はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

噺の話

「芝浜」は暮れの噺

e88a9de6b59cefbc91『芝浜』
寒くなってまいりました。毎日「今年一番の冷え込み」とかマスコミで言ってますね。
皆様もどうか、お気をつけ下さい。
と言う訳で年末の噺と言ったらこれと「富久」ですね。

【原話】
この噺は三代目三木助師によって飛躍的に有名になりました。
原作は三遊亭圓朝師で、三題噺からの創作と言われています。
三題噺のお題は、「よっぱらい」と「皮財布」と「芝浜」と言われていますが諸説あります。

【ストーリー】
魚屋の勝は酒におぼれ、仕事に身が入らぬ日々が続く。ある朝早く、女房に叩き起こされ、嫌々ながら芝の魚市場に向かいますが時間が早過ぎたため市場がまだ開いていません。
誰も居ない芝浜の美しい浜辺で顔を洗って煙管を吹かしていると、そこで偶然に財布を見つけます。
開けると中には目を剥く程の大金。有頂天の魚屋は自宅に飛び帰り、仲間を呼んで浮かれ気分で大酒を呑む始末。

翌日、二日酔いで起き出た魚屋に女房、こんなに呑んで酒代をどうするのか、と亭主に言います。
勝は拾った財布の件を躍起になって訴えるが、女房は、そんなものは知らない、と言う。
焦った勝は家中を引っ繰り返して財布を探すが、何処にも無い。勝は愕然として、ついに財布の件を夢と諦める。
なんて情けない夢を見たのだと思い、酒を断ち、心を入れ替えて真剣に働き出します。

懸命に働いた末、生活も安定し、身代も増え、やがていっぱしの定店を構えることが出来た三年後の大晦日の夜、勝は妻に対してその献身をねぎらい、頭を下げる。ここで、女房は魚屋に例の財布を見せ、じつは・・・と、告白をはじめます。

あの日、夫から拾った大金を見せられた妻は困惑しました。と言うのも、横領すれば当時は死罪にあたります。
(江戸時代では10両(後期は7両2分)盗むと死罪です)
長屋の大家と相談した結果、大家は財布を拾得物として役所に届け、妻は夫の大酔に乗じて「財布なぞ最初から拾ってない」と言い切り夢と言う事にしました。
時が経っても遂に落とし主が現れなかったため、役所から拾い主の魚屋に財布の大金が下げ渡されたのでした。

この真相を知った勝は、妻の背信を責めることはなく、道を踏外しそうになった自分を助け、真人間へと立直らせてくれた妻の機転に強く感謝する。妻は懸命に頑張ってきた夫の労をねぎらい、久し振りに酒でも、と勧める。はじめは拒んだ魚屋だったが、やがておずおずと杯を手にする。「うん、そうだな、じゃあ、呑むとするか」しかし思い立った勝、次には杯を置く。

「よそう。また夢になるといけねぇ」

【演者】
やはり三代目桂三木助師が絶品と呼ばれています。でも志ん朝師は海のシーンをあえて演じませんでした。それも面白いです。
恐らく演じると三木助師との違いが出ないと思ったのだと思います。

【注目点】
この女房の描き方が色々な噺家さんで変わってきますね。
有名なのは談志師で、原作通りだと「できすぎ」と言う事で、告白の時に「騙して申し訳無い」と心から謝罪して涙を流す、偉ぶらない妻として描いています。そして女房を可愛く演じていますね。(その後何回も変えましたがw)

個人的ですが、人情の機敏さの本筋さえきちんと押さえていれば、噺としては良いのではないかと思いますね。
緻密な構成と人情味、そして素晴らしい女房だったら幸せですね。

『能書』
この噺を夫婦の愛情を軸とするか、勝っあんが出世する噺とするかで演じ方が変わって来ます。そこも注目して聴いてみて下さい。

『ネタ』
三木助師の噺が有名になったのは、安藤鶴夫先生の宣伝もあったそうですが、噺に日の出の様子をいれた描写は当時は新鮮だったのでしょうね。
私の個人的な意見ですが、その為、勝っあんのだらしなさが少しスポイルされてしまうと思いますが、
如何でしょう……。

「文七元結」と言う噺

41e0cc95『文七元結』
今回は冬の噺でも大物のこの噺です。

【原話】
圓朝師の創作で有名ですが、八代目正蔵師の説によると、それ以前に同種の噺があり、圓朝師が自分の創作部分を加えて、人情話に作りなおしたそうです。真意はわかりませんが、きっと全く違った噺になっているのでしょう。
また、明治の政治家井上馨らが江戸っ子の気質とは、と問われてこの噺を作ったと言う説もあります。

【ストーリー】
左官の長兵衛は、腕は立つのだが、無類のばくち好きが高じて、仕事もせずに借金を抱えています。
年の瀬も押し迫るある日、前夜の負けがこんで、身ぐるみ剥がれて半纏一枚で賭場から帰されると、
女房のお兼が泣いている。
聞くと、娘のお久がいなくなったという。どうしたのかと、夫婦喧嘩をしているところに、普段より世話になっている吉原の女郎屋の大店、角海老から使いのものが来ます。
取り込み中だから後にしてくれというと、他でもない、その娘のお久のこと、角海老の女将の所に身を寄せているというではありませんか。
女房の着物を一枚羽織って角海老へ行ってみると、お久は、身売りをして金を工面し、父に改心してもらいたいので、お角のところへ頼み込んだのだというではありませんか。
女将は、自身の身の回りをさせるだけで店には出さないから、次の大晦日までに金を貸してやるが、大晦日を一日でも過ぎたら、女郎として店に出すという約束で、長兵衛に五十両の金を渡します。

情けない思いをし、しかし改心しきった長兵衛が、帰り道に吾妻橋にさしかかると、身投げをしようとしている男がいます。
訳を聞くと、白銀町の鼈甲問屋「近江屋」の奉公人(文七)で、お遣いに頼まれ、取りにいった売り上げをすられたので、死んでお詫びをしようというところだったと言います。
死んでお詫びを、いや、死なせねぇと押し問答が続いた後、長兵衛は、自分の娘のお久が身を売って五十両を工面してくれたことをはなし、その金でお前の命が助かるのなら、娘は死ぬわけではないのでと、無理矢理五十両を押し付けて、逃げるように帰ってゆくのでした。

文七がおそるおそる主人卯兵衛の元に帰り、長兵衛からもらった金を差し出すと、それはおかしい、お前が遣いにいった先で碁に熱中するあまり、売り上げをそっくりそのまま忘れてきてしまったものを、先方は既に届けてくれて金はここにある、一体どこから、また別の五十両が現れたのかと、主人が問いただすと、文七はことの顛末を、慌てて白状します。

翌日、卯兵衛は何やら段取りを済ませ、文七をお供に長兵衛の長屋へと赴きます。
実は文七が粗相をやらかし…と、事の次第を説明し、五十両を長兵衛に返そうとするが、長兵衛は、江戸っ子が一度出したものを受け取れるか!と受け取りません。
もめた挙句に長兵衛ようやく受け取り、またこれがご縁ですので文七を養子に、近江屋とも親戚付き合いをと、祝いの盃を交わし、肴をと、表から呼び入れたのが、近江屋が身請けをしたお久が現れます。
家族三人で嬉し涙にくれます。
後に、文七とお久が夫婦になり、近江屋から暖簾を分けてもらい、元結いの店を開いたという、文七元結由来の一席。

【演者】
もう、歴代の大師匠が演じていますので、圓生師、正蔵師、志ん生師、皆いいです。現役では小三治師がダントツですね。志ん朝師は個人的にですが、吾妻橋で50両を渡すシーンが少し長いと思っていましたが、「そこが良いんだ」と言う意見を伺いました。色々とありますね。

【注目点】
元結とは男性のチョンマゲや女性の日本髪の元を束ねて紐で結わえて固定します。この、糊で固く捻ったこよりで製した紙紐が元結です。当時、非常に弱く扱いにくかった為、文七はそこで修行を積みながら元結改良に日夜苦心を重ね、遂に光沢のある丈夫な元結造りに成功、販路を江戸に求めると、たちまち髪結床から注文が殺到、これを契機に江戸に卸問屋を開業して後、「文七元結」の名で国中の評判になりました。

『能書』
この文七元結を拵えた、桜井文七と言う人は実在の人物で、1683年美濃国生まれで、元結の多い長野県飯田で修行したあと江戸で活躍したそうです。名前が。江戸で有名で代々襲名されていたため圓朝師がモデルにしたそうです。

「二番煎じ」という噺

206c91bb『二番煎じ 』
 寒くなって来ましたらやはり鍋が恋しくなりますね。そんなお噺です。

【原話】
元禄3年(1690年)に出版された江戸の小咄本『鹿の子ばなし』に掲載された「花見の薬」を上方で同時期に改作し、夜回りの話とした『軽口はなし』の「煎じやう常の如く」だそうです。
大正時代に五代目三遊亭圓生師が東京へ移したといわれています。
上方では初代、二代目桂春團治師、二代目露の五郎兵衛師らが、東京では、六代目柳橋先生や八代目可楽師らが得意としました。

【ストーリー】
町内の旦那衆が火事を防ぐため、火の番の夜回りをすることになりました。
番小屋に集まり、集まった顔ぶれを二組に分け、交代で町内の見廻りをはじめます。
凍てつくような江戸の冬。金棒は冷たくて握れず、拍子木を打つのに懐から手を出すのも一苦労。
「火の用心」の声も北風に震えるようです。やがて番小屋に戻り、囲炉裏を囲む旦那衆。

すると、禁じられている酒を持ってきた人がいたり、猪鍋の用意をしてきた者がいたりして・・・
役人に見つかると面倒なため、酒を土瓶に移し、煎じ薬と称してそっと宴をはじめます。
猪鍋で楽しく酒を飲んでいると、番小屋の戸をたたく音がする。役人が見回りに来たのです!
一同はあわてて酒や鍋を隠し、役人を迎え入れます。

役人は「変わった事は無いかな?」等と聞きますが、気もそぞろ。
「あー、今わしが『番』と申したら『しっ』と申したな。あれは何だ」
「へえ、寒いから、シ(火)をおこそうとしたんで」
「土瓶のようなものを隠したな」
「風邪よけに煎じ薬をひとつ」

役人、にやりと笑って
「さようか。ならば、わしにも煎じ薬を一杯のませろ」
しかたなく、そうっと茶碗を差し出すとぐいっとのみ
「ああ、よしよし。これはよい煎じ薬だな。
ところで、さっき鍋のようなものを」

「へえ、口直しに」
「ならば、その口直しを出せ」
もう一杯もう一杯と、
酒も肉もきれいに片づけられてしまう。
「ええ、まことにすみませんが、煎じ薬はもうございません」
「ないとあらばしかたがない。拙者一回りまわってくる。二番を煎じておけ」

【演者】
これは有名なお噺ですので、演者も数多くいます。そんな中で個人的にお勧めなのはやはり
古今亭志ん朝師ですね。兎に角鍋の食べ方が抜群です!
 柳家小三治師もいいですね。尤も色々な噺家さんが演じていますのでそれぞれの味があります。現役では瀧川鯉昇師がいいですね。何とも言えぬ可笑しさがあります。

【注目点】
 やはり鍋の食べ方とお酒の呑み方ですね。それぞれの個性がぶつかる場面ですから、注目して聴いて戴きたいです。
それと役人が出て来てからの皆の慌てぶりですね。その辺の演じ方にも注目して下さい。
噺を聴いて「鍋で酒が呑みたい」と思ったら噺家さんの勝ちですね。

『能書』
噺家さんもこの噺は演じていて楽しいそうです。出て来る役人も固いことを言わない粋な人物ですね。

『ネタ』
この噺では商家の旦那衆が夜回りをしていますが、本来は商家から人間を自身番に出す決まりでしたが殆どは「番太郎」と言う者を雇ってやらせていたのです。
 しかし、この人物は総じてだらしない人が多かったそうです。
町内の自身番に居たそうですが、前科前歴の怪しい人物が多かったとの記述もいあります。
「二番煎じ」とは本来、漢方薬の煎じ方の事で一度煎じた薬草に水を足して煎じた事に由来します。

紋三郎稲荷は初冬の噺

1cb7b019『紋三郎稲荷』
今回はこの噺です。調べると冬の噺との事なので、取り上げて見たいと思います。

【原話】
1802年享和2年の随筆集の「古今雑談思出草紙」からと言われています。
または寛政10(1798)年刊「無事志有意」中の「玉」です。

【ストーリー】
常陸(茨城県)笠間八万石、牧野越中守の家臣、山崎平馬。参勤交代で江戸勤番に決まりましたが、風邪をひいてしまい、同僚の者より二、三日遅れて国元を出発しまた。
季節は初冬、旧暦十一月で、病み上がりですから、かなり厚着をしての道中となりました。
取手の渡しを渡ると、往来に駕籠屋が二人います。病後でもあり、風も強いので乗ることにします。
交渉すると駕籠屋が八百文欲しいと言うところ、気前よく酒手込みで一貫文はずみました。
途中、心地よくうとうとしていると、駕籠屋の後棒が先棒に、
「この頃は値切らなければ乗らない客ばかりなのに、言い値で乗るとはおかしい、お稲荷さまでも乗っけたんじゃねえか」
と話しているのが、耳に入ります。
はて、どういうわけでそう言うのかとよく考えるとどうやら、、寒いので背割羽織の下に、胴服といって狐の毛皮を着込んでいました。その毛皮の尻尾がはみ出し、駕籠の外に先が出ていいて、それが稲荷の化身の狐と間違われたことに気がつきます。
洒落気がある平馬なので、からかってやろうと尻尾を動かすと、駕籠屋は仰天。そこで、「わしは紋三郎(稲荷()の眷属だ」
等と出まけせを言ったから、駕籠屋はすっかり信じ込みます。その上、途中の立て場でべらべら吹聴するので、ニセ稲荷はすっかり閉口。
 松戸の本陣の主人、高橋清左衛門なる者が大変に紋三郎稲荷を信仰しているため、平馬はそこに連れていかれてしまいます。下りて駕籠賃を渡すと駕籠屋、
「木の葉に化けるなんてことは……」
「たわけたことを申せ。それは野狐のすることだ」
主人の清左衛門は、駕籠屋から話を聞いて大喜び。羽織袴で平馬の部屋に現れ
「紋三郎稲荷さまにお宿をいただくのは、冥加に余る次第にございます。
中庭にささやかながらお宮をお祭りし、ご夫婦のお狐さまも祠においであそばします」
 と挨拶しましたので、、平馬は
「駕籠屋のやつ、ここの親父にまでしゃべった、どうも弱った」
 と思いましたが、いっそしばらく化け込もうと決めます。
 清左衛門が、夕食はおこわに油揚げなどと言いだすので、平馬はあわてて
「そんなものは初心者の狐のもので、わしほどになると何でも食うから、酒のよいのと、
ここの名物の鯰鍋、鯉こくもよい」
等と言うので、贅沢な狐だと思いながらも、粗相があってはと、主人みずから給仕する歓待ぶりです。
平馬は、酔っぱらって調子に乗り、
「この間は王子稲荷と豊川稲荷の仲裁をした」
 などと吹きまくるのです。
 そのうち近所の者が、稲荷さまがお泊りと聞いて大勢「参拝」に押しかけたというので、
「それは奇特なことである。もし供物、賽銭などあらば申し受けると伝えよ」
「へへー」
 等とやります。
喜んだ在所の衆、拝んでは部屋に再選を放り込んでいくので、平馬は片っ端から懐へ入れてしまいます。
平馬は儲かったので、バレないうちにずらかろうと、縁側から庭に下り、切戸を開け一目散。
 それを祠の下で見ていた狐の亭主、
「おっかあ」
「なんだい、おまいさん」
「化かすのは、人間にはかなわねえ」

【演者】
明治から大正にかけ、「品川の円蔵」こと四代目橘家円蔵が得意にした噺で、六代目圓生師に受け継がれました。
二代目円歌師の高座が有名です。二代目円歌師没後は圓生師が、その後は三代目円歌師が演じていました。
今は、柳家一琴師や入船亭扇辰師が演じています。

【注目点】
圓生師はそれまでの道中の名前等がいい加減だったので、本を読み修正したそうです。この辺に圓生師の気質が表れていますね。

『能書』
紋三郎稲荷とは、茨城県笠間市の笠間稲荷の通称です。
「紋三郎」の通称の由来は、常陸国(いまの茨城県)笠間藩、牧野家初代藩主・牧野貞通の一族の牧野門三郎にちなむものとされます。
祭神は宇迦之御魂神(うかのみかまのかみ)で、創建は白雉(はくち)年間(650〜654)と相当古いです。
伏見稲荷、豊川稲荷と共に、日本三代稲荷の一つで、現在も五穀豊穣の祭神として、信仰を集めています。

『ネタ』
背割羽織とは、別名「ぶっさき羽織」「ぶっさばき」とも呼びます。
武士が乗馬や旅行の際に着用した、背中の中央から下を縫い合わせていない羽織です。

替わり目

large『替わり目』
今回は立冬と言う事もありこの噺です。
 初冬の代表的な噺ですね。

【原話】
文化9年(1812)に江戸で刊行された笑話本「福三笑」中の小咄の
「枇杷葉湯(びわようとう)」が原話だそうです。

【ストーリー】
酔っ払った男が自分の家の前で俥に乗ったり、さんざん車夫をからかって帰って来ます。女房は早く寝かせようとしますが、寝酒を飲まなければ寝られないと言い出します。
女房は仕方なく女房は夜明かしのおでん屋へ出かけて行きます。
かみさんを買い物にやった亭主が、
「何だかんだっつっても、女房なりゃこそオレの用をしてくれるんだよ。ウン。
あれだって女は悪かねえからね……近所の人が
『お前さんとこのおかみさんは美人ですよ』って……
オレもそうだと思うよ。『出てけ、お多福っ』なんてってるけど、
陰じゃあすまない、すいませんってわびてるぐれえだからな本当に……
お、まだ行かねえのかおう……立って聞いてやがる。さあ大変だ。元を見られちゃった」

とここで下げるやりかたもありますが、続きがあります。
 亭主はその間に家の傍を通ったうどん屋をつかまえて酒の燗をつけさせ、うどん屋が何か食べてほしいというのをおどかして追っ払ってしまいます。
そのあとで新内流しをつかまえて都々逸をひかせていい気持ちになっているところへ女房が帰ってきました。
「おや、どうやってお燗をしたの」
「いまうどん屋につけさせた」
「なんか食べたの」
「なにも食わねえでけんつくを食わせた」
「かわいそうに、うどんでもとって…。うどん屋さーん」
「おいうどん屋、あそこの家でおかみさんが呼んでるぜ」
「どこです」
「あの腰障子の見える家だ」「
あそこは行かれません。いま行ったら銚子の替わり目の時分だから」

【演者】
これはね、志ん生師ですね。噺での亭主と奥さんの関係が
そのまま、志ん生師とりん夫人の関係そのままだそうです。
天衣無縫と言うか落語に全てを注いでいた志ん生師は家庭の事など
顧みなかったと言われていますが、それを支えたのがりん夫人でした。

【注目点】
上方では「銚子の代わり目」又は「鬼のうどん屋」等としてよく演じられたそうです。
夜泣きうどん屋の登場するくだりは、その頃に加えられたものと思われます

『能書』
今は一緒の人情噺として定着していますが、やはり最後の下りまで聴きたいですね。

『健二のネタ』
昭和24年の新東宝映画「銀座カンカン娘」の中で、志ん生師がこの噺を一席演じています。
映画の志ん生師は痩せていて当時の食糧事情が伺えます。
記事検索
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

livedoor プロフィール
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ