『紋三郎稲荷』
今回はこの噺です。調べると冬の噺との事なので、取り上げて見たいと思います。
【原話】
1802年享和2年の随筆集の「古今雑談思出草紙」からと言われています。
または寛政10(1798)年刊「無事志有意」中の「玉」です。
【ストーリー】
常陸(茨城県)笠間八万石、牧野越中守の家臣、山崎平馬。参勤交代で江戸勤番に決まりましたが、風邪をひいてしまい、同僚の者より二、三日遅れて国元を出発しまた。
季節は初冬、旧暦十一月で、病み上がりですから、かなり厚着をしての道中となりました。
取手の渡しを渡ると、往来に駕籠屋が二人います。病後でもあり、風も強いので乗ることにします。
交渉すると駕籠屋が八百文欲しいと言うところ、気前よく酒手込みで一貫文はずみました。
途中、心地よくうとうとしていると、駕籠屋の後棒が先棒に、
「この頃は値切らなければ乗らない客ばかりなのに、言い値で乗るとはおかしい、お稲荷さまでも乗っけたんじゃねえか」
と話しているのが、耳に入ります。
はて、どういうわけでそう言うのかとよく考えるとどうやら、、寒いので背割羽織の下に、胴服といって狐の毛皮を着込んでいました。その毛皮の尻尾がはみ出し、駕籠の外に先が出ていいて、それが稲荷の化身の狐と間違われたことに気がつきます。
洒落気がある平馬なので、からかってやろうと尻尾を動かすと、駕籠屋は仰天。そこで、「わしは紋三郎(稲荷()の眷属だ」
等と出まけせを言ったから、駕籠屋はすっかり信じ込みます。その上、途中の立て場でべらべら吹聴するので、ニセ稲荷はすっかり閉口。
松戸の本陣の主人、高橋清左衛門なる者が大変に紋三郎稲荷を信仰しているため、平馬はそこに連れていかれてしまいます。下りて駕籠賃を渡すと駕籠屋、
「木の葉に化けるなんてことは……」
「たわけたことを申せ。それは野狐のすることだ」
主人の清左衛門は、駕籠屋から話を聞いて大喜び。羽織袴で平馬の部屋に現れ
「紋三郎稲荷さまにお宿をいただくのは、冥加に余る次第にございます。
中庭にささやかながらお宮をお祭りし、ご夫婦のお狐さまも祠においであそばします」
と挨拶しましたので、、平馬は
「駕籠屋のやつ、ここの親父にまでしゃべった、どうも弱った」
と思いましたが、いっそしばらく化け込もうと決めます。
清左衛門が、夕食はおこわに油揚げなどと言いだすので、平馬はあわてて
「そんなものは初心者の狐のもので、わしほどになると何でも食うから、酒のよいのと、
ここの名物の鯰鍋、鯉こくもよい」
等と言うので、贅沢な狐だと思いながらも、粗相があってはと、主人みずから給仕する歓待ぶりです。
平馬は、酔っぱらって調子に乗り、
「この間は王子稲荷と豊川稲荷の仲裁をした」
などと吹きまくるのです。
そのうち近所の者が、稲荷さまがお泊りと聞いて大勢「参拝」に押しかけたというので、
「それは奇特なことである。もし供物、賽銭などあらば申し受けると伝えよ」
「へへー」
等とやります。
喜んだ在所の衆、拝んでは部屋に再選を放り込んでいくので、平馬は片っ端から懐へ入れてしまいます。
平馬は儲かったので、バレないうちにずらかろうと、縁側から庭に下り、切戸を開け一目散。
それを祠の下で見ていた狐の亭主、
「おっかあ」
「なんだい、おまいさん」
「化かすのは、人間にはかなわねえ」
【演者】
明治から大正にかけ、「品川の円蔵」こと四代目橘家円蔵が得意にした噺で、六代目圓生師に受け継がれました。
二代目円歌師の高座が有名です。二代目円歌師没後は圓生師が、その後は三代目円歌師が演じていました。
今は、柳家一琴師や入船亭扇辰師が演じています。
【注目点】
圓生師はそれまでの道中の名前等がいい加減だったので、本を読み修正したそうです。この辺に圓生師の気質が表れていますね。
『能書』
紋三郎稲荷とは、茨城県笠間市の笠間稲荷の通称です。
「紋三郎」の通称の由来は、常陸国(いまの茨城県)笠間藩、牧野家初代藩主・牧野貞通の一族の牧野門三郎にちなむものとされます。
祭神は宇迦之御魂神(うかのみかまのかみ)で、創建は白雉(はくち)年間(650〜654)と相当古いです。
伏見稲荷、豊川稲荷と共に、日本三代稲荷の一つで、現在も五穀豊穣の祭神として、信仰を集めています。
『ネタ』
背割羽織とは、別名「ぶっさき羽織」「ぶっさばき」とも呼びます。
武士が乗馬や旅行の際に着用した、背中の中央から下を縫い合わせていない羽織です。
今回はこの噺です。調べると冬の噺との事なので、取り上げて見たいと思います。
【原話】
1802年享和2年の随筆集の「古今雑談思出草紙」からと言われています。
または寛政10(1798)年刊「無事志有意」中の「玉」です。
【ストーリー】
常陸(茨城県)笠間八万石、牧野越中守の家臣、山崎平馬。参勤交代で江戸勤番に決まりましたが、風邪をひいてしまい、同僚の者より二、三日遅れて国元を出発しまた。
季節は初冬、旧暦十一月で、病み上がりですから、かなり厚着をしての道中となりました。
取手の渡しを渡ると、往来に駕籠屋が二人います。病後でもあり、風も強いので乗ることにします。
交渉すると駕籠屋が八百文欲しいと言うところ、気前よく酒手込みで一貫文はずみました。
途中、心地よくうとうとしていると、駕籠屋の後棒が先棒に、
「この頃は値切らなければ乗らない客ばかりなのに、言い値で乗るとはおかしい、お稲荷さまでも乗っけたんじゃねえか」
と話しているのが、耳に入ります。
はて、どういうわけでそう言うのかとよく考えるとどうやら、、寒いので背割羽織の下に、胴服といって狐の毛皮を着込んでいました。その毛皮の尻尾がはみ出し、駕籠の外に先が出ていいて、それが稲荷の化身の狐と間違われたことに気がつきます。
洒落気がある平馬なので、からかってやろうと尻尾を動かすと、駕籠屋は仰天。そこで、「わしは紋三郎(稲荷()の眷属だ」
等と出まけせを言ったから、駕籠屋はすっかり信じ込みます。その上、途中の立て場でべらべら吹聴するので、ニセ稲荷はすっかり閉口。
松戸の本陣の主人、高橋清左衛門なる者が大変に紋三郎稲荷を信仰しているため、平馬はそこに連れていかれてしまいます。下りて駕籠賃を渡すと駕籠屋、
「木の葉に化けるなんてことは……」
「たわけたことを申せ。それは野狐のすることだ」
主人の清左衛門は、駕籠屋から話を聞いて大喜び。羽織袴で平馬の部屋に現れ
「紋三郎稲荷さまにお宿をいただくのは、冥加に余る次第にございます。
中庭にささやかながらお宮をお祭りし、ご夫婦のお狐さまも祠においであそばします」
と挨拶しましたので、、平馬は
「駕籠屋のやつ、ここの親父にまでしゃべった、どうも弱った」
と思いましたが、いっそしばらく化け込もうと決めます。
清左衛門が、夕食はおこわに油揚げなどと言いだすので、平馬はあわてて
「そんなものは初心者の狐のもので、わしほどになると何でも食うから、酒のよいのと、
ここの名物の鯰鍋、鯉こくもよい」
等と言うので、贅沢な狐だと思いながらも、粗相があってはと、主人みずから給仕する歓待ぶりです。
平馬は、酔っぱらって調子に乗り、
「この間は王子稲荷と豊川稲荷の仲裁をした」
などと吹きまくるのです。
そのうち近所の者が、稲荷さまがお泊りと聞いて大勢「参拝」に押しかけたというので、
「それは奇特なことである。もし供物、賽銭などあらば申し受けると伝えよ」
「へへー」
等とやります。
喜んだ在所の衆、拝んでは部屋に再選を放り込んでいくので、平馬は片っ端から懐へ入れてしまいます。
平馬は儲かったので、バレないうちにずらかろうと、縁側から庭に下り、切戸を開け一目散。
それを祠の下で見ていた狐の亭主、
「おっかあ」
「なんだい、おまいさん」
「化かすのは、人間にはかなわねえ」
【演者】
明治から大正にかけ、「品川の円蔵」こと四代目橘家円蔵が得意にした噺で、六代目圓生師に受け継がれました。
二代目円歌師の高座が有名です。二代目円歌師没後は圓生師が、その後は三代目円歌師が演じていました。
今は、柳家一琴師や入船亭扇辰師が演じています。
【注目点】
圓生師はそれまでの道中の名前等がいい加減だったので、本を読み修正したそうです。この辺に圓生師の気質が表れていますね。
『能書』
紋三郎稲荷とは、茨城県笠間市の笠間稲荷の通称です。
「紋三郎」の通称の由来は、常陸国(いまの茨城県)笠間藩、牧野家初代藩主・牧野貞通の一族の牧野門三郎にちなむものとされます。
祭神は宇迦之御魂神(うかのみかまのかみ)で、創建は白雉(はくち)年間(650〜654)と相当古いです。
伏見稲荷、豊川稲荷と共に、日本三代稲荷の一つで、現在も五穀豊穣の祭神として、信仰を集めています。
『ネタ』
背割羽織とは、別名「ぶっさき羽織」「ぶっさばき」とも呼びます。
武士が乗馬や旅行の際に着用した、背中の中央から下を縫い合わせていない羽織です。