らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

三遊亭圓生

「鼠穴」という噺について

20240122134633『鼠穴』
今日は火事の多い冬の夜に聴くには持って来いの噺です。
能登の震災の被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げます。

【原話】
元は上方落語です。それが大正の始めに三代目三遊亭圓馬師が東京に持ち込みました。
兄弟の噺です。

【ストーリー】
江戸の兄を頼って、越後から弟が職探しに来ました。兄は、商いの元にと銭をくれたが、開けてみると三文しか入っていないません。
 馬鹿にするなと、一旦は腹を立てますが、思い留まり、これでさんだらぼっちを買ってサシを作って売り、
その利益で草鞋を作り、昼も夜も働き詰めで、十年後には店を構えるまでになりました。
三文の礼を言うために兄の元を訪れ、十年目の事を言うと、実は……と訳を知り、二人で苦労話で盛り上がり、泊まることになりました。
 深夜、店が火事だとの知らせで慌てて帰ると、店が焼けています。
せめて蔵が残ってくれればと念じていたが、鼠穴から火が入ってすっかり焼けてしまいました。
兄にお金を借りに行きますが、相手にしてくれません。
「やはり兄は人の皮を被った鬼だ……」
 一文なしになった親に、娘のお花が「あたいを吉原に売って金を作れ」という。涙を流しながら金を借りたが、家に帰る途中掏摸にあって、持ち金をすっかり取られてしまった。
 途方に暮れて木の枝に帯をかけて自殺しようと……。
「武、武、うなされてどうした」
「あ、夢か、おら鼠穴が気になって」
「無理もねえ、夢は土蔵(五臓)の疲れだ」

【演者】
やはり六代目圓生師が特筆されます。個人的には立川談志師や小三治師も良かったですね。
今は現役では誰でしょうか?

【注目点】
いていつも思うのは、兄の性格でしょうねえ。
三文しか弟に貸しませんでしたが、本当はどうだったのか?
それから、夢の中で借金を断ると言う事。
このあたりをどう表現するかで変わってきますね。
私は、三文のことはそのまま弟が納得してしまうこと等から思うに、かっては本当にそう云う事を平気でしていた人だったのだと思います。
借金を申し込まれても絶対に応じなかったのだとではないか?
志の輔師等は、「自分はお前にいくら渡すべきか迷いに迷った。気がついたら3文渡していた」と言わせていて、かなり迷った様な演出をしています。
大方は、「文句を言って来たら……」となっていますが、それは言い逃れのような気も少しします。

『能書』
三戸前(みとまえ)とは……
「戸前」は、土蔵の入口の戸を立てる場所の事で、蔵の数を数える数詞になりました。
「三戸前」は蔵を三つ持つこと。蔵の数は金持ちの証でした。

『ネタ』
個人的にですが、圓生師の演じている兄の描写を聴いてると、兄は完全には弟を許していない感じがします。(他の演者さんでは感じません)
むしろ、談志師の高座では、焦点が弟に合わされていることもあり、かなり情が有るように感じます。小三治師も同じ感じですね。本来は仲の良い兄弟という感じがします。
まあ、そんな違いも聴きどころだと思います。

「蛇足」
 この噺の欠点というか分かり難さはやはりサゲでしょうね。
「夢は土蔵(五臓)の疲れだ」とのは今では通じなくなっていますね。落語通なら「宮戸川」のサゲと同じという事で理解出来ますが、普通は知りませんよね。

「掛取万歳」という噺

20231227112016ここところ体調が思わしくなく、ブログもサボりがちですが何とか続けようと思っています。
 そこで一年の最後の噺のこれです。

『掛取万歳』
今年はこの噺で締めくくろうと思います。一年の最後を締めくくる噺として相応しいと思います。

【原話】
初代林家蘭丸師の作と記載されています。
最も最近は演者の得意な芸を入れて演じられていて演題も単に「掛取り」と表記される事が多いです。
先日の浅草では文治師が噺家のモノマネを取り入れて演じていました。

【ストーリー】
 八五郎の家は大晦日だというのにお金がありません。そのことで女房と喧嘩になりそうなので、困った八五郎は借金取りの好きな趣味で断りをしてやろうと思いつきます。
 狂歌マニアの大家相手には「貧乏をすれど我が家に風情あり、質の流れに借金の山」などの狂歌を並べ、最後は歌舞伎の菅原伝授手習鑑のパロディに持ち込んで返済の延期を約束させてしまいます。
 魚屋の金公には、喧嘩っ早い相手の性格を利用。「借金をとるまで梃子でも動かない!」と言ったのを逆手に取り、「金が入るまで、そこに何十年でも座っていろ!!」とやり返して結局借金を棒引きにさせてしまう事に。
 芝居好きの酒屋の番頭には、番頭を仮名手本忠臣蔵の上使に見立てて招きいれ、近江八景の駄洒落で言い訳した後芝居がかりで追い払ってしまうと言う離れ業。
 三河屋の旦那には、旦那を三河万歳の「才蔵」に見立て、萬才の調子で「待っちゃろか。待っちやろか。待っちゃろかと申さあば。ひと月ならひと月目、二月なら二月目、こけら〜じゃどうだんべえ。」「なかなか、そんなことじゃあ〜勘定なんかできねぇ」「できなけれぇば、待っちゃろか」の掛け合いに持ち込み、最後には呆れた旦那が「ならばいつ払えるんだ」と問うと、「ああら、ひゃーく万年もォ、過ぎたなら(払います)」

【演者】
やはり六代目三遊亭圓生師にとどめを刺すでしょうか!?
落語協会会長の柳亭市馬師は得意な歌で、それも三橋美智也さんのファンと言う人を登させて、噺の中で思う存分歌っています。とにかく芸達者な演者に掛かると、この上なく楽しい噺です。

【注目点】
元は上方落語ですが、上方では「掛け取り」または「天下一浮かれの掛け取り」という題で演じられます。
ちなみに、初期の型では八五郎が自宅内に篭城してしまい、困った掛取りが隣の主人に「火事だ」と叫んで追い出してくれと頼むが、八五郎が窓から五十銭出して「これで火を消してくれ」とやり返してしまうと言う落ちが使われていたそうです。

『能書』
昔は掛売りですから、大晦日に払わなくてはならず、まとまったお金が必要でした。
そのお金が無い!と言うのですから一大事な訳です。
三代目金馬師は払いを節分まで延ばし、演題も「節分」と言う題で演じていました。

『ネタ』
演題ですが、万歳まで演じると文句なく「掛取万歳」ですが、そこまで行かないと「掛取り」となるようです。
万歳が出来る人がどれだけ居るかによりますね。

今年も皆様には大変お世話になりました。これからも何とか続けようと考えておりますので、皆様どうぞよろしくお願いします! m(_ _)m

「芋俵」という噺

20231010081702『芋俵』
 大分涼しくなって来ました(寒くという言い方もありますがw)という訳で、今日はこの噺です。
上方落語では「芋屁」となります。

【原話】
1767年の『友達ばなし』の「あか子」だとされています。また狂言の「柑子俵」という説や1776年刊の噺本「聞上手」の「いもや」とも言われています。
 万延2年の噺家、桂松光のネタ帳の「風流昔噺」の中には既に「人俵」とあります。

【ストーリー】
 ある泥棒三人組が相談しています。さる警戒厳重な大店へ押し入るため、一計を案じているのですが……。
 まず、一人が芋俵の中に入り、仲間二人が「少しの間、店の前に置かせてください」と頼み込む。
 店の方ではいつまでたっても取りにこないから、迷惑して俵を店の中に入れる。夜が更けてから、中の一人が俵を破って外に出て、心張り棒を外し、待機していたあとの二人を導き入れる、と言う計画を練ります。
 ところが実際は、小僧が俵を中に入れる時、逆さに立ててしまったから、俵の中の泥棒、身動きが取れず四苦八苦。
 しかし、声は立てられない。そのうち小僧と女中が、俵の芋をちょいと失敬して、蒸かして食べよう、どうせ二つや三つならわからないと示し合わせ、小僧が俵に手を突っ込む。
 逆さだから、上の方が股ぐらあたり。そこをまさぐられたから、泥棒、くすぐったくて我慢できなくなり、思わず「ブッ」と一発。
 小僧「おやおや、気の早いお芋だ」

【演者】
六代目圓生師をはじめ、五代目小さん師等が演じています。

【注目点】
江戸時代、薩摩芋の本場は江戸近郊では川越でした。「大工調べ」の中でも棟梁が「本場川越」と言っていますね。江戸の八百屋さんは川越産と言うと少々高くても、仕入れたそうです。
 薩摩芋は1604年に琉球に伝わり、1698年に種子島、1705年頃、薩摩山川の前田利右衛門が持ち帰り、栽培したのが始めです。
 享保の大飢饉の時に西日本が薩摩芋のお陰で被害が酷くならずに済んだのを見た八代吉宗が関東でも栽培するように青木昆陽に命じて栽培させました。最初は1734年に小石川の小石川植物園等で栽培しました。

『ネタ』
焼芋は、寛政5年(1793)の暮れに、本郷四丁目の番屋で、番太郎がアルバイトに焙烙で焼いたものを売り出したのが起源とかいいますから案外早く普及したのですね。

「蛙茶番」という噺

20231005095043『蛙茶番』
 やっと涼しくなり秋らしくなって来ました、という訳で今日はこの噺です。大店が棚卸しをする時期によく素人芝居をやったそうなので、秋の噺とされています。
スーパーでもここの所「棚卸し」が多い感じがします。
今は軽い艶笑噺として演じられていますが、元は「五段目」の後半の噺だったと言う説もあります。

【原話】
1785年の「猫に小判」の「ふんどし」。1826年の「滑稽笑顔種」の「虫拳」等です。

【ストーリー】
町内の素人芝居で
「天竺徳兵衛」の「忍術ゆずり場」を出すことになったのですが、伊勢屋の若旦那が来ません。
どうやら、あてられた蛙の役が嫌で来ない様です。
店の定吉を説き伏せて役をやらせる事にしたのですが、今度は舞台番の半公が来ません。
定吉を使いにやると、芝居ではなく舞台番を当てられたのが不服の様です。
そこで番頭さんが、一計を案じ、半公が岡惚れの小間物屋のみい坊が
「役者なんかしないで舞台番と逃げたところが半さんらしくていい」
と、誉めていたと、だまして連れてこいと言いつけ、定吉を使いにやります。
これを聞いて有頂天になった半公、どうせならと、
自慢の緋縮緬のフンドシを質屋から急いで請け出し、湯屋で入念に「男」を磨く始末です。
何時まで待っても来ないので、「来ないとみいちゃん帰っちゃうよ」と言うと、
半公は慌てて湯屋から飛び出します。
もちろん自慢のふんどしも締め忘れたままです。
ふんどしを締め忘れた事に気がついていない半公は止せば良いのに、道行く知り合いに前をまくって見せて歩きます。
そのまま芝居に駆けつけたから芝居が始まりますが、場内はシーンと見入っていて騒ぐ者はいません。
じれた半公は自慢のモノを見せたいが為に、声を荒げ出します。
一人、二人と気がついた人が騒ぎ出します。
「ありがてえ」と益々調子に乗って半公は舞台番の位置から飛び出します。
いよいよ見せ場の忍術ゆずり場。
ドロンドロンと大どろになるが、ガマの定吉が出てきません。
「おいおい、ガマはどうした」
「へへっ、出られません」
「なぜ?」
「あすこで、青大将がねらってます」

【演者】
 もう色々な噺家さんが演じています。六代目圓師も生前はよく演じていました。今でも寄席で結構かかりますね。寄席などでは結構女性客が喜んで聴いてる気がします。穿った見方でしょうかw

【注目点】
もうこれはいかに可笑しくもさらりとやるかですね。粋に演じる事が求められますね。

『能書』
昔はなんたって芝居が一番の人気です。人気も高いです。他の噺でも小僧の定吉が用足しのついでに一幕だけ芝居を見て帰り、バレて蔵にお仕置きの為、入れられるなんて噺がありますが、もう老若女男皆夢中だった様ですね。すると、今でもそうですが、憧れのスターと同じになりたいと言う気持ちが沸き上ります。
今ではカラオケやコスプレ等ですが、それが昔は自分達でも、憧れのスターと同じ芝居をやってみたい!
 と思う訳です。そんな素人芝居を茶番と呼びました。「とんだ茶番だぜ」なんて言葉は今でも使いますね。

『ネタ』
云われは歌舞伎の大部屋役者が、毎年五月二十八日の曽我祭の日に酒宴を催し、その席で、当番が面白おかしく口上をのべたのが始まりでそれを「酒番」と言いました。
享保年間(1716〜36)の末に、下戸の初代澤村宗十郎が酒席を茶席に代えたので、
酒番も茶番になりました。宝暦年間(1751〜64)になると、遊里や戯作者仲間、一般町人の間にもこの「口上茶番」が広まり、素人芝居に口上茶番の趣向を加味した「素人茶番」も生まれました。
「芝居」と銘打つとお上が煩いので、あくまでタテマエは茶番とし、商家の祝い事や町内の催しものに、アトラクションとして盛んに行われました。

「代脈」という噺

20230809133905『代脈』
 季節的にはどうかと思いましたが、今日はこの噺です。

【原話】
原話は、元禄10年(1697年)に出版された笑話本「露鹿懸合咄」の一編である「祝言前書」です。文化年間(1804〜18)、寄席の草創期から口演されてきたらしい、古い噺です。

【ストーリー】
江戸・中橋の古法家(漢方医)である尾台良玄は
名医として知られていましたが、弟子の銀南は、師に似つかわぬ愚者で色情者。
 その銀杏が大先生の代脈(代理往診)として蔵前の商家のお嬢さんの診察をすることになりました。
 初めての代脈なので行く前に、先方に着いてからの挨拶、お茶の飲み方、羊羹の食べ方、診察などの手ほどきを受けるのですが、これがトンチンカン。
 「診察に当たっては、安心させるだけでよい、余計なことはするな。特にお嬢さんのお腹のシコリに触ると放屁をなさるので絶対にシコリには触れぬように」
前回は耳が遠くて、聞こえない振りをして切り抜けたものだと大先生の説明があります。
 初めて乗る籠の中で銀杏は大騒ぎ、なんとか商家に着いて、教わった通りにお茶を飲みながら羊羹を食べ、いよいよ診察へ。
 診察中に、例のお腹のシコリを見つけて、止せばいいのにそこを押したからたまらず、
お嬢さんは「ブッ!」と放屁。
 銀杏は驚いて「歳のせいか近頃耳が遠くなって、今の屁の音も聞こえなかった」


【演者】
古くは明治45年の四代目柳家小三治師(のち二代目柳家つばめ師、昭和2年歿)、初代柳家小せん師の速記があります。また四代目小さん師が得意にしていたそうです。
 戦後では六代目三遊亭圓生師、五代目柳家小さん師が音源を残しています。
又、志ん朝師もCDを残していますが、この音源についてかなりの高評価がありますので、興味のある方は図書館等でお借りになって圓生師や小さん師と聞き比べる事をおすすめ致します。
個人的には圓生師には及ばないと思っています。そもそも噺そのものが銀南のドジぶりを笑う構成になっているので、あまりいい感じはしません。何か与太郎噺とは基本的に違う気がします。

【注目点】
中橋と言うのは今の東京駅八重洲中央口あたりです。「金明竹」にも出てきますね。加賀屋佐吉さんのお店のあるところですね。
後半の屁の部分の原話は、室町後期の名医・曲直瀬道三の逸話を脚色した寛文2年刊「為愚癡物語」巻三の「翠竹道三物語りの事」と言うのがあり、さらにそれを笑話化した元禄10年刊「露鹿懸合咄」巻二の「祝言」が出典と云われています。つまり、これは脚色はあるもの実話だったと言う事ですね。

『ネタ』
その昔、八代目文楽師は両国の立花屋という寄席でこの噺を演じたところ、楽屋で三代目圓馬師が聴いていて酷く怒られ「もうお前には稽古をつけない」と言われたそうです。
後日、詫びに行ったところ、噺の中でお金の金額を間違えたという事でした。
「あんなに高い金額は無い」
と怒られたそうです。黒門町もかってはこの噺をやっていたのですね。

「お化け長屋」という噺

20230626111613『お化け長屋』
 長々と更新を休んでしまい申し訳ありませんでした。少し落ち着きましたので更新して行きたいと思います。そこで今日は皆さんがご存知のこの根多です。

「原話」
江戸後期の滑稽本作者、滝亭鯉丈が文政6年(1823)に出版した「和合人」初編の一部をもとにして、自ら作った噺とされます。
上方落語では、「借家怪談」として親しまれ、初代小南師が東京に移したともいわれますが、
すでに明治40年には、四代目橘家円蔵の速記もあり、そのへんははっきりしません。

【ストーリー】
 長屋にある一軒の空き家。そこを長屋の連中は物置に使っていると、大家から家賃を払うか荷物をどかせと言われます。そこで、長屋の古株、通称古狸の杢兵衛さんが一計を案じます。
 借り手が訪ねてきたら、家主は遠方に住んでいるので自分が長屋の差配をまかされているといって杢兵衛の家へ来させて、借り手をおどして空き家に借り手がつくのを防ごうという算段を立てます。
 早速、借り手がやってきますが、お化けが出るとか、ある事無い事を言って脅かして、返してしまうのですが
あまつさえ忘れた財布を手に入れて、鮨(弥助)を食べに行こうと言う算段まで立てます。
 次にやって来た男は一向に恐がらず、話の間にちょっかいを入れる始末で、
困った杢兵衛さんは、濡れ雑巾で男の顔をひと撫でしようとすると、男に雑巾をぶん取られ、逆に顔中を叩かれこすられてしまいます。
男はすぐに引越して来るから掃除をしておけと言い帰ってしまいます。しかも、先ほど置いてった財布も持っていかれて仕舞います。

とここまでが上で、最近はほとんどここで演者は切っています。
この先の下はその男を仲間が脅かすと言う筋なのですが、あまり演じられていません。
下のあらすじは以下の様になります。

 この男、早速明くる日に荷車をガラガラ押して引っ越して来ます。男が湯に行っている間に現れたのが職人仲間五人。日ごろから男が強がりばかり言い、今度はよりによって幽霊の出る長屋に引っ越したというので、本当に度胸があるかどうか試してやろうと、一人が仏壇に隠れて、折りを見て鉦をチーンと鳴らし、二人が細引きで障子を引っ張ってスッと開け、天井裏に上がった一人がほうきで顔をサッ。仕上げは金槌で額をゴーンというひどいもの。
 作戦はまんまと成功し、口ほどにもなく男は親方の家に逃げ込みました。
 長屋では、今に友達か何かを連れて戻ってくるだろうから、もう一つ脅かしてやろうと、表を通った按摩(あんま)に、家の中で寝ていて、野郎が帰ったら「モモンガア」と目を剥いてくれと頼み、五人は蒲団の裾に潜って、大入道に見せかける。
 ところが男が親方を連れて引き返してきたので、これはまずいと五人は退散。按摩だけが残され「モモンガア」。
「みろ。てめえがあんまり強がりを言やあがるから、仲間に一杯食わされたんだ。それにしても、頼んだやつもいくじがねえ。えっ。腰抜けめ。尻腰がねえやつらだ」
「腰の方は、さっき逃げてしまいました」

【演者】
 圓生師や金馬師などの録音が残っています。特に「下」は志ん生師の録音もあります。その他小三治師や志ん朝師を初め多くの噺家さんが演じています。

【注目点】
オチの前の「尻腰がねえ」は、東京の言葉で「いくじがない」という意味だそうですが、
昭和初期でさえ、もう通じなくなっていたようです。

『能書』
この噺に登場する長屋は、落語によく出る九尺二間、六畳一間の貧乏長屋ではなく、
それより一ランク上で、もう一間、三畳間と小庭が付いた上、造作(畳、流し、戸棚などの建具)も完備した結構な物件だったようです。

『ネタ』
 噺の中の「弥助」とは寿司のことです。八代目正蔵師も噺の中で語っていましたね。
 ちなみに上方で、稲荷寿司の事を信太寿司と言うそうです。

「蛇足」
 貸家札は半紙に墨で書いて、斜めに貼ったそうです。明治の初期までは仕舞屋(それまでの商売をやめた家。 廃業した家)でも「貸店」「かし店」と書いて「貸家」とは書かなかったそうです。
 
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