はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

三笑亭可楽

らくだは役に立たないものの代名詞?

ph_01『らくだ』
今日は「らくだ」です

【原話】
もとは上方落語の「らくだの葬礼」言う噺です。
三代目小さん師が東京に移植したものです。

【ストーリー】
乱暴者で町内の鼻つまみ者のらくだの馬がフグに当たってあえない最期を遂げた。
兄弟分の、これまた似たような男がらくだの死体を発見し、葬式を出してやろうというわけで、らくだの家にあった一切合切の物を売り飛ばして早桶代にすることに決めた。
そこに通りかかった紙屑屋を呼び込んで買わせようとしたが、一文にもならないと言われる。

そこで、長屋の連中に香典を出させようと思い立ち、紙屑屋を脅し、月番のところへ行かせた。
みんならくだが死んだと聞いて万々歳だが、香典を出さないとなると、らくだに輪をかけたような凶暴な男のこと、何をするかわからないのでしぶしぶ、赤飯でも炊いたつもりでいくらか包む。

それに味をしめた兄弟分、いやがる紙屑屋を、今度は大家のところに、
今夜通夜をするから、酒と肴と飯を出してくれと言いに行かせたが、
「店賃を一度も払わなかったあんなゴクツブシの通夜に、そんなものは出せねえ」
と突っぱねられる。
「嫌だと言ったら、
らくだの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」と言っても
「ぜひ一度見てえもんだ」と、大家は一向に動じない。

紙屑屋の報告を聞いて怒った男、それじゃあというので、紙屑屋にむりやり死骸を背負わせ、
大家の家に運び込んだので、さすがにけちな大家も降参し、酒と飯を出す。

横町の漬物屋を同じ手口で脅迫し、早桶代わりに営業用の四斗樽をぶんどってくると、
紙屑屋、もうご用済だろうと期待するが、なかなか帰してくれない。
酒をのんでいけと言う。
女房子供が待っているから帰してくれと頼んでも、俺の酒がのめねえかと、すごむ。

モウ一杯、モウ一杯とのまされるうち、だんだん紙屑屋の目がすわってきて、逆に、
「やい注げ、注がねえとぬかしゃァ」と酒乱の気が出たので、さしものらくだの兄弟分もビビりだし、
立場は完全に逆転。

完全に酒が回った紙屑屋が「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、
俺の知り合いの落合の安公に焼いてもらいに行こうじゃねえか。
その後は田んぼへでも骨をおっぽり込んでくればいい」

相談がまとまり、死骸の髪を引っこ抜いて丸めた上、樽に押し込んで、
二人差しにないで高田馬場を経て落合の火葬場へ。

いざ火葬場に着くと、死骸がない。
どこかへ落としたのかともと来た道をよろよろと引き返す。
途中で、願人坊主が一人、酔って寝込んでいたから、死骸と間違えて桶に入れ、
焼き場で火を付けると、坊主が目を覚ました。
「アツツツ、ここはどこだ」
「ここは火屋(ひや)だ」
「冷酒(ひや)でいいから、もう一杯くれ」

【演者】
三笑亭可楽師や古今亭志ん生師、三遊亭圓生師が有名ですね。

【注目点】
上方版では登場人物に名前がちゃんとあり、死人は「らくだの卯之助」、兄弟分は「脳天熊」です。
屑屋さんは名前は久六だそうです。(教えて戴きました)
大抵は前半の屑屋さんが酒を飲んで、立場が逆転する処で切ります。

『能書』
噺の中に登場する、”かんかんのう”は「かんかん踊り」ともいい、清国のわらべ唄「九連環」が元唄です。
九連環は「知恵の輪」のこと。
文政3年(1820)から翌年にかけ、江戸と大坂で大流行。
飴屋が面白おかしく町内を踊り歩き、禁止令が出たほどです。

『ネタ』
上方では何と言っても松鶴師でしょうね。志ん朝師と談志師が若い頃、松鶴師の「らくだ」を見て、
あまりの凄さに絶句したという有名な事がありました。
ちなみに、終盤に登場する火屋(火葬場)の所在地は、江戸では落合、上方では千日前となっています。
落合の博善社の火葬場には皇室専用の所もあります。

八代目 可楽師匠のこと

vol_pict06今日は可楽師匠のことです。

【八代目三笑亭可楽】1898年〈明治31年〉1月3日 – 1964年〈昭和39年〉8月23日
今回は、いぶし銀のような芸風が光った八代目可楽師です。ちなみに三笑亭可楽というのは噺家の名前で一番古い名前で「山椒は小粒でピリリと辛い」の洒落です。
・「出囃子」『勧進帳』

・「芸風」
一見苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながらぼやくように噺を勧めます。この話しっぷりが本当に可笑しく、ボヤけばボヤくほど笑いの渦が巻き起こります。
最初は、極めて地味で動作が少なく、一般大衆受けする華やかなものではなかったのですが少数ながら熱烈な愛好者がおり「可楽が死んだらもう落語は聞かない」とまで語る者もいた。それがジャズマンの人々です。可楽師の話すリズムがまるでジャズのようだった。と言われています。熱狂的とも言えるファンでした。フッランク永井さんは特に有名です。

・「芸歴」
1915年に初代三遊亭圓右に入門して「右喜松」
1922年に翁家馬之助で真打昇進
1940年4月に6代目春風亭小柳枝となり、
1946年5月に8代目可楽を襲名
次々と師匠を変えていたので長いこと売れませんでした。

.「エピソード」
独特の渋い低音と妙に舌足らずの語り口。「べらんめえ」口調ながら、不思議と礼儀正しく、客との距離感は絶妙戦後芸が開花しました。
そもそも噺家になろうと思ったのも、上野黒門町の経師屋の家に生まれ、家業を継ぐべく修行していたのですが、父親の家作に出入りしていた五代目古今亭志ん生の呑気な生活ぶりに憧れを抱き、噺家になったというのが真相だそうです。
曰く「噺家は夕方から仕事すれば良いので楽そうだ」と思ったとか。

・「得意演目」
『らくだ』『今戸焼』が絶品。『二番煎じ』『反魂香』『うどんや』『岸柳島』『鰻の幇間』
『芝浜』『子別れ』も演じました。

夏と言ったら「反魂香」

548722bc今日は八代目可樂師で有名な「反魂香」です。

反魂香は、焚くとその煙の中に死んだ者の姿が現れるという伝説上の香で、もとは中国の故事にあるもので、中唐の詩人・白居易の『李夫人詩』によれば、前漢の武帝が李夫人を亡くした後に道士に霊薬を整えさせ、玉の釜で煎じて練り、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたという言い伝えのよるものです。

日本では江戸時代に入り、『好色敗毒散』『雨月物語』等で取り上げられました。その節には平安時代の陰陽師・安倍晴明から伝わるものという設定になっています。

原話は、享保18年(1733年)に出版された笑話本『軽口蓬莱山』の一遍である「思いの他の反魂香」で、
元は「高尾」という上方落語です。「反魂香」は江戸落語の演題です。

 夜中にカネを叩いて回向をしている長屋の坊主の所に、八五郎が夜、便所にも行けないと言いに来ました。 
坊主は名を道哲と言い元・島田重三郎と言う浪人でした。
吉原の三浦屋の高尾大夫と末は夫婦にとお互い惚れあっていたのですが、伊達公が横から見初めて大金を積んで身請けしてしまいました。
だが、高尾は重三郎に操を立てて決して生きてはいないと言い、時取り交わした魂を返す”反魂香”で、回向をしてと言い残し亡くなります。
それ以来、これを焚くと高尾が出てくると言うのです。

見せてくれと八五郎が言うので、火鉢のなかに香をくべると高尾の幽霊が出てきて、
「香の切れ目がえにしの切れ目、無駄に使うな」と言い消えます。
八五郎は亡くなった女房のために、この香を分けてくれと言うが、私と高尾だけのための物だから、貴方には役に立たないからと断られます。
 
それなら、自分で買うと、生薬屋を起こしてみたが、名前を忘れたので、いろいろ吟味して、見つけたのは越中富山の反魂丹。
これだとばかり三百買って帰ってきました。
家の火を熾し直し反魂丹をくべながら女房”お梅”のことをあれこれ考えていたのですが、中々出てこないので、足して全部をくべたが出ません。
あまりの煙でむせていると、表から「ちょっと、八つぁん」という声。
煙の中からではなく、堂々と表から来たのかと思いきや、
「そちゃ、女房お梅じゃないか」、「いえ、裏のおさきだけれども、さっきからきな臭いのはお前の所じゃないの」

噺に出てくる高尾太夫は俗に「仙台高尾」と呼ばれる大夫です。
この仙台候と高尾太夫の噺は三代目金馬師が「仙台高尾」として演じています。

反魂丹は越中富山の当時有名な薬で霍乱(かくらん=暑気あたり)・傷・食傷・腹痛などに効くといわれています。
主人公道哲は、因州鳥取の浪人島田重三郎と言いある晩友人に誘われて吉原に始めて足を踏み入れたが、そこで出会った高尾にぞっこん惚れて、高尾も重三郎に惚れて、二人は末は夫婦にと誓い合いましたが、伊達公に横取りされてその上、殺されてしまいます。その回向をする為、出家して名を道哲と改め、吉原遊女の投げ込み寺西方寺に住みついて、高尾の菩提を弔らっていたら、それが噂になり、吉原通いの遊客からは土手の道哲と呼ばれる様になったそうです。続きを読む

このお餅は食べられる?

1166423025今日は「尻餅」と言う本当に季節限定の噺です。

原話は、享和2年(1802年)に出版された笑話本「臍くり金」の一遍である『もちつき』とされています。

大晦日だというのに、餠屋も頼めない貧乏所帯での会話です。
女房が、せめて近所の手前、音だけでもさせてほしいと文句を言う。
これは、少しでも金を都合してきてくれという心なのだが、能天気な亭主、これを間に受けて、
自作自演で景気よく餠屋に餠をつかせている芝居をしようと言いだす。

夜、子供が寝たのを見計らい、そっと外に出て、聞こえよがしに大声で
「えー、毎度ありがとうございます」と叫び、子供にお世辞を言ったりする場面も一人二役で大奮闘します。

ところが、餅を搗く段になると、 いやがるかみさんに着物をまくらせ、手に水をつけて尻をペッタン、ペッタンとやりだします。
だんだん尻は真っ赤になって来ます。
かみさんはしばらくがまんしていたが、とうとうこらえ切れなり、
「あの、餠屋さん、あと、幾臼あるの?」
「へい、あと二臼です」
「おまえさん、後生だから餠屋さんに頼んで、あとの二臼はおこわにしてもらっとくれ」

上方では、「白蒸(しろむし)でたべとくれ」でサゲます。
白蒸は、もち米を蒸して、まだ搗いていない状態のもので、なるほど、「もう叩かないどくれ」
という意味では、こちらの方が分かりやすいと言われてます。

江戸時代は、餅つきは12月26日から始まりました。
これを餅つき始といい、この日から大晦日まで、「引摺り」といって、
餅屋が何人かで道具を持ち、得意先を回って歩いたそうです。

噺の中で、亭主が女房の尻に見とれる描写がありますが、今はいざ知らず、当時は夫婦といえども、
後ろからナニと言う行為はタブーとされていて、しかも明るいうちからまじまじと見る事は無かったので、
つい見とれてしまったのでしょうね。(^^)

聴いていると、何となくサディスティクな気分になるような・・・・・・おかみさん可哀想ですよね。
続きを読む

逢いたいな!あのひとに・・・・

middle_1196162922今日は可楽師で有名な「反魂香」です。

反魂香は、焚くとその煙の中に死んだ者の姿が現れるという伝説上の香で、もとは中国の故事にあるもので、中唐の詩人・白居易の『李夫人詩』によれば、前漢の武帝が李夫人を亡くした後に道士に霊薬を整えさせ、玉の釜で煎じて練り、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたという言い伝えのよるものです。

日本では江戸時代に入り、『好色敗毒散』『雨月物語』等で取り上げられました。その節には平安時代の陰陽師・安倍晴明から伝わるものという設定になっています。

原話は、享保18年(1733年)に出版された笑話本『軽口蓬莱山』の一遍である「思いの他の反魂香」で、
元は「高尾」という上方落語です。「反魂香」は江戸落語の演題です。

 夜中にカネを叩いて回向をしている長屋の坊主の所に、八五郎が夜、便所にも行けないと言いに来ました。 
坊主は名を道哲と言い元・島田重三郎と言う浪人でした。
吉原の三浦屋の高尾大夫と末は夫婦にとお互い惚れあっていたのですが、伊達公が横から見初めて大金を積んで身請けしてしまいました。
だが、高尾は重三郎に操を立てて決して生きてはいないと言い、時取り交わした魂を返す”反魂香”で、回向をしてと言い残し亡くなります。
それ以来、これを焚くと高尾が出てくると言うのです。

見せてくれと八五郎が言うので、火鉢のなかに香をくべると高尾の幽霊が出てきて、
「香の切れ目がえにしの切れ目、無駄に使うな」と言い消えます。
八五郎は亡くなった女房のために、この香を分けてくれと言うが、私と高尾だけのための物だから、貴方には役に立たないからと断られます。
 
それなら、自分で買うと、生薬屋を起こしてみたが、名前を忘れたので、いろいろ吟味して、見つけたのは越中富山の反魂丹。
これだとばかり三百買って帰ってきました。
家の火を熾し直し反魂丹をくべながら女房”お梅”のことをあれこれ考えていたのですが、中々出てこないので、足して全部をくべたが出ません。
あまりの煙でむせていると、表から「ちょっと、八つぁん」という声。
煙の中からではなく、堂々と表から来たのかと思いきや、
「そちゃ、女房お梅じゃないか」、「いえ、裏のおさきだけれども、さっきからきな臭いのはお前の所じゃないの」

噺に出てくる高尾太夫は俗に「仙台高尾」と呼ばれる大夫です。
この仙台候と高尾太夫の噺は三代目金馬師が「仙台高尾」として演じています。

反魂丹は越中富山の当時有名な薬で霍乱(かくらん=暑気あたり)・傷・食傷・腹痛などに効くといわれています。
主人公道哲は、因州鳥取の浪人島田重三郎と言いある晩友人に誘われて吉原に始めて足を踏み入れたが、そこで出会った高尾にぞっこん惚れて、高尾も重三郎に惚れて、二人は末は夫婦にと誓い合いましたが、伊達公に横取りされてその上、殺されてしまいます。その回向をする為、出家して名を道哲と改め、吉原遊女の投げ込み寺西方寺に住みついて、高尾の菩提を弔らっていたら、それが噂になり、吉原通いの遊客からは土手の道哲と呼ばれる様になったそうです。続きを読む
記事検索
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

livedoor プロフィール
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ