らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

三遊亭金馬

「やかん」という噺

1d3e8176『やかん』
今日はこの噺です。秋の噺なんですね。

【原話】
原話は、明和9年(1772年)に刊行された『鹿の子餅』の一遍である「薬罐」という話です。

【ストーリー】
この世に知らないものはないと広言する隠居。
長屋の八五郎が訪ねるたびに、別に何も潰れていないが、愚者、愚者と言うので、一度へこましてやろうと物の名の由来を次から次へと訪ねます。
ところが隠居もさるもの、妙てけれんなこじつけで逃げていきます。
色々な事を聞いたのですが、中々埒があかないので、とうとう薬缶の由来について訪ねます。
少々戸惑った隠居でしたが、ひらめくと滔々と語ります。
 やかんは、昔は軍用に使い、本来は水沸かしというべきもので、もっと大きかった。
 戦の最中大雨の夜、油断をして酒に酔っていると、突然の襲撃に、夜討ちでござる、夜討ちだぁと叫んでみんな大慌て。
 具足を付けたまま寝ていたひとりの若大将が、ガバッと跳ね起きたが兜がない。近くにあった大きな水沸かしの湯を空けて頭に被ると、馬の蹄を蹴立てて敵陣に切込む。敵方は雨のように矢が射るが、当たっても矢がカーン、当たっても矢カーンと跳ね返される。それでやかんという。また、熱いまま被ったので蒸れて毛がすっかり抜けてしまい、それから禿頭をやかん頭という。
 ツルは顎紐に、蓋は口にくわえて面の代わり、口は敵の名乗りを聞くための耳だ、
耳が下を向いているのは雨が入らないように。
 どうして耳が片方しかないんだい?
 片方がないのは、寝る時に枕をあてるため……。

【演者】
三代目金馬師や六代目圓生師をはじめ多くの噺家さんが演じています。
今でも寄席で必ずと言って良いほどよくかかります。
【注目点】
実は余り言われていませんが、「根問」というのは上方落語の題名で、江戸落語ではこのように誰かに聴く噺でも「根問」という題名はつけられていません。
まあ「浮世根問」とかありますけどね。これも上方落語の演目ですしね。
この噺もそうですし、「千早振る」などもついていませんね。そのあたりを考えると面白いです。

『能書』
落語には「根問いもの」と呼ばれるジャンルがあります。
大抵は、八五郎が隠居の処に行き、色々な事を聞くという設定です。
問われた隠居は、、実は知らないのにさも知っていたかのように話すという具合です。
代表的な噺に「千早ふる」「浮世根問」「商売根問」それに「恋根問」なんてのもあります。それから「絵根問」なんてのも有るみたいです。(勿論、聴いたことはありません)

『ネタ』
その昔は知ったかぶりをする人を「やかん」と呼んだそうです。落語以外では聞いたことありません。ホントかしら?

「真田小僧」という噺

4a8871fd『真田小僧』
芋も出て来るので秋の噺としました。体調が中々戻らないので返コメが遅くなるかも知れません。その節は申し訳ありません。

【原話】
講釈の「難波戦記」から出来た上方落語「六文銭」です。それを三代目柳家小さん師が東京に移したものと言われています。噺そのものは東西ともほぼ同じです。

【ストーリー】
親をへこましてばかりの金坊。父親に小遣いをせびり、駄目だと言われると、
「おとっつぁんの留守に家に男の人がやって来て、母親が喜んで家に上げていた」
と言ったので父親はついつい気になり、話がとぎれる度に、もう一銭、もう一銭と追加を取られ、最後は
「いつも来る横丁の按摩さんだった」と言って、外へ駆け出して行ってしまった。
 子供が逃げていってしまうと、女房が帰って来て、夫婦で、末恐ろしい餓鬼だ、今に盗賊になるかも知れないと、嘆くことしきり。(女房が末は立派になるというやり方が今は主流です)
 父親は、それに引き換え、あの真田幸村公は、栴檀は双葉より芳し、十四歳の時、父真幸に付いて、天目山の戦いに初陣した折りに、敵に囲まれて真幸が敗北の覚悟をした時、倅の幸村が、自分に策がありますと申し出て、敵の松田尾張守の旗印である永楽通宝の六連銭の旗を立てて、敵陣に夜襲をかけ、混乱させて同士討ちを誘い、見事に勝利を納めたという。それ以来、真田の定紋は二ツ雁から六連銭になった。という故事を父親が母親に話し、あいつは幸村どころか、石川五右衛門になるかも知れない。と言っているところに帰って来た。そして、いつの間にか聴いていて、
「おとっつぁん、六連銭ってどんな紋?」
「いいか、こういうふうに二列に並んでいるんだ」
「どういう風に二列なの」
 いくら言っても判らないので本物のお金を出して説明すると
「あたいにもちょっと貸して。なるほど」
 そう言って銭を数えるふりをして、お金を取って逃げていく。
「あっ、またやりあがった。おい、それを持ってどこへ行くんだ。寄席でも行くのか」
「今度は焼き芋を買ってくるだい!」
「ああ、いけねえ うちの真田も薩摩へ落ちた」

【演者】
やはり三代目金馬師や六代目圓生師ですかねえ。その前だと初代小せん師が得意にしていたようです。もちろん志ん生師を始め色々な噺家さんが演じています。個人的には志ん朝師が良かったですね。今でも寄席や落語会で多く演じられています。

【注目点】
今、寄席などで演じられている途中で切るやり方では、何故「真田小僧」なのか判りません。たまにはちゃんと最後まで聴きたいですね。

『能書』
真田三代記は元禄時代の歴史小説で、これや難波戦記を元にして「真田十勇士」が生まれました。
六連銭(ろくれんせん)は、家紋の一つで六枚の銭を図案化したもの。真田家の家紋として知られる。六文銭とも言います。圓生師は「りくれんせん」と言っていましたね。

『ネタ』
噺家の符牒で「六」のことを「さなだ」というのは真田家の家紋の六文銭からだと言われています。

「蛇足」
 現在寄席などで演じられているやり方は、子供が遊びに行ってしまった後に女房が帰って来て、どうしたのかと様子を尋ねる。そこで亭主は「お前も聴きたかったら一銭出せ」と落とすやり方です。確かに寄席などの短い時間では仕方ないのかも知れませんが出てくる演者が皆これでは正直白けます。

「佃祭」という噺

a1f5b51f『佃祭』
中々体調が戻りませんが何とか更新してみます。そこで本来はこの時期の噺と思われるこのタイトルにしました。

【原話】
中国の故事からとか、1814年の「耳袋」根岸鎮衛著の「陰徳危機を遁れし事」からとも言われています。

【ストーリー】
神田お玉が池の小間物屋の次郎兵衛さん。住吉神社の佃祭りを見物して終い船に乗ろうとすると、女に袖を引っ張られ引き留められる。
5年前に奉公先で5両の金をなくしてしまい吾妻橋から身投げをしようと途方にくれた処を助けられたと言う、
ややあって、それを思い出した次郎兵衛さんだったが、
終い船も出てしまい仕方がないので、女が嫁いだ船頭の家に行く。
やがて表が騒がしくなり、亭主が飛び込んで来て、船が転覆して全員おぼれて死んだという。
助けたつもりが助けられたと知り、安堵する次郎兵衛さん。
今夜は夫婦の勧めもあり、泊まることにする。

一方、家では大騒ぎ。終い船が転覆の報を受け、早桶や坊さんを頼み、くやみ客がぞろぞろ来る。
そんな事は知らない次郎兵衛さんは翌朝、女の亭主の船頭に送ってもらい帰ってくる。
その姿を見て皆、幽霊だとびっくりするが、次郎兵衛さんの話を聞き皆で大喜びする。
唯一、おかみさんだけがヤキモチを焼く。
これを一部始終聞いていたのが与太郎、止せば良いのに同じことをしたくて、5両のお金を貯めると日夜身投げを探して歩きます。ある時永代橋の袂で女性を見つけます。すわ身投げと喜んで止めにかかると、実は戸隠様に願をかけていただけだった。袂にあったのは身投げ用の石ではなく梨だった。(戸隠神社に願をかけて梨を収めること。当然梨絶ちをする)

【演者】
古くは、三代目金馬師の独壇場でした。また春風亭柳朝師も得意にしていました。勿論志ん朝師も録音を残しています。

【注目点】
途中「くやみ」に似た箇所もあり色々な登場人物がそれぞれの言葉で語るのでかなり難しい噺です。また、オチが今では全く判らないので、マクラで説明が必要です。神様の病気の願掛けの事等を説明してから噺に入ります。
歯が痛いときは戸隠神社(信州)に梨を断って奉納すれば治癒すると言われていました。
ちなみに薬師様は目の病気に霊験あらたかだそうです。それぞれ神様によってお願いする病気も違っていたそうです。

『能書』
佃島は今では歩いて行かれますが昭和39年に佃大橋が出来るまでは築地と佃島の間には渡し船が通っていました。東京では公営の最後の渡しです。私設なら未だ各地にあります。
江戸時代には海を渡って行く場所だったので江戸の人は異国情緒を感じたそうです。
元々が家康が摂津の漁師を呼び寄せて住まわせたので、住民は故郷と同じように街を作ったそうです。それも、そんな感じを抱かせたのでしょう。

『ネタ』
佃島の住吉大社のお祭りは、3年に一度の本祭があり、期間も土日を含む4日間。
神輿を船に載せて氏子地域を廻る「船渡御」や八角神輿の渡御、獅子頭宮出しなどが行なわれるそうです。神輿ごと海に入って行く勇壮なお祭りで江戸時代から人気がありました。
日程は8月の始めの頃です。旧暦だと6月ですね。

この噺自体が諺の「情けは人の為ならず」を元に作られています。
この諺の意味は、情けを人にかけておけば、巡り巡って自分によい報いが来る。また、人に親切にしておけば、必ず後で良い報いがある。と言うことなのです。また、その施しをしたことを忘れるぐらいでないと、本当だと言えない。と言う意味でもあります。

 志ん朝師も生前「夏の噺ですが『船徳』なんかよりよっぽどくたびれる噺です」と語っていました。個人的には朝柳師のも好きでしたね。

「目黒のさんま」

rakugo_meguronosanma『目黒のさんま』
今年もサンマが不漁だそうでして、値段も高くなっているそうです。この前は一匹5000円とかニュースで言っていましたね。超高級魚ですね。我々の口には入らないかも知れませんね。
この噺は秋の噺としては定番ですので取り上げてみたいと思います。

【原話】
三代将軍家光の実話に基づいた噺とも言われていて、かなり古くから演じられています。
生粋の江戸落語で、大体、武士が出て来る噺は江戸が多いですね。

【ストーリー】
 ある藩の殿様が不意に野駆に出かけると言い出し、さっさと馬に乗り出かけて仕舞います。(ここを鷹狩とやる噺家さんもいます)
中目黒あたり迄来たのですが、弁当を持ってこなかったので、昼時になると腹が減ってしかたありません。その時どこからか、魚を焼くいい匂いがします。聞くと秋刀魚と言う魚だと言う。
供は「この魚は下衆庶民の食べる下衆魚、決して殿のお口に合う物ではございません」と言う。
殿様は「こんなときにそんなことを言っていられるか」と言い、供にさんまを持ってこさせた。これはサンマを直接炭火に突っ込んで焼かれた「隠亡焼き」と呼ばれるもので、殿様の口に入れるようなものであるはずがない。とはいえ食べてみると非常に美味しく、殿様はさんまという魚の存在を初めて知り、かつ大好きになった。
それ以来、寝ても覚めても秋刀魚の事ばかりが頭に浮かびます。
ある日、ある親戚の集まりで好きなものが食べられるというので、殿様は「余はさんまを所望する」と言う。
だがさんまなど置いていない。急いでさんまを買って来て、焼くのだが、脂が多く出る。
それでは体に悪いということで脂をすっかり抜き、骨がのどに刺さるといけないと骨を一本一本抜くと、さんまはグズグズになってしまう。こんな形では出せないので、椀の中に入れて、餡掛けにして出します。
殿様は見ると、かって秋刀魚とは似ても似つかぬ姿に「これは秋刀魚か?」と聞きます。
「秋刀魚にございます」という返事に食べてみたが、不味いの何の。
「いずれで求めたさんまだ?」と聞く。「はい、日本橋魚河岸で求めてまいりました」「ううむ。それはいかん。さんまは目黒に限る」。

 この設定が通常ですが、八代目林家正蔵師は将軍様として演じていました。歴史的に考えるとその方が無理が無いそうです。それに史実に基づいているとか……。

【演者】
これは色々な噺家さんが演じています。特に三代目金馬師は有名です。
小さん、圓生、等も良いですね。

【注目点】
最期のお殿様が食べる椀物ですが、圓生師は餡掛けとしていましたが、普通の椀物とする方が一般的の様です。
目黒あたりは、当時将軍家の御鷹狩の場所でした。広大な範囲だった様です。
だから鷹狩とする場合は、本当は目黒方面と言う方が良いと思います。

『能書』
落語に登場する殿様は、大抵、赤井御門守ですね。
石高は「12万3,456石7斗8升9合1つかみ半分」とされています。
名前からも判る様に、将軍家と姻戚関係があります。(門が赤いのは将軍家から輿入れがあった証)
一節には天皇家の血筋を引く家柄とも言われています。

『ネタ』
 殿様が食べた秋刀魚ですが、江戸時代には目黒は芋の産地で行商が盛んに行われていたそうです。
「目黒の芋」の大需要地が、東海道品川宿と、大きな魚市場が当時存在していた芝であったので、目黒を朝早く出て両地にて芋を売り、その代金で「芝のサンマ」を買って、昼過ぎに歩いて目黒に帰るのが行商人のパターンの一つだったという事です。
ですから、昼過ぎには間に合ったのですね。
後で食べた魚河岸の秋刀魚ですが、当時は保存の為、産地(銚子等)で塩を軽く振り、鮮度の維持に努めました。その後船で一昼夜かけて、日本橋に運び込まれたので、一般の人々が食べる頃は、塩味が付いていて、
そのまま焼いても美味しかったそうです。

「孝行糖」という噺

ameuri『孝行糖』
今日は与太郎噺のこの噺です。

【原話】
明治初期に作られた上方落語の「新作」といわれますが、作者は未詳です。
三代目圓馬師が東京に移植、戦後は三代目金馬師の十八番として知られ、
四代目金馬も演じています。
「本場」の大阪では、一時は演じ手がなかったのですが、最近は結構演じる人が出て来ています。かっては5代目桂文枝師が演じていました。今は桂九雀さんや、youtubeには笑福亭生寿さんが上がっていますね。

【ストーリー】
親孝行が認められてお上から青ざし五貫匁という褒美を頂いた与太郎に長屋の連中は大喜び。
この金を元手に与太郎に商売をさせようということになり、親孝行の功で褒美を頂いたことから「孝行糖」という名で流しの飴屋をやることに。
親孝行の徳、この飴を食べると子どもが親孝行になるというので、孝行糖は大人気。
ある日いつものように文句を唱えながら飴を売り歩いていると大名屋敷前で鳴り物を止めよと咎められる。
しかし、のんきな与太郎は叱りつける侍の言葉にあわせて「ちゃんちきちん、すけてん」などと歌うものだから、捕らえられてしまう。
偶然通りかかった人が門番に事情を説明して与太郎を助け出し、道の端へ与太郎を連れて行きこう言った。
「打ち首にされてもおかしく無いが親孝行の徳でお前は助かったんだ。どれ、何処を殴られたか言ってみろ」
すると与太郎。泣きながら体を指差して
「こぉこぉとぉこぉこぉとぉ(こことここと)」

【演者】
かなりの噺家さんが演じています。個人的には金馬師も良いですが、志ん朝師と柳朝師が好きです。

【注目点】
孝行糖売りは明治初期、大阪にいたという説がありますが、実はその以前、弘化3年(1846)2月ごろにはこの噺の与太郎と同じような格好をした飴売りが居たという情報もあります。

『ネタ』
水戸さまの屋敷前と言うのは今の後楽園の所ですね。
いまでは車が引きも切りませんが、当時は街外れで寂しかったんですね。

『能書』
飴は記紀の時代からあったようですが、今の様に甘く菓子として扱われるようになったのは平安時代だそうです。

「藪入り」という噺

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藪入りとは一月の十六日と七月の十六日に奉公人が休みを貰えて実家等に帰れる日の事で、古くは宿入りといい、商家の奉公人の特別休暇のことです。
奉公人だけはなく、お嫁さんも小遣いやおみやげを貰えて実家に帰れました。
最も近頃は近所に住んで、毎日帰ってる方が多い様ですが……。

【原話】
元々は「お釜様」と言うバレ噺だったのを、初代小せん師がバレの部分を取り、「鼠の懸賞」と言う題に替えました。それを三代目金馬師が練り直し人情味を加えて「藪入り」と言う噺に仕上げました。
演者には、金馬師を始め今輔師、五代目圓楽師、や小三治師等多くいます。

【ストーリー】
明日息子が藪入りで初めて帰ってくるというので、熊さんは気もそぞろ。鰻を食わせてやろう、御大師様へ連れて行こうと一睡もしないで帰りを待っていると入り口に人の気配。「めっきりお寒くなりまして……。お父ッつぁん、おッ嬶さんにもお変わりなく」という挨拶をしたのは、まだ子供だと思っていた亀坊。さっぱりして来なと風呂に行かせて荷を片付けると紙入れから十五円という大金が出てきます。
心配性のかみさんが、子供に十五円は大金で、そんな額をだんながくれるわけがないから、
ことによると魔がさして、お店の金でも……
と言いだしたので、気短で単純な熊は、帰ってきた亀を、いきなりポカポカ。
かみさんがなだめでわけを聞くと、このごろペストがはやるので、
鼠を獲って交番に持っていくと一匹十五円の懸賞に当たったものだと、わかる。

だんなが、子供が大金を持っているとよくないと預かり、今朝渡してくれたのだ、という。
へえ、うまくやりゃあがったな。この後ともにご主人を大切にしなよ。
これもやっぱりチュウ(=忠)のおかげだ」

【演者】
今では本当に多くの演者が高座に掛けますが、やはり三代目金馬師がいいですね〜 笑わせて最後はしっかりと泣かせてくれます。
先代圓楽師もやりましたし、最近は小三治師も演じますね。

【注目点】
やはり前半の熊さんの子供の亀ちゃんを思う親心ですが、これがやり過ぎで笑いを誘います。
一転して後半の人情噺の部分ではしっかりと泣かせてくれます。この泣き笑いのメリハリが大事だと思います。

『能書』
今では奉公等したこと無い方ばかりですが、それでも別れて暮らす親子の情愛は伝わると思います。
兎に角、前半の熊さんの妄想のおかしさと、後半のやり取りといい、味わい深い噺だと思います。

『ネタ』
その昔は奉公に出ると三年〜五年は家に帰して貰えませんでした。ですから、家に帰る事が許されて新品の着物一式や真新しい草履を履けて家に帰れる前の晩は、嬉しくて眠られ無かったそうです。
そんな時代のお噺ですが、子を思う親の気持ちは何時の時代でも同じだと思います。
 
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