳です。寄席の最後に出て来る噺家はそんなことも注意して演目を選びます。

51SXDXLtWsL._SX350_BO1,204,203,200_ 10月ももう終わりですね。11月になったらまた噺の解説に戻りたいと思いますので、もう少し私の戯言にお付き合いをお願い致します。

 先日ですが、ふらりと入った本屋で河出書房から出してる文藝別冊「古今亭志ん朝」というムック本を見つけたので買って読みました。
 内容は今まで色々な雑誌などに載せられた志ん朝師に関する記事を纏めたものでした。勿論師が生前書かれたエッセイ等も沢山載っています。
 特に面白かったのは談志師の志ん朝師に関する事です。亡くなった時に「良い時に死んだ。よかったよ」と言ったそうですが、その真意についてのくだりが特に面白かったです。
 談志師が言うには志ん朝師の絶頂期は三十代半ばだったそうです。その後は緩やかに落ちて行くばかりだったとか。
 噺では「愛宕山」を褒めていて「鰻の幇間」は駄目だと言っています。志ん朝師の華麗な芸が転換期に来ている。それを志ん朝師も判っていたとも言っています。老いて枯れた芸を見せぬ内に亡くなってしまった今「良い時に死んだ」としか言えないと……。
 惜しいと語っても生き返る訳は無いし、言ったところでしょうがない。「よかったよ、十分だよ。いま死んでよかったよ。もう、これからよくならないよ」と言った方が彼岸の彼方に居る本人は安心できるだろうとも書いていました。
 談志師は志ん朝師が亡くなる二年前に和服のハーフコートを貰ったそうです。一度は
「あまり着ないから」と断ったそうですが志ん朝師が「是非に」と言ったので貰ったそうです。談志師が亡くなるまで大事にしていたそうです。今は何処にあるのかは判りませんね。
 他には柳家小満ん師が書いていましたが、志ん朝師が芝居に出ていた頃にあるパーティで三木のり平さんに黒門町が挨拶をして
「志ん朝がお世話になっております。あれは落語界にとって”百年に一度の男”なんです。そのおつもりでお願いします」
 と言ったそうですそれだけ大事に考えていたのですね。
 最後に談志師の志ん朝師に対する評価を書いて終わりにしたいと思います。
「志ん朝は圓生同様、型から入っていく作品派である。加えて彼は芝居好きなくらいだから、形が良く、リズムも良く、噺の構成も上手い。現代の作品派としては最たるものだろう」
 これが全て語っているのではないでしょうか。

rakugo_bakemono_tsukai yahooブログの方が事実上終了致しました。これからはこのブロ一本で頑張ろうと思います。どうか宜しくお願い致します。
 と言う訳で今日はこの噺です。

『化け物使い』
 この噺が秋の噺とは余り思えませんが、化け物の正体が狸なので秋に取り上げました。
 昨年は夏に取り上げていますね。しかもタイトルが間違ってるという(笑
【原話】
 実は大正時代に作られた新作落語です。と通説となっていますが個人的には今村信雄さんの作ではないかと睨んでおります。

【ストーリー】
人使いの荒いご隠居がいて、次々と奉公人を雇うが、三日も経たずに「暇をもらいたい、こう人使いが荒くちゃ辛抱なりかねます」と辞めてしまう。ところが、新しい奉公人の杢助は、なんなく言い付けをこなし、三年も勤めたが、ご隠居が新しい家を買って引っ越すことになったとき、化け物が出るという噂を恐れて、辞めてしまった。
 引っ越しをした最初の晩、食事の後に一つ目小僧が出たが、ご隠居は、皿を洗え、布団を敷け、肩を叩けとこき使った。二日目の夜は大入道が出たので、屋根の手入れをさせた。
三日目は女ののっぺらぼうが出ると、繕い物をさせた。さて、四日目は何が出るかと待っていると、大きな狸が出て来た。
「何だい、今まで化け物は、お前の仕業か?」
 と問うと、そうだと頷く。
「何の用だ」
 と聞くと
「お暇をもらいたい」
「どうして」
「こんなに化け物使いが荒くちゃ辛抱なりかねます」

【演者】
古くは四代目小さん、七代目可楽、そして三木助師や正蔵師、志ん生師が演じました。
個人的には志ん朝師の噺が耳に残っています。

【注目点】
三木助師は可楽師の型を踏襲したそうです。
それと千束屋は葭町にあった桂庵で当時はかなり有名でした。「百川」にも出て来ますね
『能書』
三木助師は盛り沢山の内容をコンパクトにまとめています。
杢蔵さんが三年会働くのを、賭けをしたからだと演じる人がいますが、
なんか興ざめですよね。ここは杢蔵さんの心意気を買いたいです。
三木助師は床屋の親方とのやり取りを通して、
杢蔵さんの身辺も出しています。

志ん朝師や彦六師が演じると、隠居さんが人使いが荒いのが
笑いに繋がっていますが、三木助師だとホントにこの人は
人使いが荒い!と感じて現実味が増して来ます。

『ネタ』
志ん生師は凄いですね、
噺の展開が他の方とは段違いです。息子の志ん朝師のも私は最高に面白いと思ってたのですが、
志ん生師の音源を聴いたらぶっ飛びました。
それぐらい常識を破ってくれました……ホント凄いです

s_002u『そば清 』
立秋が過ぎましたが相変わらず暑いですが、今日からは秋の噺を取り上げます。
 今回は、お蕎麦の食べる枚数を賭けるお噺です。お蕎麦は好きですね。皆さんは如何ですか?

【原話】
1672年の「一休関東咄」の中の「大食いばなしのこと」からです。
ちなみに、上方落語でお餅を食べる「蛇含草」は別な話1716年の「軽口はこの玉」の「牡丹餅が大小」と言うお話からです。
【ストーリー】
蕎麦屋で無駄話をしている江戸っ子連中。蕎麦を食べていた見慣れない男の食いっぷりに感心し、『男が蕎麦を何枚食べられるか』で賭けをすることにしました。
翌日、再びやってきた男に声をかけます。蕎麦の大食いを提案します。
何だかんだと言ってましたが、承諾します。
やってみると、あっと言う間に食べて一分貰って帰ってしまいます。
シャクに障った連中は翌日二分用意すると、男がやってくるのを待ち構えて…。
「今度は二分だ、三十枚」となりなます。
今度も、たわいなく食べて掛金を貰って帰って仕舞います。
呆然としている連中に店の奥で酒を飲んでいた男が声をかける。
「あの人はね、本名を清兵衛さん、通称『そば清』さんという蕎麦の大食いで有名な人なんですよ。何でも、蕎麦の賭けで家を3件も建てたとか…」
このまま引き下がっては江戸っ子の恥。やけになった連中は、執念で一両の金を用意して清兵衛さんを待ち構えて、
「今度は五十枚だ! 勝ったら一両やろう!!」
一両の金には食指が動きましたが、流石に五十枚も食べる自信の無い清兵衛さん。仕事があるからと店を逃げ出し、そのまま信州へ商売に出かけてしまいます。
数ヵ月後、商売を終え、帰ろうとした清兵衛は山中で迷子になります。
途方にくれていると、向こうに狩人がいるのを発見。声をかけようとするが…狩人が何かを狙っているのに気づき、それが終わるまで待つことにします。
気になって向こうを覗いてみると、そこに居たのはなんと大蛇!
固唾を呑んで見守っていると、狩人の一瞬の隙をついて大蛇が狩人を飲んでしまいます。
しかし…流石に丸呑みはきつかったようで、大蛇の腹はボールのように膨らみ七転八倒。
傍に生えていた黄色い草を、長い舌でペロペロ…。
たちまち膨れていた腹が小さくなって、悠々と行って仕舞います。
「へー、あの草は消化の薬になるんだ。これを使えば…」
清兵衛さんはほくそ笑み、その草を摘めるだけ摘んで江戸へ持ち帰ります。
江戸に戻った清兵衛さんが蕎麦屋に行くと、やはり江戸っ子たちが待ち構えています。
この前の勝負、受ける事になり、蕎麦屋には大勢の野次馬がつめかけ、清兵衛の前に大盛りのそばがずらり。
食べだすと、その速いこと、そばの方から清兵衛の口に吸い込まれていくようで、みるみるうちに三十、四十…。
このあたりでさすがの清兵衛さんも苦しくなり、肩で息を始めます。
体に毒だから、もうここらで降参した方が身のためだという忠告をよそに、「少し休憩したいから」と言って廊下に出て、障子をピタリと閉めさせて例の草をペロリペロリ……。
いつまでたっても出て来ないので、おかしいと思って一同が障子を開けると…。
そばが羽織を来て座っていたと言う。

【演者】
 古今亭志ん生師や長男の十代目 金原亭馬生師、それに次男の志ん朝師が良いですね。志ん朝」師が兄馬生師の法事の後に高座に上がり、少しほろ酔いで演じたものも良いですね。
 今でも多くの噺家が演じています。
【注目点】
演者の中には、サゲを言った後に、草の解説をする師匠がいますが、これは無粋です。(草が本当は人間を消化する草だったと言う事)
そのくらいは想像力を発揮して欲しいですね。このコラムを読んでいる方は作家さんばかりなので、その心配は無いですね。
『能書』
蕎麦は、元禄の頃から「蕎麦切り」として食べられ始められたそうです。忠臣蔵の義士が討ち入り前に食べたと言われていますが、うどんではなかったのか? と言う説もあるそうです。
それまでは「蕎麦がき」と言って単に蕎麦粉を熱湯で練って、醤油などを付けて食べていました。
「うわばみ」は大きな蛇の事ですが、日本には青大将以上の大きな蛇はいませんので、南方から来た考えだと言われています。
『健二のネタ』
モデルになった「清兵衛さん」は実在の人物で、天保11年から8年間朝昼晩とも蕎麦を食べ通した江戸の名物男で神田鍛冶町に住んでいたそうです。

 蕎麦は、本当は「コロッケ蕎麦」が落語通が食べる蕎麦なんですね(ネタです!)
 ではまた〜

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