今日は五代目圓楽師匠の命日です。
師匠は、易行院と言うお寺の生まれで、この寺は、浅草の清川町にありましたが、後に足立区伊興に移転しています。だから師匠は足立区育ちですね。
若い頃は、談誌師、志ん朝師、柳朝師と共に「四天王」と呼ばれました。
晩年の音源や映像だけを見てると余り感じないかも知れませんが、若い頃は、才気走っていて、カミソリの様な感じがしました。その後ややマイルドになり、その替り、スケールの大きな噺をするようになりました。
ある時から師匠は噺を分かりやすく、楽しい方向に変化したのではないでしょうか。
協会を脱退して地方公演が多くなり、寄席に出られなくなった結果、寄席の客相手の話しぶりから変化を求められ
必要に迫られたのではないでしょうか。
晩年は入れ歯に悩んで2年位高座に立たなかった事があります。入れ歯では志ん朝師も随分悩んでいたそうです。永六輔さんに「いい歯医者」を紹介してくれと志ん朝師が言ってたそうです。
それを聴いた圓楽師は自分がやっと満足いく入れ歯をこさえたので、「強ちゃん、いい歯医者紹介してあげるからおいでよ」と言っていたそうです。
66歳の時に腎不全を発症して、以後は週3回の人工透析を受けるようになりましたが、これは大変ですね。
私の父も生前、やはり透析を行なっていましたが、体力が取られるんですよね。
それに慣れないうちは食べ物が喉を通らなくて、これも辛いですね。
そんな中で高座を務めていたのは、凄いですね。
私の個人的な思い出としては、まだ元気な頃、上野の松坂屋の近くで歩いている処を見かけました。
立っている姿はかなり大柄で180以上ある様な感じでしたね。
トンカツ屋の「蓬莱屋」に入っていきました。
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師匠は、易行院と言うお寺の生まれで、この寺は、浅草の清川町にありましたが、後に足立区伊興に移転しています。だから師匠は足立区育ちですね。
若い頃は、談誌師、志ん朝師、柳朝師と共に「四天王」と呼ばれました。
晩年の音源や映像だけを見てると余り感じないかも知れませんが、若い頃は、才気走っていて、カミソリの様な感じがしました。その後ややマイルドになり、その替り、スケールの大きな噺をするようになりました。
ある時から師匠は噺を分かりやすく、楽しい方向に変化したのではないでしょうか。
協会を脱退して地方公演が多くなり、寄席に出られなくなった結果、寄席の客相手の話しぶりから変化を求められ
必要に迫られたのではないでしょうか。
晩年は入れ歯に悩んで2年位高座に立たなかった事があります。入れ歯では志ん朝師も随分悩んでいたそうです。永六輔さんに「いい歯医者」を紹介してくれと志ん朝師が言ってたそうです。
それを聴いた圓楽師は自分がやっと満足いく入れ歯をこさえたので、「強ちゃん、いい歯医者紹介してあげるからおいでよ」と言っていたそうです。
66歳の時に腎不全を発症して、以後は週3回の人工透析を受けるようになりましたが、これは大変ですね。
私の父も生前、やはり透析を行なっていましたが、体力が取られるんですよね。
それに慣れないうちは食べ物が喉を通らなくて、これも辛いですね。
そんな中で高座を務めていたのは、凄いですね。
私の個人的な思い出としては、まだ元気な頃、上野の松坂屋の近くで歩いている処を見かけました。
立っている姿はかなり大柄で180以上ある様な感じでしたね。
トンカツ屋の「蓬莱屋」に入っていきました。
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