『鼠穴』
今日は火事の多い冬の夜に聴くには持って来いの噺です。
能登の震災の被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げます。
【原話】
元は上方落語です。それが大正の始めに三代目三遊亭圓馬師が東京に持ち込みました。
兄弟の噺です。
【ストーリー】
江戸の兄を頼って、越後から弟が職探しに来ました。兄は、商いの元にと銭をくれたが、開けてみると三文しか入っていないません。
馬鹿にするなと、一旦は腹を立てますが、思い留まり、これでさんだらぼっちを買ってサシを作って売り、
その利益で草鞋を作り、昼も夜も働き詰めで、十年後には店を構えるまでになりました。
三文の礼を言うために兄の元を訪れ、十年目の事を言うと、実は……と訳を知り、二人で苦労話で盛り上がり、泊まることになりました。
深夜、店が火事だとの知らせで慌てて帰ると、店が焼けています。
せめて蔵が残ってくれればと念じていたが、鼠穴から火が入ってすっかり焼けてしまいました。
兄にお金を借りに行きますが、相手にしてくれません。
「やはり兄は人の皮を被った鬼だ……」
一文なしになった親に、娘のお花が「あたいを吉原に売って金を作れ」という。涙を流しながら金を借りたが、家に帰る途中掏摸にあって、持ち金をすっかり取られてしまった。
途方に暮れて木の枝に帯をかけて自殺しようと……。
「武、武、うなされてどうした」
「あ、夢か、おら鼠穴が気になって」
「無理もねえ、夢は土蔵(五臓)の疲れだ」
【演者】
やはり六代目圓生師が特筆されます。個人的には立川談志師や小三治師も良かったですね。
今は現役では誰でしょうか?
【注目点】
いていつも思うのは、兄の性格でしょうねえ。
三文しか弟に貸しませんでしたが、本当はどうだったのか?
それから、夢の中で借金を断ると言う事。
このあたりをどう表現するかで変わってきますね。
私は、三文のことはそのまま弟が納得してしまうこと等から思うに、かっては本当にそう云う事を平気でしていた人だったのだと思います。
借金を申し込まれても絶対に応じなかったのだとではないか?
志の輔師等は、「自分はお前にいくら渡すべきか迷いに迷った。気がついたら3文渡していた」と言わせていて、かなり迷った様な演出をしています。
大方は、「文句を言って来たら……」となっていますが、それは言い逃れのような気も少しします。
『能書』
三戸前(みとまえ)とは……
「戸前」は、土蔵の入口の戸を立てる場所の事で、蔵の数を数える数詞になりました。
「三戸前」は蔵を三つ持つこと。蔵の数は金持ちの証でした。
『ネタ』
個人的にですが、圓生師の演じている兄の描写を聴いてると、兄は完全には弟を許していない感じがします。(他の演者さんでは感じません)
むしろ、談志師の高座では、焦点が弟に合わされていることもあり、かなり情が有るように感じます。小三治師も同じ感じですね。本来は仲の良い兄弟という感じがします。
まあ、そんな違いも聴きどころだと思います。
「蛇足」
この噺の欠点というか分かり難さはやはりサゲでしょうね。
「夢は土蔵(五臓)の疲れだ」とのは今では通じなくなっていますね。落語通なら「宮戸川」のサゲと同じという事で理解出来ますが、普通は知りませんよね。
今日は火事の多い冬の夜に聴くには持って来いの噺です。
能登の震災の被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げます。
【原話】
元は上方落語です。それが大正の始めに三代目三遊亭圓馬師が東京に持ち込みました。
兄弟の噺です。
【ストーリー】
江戸の兄を頼って、越後から弟が職探しに来ました。兄は、商いの元にと銭をくれたが、開けてみると三文しか入っていないません。
馬鹿にするなと、一旦は腹を立てますが、思い留まり、これでさんだらぼっちを買ってサシを作って売り、
その利益で草鞋を作り、昼も夜も働き詰めで、十年後には店を構えるまでになりました。
三文の礼を言うために兄の元を訪れ、十年目の事を言うと、実は……と訳を知り、二人で苦労話で盛り上がり、泊まることになりました。
深夜、店が火事だとの知らせで慌てて帰ると、店が焼けています。
せめて蔵が残ってくれればと念じていたが、鼠穴から火が入ってすっかり焼けてしまいました。
兄にお金を借りに行きますが、相手にしてくれません。
「やはり兄は人の皮を被った鬼だ……」
一文なしになった親に、娘のお花が「あたいを吉原に売って金を作れ」という。涙を流しながら金を借りたが、家に帰る途中掏摸にあって、持ち金をすっかり取られてしまった。
途方に暮れて木の枝に帯をかけて自殺しようと……。
「武、武、うなされてどうした」
「あ、夢か、おら鼠穴が気になって」
「無理もねえ、夢は土蔵(五臓)の疲れだ」
【演者】
やはり六代目圓生師が特筆されます。個人的には立川談志師や小三治師も良かったですね。
今は現役では誰でしょうか?
【注目点】
いていつも思うのは、兄の性格でしょうねえ。
三文しか弟に貸しませんでしたが、本当はどうだったのか?
それから、夢の中で借金を断ると言う事。
このあたりをどう表現するかで変わってきますね。
私は、三文のことはそのまま弟が納得してしまうこと等から思うに、かっては本当にそう云う事を平気でしていた人だったのだと思います。
借金を申し込まれても絶対に応じなかったのだとではないか?
志の輔師等は、「自分はお前にいくら渡すべきか迷いに迷った。気がついたら3文渡していた」と言わせていて、かなり迷った様な演出をしています。
大方は、「文句を言って来たら……」となっていますが、それは言い逃れのような気も少しします。
『能書』
三戸前(みとまえ)とは……
「戸前」は、土蔵の入口の戸を立てる場所の事で、蔵の数を数える数詞になりました。
「三戸前」は蔵を三つ持つこと。蔵の数は金持ちの証でした。
『ネタ』
個人的にですが、圓生師の演じている兄の描写を聴いてると、兄は完全には弟を許していない感じがします。(他の演者さんでは感じません)
むしろ、談志師の高座では、焦点が弟に合わされていることもあり、かなり情が有るように感じます。小三治師も同じ感じですね。本来は仲の良い兄弟という感じがします。
まあ、そんな違いも聴きどころだと思います。
「蛇足」
この噺の欠点というか分かり難さはやはりサゲでしょうね。
「夢は土蔵(五臓)の疲れだ」とのは今では通じなくなっていますね。落語通なら「宮戸川」のサゲと同じという事で理解出来ますが、普通は知りませんよね。