『五人廻し』
立冬も過ぎましたが、本来は秋の噺で、廓噺の名作「五人廻し」です。この噺は上手な噺家が演じると抜群の面白さです。
【原話】
古くからあった人情噺を明治期に初代柳家小さん師や四代目橘家圓蔵師、それに三遊亭圓右師などを経て初代柳家小せん師が今の型に作り直しました。
【ストーリー】
舞台は夜ふけの遊廓・吉原。売れっ子の花魁、喜瀬川は五人のお客をとったが、一人のお客の部屋に居たっきりで、ほかの部屋を廻らないので、振られた男たちは不満たらたら。可哀想なのは廓の若い衆だ。「三歳から大門をくぐっている」という男からは江戸弁で啖呵を切られ、役人とおぼしき男からは軍人口調で「廓に爆弾を仕掛ける」と脅かされる。そうかと思えば妙な言葉遣いの通人からは、真綿で首を絞めるようなイヤミを言われたあげく、焼け火箸を当てられそうになる。若い衆はようようのことで、喜瀬川のところへ。今夜、喜瀬川がずっと相手をしているのは田舎者のお大尽で、一部始終を話すと、お大尽は「玉代を返して帰って貰え」と言い出します。
そこで各人に50銭ずつ貰って返して、返って貰いました。その後「もう50銭おくれよ」とねだります。
「しょうがねえなあ〜子供なんだから」と言って50銭渡すと、「あんたにも50銭返すから、返っておくれよ」
【演者】
歴代では圓生、志ん生、志ん朝、等歴代の噺家が得意としています。
【注目点】
当時は、廓では、モテないからと言って何か言うのは「野暮」とされたので、登場人物の言い方が、妙に卑屈になっているんですね。そんな可笑しさを味わって欲しいです。
『能書』
”廻し”と言う制度は関東にしか無かったそうですが、古くは上方でもあったそうです。
”廻し”とは、花魁が一晩で何人ものお客を相手するシステムです。こう書くと凄いなぁ〜と思うかも知れませんが、ものの本や私が古老から聴いた話ですと、お客さんの居る部屋は小さい部屋で、布団が敷いてあるだけで一杯になる狭さだったそうです。そして殆どのお客相手には衣装すら脱がず、体に指一本触れさせなかったそうです。
つまり、マグロ状態のお客の上にまたがって……
色、とかマブと呼ばれる恋人以外は男性の前では裸にはならなかったそうです。
『ネタ』
初代小せん師は病(梅毒、白内障)の為、目が見えなくなったり腰が立たなくなったので、当時の若手に稽古を付けて、稽古料をとり、それで生活していたそうです。俗に小せん学校と呼ばれたそうです。
稽古を付けてもらっていた若手は、5代目志ん生師、八代目正蔵師、6代目圓生師、5代目麗々亭柳橋師、3代目金馬師など、後世の名人が揃っています。
立冬も過ぎましたが、本来は秋の噺で、廓噺の名作「五人廻し」です。この噺は上手な噺家が演じると抜群の面白さです。
【原話】
古くからあった人情噺を明治期に初代柳家小さん師や四代目橘家圓蔵師、それに三遊亭圓右師などを経て初代柳家小せん師が今の型に作り直しました。
【ストーリー】
舞台は夜ふけの遊廓・吉原。売れっ子の花魁、喜瀬川は五人のお客をとったが、一人のお客の部屋に居たっきりで、ほかの部屋を廻らないので、振られた男たちは不満たらたら。可哀想なのは廓の若い衆だ。「三歳から大門をくぐっている」という男からは江戸弁で啖呵を切られ、役人とおぼしき男からは軍人口調で「廓に爆弾を仕掛ける」と脅かされる。そうかと思えば妙な言葉遣いの通人からは、真綿で首を絞めるようなイヤミを言われたあげく、焼け火箸を当てられそうになる。若い衆はようようのことで、喜瀬川のところへ。今夜、喜瀬川がずっと相手をしているのは田舎者のお大尽で、一部始終を話すと、お大尽は「玉代を返して帰って貰え」と言い出します。
そこで各人に50銭ずつ貰って返して、返って貰いました。その後「もう50銭おくれよ」とねだります。
「しょうがねえなあ〜子供なんだから」と言って50銭渡すと、「あんたにも50銭返すから、返っておくれよ」
【演者】
歴代では圓生、志ん生、志ん朝、等歴代の噺家が得意としています。
【注目点】
当時は、廓では、モテないからと言って何か言うのは「野暮」とされたので、登場人物の言い方が、妙に卑屈になっているんですね。そんな可笑しさを味わって欲しいです。
『能書』
”廻し”と言う制度は関東にしか無かったそうですが、古くは上方でもあったそうです。
”廻し”とは、花魁が一晩で何人ものお客を相手するシステムです。こう書くと凄いなぁ〜と思うかも知れませんが、ものの本や私が古老から聴いた話ですと、お客さんの居る部屋は小さい部屋で、布団が敷いてあるだけで一杯になる狭さだったそうです。そして殆どのお客相手には衣装すら脱がず、体に指一本触れさせなかったそうです。
つまり、マグロ状態のお客の上にまたがって……
色、とかマブと呼ばれる恋人以外は男性の前では裸にはならなかったそうです。
『ネタ』
初代小せん師は病(梅毒、白内障)の為、目が見えなくなったり腰が立たなくなったので、当時の若手に稽古を付けて、稽古料をとり、それで生活していたそうです。俗に小せん学校と呼ばれたそうです。
稽古を付けてもらっていた若手は、5代目志ん生師、八代目正蔵師、6代目圓生師、5代目麗々亭柳橋師、3代目金馬師など、後世の名人が揃っています。