らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

カテゴリ: 噺の話

76623835『天災』
 やっと秋らしくなって来たと思ったらもう衣替えですね。という訳で今日はこの噺です。

「原話」
原話は不詳で、かなり古くから江戸で演じられて来た噺だそうです。

「演者」
 この噺は柳橋先生が得意にしていました。個人的には五代目柳朝師が好きですね。上方落語の桂ざこば師は柳朝師から稽古をつけて貰い上方でも演じています。最近は上方でも演者が増えているみたいですね。

「「ストーリー」

ご隠居のところに、八五郎が離縁状を代筆してくれと来る。
 嫁への分だけでなく、実の母への分も離縁状を書いてくれというので、あきれ返ったご隠居は、長谷川町の紅羅坊奈丸という心学の先生に紹介状を書き、八五郎に先生のところに行ってこいという。
 ご隠居からの手紙を読んだ奈丸は、八五郎に
「喧嘩をしても得はない」「ならぬ堪忍するが堪忍」「短気は損気」「孝行のしたい時分に親は無し」
 などと諭すが、八五郎の威勢の良さはおさまらない。そこで奈丸は、具体例を出して八五郎に考えさせることにする。
「道を歩いていると、小僧の撒いた水が着物の裾に掛かったら、どうする?」
 と問うと、八五郎は「年端のいかない小僧でも張り倒す」
 という。
「屋根から瓦が落ちてきて頭に当たったら、どうする?」
 と問うと、八五郎は
「家の主に喧嘩をふっかける。空き家なら越して来るまで待つ」
 という。
「では外を歩いていると、雨が降って来て全身濡れねずみ、どうする?」
 と問うと、喧嘩相手になるもののいないことに気付いた八五郎は、諦めるしかないという。奈丸はそこを捉えて、
「雨でずぶ濡れなのが諦められるなら、小僧が撒いた水が諦められないはずはない。何事も人のせいではなく、身の不運、天災だと思い、諦めることはできるだろう」
 と言い含める。そういわれて、八五郎もやっと納得する。
家に帰った八五郎は、なにやら隣の家で言い争っているので、何事かと聞くと、吉兵衛が、かみさんの知らぬ間に女を連れ込んでもめているという。
 ここぞと止めに入った八五郎、
「まあ落ち着け。ぶっちゃあいけねえ。奈良の堪忍、駿河堪忍」
「なんだよ」
「気に入らぬ風も蛙かな。ずた袋よ。破れたら縫うだろう?」
「だからなんでえ」
「原ン中で夕立にあって、びっしょり濡れたらどうする? 天災だろう」「なに、天災じゃねえ。先妻だ」

【注目点】
 それほど笑いの多い噺ではありませんが噺家さんからは人気の噺らしいです。
 前半の八五郎の乱暴ぶりがキモだと思いますが後半の部分と落差があれば面白いですね。でもやりすぎてしまうとお客が引いてしまうそうです。

『ネタ』
 「心学」は石田梅岩(1685−1744)が創始した学問で、人生哲学と、それをもとにした民衆教化運動の、両方を指すそうです。

『能書』
この八五郎、本心から改心してない事は丸判りですが、この後少しは改まったのか?
少なくとも興味は湧きます。

86286f9d『幇間腹』
この噺が秋の噺かと問われれば少し心もとないのですが、それでも取り上げたいと思います。

【原話】
原話は、安永9年(1780年)年に出版された笑話本『初登』の一編である「針医」と言われていますが、それより早く落語に近いのが1776年(安永5年)の「年忘噺角力」のなかにある「針のけいこ」です。
元々は上方落語の演目で、主な演者には2代目柳家小さんや5代目古今亭志ん生師等がいます。
そのせいか古今亭一門と柳家一門の噺家さんが多く掛ける様です。

【ストーリー】
あらゆる遊びをやりつくした若旦那が思いつた究極の遊びがなんと針治療の遊び!
さて、相手がいない・・・どうしよう、猫や壁、枕じゃ物足りない、人にやってみたいなあ〜と考え
思いついたのが、幇間の一八。
思いつかれた方はたまりません。一旦は断るのですが、針一本につき祝儀を弾むと言う。
おまけに羽織もこさえてくれると言う条件にしぶしぶ了解しますが、これが大変な事になってしまいます。下げは秀逸だと思います。

【演者】
先程も書いた通り古今亭一門を始め広く演じられています。三代目春風亭柳好師の十八番でもありました。

【注目点】
この針を打つシーンをやりすぎるとお客が引いてしまうので、加減が難しいそうです。

『ネタ』
その昔黒門町がこの演目を取り入れ様として、甚五郎を名乗っていた志ん生師に黒門町が稽古を頼んだそうです。志ん生師は黒門町の家まで来てくれて随分稽古したそうですが、なかなかモノにならないのでついに諦めたとか。
 今になってみると黒門町の「幇間腹」聴いてみたかったですね。

『能書』
鍼は、鍼医術の一派で、天和2(1682)年、盲人の杉山和一が幕命を受け、鍼治講習所を設置したのが始まりで、江戸をはじめ全国に爆発的に普及しました。
それ以来鍼医は盲人のものとされました。

index『厩火事』
今日はこの噺です。噺の中にトウモロコシが出て来るので夏の噺としましたが、その後調べてみると秋の噺と判りましたので、改めて掲載したいと思います。
題名はネタになっている孔子の故事からです。

【原話】
1807年の喜久亭壽暁のネタ帳「滑稽集」に「唐の家事」とありこれが元です。
生粋の江戸落語です。

【ストーリー】
髪結いで生計を立てているお崎の亭主は文字通り「髪結いの亭主」で、怠け者。昼間から遊び酒ばかり呑んでいる年下の亭主とは口喧嘩が絶えません。
 しかし本当に愛想が尽き果てたわけではなく、亭主の心持ちが分からないと仲人のところに相談にやって来ます。
 話を聞いた仲人兄はその昔、孔子が弟子の不手際で秘蔵の白馬を火災で失ったが、そのことを咎めず弟子たちの体を心配し弟子たちの信奉を得たと話と、瀬戸物を大事にするあまり家庭が壊れた麹町の猿(武家)の話しをします。
 そして目の前で夫の大事な瀬戸物を割り、どのように言うかで身の振り方を考えたらどうかとアドバイスをします。帰った彼女は早速実施。
 結果夫は彼女の方を心配します。感動したお崎が「そんなにあたしのことが大事かい?」と質問すると、
「当たり前だ、お前が怪我したら明日から遊んで酒が呑めねえ」


【演者】
三代目小さん師、そして何と言っても八代目文楽師、そして志ん生師などが有名です。
現役では小三治師でしょうか。

【注目点】
やはりお崎さんを可愛く演じられるかでしょうね。
このお崎さん、可愛い女性ですねえ。こんな女房なら”髪結いの亭主”になってみたいですね。

『能書』
文楽師匠の演出を「ちょっと説教クサイ」と言う評論家のかたもいますが、
仲人は本気で心配しているので、あれぐらいで良いと私は思います。本来仲人は夫婦の間に色々な揉め事が起きると間に入って仲裁する役目もあります。
 この噺で気をつけなくてはならないのは、亭主が体を心配するシーンで、お涙ちょうだいのあざとい演出にしている噺家さんがいる事ですね。ここをクサクすると、サゲのからっとした笑いが消えると私は思うのですが・・・如何でしょう?

しかし、この後もこの二人は何とかやって行くんでしょうね。(^^)

『ネタ』
女髪結ですが、寛政の始めの頃に、
日本橋三光新道(桃川のあれです)の下駄屋お政さんが、臨時として頼まれ始めたのが最初と言われています。
後年の文化年間から急速に普及しましたが、風紀が乱れると言われ、天保の改革の頃まで幾度か禁制となったそうです。

sakauta『三味線栗毛』
今日はこの噺です。

『原話』『演者』
原話は不詳で、講釈種と思われます。
円朝師から、四代目円喬師と二代目小円朝に伝承されそれを継いだ戦後の三代目小円朝師や五代目志ん生、二代目円歌師らがよく演じていました。
小圓朝師のは結構良かったですね。
最近では菊之丞師やあのブラック師も演じています。
また、最近は「錦木検校」という別バージョンも喬太郎師などで演じられていますね。

『ストーリー』
父親の大名・酒井雅楽頭(ウタノカミ)に疎まれ、下屋敷で家臣同然の暮らしをしている次男坊の酒井角三郎。彼の下へ療治に呼ばれたのか按摩の錦木。何度か療治に訪れているうちに、角三郎の良き話相手となりますが、その錦木が
「あなたは、侍なら大名になると学者から聞いた骨格をしていらっしゃいますが、殿様の御身内ですか?御家中ですか?」
 と訊きます。角三郎は
「家中だ」
 と嘘をついたものの
「もし、自分が大名になるような事が起きたら、錦木を検校に取り立ててやろう」
 と約束します。
 それから間もなく、錦木は風邪をこじらせ、生死の境をさまようほど長く寝込んでしまい、療治に出られなくなります。
 何とか病から立ち直った日、同じ長屋の住人が錦木にこう告げます。
「あの下屋敷の酒井の若さまが、おやじが隠居、兄貴の与五郎が病身とあって、思いがけなく家を継ぐことになった」
 という話を聞き、飛び上がって布団から跳ね出します。
 早速、今は酒井雅楽頭となって上屋敷に移った角三郎のところに駆けつけます。
「錦木か、懐かしいな。武士に二言はないぞ」
 と、約束通り検校にしてくれました。
 出世した錦木がある日、御殿様の下に御機嫌伺いに参上すると、雅楽頭は
「新たに栗毛の馬を買い、“三味線”と名をつけた。余は酒井雅楽頭である。雅楽(ウタ)が乗るから“三味線じゃ”」
 と洒落ます。錦木は
「殿様が乗りますので“三味線”。して、その御馬に御家来衆が乗りますと?」、
 雅楽頭
「バチ(撥)があたる」


【注目点】
一応これが基本のあらすじですね。
最近は錦木が亡くなってしまったり、約束は戯言だ、と言って雅楽頭の処に行かない演出等がありますが、
私はあざとい演出だと思います。
この噺は力量のある噺家がちゃんとやればかなりの良い噺なのですが、
かなりの数の評論家や落語通から「納得の行く演出を聴いた事がない」
と言われている噺ですが、かの名人の名を欲しいままにした圓喬師は、
角三郎酒井雅楽頭が任官したと聞いて、病み衰えた錦木が病床でサメザメと嬉し泣きすることにあり、
それが観客をも泣かせたという事です。
そこまで感動的なのを聴いてみたいですね。

『能書』
講談と落語の大きな違いは落語は普通の人々を描いている処ですね。
ですから、この錦木も出世欲はあると思いますが、あからさまにするのでは、噺がぶち壊しですし、程度の問題ですね。この辺の演出で感動するか否かが決まるのでは無いでしょうか

『ネタ』
酒井雅楽頭は、譜代の名門中の名門、酒井家の本家で、上野・前橋十二万五千石→播州・姫路十五万石となりまして、大老も出しています。
酒井家の上屋敷は丸の内・大手御門前にありまして、下屋敷は、旧駒込曙町で、現・文京区本駒込一、二丁目でした。

684958c0【ねずみ】
今日はこの噺です。左甚五郎の噺で落語ではおそらく最後の噺になると思われます。

「原話」
三代目三木助師が、浪曲師の広沢菊春師に「加賀の千代」と交換にネタを譲ってもらい、脚色して落語化したものです。
「甚五郎の鼠」の演題で、昭和31年7月に初演しました。
「竹の水仙」「三井の大黒」と並んで甚五郎三部作とも言われています。

「演者」
やはり三代目三木助師でしょうね。最近では歌丸師も得意にしていました。ほかにも多くの演者がいますね。

「ストーリー」
名工・左甚五郎は、十年も江戸・神田橘町の棟梁・政五郎の家に居候の身。
その政五郎が若くして亡くなり、今は二代目を継いだせがれの後見をしています。
 ある年、まだ見ていない奥州・松島を見物しようと、伊達六十二万石のご城下・仙台までやってきました。十二、三の男の子が寄ってきて、ぜひ家に泊まってほしいと頼むので承知すると、
「うちの旅籠は鼠屋(ねずみや)といって小さいが、おじさん、布団がいるなら損料(そんりょう)を払って借りてくるから、二十文前金でほしい」
 と言います。
 なにかわけがありそうだと、子供に教えられた道を行ってみると、宿屋はなるほどみすぼらしくて、掘っ建て小屋同然。前に虎屋という大きな旅籠(はたご)があり、繁盛しています。出てきた主人、
「うちは使用人もいないから、申し訳ないが、そばの広瀬川の川原で足をすすいでほしい」
 と言うから、ますますたまげます。その上、子供が帰ってきて、「
料理ができないから、自分たち親子の分まで入れて寿司を注文してほしい」
 と言い出したので、甚五郎は苦笑して二分渡します。
 それとなく事情を聞くと、このおやじ、卯兵衛(うへえ)といい、もとは前の虎屋のあるじだったが、五年前に女房に先立たれ、女中頭のお紺を後添いにしたのが間違いのもと。
性悪な女で、幼いせがれの卯之吉をいじめた上、番頭の丑蔵と密通し、たまたま七夕の晩に卯兵衛が、二階の客のけんかを止めようとして階段から落ちて足腰が立たなくなり、寝たきりになったのを幸い、親子を前の物置に押し込め、店を乗っ取ったと、いうのです。
 卯兵衛は、しかたなく幼友達の生駒屋(いこまや)の世話になっていたが、子供の卯之吉が健気(けなげ)にも、
「このままでは物乞いと変わらない、おいらがお客を一人でも連れてくるから商売をやろう」
 と訴えるので、物置を二階二間きりの旅籠に改築したが、客の布団も満足にないありさま。
 宿帳から、日本一の彫り物名人と知って卯兵衛は驚くが、同情した甚五郎、一晩部屋にこもって見事な木彫りの鼠をこしらえ、たらいに入れて上から竹網をかけると
「左甚五郎作 福鼠 この鼠をご覧の方は、ぜひ鼠屋にお泊りを」
 と書いて、看板代わりに入口に揚げさせ出発した。
 この看板を見た近在の農民が鼠を手にとると、不思議や、木の鼠がチョロチョロ動く。
 これが評判を呼び、後から後から客が来て、たちまち鼠屋は大繁盛。新しく使用人も雇い、裏の空き地に建て増しするほど。そのうち客から客へ、虎屋の今の主人・丑蔵の悪事の噂が広まり、虎屋は逆にすっかりさびれてしまう。
 丑蔵は怒って、なんとか鼠を動かなくしようと、仙台一の彫刻名人・飯田丹下(いいだ・たんげ)に大金を出して頼み、大きな木の虎を彫ってもらう。
 それを二階に置いて鼠屋の鼠をにらみつけさせると、鼠はビクとも動かなくなった。
 卯兵衛は
「ちくしょう、そこまで」
 と怒った拍子にピンと腰が立ち、江戸の甚五郎に
「あたしの腰が立ちました。鼠の腰が抜けました」
 と手紙を書いた。
 不思議に思った甚五郎、二代目政五郎を伴ってはるばる仙台に駆けつけ、虎屋の虎を見たが、目に恨みが宿り、それほどいい出来とは思われない。そこで鼠を
「あたしはおまえに魂を打ち込んで彫ったつもりだが、あんな虎が恐いかい?」
 としかると
「え、あれ、虎? 猫だと思いました」

「ネタ」
日本橋橘町は現在の東日本橋三丁目で、振袖火事で焼けて築地に移るまで、この町の東側に西本願寺があったそうです。
 その門前の町屋で、立花を売る店が多くあったので、立花町と唱えたのが町名のもとというそうです。このあたりには踊り子(町芸者)の住居が多かった。いわゆる柳橋芸者の発祥の地っでもあります。

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