らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2020年08月

「双蝶々」という噺

e5174115【双蝶々】
(双蝶々雪の子別れ)
今日はこの噺です。夏の噺でも秋の噺でもありませんね。すみません。

「原話」
三遊亭圓朝作と言われていますが、それ以前からあったとも言われます。道具仕立てで演じられました。歌舞伎の同名の話とは違います。

「演者」
一朝老人から教わった圓生師や正蔵師が高座に掛けました。特に正蔵師は道具自仕立てで演じました。他には歌丸氏師も演じています。

「ストーリー」
長い噺なので、大雑把に粗筋を書いてみます。
長吉は幼い頃から悪さばかりしていたため、早くに奉公に出されます。
長吉は生来の小狡さから、奉公先では気が利く者として溶け込みます。
しかし長吉は裏では盗みを働いており、盗みの現場を店の番頭に見られてしまいます。
長吉の盗みを目撃した番頭は店へ戻って長吉の部屋を調べたところ、高価な品が多数出てきたので驚きます。
番頭は帰ってきた長吉を呼びつけ、盗みを働いていることを白状させます。
長吉が盗みを白状するや、番頭は花魁の身請けをするために大金が必要だからと、長吉に店の百両を盗むよう強要すします。

長吉はしかたなく言われた通りに、仮病を使い奥に入り込み、タンスの薬箱ならぬお金を引き抜き、薬をもらって引き下がってきます。
盗んだ金を番頭にむざむざ持っていかれるのが惜しくなり、待ち合せの場所で番頭を殺し、奥州路に逃げようかと独り言を言っているのを小僧の定吉に聞かれてしまいました。
口封じのために、定吉を首を絞めて殺してしまいます。その後番頭との約束の九つの鐘を聞いて逐電してしまいます。

正直・長兵衛夫婦は倅の悪事を知り、世間に顔向けが出来ないと、長屋を引き払って流転の日々を送る日々です。
遂に長兵衛は腰が立たない病になってしまい、内職だけでは病人を養っていけず、お光は内緒で袖乞いをして一文二文の銭を稼ぎ、なんとか食い繋いで生きます。
そこへ、たまたま奥州石巻から父の様子を探しに出てきた長吉の袖を引き、二人はひさびさの対面を果しますす。
長吉は子供の時分、お前に辛く当たったのも親父を取られたように思ったからで、今では申し訳無いと思っているんだ、と話します。
腰の立たない父を見舞い、50両の金を渡し元気で暮らすように言いますが、長兵衛は悪事から手を洗えと言葉を重ねたが、最後は長吉をゆるし、涙ながらに今生の別れを告げます。
長兵衛はもらい物の羽織を渡し、江戸から無事出られるようにと願うのでした。
雪の降る中、後ろ髪を引かれる思いで長屋を去った長吉は、吾妻橋を渡るところでついに追手に取り囲まれ、御用となるのでした。

「注目点」
談志師は生前「長吉」にも感情移入できる余地はある」と語っていました。

「ネタ」
 当時の資料によると、湯島大根畠(文京区2丁目)には陰間茶屋が多かったそうです。(参考までに)

「能書」
 現役では雲助師と弟子の馬石さん、それに正蔵師の芝居噺を受けつだ、正雀師が演じています。
喬太郎師や若手なども演じています

「位牌屋」という噺

3fa61767【位牌屋】

 今日は久しぶりにこの噺です。最近は余り聴く機会が少なくなりました。
「原話」
元は上方落語「位牌丁稚」が東京に移されたものとみられますが、詳細は不明です。
後半の、位牌を買いに行くくだりの原話は、文政7年刊行の「新作咄土産」中の「律義者」です。

前半は各地のケチの民話や小咄えお取り入れたそうです。
この噺から「しわいや」等が生まれました。

「演者」
昭和以後では、円生師や、三代目小円朝師などが演じました

「ストーリー」
 ケチでは人後に落ちない赤螺屋のだんな。子どもが生まれ、番頭の久兵衛が祝いに来ても、経費がかかるのに何がめでたいと、小言を言います。
八百屋が摘まみ菜を売りに来ると、八貫五百の値段を、八貫を負けて五百で売れと言って怒らせ、
帰ると、こぼれた菜を小僧に拾わせて味噌漉しいっぱいにしてしまい、喜ぶ始末。
芋屋が来ると、イモをただで三本も騙し取ったりという具合です。
 小僧の定吉に、注文しておいた位牌を取りに仏師屋へやります。
それも裸足で行かせ、向こうにいい下駄があったら履いて帰ってこい、と言いつけるものすごさ。その定吉が、先方で、先ほどの芋屋とのやり取りをそっくり真似をして、タバコをくすねたり、下駄を履いて帰ったり、位牌までおまけに貰って来ます。
「こんな小さな位牌、何にするんだ」
「同じオマケなら、なぜ大きいのを分捕ってこない、」
「へー、今度生まれたお坊ちゃんのになさいまし」

「ネタ」
位牌というのは亡くなった人が出た時に作る物ですから、赤ちゃんのにしなさい。とは、赤ちゃんが亡くなる事を言ってる訳で、かなり強烈なブラックユーモアですね。

「能書き」
位牌屋=仏師屋さんですが、東京では稲荷町に並んでいますね。
こう云う仏具は法事や盂蘭盆会、お彼岸等、仏教的行事の時でないと買い替えるてはイケないと言われています。こう云うのって結構大事なんですよ。
そんな事を知ってオチを考えると、少し涼しくなります。

「つるつる」という噺

つるつる『つるつる』
暑い日が続いておりますが皆様にはくれぐれもコロナと熱中症にご注意ください!
 さて今日は「つるつる」です。この噺の時期がいつ頃なのかは判りませんが、何となく今頃のような気がします。

『原話』
元の噺としては1827年に発行された「狂歌今昔物語」(全亭正直編)の「ある男女かたらひて炉の穴より通しひし事」だと言われています。これを初代三遊亭円遊師が仕立直し明治22年に演じた「思案の外幇間の当て込み」がこの噺の元と云われています。

『演者』
 八代目桂文楽が、それまで滑稽噺とされてきたこの噺を、幇間の悲哀や、お梅の描写等を加え、得意演目にしました。又志ん生もこの演目を演じており、文楽師とか逆にかなり滑稽味を加えています。

『ストーリー』
幇間の一八が、同じ家にいる芸者のお梅に、嫁に来ないかと口説いたところ、お梅は浮気な考えじゃいやだ。それと一八には悪い癖があって、お酒を飲むと物事がぞろっぺいになって約束をしてもすっぽかしたりする。それがなければお嫁に行ってもいいけど、今晩2時になったら、あたしの部屋に来てちょうだい。ただし少しでも遅れたら、いつもの癖が出たんだと言うことで、この話はなかったことにしましょうと約束をしました。
 その日、旦那が来て、付き合えと言居ます。
一八は約束の時間に戻れないかも知れないので、今日は勘弁して欲しいと言います。
旦那がその訳を聞くと一八は、しぶしぶお梅との約束を話しました。
 旦那が一二時まで、付き合えと言ったので、日頃世話になっている旦那だけに、一八もお供をする事になりました。
 先方の御茶屋で、旦那が何か芸をやればそれを買ってやるからと言ったが、これという芸がないので、酒を湯飲みに一杯飲んだら金を出すといいます。
 一八は、大好きな酒で金がもらえるならと喜んで引き受けたが、何度か飲んでいるうちに酔っぱらって、もう少し飲めと言う旦那に、約束の時間だからと断ってふらふらしながら帰ってきました。
 お梅の部屋に行くには、師匠の寝ている部屋を通って行かなければならないので、灯り取りのさんをはずして、帯をほどき裸になって目隠しをして、折れ釘に帯を結んで捕まりながらゆっくりとおりていけば、師匠にも見つかることはないと安心したら、酔いが出て、寝てしまいます。
 時計のチンチンという音がしたので、帯に捕まりながらおりていくと、下では、今みんなが朝飯を、食べようとしていたところだったので、師匠が
「おい、一八お前、何を寝ぼけているんだ」
「井戸替えの夢を見ました。」

『能書』
 この噺の考えなければならないのは、お梅ちゃんは本気で一八に言ったのか?
という処ですね。
本気で酒さえ呑まなければ良かったのか・・・という処ですが、
一八の職業を考えれば、禁酒は無理ですね。
という事は・・・・・ですね。
それともそれを判って、あえて求婚するなら、本気だろうという考えなのか、
女心は不思議です。
今では井戸も使わ無くなったので、このさげも判り難くなりましたね。

『ネタ』
柳橋の花柳界は天保の改革で営業出来なくなった深川の辰巳芸者が柳橋界隈に流れて来てから盛んになりました。元が辰巳芸者でしたので気っぷが良かったそうです。
 この噺の旦那のモデルは黒門町の実際の旦那だった「ひーさん」こと樋口さんだと言われています。

「手紙無筆」と言う噺

手紙無筆『手紙無筆』
今日は「手紙無筆」です。無筆ものと言うと「三人無筆」等が有名です。これは結構高座にも掛かりますね。別名「平の陰」ともいいますね。東京では最近は「手紙無筆」が多いですね。

【原話】
 元禄14(1701)年刊に出された「百登瓢箪」巻二中の「無筆の口上」が元だと思われます。
この噺そのものは元禄年間に作られたそうです。

【ストーリー】
 無筆な八五郎は、手紙が来るといつも隣の書生に読んで貰っていたのですが、きょうは生憎書生が留守なので、仕方なしに兄貴と呼ばれる男のところへ持って行きますが、実はこの男も無筆で、その上大変な知ったかぶりです。
 体面上、無筆だとは言えない兄貴は、八五郎に探りを入れながら、当てずっぽうにその手紙を読んでいくのですが、適当なことこの上無い、果たしてどうなるか……。

【演者】
 本来は柳家の噺とされていますが殆どの噺家さんが演じています。特に圓丈師は「手紙無筆USA」と言う新作を演じています。

【注目点】
 やはり、兄貴の演じる所でしょうか。八五郎に対して如何に誤魔化すか? のやり取りをどう演じるか、でしょうね。

『能書』
 字が読み書き出来ない人ですが、江戸時代では、教養の高さや識字率の高さはヨーロッパの最先端パリやロンドンを数倍引き離して5割以上の力を持っていたとか。江戸の終わり頃には男子70〜80%、女子で30〜20%、武家では100%の識字率だったそうです。女子の割合が低いのは、稽古事の踊・唄・楽器・作法や裁縫、家事万端にも時間を割いている為です。子供は5〜8歳になると寺子屋に入りました。13〜14歳までの生徒に読み書き算盤を学びました。
 その結果、明治に入って欧米化が急速に進んだのも、この下地があったからです。また、江戸時代には貸本屋という商売があって、繁盛していたのもこのお陰です。
 個人的なことですが、私が幼い頃、家に来ていた庭師の職人さん(かなりの年齢に見えました)の一人が字が読めませんでした。「学校にロクに行かなかった」と語っていました。

『ネタ』
 寺子屋で面白いのは。その親の職業に沿った教科書で教えていた事です。一般的には『庭訓往来』、商人の子供なら「商売往来」農家の子供なら「農業往来」など、それぞれの将来に役立つ本で学んでいたそうです。
 
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