らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

黄金餅

「黄金餅」という噺

20230303084842『黄金餅』
 そろそろ桜の話題も出て来ましたので、今日は春の噺と言われている「黄金餅」です。

【原話】

三遊亭圓朝師の作です。かなりダークな噺です。四代目圓蔵師や五明楼玉輔師も演じていました。それを変えたのが、古今亭志ん生師で、言い立ての道中等を入れて今のような飄逸味溢れる噺にしました。


【ストーリー】
 下谷の山崎町の裏長屋に、薬を買うのも嫌だというケチの”西念”という乞食坊主が住んで居ました。
 隣に住む金山寺味噌を売る”金兵衛”が、身体を壊して寝ている西念を見舞い、食べたいという餡ころ餅を買ってやりますが、家に帰れと言います。隣に帰って壁から覗くと、西念があんこを出して、そこに貯めた2分金や1分金を詰め込んで、一つずつ全部、丸飲みしてしまいます。
 その後、急に苦しみだしてそのまま死んでしまいました。
 金兵衛は飲み込んだ金を取り出したく工夫をするが出来ず。焼き場で骨揚げ時に、金を取り出してしまおうと考えます。
 長屋一同で、漬け物ダルに納め、貧乏仲間なもので夜の内に、葬列を出して、下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私(志ん生)もくたびれた。

 何とか麻布絶口釜無村の木蓮寺へ着きます。貧乏木蓮寺で、葬儀の値段を値切り、焼き場の切手と、中途半端なお経を上げて貰い、仲間には新橋に夜通しやっている所があるから、そこで飲って、自分で金を払って帰ってくれ言い返して仕舞います。
 桐ヶ谷の焼き場に一人で担いで持って来て、朝一番で焼いて、腹は生焼けにしてくれと脅かしながら頼み、新橋で朝まで時間を潰してから、桐ヶ谷まで戻り、遺言だから俺一人で骨揚げするからと言い、持ってきたアジ切り包丁で、切り開き金だけを奪い取って、骨はそのまま、焼き場の金も払わず出て行ってしまいます。
 その金で、目黒に餅屋を開いてたいそう繁盛したという。江戸の名物「黄金餅」の由来でございます。

【演者】
 これは志ん生師ですね。それと談志師が言い立てを一旦言った後に現代の道順に替えてもう一度言い直した高座がひかります。それでも、今でも志ん生師を越える高座は出て来てはいないと思います。

【注目点】
 この噺は、幕末を想定しているそうですが、金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを感じさせてくれます。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったそうです。

『能書』
 この噺の眼目は、金兵衛が最初は普通の人間だったのが、西念のお金を見てから人格が変わって行く所ですね。その点に注目してください。笑いも多いですが、本当は人間の本質を描いたかなり怖い噺なのです。それを志ん生師が面白く変えたのですね。ちなみに「黄金餅」という餅菓子は実際は無かったそうです。
志ん生師は西念を六十前後、金兵衛が四十前後として演じてるそうです。時間は二十五分から四十分を見てたそうです。

『ネタ』
 道中付けと並んで楽しいのが、木蓮寺の和尚のいい加減なお経です。
「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。」
「なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」
 と言う実にいい加減で楽しいお経です。

 桐ケ谷の焼き場(斎場)は今でもあります。東京博善社という会社の経営です。
 博善社は私の地元の四ツ木を初め都内各地にありますが、落合の斎場は皇室の為の特別な場所があります。一般人は入ることが出来ません。
 それと落合の火葬場は「らくだ」に出て来ます。

「蛇足」
 以前、ヌーベルハンバーグさんのコメントで教わったのですが、この噺の続きもあるのだそうです。とても陰惨で十代目馬生師が教わったそうですが遂に高座に掛けることは無かったそうです。

「黄金餅」という噺

204887ac『黄金餅』
 やっと暖かくなって来ましたので、今日は「黄金餅」という噺をやります。

【原話】

三遊亭圓朝師の創作と言われています。かなりダークな噺ですが、古今亭志ん生師が言い立ての道中等を入れて今のような飄逸味溢れる噺にしました。

【ストーリー】
 下谷の山崎町の裏長屋に、薬を買うのも嫌だというケチの”西念”という乞食坊主が住んで居ました。
 隣に住む金山寺味噌を売る”金兵衛”が、身体を壊して寝ている西念を見舞い、食べたいという餡ころ餅を買ってやりますが、家に帰れと言います。隣に帰って壁から覗くと、西念があんこを出して、そこに貯めた2分金や1分金を詰め込んで、一つずつ全部、丸飲みしてしまいます。
 その後、急に苦しみだしてそのまま死んでしまいました。
 金兵衛は飲み込んだ金を取り出したく工夫をするが出来ず。焼き場で骨揚げ時に、金を取り出してしまおうと考えます。
 長屋一同で、漬け物ダルに納め、貧乏仲間なもので夜の内に、葬列を出して、下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私(志ん生)もくたびれた。

 何とか麻布絶口釜無村の木蓮寺へ着きます。貧乏木蓮寺で、葬儀の値段を値切り、焼き場の切手と、中途半端なお経を上げて貰い、仲間には新橋に夜通しやっている所があるから、そこで飲って、自分で金を払って帰ってくれ言い返して仕舞います。
 桐ヶ谷の焼き場に一人で担いで持って来て、朝一番で焼いて、腹は生焼けにしてくれと脅かしながら頼み、新橋で朝まで時間を潰してから、桐ヶ谷まで戻り、遺言だから俺一人で骨揚げするからと言い、持ってきたアジ切り包丁で、切り開き金だけを奪い取って、骨はそのまま、焼き場の金も払わず出て行ってしまいます。

 その金で、目黒に餅屋を開いてたいそう繁盛したという。江戸の名物「黄金餅」の由来でございます。

【演者】
 これは志ん生師に止めをさすでしょう。談志師が言い立てを一旦言った後に現代の道順に替えてもう一度言い直した高座がひかります。それでも、今でも志ん生師を越える高座は出て居ないと思います。

【注目点】
 この噺は、幕末を想定しているそうですが、金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを感じさせてくれます。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったそうです。

『能書』
 この噺の眼目は、金兵衛が最初は普通の人間だったのが、西念のお金を見てから人格が変わって行く所ですね。その点に注目してください。笑いも多いですが、本当は人間の本質を描いたかなり怖い噺なのです。それを志ん生師が面白く変えたのですね。ちなみに「黄金餅」という餅菓子は実際は無かったそうです。

『ネタ』
 道中付けと並んで楽しいのが、木蓮寺の和尚のいい加減なお経です。
「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。」
「なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」
 と言う実にいい加減で楽しいお経です。

 桐ケ谷の焼き場(斎場)は今でもあります。東京博善社という会社の経営です。
 博善社は私の地元の四ツ木を初め都内各地にありますが、落合の斎場は皇室の為の特別な場所があります。一般人は入ることが出来ません。
 それと落合の火葬場は「らくだ」に出て来ます。

 以前、ヌーベルハンバーグさんのコメントに教わったのですが、この噺の続きもあるのだそうです。とても陰惨で十代目馬生師が教わったそうですが遂に高座に掛けることは無かったそうです。

黄金餅はなかった!

f0cd4883『黄金餅』
 やっと桜が咲き始めましたね。都心は満開などと言っていますが上野や墨田は五分咲きですね。人は多かったですが……。そこで今日は時期的に少し早いですが「黄金餅」という噺です。

【原話】

三遊亭圓朝師の創作と言われています。かなりダークな噺ですが古今亭志ん生師が言い立ての道中付けを入れて今のような飄逸味溢れる噺にしました。

【ストーリー】
下谷の山崎町の裏長屋に、薬を買うのも嫌だというケチの”西念”という乞食坊主が住んで居ました。
隣に住む金山寺味噌を売る”金兵衛”が、身体を壊して寝ている西念を見舞い、食べたいという餡ころ餅を買ってやりますが、家に帰れと言います。
隣に帰って壁から覗くと、西念があんこを出して、そこに貯めた2分金や1分金を詰め込んで、一つずつ全部、丸飲みしてしまいます。
 その後、急に苦しみだしてそのまま死んでしまいました。
金兵衛は飲み込んだ金を取り出したく工夫をするが出来ず。焼き場で骨揚げ時に、金を取り出してしまおうと考えます。
 長屋一同で、漬け物ダルに納め、貧乏仲間なもので夜の内に、葬列を出して、下谷の山崎町を出まして、
あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私(志ん生)もくたびれた。

何とか麻布絶口釜無村の木蓮寺へ着きます。
貧乏木蓮寺で、葬儀の値段を値切り、焼き場の切手と、中途半端なお経を上げて貰い、仲間には新橋に夜通しやっている所があるから、そこで飲って、自分で金を払って帰ってくれ言い返して仕舞います。
 桐ヶ谷の焼き場に一人で担いで持って来て、朝一番で焼いて、腹は生焼けにしてくれと脅かしながら頼み、新橋で朝まで時間を潰してから、桐ヶ谷まで戻り、遺言だから俺一人で骨揚げするからと言い、持ってきたアジ切り包丁で、切り開き金だけを奪い取って、骨はそのまま、焼き場の金も払わず出て行ってしまいます。

 その金で、目黒に餅屋を開いてたいそう繁盛したという。江戸の名物「黄金餅」の由来でございます。

【演者】
 これは志ん生師に止めをさすでしょう。道中付けは聴いていても楽しくなりますし、談志師が言い立てを一旦言った後に現代の道順に替えてもう一度言い直した高座がひかります。それでも志ん生師を越える高座は出ていないと思います。

【注目点】
この噺は、幕末を想定しているそうですが、金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを感じさせてくれます。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったそうです。
谷山崎町とは、いまの上野駅と鶯谷駅の間あたりで、明治になって「万年町」と名前が変わったそうですが、凄まじい貧乏な町だったそうです。
一方の麻布も江戸の外れで当時の人は行きたがない所だったとか、
絶口釜無村とは架空の地名ですがこれも貧乏を強調していますね。
これでもかと貧乏を強調することで、逆に貧乏を笑い飛ばしてしまうと言う趣向ですね。
さすが志ん生師の噺だと感じます。

『能書』
この噺の眼目は、金兵衛が最初は普通の人間だったのが、西念のお金を見てから人格が変わって行く所ですね。その点に注目してください。笑いも多いですが、本当は人間の本質を描いたかなり怖い噺なのです。それを志ん生師が面白く変えたのですね。
ちなみに「黄金餅」という餅菓子は実際は無かったそうです。

『ネタ』
道中付けと並んで楽しいのが、木蓮寺の和尚のいい加減なお経です。
「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。
虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。」
「なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。
アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」
と言う実にいい加減で楽しいお経です。
でも圓朝全集ではちゃんとしたお経が書かれています。志ん生師はそれでは面白くないと考えて改変したのでしょうね。

 桐ケ谷の焼き場(斎場)は今でもあります。東京博善社という会社が行っています。
博善社は都内各地にありますが、落合の斎場は皇室の為の特別な場所があります。一般人は入ることが出来ません。
 それと落合は「らくだ」という噺にも出て来ますね。

「黄金餅」という噺

001 今日は「黄金餅」という噺です。

【原話】

三遊亭圓朝師の創作と言われています。かなりダークな噺ですが古今亭志ん生師が言い立ての道中等を入れて今のような飄逸味溢れる噺にしました。

【ストーリー】
下谷の山崎町の裏長屋に、薬を買うのも嫌だというケチの”西念”という乞食坊主が住んで居ました。
隣に住む金山寺味噌を売る”金兵衛”が、身体を壊して寝ている西念を見舞い、食べたいという餡ころ餅を買ってやりますが、家に帰れと言います。
隣に帰って壁から覗くと、西念があんこを出して、そこに貯めた2分金や1分金を詰め込んで、一つずつ全部、丸飲みしてしまいます。
 その後、急に苦しみだしてそのまま死んでしまいました。
金兵衛は飲み込んだ金を取り出したく工夫をするが出来ず。焼き場で骨揚げ時に、金を取り出してしまおうと考えます。
 長屋一同で、漬け物ダルに納め、貧乏仲間なもので夜の内に、葬列を出して、下谷の山崎町を出まして、
あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私(志ん生)もくたびれた。
 何とか麻布絶口釜無村の木蓮寺へ着きます。
貧乏木蓮寺で、葬儀の値段を値切り、焼き場の切手と、中途半端なお経を上げて貰い、仲間には新橋に夜通しやっている所があるから、そこで飲って、自分で金を払って帰ってくれ言い返して仕舞います。
 桐ヶ谷の焼き場に一人で担いで持って来て、朝一番で焼いて、腹は生焼けにしてくれと脅かしながら頼み、新橋で朝まで時間を潰してから、桐ヶ谷まで戻り、遺言だから俺一人で骨揚げするからと言い、持ってきたアジ切り包丁で、切り開き金だけを奪い取って、骨はそのまま、焼き場の金も払わず出て行ってしまいます。

 その金で、目黒に餅屋を開いてたいそう繁盛したという。江戸の名物「黄金餅」の由来でございます。

【演者】
 これは志ん生師に止めをさすでしょう。談志師が言い立てを一旦言った後に現代の道順に替えてもう一度言い直した高座がひかります。今でも志ん生師を越える高座は出て居ないと思います。

【注目点】
この噺は、幕末を想定しているそうですが、金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを感じさせてくれます。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったそうです。

『能書』
この噺の眼目は、金兵衛が最初は普通の人間だったのが、西念のお金を見てから人格が変わって行く所ですね。その点に注目してください。笑いも多いですが、本当は人間の本質を描いたかなり怖い噺なのです。それを志ん生師が面白く変えたのですね。
ちなみに「黄金餅」という餅菓子は実際は無かったそうです。

『健二のネタ』
道中付けと並んで楽しいのが、木蓮寺の和尚のいい加減なお経です。
「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。
虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。」
「なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。
アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」
と言う実にいい加減で楽しいお経です。

 桐ケ谷の焼き場(斎場)は今でもあります。東京博善社という会社が行っています。
博善社は都内各地にありますが、落合の斎場は皇室の為の特別な場所があります。一般人は入ることが出来ません。
 それと落合は「らくだ」という噺に出て来ます。

ああ!「すさまじき貧乏」のオンパレード

29489174今日は志ん生師の言い立てで有名な「黄金餅」です。

数ある落語の中でもお金の欲望に掛ける事では屈指の噺です。ダークさでは一番かもしれません。
それを志ん生師が四代目橘家円蔵師の噺を、言い立ての道中等を入れて爆笑落語に仕立てました。
演者としては、最近は誰でもやりますが、志ん生、志ん朝親子の他は談志師が言い立てを一旦言った後に現代の道順に替えてもう一度言い直した高座がひかります。
小朝師も志ん朝師が亡くなった後に国立劇場で演じてみせましたが、志ん生師の域を出ませんでした。
今でも志ん生師を越える高座は出て居ないと思います。

下谷の山崎町の裏長屋に、薬を買うのも嫌だというケチの”西念”という乞食坊主が住んで居ました。
隣に住む金山寺味噌を売る”金兵衛”が、身体を壊して寝ている西念を見舞い、食べたいという餡ころ餅を買ってやりますが、家に帰れと言います。
隣に帰って壁から覗くと、西念があんこを出して、そこに貯めた2分金や1分金を詰め込んで、一つずつ全部、丸飲みしてしまいます。
 その後、急に苦しみだしてそのまま死んでしまいました。
金兵衛は飲み込んだ金を取り出したく工夫をするが出来ず。焼き場で骨揚げ時に、金を取り出してしまおうと考えます。
 長屋一同で、漬け物ダルに納め、貧乏仲間なもので夜の内に、葬列を出して、下谷の山崎町を出まして、
あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私(志ん生)もくたびれた。

何とか麻布絶口釜無村の木蓮寺へ着きます。
貧乏木蓮寺で、葬儀の値段を値切り、焼き場の切手と、中途半端なお経を上げて貰い、仲間には新橋に夜通しやっている所があるから、そこで飲って、自分で金を払って帰ってくれ言い返して仕舞います。

 桐ヶ谷の焼き場に一人で担いで持って来て、朝一番で焼いて、腹は生焼けにしてくれと脅かしながら頼み、新橋で朝まで時間を潰してから、桐ヶ谷まで戻り、遺言だから俺一人で骨揚げするからと言い、持ってきたアジ切り包丁で、切り開き金だけを奪い取って、骨はそのまま、焼き場の金も払わず出て行ってしまいます。

 その金で、目黒に餅屋を開いてたいそう繁盛したという。江戸の名物「黄金餅」の由来でございます。

円朝師の演じた速記が残っていますが、長屋は芝金杉あたりです。
当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったそうです。

この噺は、幕末を想定しているそうですが、金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを感じさせてくれますね。

道中付けと並んで楽しいのが、木蓮寺の和尚のいい加減なお経です。
「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。
虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。」
「なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。
アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」
と言う実にいい加減で楽しいお経です。

下谷山崎町とは、いまの上野駅と鶯谷駅の間あたりで、明治になって「万年町」と名前が変わったそうですが、
凄まじい貧乏な町だったそうです。
一方の麻布も江戸の外れで当時の人は行きたがない所だったとか、
絶口釜無村とは架空の地名ですがこれも貧乏を強調していますね。
これでもかと貧乏を強調することで、逆に貧乏を笑い飛ばしてしまうと言う趣向ですね。
さすが志ん生師の噺だと感じます。続きを読む

春風亭正朝師の「黄金餅」

ab45c631.jpg今日は、正朝師の「黄金餅」です。
この噺は本当は、暗く陰惨な噺なのですが、
志ん生師が明るくなる様なくすぐりや言い立てを入れ、
陽気に演じた高座があまりにも有名で、本題を見失いがちなのですが、
本来は、隣人の金を死体から取り出すと言う噺なのです。
 
歴代の師匠方は志ん生師以降はこの型を踏襲しています。
談志師の様に言い立ての部分に現代を入れてみたり各人さまざまです。
正朝師も重くなりがちなこの噺を明るく演じています。
少し軽いきらいも有りますが、この位の方が良いのでしょう。
出囃子は「長崎ぶらぶら節」で、寄席等では歌入りで出る事もあります。

昨夜の生放送で、お席亭とnamさん?(多分)が動画に使う画について
話しておられましたが、お二人とも拘りがあるのですねえ、
私なんか、特にありませんですよ・・・・なさけないねえ。





 
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