はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

三遊亭金馬

「佃祭」という噺

photo_2『佃祭』
今日は、タイトルの通り、佃島のお祭りに絡んだお噺です。

【原話】
中国の故事からとか、1814年の「耳袋」根岸鎮衛著からとも言われています。

【ストーリー】
神田お玉が池の小間物屋の次郎兵衛さん。住吉神社の佃祭りを見物して終い船に乗ろうとすると、女に袖を引っ張られ引き留められる。
5年前に奉公先で5両の金をなくしてしまい吾妻橋から身投げをしようと途方にくれた処を助けられたと言う、
ややあって、それを思い出した次郎兵衛さんだったが、
終い船も出てしまい仕方がないので、女が嫁いだ船頭の家に行く。
やがて表が騒がしくなり、亭主が飛び込んで来て、船が転覆して全員おぼれて死んだという。
助けたつもりが助けられたと知り、安堵する次郎兵衛さん。
今夜は夫婦の勧めもあり、泊まることにする。

一方、家では大騒ぎ。終い船が転覆の報を受け、早桶や坊さんを頼み、くやみ客がぞろぞろ来る。
そんな事は知らない次郎兵衛さんは翌朝、女の亭主の船頭に送ってもらい帰ってくる。
その姿を見て皆、幽霊だとびっくりするが、次郎兵衛さんの話を聞き皆で大喜びする。
唯一、おかみさんだけがヤキモチを焼く。
これを一部始終聞いていたのが与太郎、止せば良いのに同じことをしたくて、5両のお金を貯めると日夜身投げを探して歩きます。ある時永代橋の袂で女性を見つけます。すわ身投げと喜んで止めにかかると、実は戸隠様に願をかけていただけだった。袂にあったのは身投げ用の石ではなく梨だった。(戸隠神社に願をかけて梨を収めること。当然梨絶ちをする)
【演者】
古くは、三代目金馬師の独壇場でした。また春風亭柳朝師も得意にしていました。勿論志ん朝師も録音を残しています。

【注目点】
途中「くやみ」に似た箇所もあり難しい噺ですし、オチが今では全く判らないので、マクラで説明が必要です。神様の病気の願掛けの事等を説明してから噺に入ります。
歯が痛いときは戸隠神社(信州)に梨を断って奉納すれば治癒すると言われていました。
ちなみに薬師様は目の病気に霊験あらたかだそうです。それぞれ神様によってお願いする病気も違っていたそうです。

『能書』
佃島は今では歩いて行かれますが昭和39年に佃大橋が出来るまでは築地と佃島の間には渡し船が通っていました。東京では公営の最後の渡しです。私設なら未だ各地にあります。
江戸時代には海を渡って行く場所だったので江戸の人は異国情緒を感じたそうです。
元々が家康が摂津の漁師を呼び寄せて住まわせたので、住民は故郷と同じように街を作ったそうです。それも、そんな感じを抱かせたのでしょう。
『健二のネタ』
佃島の住吉大社のお祭りは、3年に一度の本祭があり、期間も土日を含む4日間。
神輿を船に載せて氏子地域を廻る「船渡御」や八角神輿の渡御、獅子頭宮出しなどが行なわれるそうです。神輿ごと海に入って行く勇壮なお祭りで江戸時代から人気がありました。
日程は8月の始めの頃です。旧暦だと6月ですね。

この噺自体が諺の「情けは人の為ならず」を元に作られています。
この諺の意味は、情けを人にかけておけば、巡り巡って自分によい報いが来る。また、人に親切にしておけば、必ず後で良い報いがある。と言うことなのです。また、その施しをしたことを忘れるぐらいでないと、本当だと言えない。と言う意味でもあります。

道灌という噺

1850d4e8今日は柳家の噺家さんが最初に教わるという「道灌」です。

初代林家正蔵の咄本『笑富林』(1833年刊)に原型が見られる。江戸発祥の落語です。
8代目桂文楽師匠が初めて高座で演じた噺だそうです。白梅亭という寄席での事だそう・・・・

八つぁんがご隠居の家に遊びに来ていて、ふと目に止まった絵を訪ねます。
 鷹狩りに出た太田持資公が、俄かの村雨に合い、雨具を借用したいと山中のあばら家を訪ねると、少女が盆の上に山吹の花を差し出した。
中村一馬が兼明親王の古歌「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき」で(実の)と(蓑)をかけ合わせた断りの意味でしょうと、解説すると、まだまだ自分は歌道に暗いと帰城した。
後に入道して大田道灌となり返歌をした。「急がずは濡れざらましを旅人の後より晴るる野地の村雨」
よし分かった、傘借りに来たとき雨具がねぇって歌だと勘違い。
相手がこの歌知らなかったら、その人は歌道に暗いって事だなと勝手な思い込み。
 家に帰ると、雨が降り知人が訪ねて来た。提灯を貸してくれというのを無理に雨具を貸せと言わせ、
件の歌を聞かせた。この歌知らねぇようじゃ歌道が暗いな。
「ああ、角が暗いから提灯借りに来た。」

都電荒川線「面影橋駅」の側に掛かる「面影橋」のたもとに、「山吹の里」の碑が建っています。
この辺から下流の江戸川橋までの一帯は昔「山吹の里」と呼ばれていた所だそうです。
噺の舞台は、きっとこの辺だったのでしょうね。
現にこのあたりには、落語に登場する話しと同じ様な逸話が残っています。

東京落語では、入門したての前座へのはじめての稽古を、この噺からはじめる一門が多い(特に柳家)ので、
そのため代表的な前座噺です。寄席等でも高い確率で聴けます。
古今亭は「からぬけ」ですね。

五代目小さん師等はこの演目で寄席などでトリの演目に掛けていましたが、これは小さん師ならではだと思います。
私は、同じ様なので六代目圓生師が「たらちね」をトリで演じたのを聴いていますが、それは見事なものでした。
でも他の噺家さんでは駄目だったでしょうね。
前座噺を見事に演じる事が出来たら名人とも言われています。
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朝の日常の会話

どじょう今日は「小言念仏」です。

ここの処、夏風邪をこじらせてしまい、更新できませんでした。
夏らしい噺だと思うのですが……
源話は不明で、上方落語「世帯念仏」を、明治の頃に東京に移したものですが詳しいことは判っていません。

毎朝念仏を日課としている爺さんは、信心深いがすぐ小言をいってしまう性格です。
その日も朝早くから念仏を唱えていますが、、家人の動きが気になります。
すると、「なむあみだぶ、なむあぶだぶ、おばあさん仏壇そうじしなくちゃいけないよ。なむあみだぶ、なむあみだぶ…」と我慢できず小言をいってしまう。
そうなると、もう止まらなくなってしまい「なみあみだぶつ」の間に小言を入れる有様です。
子供を起こさないと学校に間に合わない、やかんのお湯が沸騰している、ご飯のこげたにおいがする、
赤ん坊が這ってきたら念仏の合間に「バァ。」、

様子がおかしいから家のものに見ておくような等思った小言を全ていってしまいます。
そんれから、家人が味噌汁の具を聞いてきたので、どじょう屋が家の前を通ったので、これに決め、大声で呼び止めます。
「鍋に酒ェ入れなさいとか、暴れてるか?蓋取ってみな、腹だしてくたばりゃあがった!?」
「ナムアミダブ、ナマンダブ、ざまァみゃがれ」

どじょうは当時、鰻にくらべて安価で、精のつくものとして、江戸時代は八つ目うなぎとともに好まれたそうです。
よく、やるのは、味噌汁等で茹でる時に豆腐を鍋に入れておいて、どじょうを入れて火に掛けると、
暑さでどじょうが皆豆腐に首を突っ込んで煮上がる。と言う方法ですね。続きを読む

仙台高尾という噺

member10今日は「仙台高尾」です。

伊達騒動事件の元となった噺としても有名ですね。
仙台六十二万石伊達綱宗が三浦屋の万治の二代目高尾に夢中になりまして、いわゆる仙台高尾と後に云われる太夫です。この時に高尾太夫が詠んだのが
「君は今駒形あたりほととぎす」という句ですね。

高尾には島田重三郎という情人があったので綱宗のいうことを聞かず、意地になった綱宗が高尾の体重と同じ重さの黄金二十貫で身請けしたという説もあります。
のちに芝の下屋敷へ舟で連れていく途中、三つ又(隅田川の現在の清洲橋と永代橋の間にあった砂洲)で吊るし斬りにしたという説があるんですね。
そして、高尾の遺体が数日後、この地大川端(隅田川)の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構えていた僧が居合わせて引き揚げ、手厚く葬ったといわれます。高尾の不憫な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て、彼女の神霊・高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたそうです。
これが今でも残る中央区日本橋箱崎町:IBM社屋のすぐそばにある高尾稲荷社です。
DSC02586
しかし、一説によると高尾太夫は身請けされ、のちに仙台の仏眼寺(ぶつげんじ)に葬られたとも言われる。説もあるそうです。

吉原の太夫と言う名称は最高級の遊女で初期の頃には大勢いましたが、育て上げるまでに時間と資金が掛かったので、
享保(1716〜)には4人に減り、宝暦10年(1760)には玉屋の花紫太夫を最後に太夫はいなくなったそうです。
 太夫というのは、豪商、大名相手の花魁で見識があり美貌が良くて、教養があり、吉原ナンバーワンの花魁。
文が立って、筆が立ち、茶道、花道、碁、将棋が出来て、三味線、琴の楽器が出来て、歌が唄えて、和歌、俳諧、が出来た。それも人並み以上に。借金の断りもできたと言うスーパーマンですね。
逆を言えば、吉原の客が豪商や大名から庶民になって来て、必要が無くなってきたと言う事ですね。続きを読む

飴売りの与太郎は本当に居た?!

ameuri今日は三代目金馬師で有名な「孝行糖」です。

明治初期に作られた上方落語の「新作」といわれますが、作者は未詳です。
三代目円馬師が東京に移植、戦後は三代目金馬師の十八番として知られ、
四代目金馬も演じています。
「本場」の大阪では、現在は演じ手がないと言う事だそうです。

孝行糖売りは明治初期、大阪にいたという説がありますが、実はその以前、
弘化3年(1846)2月ごろから藍鼠色の霜降に筍を描いた半纏を着て、
この噺と同じ唄をうたいながら江戸の町を売り歩いていた飴屋がいたことが
幕末の政商・藤岡屋由蔵の「見聞日記」に記されています。
まず、当人に間違いありません! いたんですよ!与太郎!

親孝行が認められてお上から青ざし五貫匁という褒美を頂いた与太郎に長屋の連中は大喜び。
この金を元手に与太郎に商売をさせようということになり、親孝行の功で褒美を頂いたことから「孝行糖」という名で流しの飴屋をやることに。
親孝行の徳、この飴を食べると子どもが親孝行になるというので、孝行糖は大人気。
ある日いつものように文句を唱えながら飴を売り歩いていると大名屋敷前で鳴り物を止めよと咎められる。
しかし、のんきな与太郎は叱りつける侍の言葉にあわせて「ちゃんちきちん、すけてん」などと歌うものだから、捕らえられてしまう。
偶然通りかかった人が門番に事情を説明して与太郎を助け出し、道の端へ与太郎を連れて行きこう言った。
「打ち首にされてもおかしく無いが親孝行の徳でお前は助かったんだ。どれ、何処を殴られたか言ってみろ」
すると与太郎。泣きながら体を指差して
「こぉこぉとぉこぉこぉとぉ(こことここと)」

結局はただのダジャレなんですが、そこがまた良いですね〜(^^)

水戸さまの屋敷前と言うのは今の後楽園の処ですね。
いまでは車が引きも切りませんが、当時は町外れで寂しかったんですね。

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