らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

思いでの噺家さん

右朝師匠のこと

img001-2【古今亭右朝】1948年11月2日 – 2001年4月29日
今日は個人的に好きだった右朝師です。
本当に素敵な噺家さんでした。声が良くて、様子が良くて、噺がウマイ!
何拍子も整っていました。寄席でも時間が在るときはたっぷりと、無いときでもきっちりと古典を演じてくれました。「軽妙洒脱」とも言うのですかね、
談志家元に習った噺を翌日には見事に覚えていたと言う逸話が有るように、天才肌でありながら、人一倍の研究熱心さで、将来の古今亭を背負って立つことが大いに期待されていました。
仲の良かった、川柳川柳師の話によると志ん朝の襲名の話もあったそうです。
志ん朝と言うとてつもない大看板を、背負って行ける逸材と思われていたのですね。

・「出囃子」 『小鍛冶』

・「芸風」
粋な噺家の見本のような存在でした。
タレントで作家の高田文夫さんの大学時の同級生で日大の落研でも活躍したそうです。

・「芸歴」
1975年11月 – 3代目古今亭志ん朝に入門し「志ん八」を名乗る。
1980年6月 – 二つ目昇進。
1988年6月 – 真打昇進と同時に「古今亭右朝」を名乗る。(落語協会の真打としては100人目で昭和最後の真打)
2001年4月29日 – 肺癌により死去
.「エピソード」
唯一の悪い処が酒癖だったそうです。
でもこれは我々落語ファンには関係ありませんね。
ネタ帳に残されてる持ちネタが二百二席という事からも解る様に古典ならば殆どこなせたのではないでしょうか。
適当なマクラを振るとサツと噺に入り、自身の美学?にそった演出でお客を楽しませてくれました。

ある時、食いつき(仲入りの直後でザワザワしているので難しい)で師匠が上がったのですが、食いつきのざわざわした雰囲気を物ともせずに話始めると、場内は静まり返り皆噺に聴き入って仕舞いました。

・「得意演目」
「居残り佐平次」「品川心中」「文七元結」「宿屋の富」「船徳」「目黒のさんま」
「小言幸兵衛」「道灌」「文違い」「三方一両損」「星野屋」「百川」他多数!


※ 本業多忙の為、返コメが遅れますがご容赦下さい。m(_ _)m

柳橋先生のこと

27728359今日から数回に渡って「懐かしい噺家さん」を特集致します。
名人と呼ばれた訳ではないが、多くのお客さんに愛された噺家さんを取り上げて行きたいと思います。まずはこの師匠
・【六代目 春風亭柳橋】明治32年(1899年)10月15日 – 昭和54年(1979年)5月16日

・「出囃子」大阪せり

・「芸風」
眉毛の長い大店の隠居のような風貌が印象的でした。若いころから売れに売れたのですが、晩年は若手に出番を譲って軽いネタしかやりませんでしたが、それでも楽しませて貰いました。
吉田茂首相など多くの政治家に愛されたそうです。その為、晩年は「柳橋先生」と呼ばれていましたが、私は噺家さんがそのように呼ばれるのが良いとは思えません。
まあ、一般のお客にはそんな素振りは見せませんでしたが……。

・「芸歴」
明治43年(1910年)、9歳で子供落語家として初舞台 春風亭柳童
1917年 真打昇進  春風亭柏枝
1921年 4代目春風亭小柳枝襲名
大正15年(1926年)2月、柳橋を襲名。師の初代華柳の意見を入れて亭号は春風亭のままにする 本来、柳橋は麗麗亭が亭号。
日本芸術協会(今の落語芸術協会)を創設し、44年間、会長を務めた。この間、名実共に落語界の頂点であり続け、絶対権力者として君臨した。また、弟子をよく育て、弟子たちもまた落語界を代表する噺家へと育った。

・「エピソード」
子供の頃TVでよく見ましたね。実演は2〜3回位かな?覚えているのは・・・
もう軽い噺しかやりませんでしたね。
残された音源を聴いてみると、中々どうして楽しい師匠です。
7代目の柳橋師もそうでしたが、柳橋節とも言う口調は独特で、何時の間にか
噺の世界へ誘われて仕舞います。
若い頃売れに売れて、あまりの凄まじさに六代目圓生師が、「あのまま行ったら、私は本気で柳橋さんの弟子になろうとしました」と言ったのは有名な話で、真意は兎も角、それほど凄い売れ方だったそうです。

「湯屋番」で若旦那が番台から落ちる処で、本当に高座から落ちる演出をして、拍手喝采だったとか。
晩年の姿だけを見て、全く歯牙にも掛けない落語ファンや評論家がいるのは悲しい事です。
よく言われている得意な噺「大山詣り」や「花見酒」、「蒟蒻問答」等の他に、余り書かれていませんが、柳好師で有名な「野ざらし」等も絶品でした。

柳橋の名前は本来は”麗々亭”と言う亭号ですが、何故か六代目からは春風亭に替えました。
だから、人によっては、柳橋としては六代目だが、春風亭柳橋としては初代だと言う研究家も居ます。

先日紹介した「青菜」ですが、私は盛夏の噺だと思っていましたが、初夏の噺でした。
先日落語DEデートで柳橋先生の「青菜」では、冒頭でちゃんと「目に青葉、山不如帰、初鰹」と言っています。それに鰯も旬はこの季節なんですね。
晩年の事は色々言われていますが、私にとっては楽しい噺を聴かせてくれる師匠でした。

・「得意演目」
『時そば』『碁どろ』『長屋の花見』『天災』『猫久』『野ざらし』『青菜』『おせつ徳三郎』『星野屋』『二番煎じ』『一目上がり』『お見立て』『粗忽の釘』『試し酒』『大山詣り』『子別れ』『目黒のさんま』など。

十代目文治師匠のこと

hqdefault今日は十代目 桂文治師です。小柄ながらパワフルな高座を見せてくれました。

「十代目 桂 文治」(1924年1月14日 〜 2004年1月31日)
噺家の初代柳家蝠丸の家に生まれる

・1946年6月、2代目桂小文治に師事し、柳家小よしを名乗るが師の亭号の桂小よしに改名。
・1948年10月、2代目桂伸治に改名し二つ目昇進。
・1958年9月、真打昇進。
・1979年3月、十代目桂文治を襲名

この文治と言う名は桂派の家元の名前で桂を名乗る噺家さんでは一番重い名前です。
ちなみに、三遊亭では圓生、柳家では小さん、金原亭では馬生、古今亭では志ん生、そして春風亭では柳枝が家元の名前となっています。
襲名に際しては八代目正蔵師の強い薦めがあったそうです。

「芸風」
伸治時代は兎に角パワフルな芸風で「あわてもの」というそそっかしい人の噺では圧倒的な高座を見せてくれました。落語を演じているのではなく、本当にこの人の話をそのまま語っているのではないか? とさえ思わせてくれました。笑いすぎて、お腹の筋肉が痛くなるという嘘のような現象を味あわせて貰いました。
文治を襲名してからはやや落ち着いた高座になりましたが、それでも切り口の良い噺を聞かせてくれました。

「こだわり」
江戸言葉には特にこだわりがあり、私が知ってるのでは「カッコイイ」は関西弁で江戸言葉では「様子が良い」。「ど真ん中」ではなく「まん真ん中」などと語っていましたね。
いつも着物姿で歩いていました。個人的に私の地元でよく拝見しました。
高座着も色紋付は殆ど着ていなかったと思います。(TVでは判りません)着物は柄でも羽織は必ず黒の紋付きでした。これは江戸の噺家は本来黒の紋付きの羽織を着て高座に上がるのが本来で、それ以外の柄物の羽織を着るのは上方から入って来た風習だからです。
そんなこだわりも見せてくれました。

「ネタ」
晩年のことですが、寄席等の通勤に使用していた西武新宿線の女子高校生の間では「ラッキーおじいさん」と呼ばれていたそうです。師匠出会うことが出来れば、その日は幸せになると言われていました。

「得意演目」
「掛取り」「源平盛衰記」「親子酒」「お血脈」「長短」「蛙茶番」「義眼」
「鼻ほしい」「火焔太鼓」「道具屋」「替り目」「ラブレター」「あわて者」
「猫と金魚」「二十四孝」等滑稽話多数!

三遊亭圓彌師のこと

62bd8804398d8709366689cc931c0106今日は三遊亭圓彌師のことを……。

優しい口調ながらも本寸法で、三遊亭の噺を受け継いでいました。
また鳴り物も得意で、圓生師の「圓生百席」ではお囃子として参加しています。

「三遊亭圓彌」
1936年7月20日 – 2006年4月29日

「出囃子」
最初は、『四季の寿』でしたが、師匠没後師匠の出囃子であった『正札附』を使いました。
このことから見ても自身でも三遊亭の正当な後継者自負していたと思います。

「経歴」

1958年10月、8代目春風亭柳枝に入門。「枝吉」
1959年 師匠没後 六代目圓生一門に移籍 「舌生」
1961年9月、二つ目昇進し「円弥」
1972年9月、真打昇進。「圓彌」
2006年4月29日、肝臓癌のため都内の病院で死去。享年69。

若いころにはNHKの落語番組で「幻の噺家」と自らキャッチフレーズを言っていました。
また踊りの「藤間流」の名取でもありました。噺家さんはほとんど、踊りや唄(小唄等)の稽古をしています。それは古典落語にはその要素が沢山入っているからです。また、歌舞伎とは切っても切れない関係なので、歌舞伎座等では噺家さんが良く来ています。逆に落語の会などでは歌舞伎の俳優さんも見に来るそうです。

長い間空席となっている春風亭柳枝の名前ですが、生前に圓彌師が襲名する話がありました。
でも色々なことがクリア出来ず結局襲名は出来ませんでした。
恐らく、それから三遊亭の後継者に傾いたのだと思います。

本当に古典を語る為に生まれたような噺家さんでした。口調が良いので安心して聴いていられました。
古典落語に対する造詣が深いのにも係わらず、寄席等ではそれをひらけかす事もありませんでした。でも聴いていればそれが良く判る高座でした。
姿形も綺麗で、その意味でも本当に素晴らしい噺家さんでした。

亡くなる寸前まで寄席に出ていたと思います。その点でも素晴らしかったですね。

十代目 金原亭馬生師の思い出

hqdefault暫くは、私の思い出に残る噺家さんを取り上げて行こうと思います。最初は、古今亭志ん生師の長男で、志ん朝師のお兄さんの十代目金原亭馬生師です。

十代目金原亭馬生
1928年〈昭和3年〉1月5日〜1982年〈昭和57年〉9月13日)

言わずと知れた五代目古今亭志ん生の長男。長女は女優池波志乃で、夫である中尾彬は義理の息子になります。

出囃子『鞍馬』 ですが、晩年の僅かな期間だけは父の出囃子『一丁入り』に変えました。これは私の考えですが、恐らく後に癌に侵されるのですが、生来の病弱で、自分が長生き出来ないと悟って父親の出囃子を使ったのだと思います。それ以来『一丁入り』は寄席や落語会では出囃子としては流れていません。

高座は繊細で父親とも弟の志ん朝師とも違います。演じている間は高座に何とも言えない優しさが溢れます。これが特徴でした。
だからキッチリとしていたか、というと意外にラフで、演目もその場で決めていたそうです。それでも通用してしまっていました。そのことは「笠碁」を演じた高座にも現れています。
「東京落語会」で演じた高座とCDで発売されている高座とではかなり違います。どちらも面白いのですが、個人的には「東京落語会」の高座が良いですね。余分な言葉を排除して、仕草、目線などでお客を笑わせています。

経歴
1943年(昭和18年)8月 父・5代目古今亭志ん生に入門。芸名はむかし家今松(4代目)
1944年(昭和19年)9月 古今亭志ん朝(初代)に改名
1948年(昭和23年) 古今亭志ん橋を襲名して真打昇進。
1949年(昭和24年)10月 10代目金原亭馬生を襲名。
1982年(昭和57年)8月30日 第260回東横落語会で「船徳」を口演。最後の高座となる。
9月13日 逝去。享年54。戒名「心光院清誉良観馬生居士」

喉頭がんを患ったのですが、「自分は噺家だから声が無くなるのは困る」と手術を拒否しました。その為、最後はかなり苦しんだそうです。
最後の高座「船徳」口演した時ですが、見ていた人も「かなり辛そうだった」と言っています。
この事で好対照だったのが立川談志師で、最後は手術をして声を失って筆談をしていたそうです。でも、この事は弟子にも一切知らせませんでした。声を失ってからは家族水入らずで過ごしたそうです。この時、落語家立川談志はこの世から居なくなったのだと思います。残りの人生を松岡 克由、個人に戻って過ごしたのだと思います。無くなる寸前まで噺家として生きた馬生師と家族の為に最後は個人に戻った談志師。どちらも面白いと思いました。
でも馬生師はカッコイイです! 粋な噺家さんNO1です!

落語四天王 2 三遊亭圓楽

012今回は圓楽師です。

2.【五代目三遊亭圓楽】1933年1月3日 – 2009年10月29日

・「出囃子」
『元禄花見踊』

・「芸風」
スケールの大きな噺をする師匠でした。晩年は入れ歯が合わなかったり、病の為に思うような噺が出来なかったと言われていますが、真打昇進の頃の音源を聴くと、まるでカミソリのような切れ味で、これが圓楽師かと驚かれると思います。
また若い頃は「星の王子様」と自分でキャッチフレーズを作りテレビなどにも多く出演いていました。

・「芸歴」
1955年(昭和30年)2月 – 6代目三遊亭圓生に入門、
1958年(昭和33年)3月 – 二つ目昇進。
1962年(昭和37年)10月 – 真打昇進し「5代目 三遊亭圓楽」
1978年(昭和53年)6月1日 – 師匠圓生一門と共に落語協会を脱退
1980年(昭和55年)2月1日 -師匠圓生死後、圓楽一門で新たに「大日本落語すみれ会」(後に圓楽一門会)を設立

・「エピソード」
何と言っても師匠圓生師と一緒に落語協会を脱退した事でしょう。真打昇進の意見の食い違いで小さん師と圓生師の対立が決定的になり、圓生一門が揃って脱退したのです。当初は圓生師だけが協会を辞めるつもりだったそうですが、弟子はそうも行きません。色々とあったそうですが、欠局一門の殆どが脱退しました。さん生さんと好生さんは協会に残ったので破門になりました。圓生師死後圓楽一門以外の弟子は協会に復帰しますが、圓楽一門は復帰することがありませんでした。その為、基本的には今も一門は定席に出演することが出来ません。
その事を憂いた圓楽師は江東区東陽町に数億の借金をして「若竹」と言う自前の寄席を作りました。その事を知った柳朝師は「圓楽は凄い奴だ」と感心したそうです。
しかし、自分が思った通りに弟子が育って行かない事と経営難もあり四年後に閉鎖しました。
最晩年のある時、春風亭小朝師と競演した時に、楽屋で小朝師に「自分はこれ以上上手くなれない」と言って涙を流したそうです。これには腎臓病や諸々の病の事もあったと思われます。
また「笑点」の司会を長く勤め、落語の認識拡大に多大な功績があったのは事実です。

・「得意演目」
「浜野矩随」「芝浜」等の人情を加味した噺が得意でした。これは三遊亭の芸風に通じるものです。
また、相撲の噺の「花筏」も良く高座に掛かっていて気持ちよさそうに演じていたのを思い出します。

と言う事で、また〜 次回は古今亭志ん朝師の予定です!
 
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