らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2020年07月

「目黒のさんま」

rakugo_meguronosanma『目黒のさんま』
今年もサンマが不漁だそうでして、値段も高くなっているそうです。この前は一匹5000円とかニュースで言っていましたね。超高級魚ですね。我々の口には入らないかも知れませんね。
この噺は秋の噺としては定番ですので取り上げてみたいと思います。

【原話】
三代将軍家光の実話に基づいた噺とも言われていて、かなり古くから演じられています。
生粋の江戸落語で、大体、武士が出て来る噺は江戸が多いですね。

【ストーリー】
 ある藩の殿様が不意に野駆に出かけると言い出し、さっさと馬に乗り出かけて仕舞います。(ここを鷹狩とやる噺家さんもいます)
中目黒あたり迄来たのですが、弁当を持ってこなかったので、昼時になると腹が減ってしかたありません。その時どこからか、魚を焼くいい匂いがします。聞くと秋刀魚と言う魚だと言う。
供は「この魚は下衆庶民の食べる下衆魚、決して殿のお口に合う物ではございません」と言う。
殿様は「こんなときにそんなことを言っていられるか」と言い、供にさんまを持ってこさせた。これはサンマを直接炭火に突っ込んで焼かれた「隠亡焼き」と呼ばれるもので、殿様の口に入れるようなものであるはずがない。とはいえ食べてみると非常に美味しく、殿様はさんまという魚の存在を初めて知り、かつ大好きになった。
それ以来、寝ても覚めても秋刀魚の事ばかりが頭に浮かびます。
ある日、ある親戚の集まりで好きなものが食べられるというので、殿様は「余はさんまを所望する」と言う。
だがさんまなど置いていない。急いでさんまを買って来て、焼くのだが、脂が多く出る。
それでは体に悪いということで脂をすっかり抜き、骨がのどに刺さるといけないと骨を一本一本抜くと、さんまはグズグズになってしまう。こんな形では出せないので、椀の中に入れて、餡掛けにして出します。
殿様は見ると、かって秋刀魚とは似ても似つかぬ姿に「これは秋刀魚か?」と聞きます。
「秋刀魚にございます」という返事に食べてみたが、不味いの何の。
「いずれで求めたさんまだ?」と聞く。「はい、日本橋魚河岸で求めてまいりました」「ううむ。それはいかん。さんまは目黒に限る」。

 この設定が通常ですが、八代目林家正蔵師は将軍様として演じていました。歴史的に考えるとその方が無理が無いそうです。それに史実に基づいているとか……。

【演者】
これは色々な噺家さんが演じています。特に三代目金馬師は有名です。
小さん、圓生、等も良いですね。

【注目点】
最期のお殿様が食べる椀物ですが、圓生師は餡掛けとしていましたが、普通の椀物とする方が一般的の様です。
目黒あたりは、当時将軍家の御鷹狩の場所でした。広大な範囲だった様です。
だから鷹狩とする場合は、本当は目黒方面と言う方が良いと思います。

『能書』
落語に登場する殿様は、大抵、赤井御門守ですね。
石高は「12万3,456石7斗8升9合1つかみ半分」とされています。
名前からも判る様に、将軍家と姻戚関係があります。(門が赤いのは将軍家から輿入れがあった証)
一節には天皇家の血筋を引く家柄とも言われています。

『ネタ』
 殿様が食べた秋刀魚ですが、江戸時代には目黒は芋の産地で行商が盛んに行われていたそうです。
「目黒の芋」の大需要地が、東海道品川宿と、大きな魚市場が当時存在していた芝であったので、目黒を朝早く出て両地にて芋を売り、その代金で「芝のサンマ」を買って、昼過ぎに歩いて目黒に帰るのが行商人のパターンの一つだったという事です。
ですから、昼過ぎには間に合ったのですね。
後で食べた魚河岸の秋刀魚ですが、当時は保存の為、産地(銚子等)で塩を軽く振り、鮮度の維持に努めました。その後船で一昼夜かけて、日本橋に運び込まれたので、一般の人々が食べる頃は、塩味が付いていて、
そのまま焼いても美味しかったそうです。

「道灌」という噺

7263a1e5『道灌』
 今回はまた噺の話に戻りたいと思います。
 それにしても雨ばかりで嫌になりますね。そこで今日はこの噺です。柳家の噺家さんが最初に教わるそうですね。

『原話』
初代林家正蔵の咄本『笑富林』(1833年刊)に原型が見られる。江戸発祥の落語です。
8代目桂文楽師匠が初めて高座で演じた噺だそうです。白梅亭という寄席だそうです。

『演者』
これは柳家の噺家さんを始め、色々な噺家さんが演じています。

『ストーリー』
八つぁんがご隠居の家に遊びに来ていて、ふと目に止まった絵を訪ねます。
 鷹狩りに出た太田持資公が、俄かの村雨に合い、雨具を借用したいと山中のあばら家を訪ねると、少女が盆の上に山吹の花を差し出した。
中村一馬が兼明親王の古歌「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき」で(実の)と(蓑)をかけ合わせた断りの意味でしょうと、解説すると、まだまだ自分は歌道に暗いと帰城した。
後に入道して大田道灌となり返歌をした。「急がずは濡れざらましを旅人の後より晴るる野地の村雨」
よし分かった、傘借りに来たとき雨具がねぇって歌だと勘違い。
相手がこの歌知らなかったら、その人は歌道に暗いって事だなと勝手な思い込み。
 家に帰ると、雨が降り知人が訪ねて来た。提灯を貸してくれというのを無理に雨具を貸せと言わせ、
件の歌を聞かせた。この歌知らねぇようじゃ歌道が暗いな。
「ああ、角が暗いから提灯借りに来た。」


【注目点】
五代目小さん師等はこの演目で寄席などでトリの演目に掛けていましたが、これは小さん師ならではだと思います。
私は、同じ様なので六代目圓生師が「たらちね」をトリで演じたのを聴いていますが、それは見事なものでした。
でも他の噺家さんでは駄目だったでしょうね。
前座噺を見事に演じる事が出来たら名人とも言われています。

『能書』
都電荒川線「面影橋駅」の側に掛かる「面影橋」のたもとに、「山吹の里」の碑が建っています。
この辺から下流の江戸川橋までの一帯は昔「山吹の里」と呼ばれていた所だそうです。
噺の舞台は、きっとこの辺だったのでしょうね。
現にこのあたりには、落語に登場する話しと同じ様な逸話が残っています。

『ネタ』
東京落語では、入門したての前座へのはじめての稽古を、この噺からはじめる一門が多いので、そのため代表的な前座噺といえます。寄席等でも高い確率で聴けます。
古今亭は「からぬけ」ですね。

落語クイズ 回答です!

7d7466f6 前回の落語クイズ、如何でしたでしょうか? 落語に少し詳しい方なら簡単でしたね。また色々と考えてみます。
 そこで回答と簡単な開設を加えました。これもご存知だと思います。


1問  落語「大仏餅」で黒門町が絶句して思い出せなかった。盲目の乞食の名前は?
回答 神谷幸右衛門 
 河内屋金兵衛が乞食が持っていた面桶に朝鮮胡銅器の水こぼしを使っているのを見て、茶人と判り豪商だった神谷幸右衛門と判明した。

2問  落語「代書屋」で最初の男がやろうと思って本当にやった商売で売っていたものは?
回答 へり止め
 提灯行列の明けの年の12月平野町での露天商で売ったが寒いので2時間でやめた。 

3問  落語「のめる」の中に出てくる詰将棋を考えた人物が住んでいた街の名前は?
回答 所沢
 所沢の藤吉さんが考えたそう。実は将棋界では有名な人?

4問  落語「化け物使い」で隠居が青物横丁のついでに使いに寄ってくれと命令した街の名は?
回答 千住
 噺の中では単に千住としか言っていない。演者によっては北千住と言う人も居る。

5問  落語「包丁」の中で久次が呑みながら唄う歌で六代目圓生師が唄う歌の名は?
回答 八重一重
 これが圓生師だけなのかは不明。師が語ったところによると三遊亭橘園師は「梅にも春」だったそう。

落語クイズ たまにはクイズで楽しみましょう!

rakugo_bakemono_tsukai え〜またまたコロナウイルスが猛威を奮っていますね。こんな中で旅行のキャンペーンをやってもどうなのでしょうか?
少し疑問に思います。キャンペーンそのものは反対ではないですが、時期とやり方を考えて欲しいところですね。
 ということで全く関係ありませんが、今日は落語に関するクイズを出してみようと思います。回答は次回に発表しますので、皆さん奮ってお考えください。残念なことに正解しても商品はありません。すいません。お遊びです。
難易度は初心者の方でも調べれば簡単に判るレベルにしました。

それでは……

1問  落語「大仏餅」で黒門町が絶句して思い出せなかった。盲目の乞食の名前は?


2問  落語「代書屋」で最初の男がやろうと思って本当にやった商売で売っていたものは?


3問  落語「のめる」の中に出てくる詰将棋を考えた人物が住んでいた街の名前は?


4問  落語「化け物使い」で隠居が青物横丁のついでに使いに寄ってくれと命令した街の名は?


5問  落語「包丁」の中で久次が呑みながら唄う歌で六代目圓生師が唄う歌の名は?



※回答をされる方はコメント欄にお書き下さい。今回のブログでは返事出来ませんが次回のブログで返コメさせて頂きますm(_ _)m

尚 次回は5日後位を考えています。

「反魂香」という噺

613c065e『反魂香』
東京ではそろそろお盆です。そこでこの噺です。夏の噺もそろそろ無くなって来ましたので。

【原話】
享保18年(1733年)に出版された笑話本『軽口蓬莱山』の一遍である「思いの他の反魂香」で、
元は「高尾」という上方落語です。「反魂香」は江戸落語の演題です。

【ストーリー】
 夜中にカネを叩いて回向をしている長屋の坊主の所に、八五郎が夜、便所にも行けないと言いに来ました。 
坊主は名を道哲と言い元・島田重三郎と言う浪人でした。
吉原の三浦屋の高尾大夫と末は夫婦にとお互い惚れあっていたのですが、伊達公が横から見初めて大金を積んで身請けしてしまいました。
だが、高尾は重三郎に操を立てて決して生きてはいないと言い、時取り交わした魂を返す”反魂香”で、回向をしてと言い残し亡くなります。
それ以来、これを焚くと高尾が出てくると言うのです。

見せてくれと八五郎が言うので、火鉢のなかに香をくべると高尾の幽霊が出てきて、
「香の切れ目がえにしの切れ目、無駄に使うな」と言い消えます。
八五郎は亡くなった女房のために、この香を分けてくれと言うが、私と高尾だけのための物だから、貴方には役に立たないからと断られます。
 
それなら、自分で買うと、生薬屋を起こしてみたが、名前を忘れたので、いろいろ吟味して、見つけたのは越中富山の反魂丹。
これだとばかり三百買って帰ってきました。
家の火を熾し直し反魂丹をくべながら女房”お梅”のことをあれこれ考えていたのですが、中々出てこないので、足して全部をくべたが出ません。
あまりの煙でむせていると、表から「ちょっと、八つぁん」という声。
煙の中からではなく、堂々と表から来たのかと思いきや、
「そちゃ、女房お梅じゃないか」、「いえ、裏のおさきだけれども、さっきからきな臭いのはお前の所じゃないの」

【演者】
やはり八代目可楽師ですね。弟子の夢楽師も夏になると良く演じていました。
寄席でも鳴り物が入っていました。

上方では三代目春團治師が良かったですね。

【注目点】
反魂香は、焚くとその煙の中に死んだ者の姿が現れるという伝説上の香で、もとは中国の故事にあるもので、中唐の詩人・白居易の『李夫人詩』によれば、前漢の武帝が李夫人を亡くした後に道士に霊薬を整えさせ、玉の釜で煎じて練り、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたという言い伝えのよるものです。

日本では江戸時代に入り、『好色敗毒散』『雨月物語』等で取り上げられました。その節には平安時代の陰陽師・安倍晴明から伝わるものという設定になっています。

『能書』
反魂丹は越中富山の当時有名な薬で霍乱(かくらん=暑気あたり)・傷・食傷・腹痛などに効くといわれています。
主人公道哲は、因州鳥取の浪人島田重三郎と言いある晩友人に誘われて吉原に始めて足を踏み入れたが、そこで出会った高尾にぞっこん惚れて、高尾も重三郎に惚れて、二人は末は夫婦にと誓い合いましたが、伊達公に横取りされてその上、殺されてしまいます。その回向をする為、出家して名を道哲と改め、吉原遊女の投げ込み寺西方寺に住みついて、高尾の菩提を弔らっていたら、それが噂になり、吉原通いの遊客からは土手の道哲と呼ばれる様になったそうです。

『ネタ』
噺に出てくる高尾太夫は俗に「仙台高尾」と呼ばれる大夫です。
この仙台候と高尾太夫の噺は三代目金馬師が「仙台高尾」として演じています。

「水屋の富」という噺

149b7046『水屋の富』
梅雨に入り各地で大雨のニュースが流れています。特に九州地方では大変なことになっています。心よりお見舞い申し上げます。という所でこの噺です

【原話】
原話は明和5年刊の笑話本「軽口片頬笑」中の「了簡違」、安永3年刊「仕形噺」中の「ぬす人」、
さらに文政10年刊「百成瓢」中の「富の札」などで、いくつかの小咄をつなぎあわせてできた噺です。

【ストーリー】
ある水屋、独り者で身寄りはなし、わずらったら世話をしてくれる人間もないから、
どうかまとまった金が欲しいと思っている矢先に、千両富が当ります。
小判を、腹巻と両袖にいっぱい入れてもまだ持ちきれないので、股引きを脱いで先を結び、
両股へ残りをつっ込んで背負うと、勇んでわが家へ帰ります。
しかし商売の辛い処、休む訳には行きません。
 そこで床下に金を隠して出かけるのですが、泥棒が入ったらどうしようとか、
畳を一畳上げて根太板をはがし、丸太が一本通っているのに五寸釘を打ち込み、先を曲げて金包みを引っかけます。これで一安心と商売に出たものの、まだ疑心暗鬼は治まりません。
 すれ違った野郎が実は泥棒で、自分の家に行くのではないかと跡をつけてみたり、
一時も気が休まりません。
夜は夜で、毎晩、強盗に入られてブッスリやられる夢を見てうなされる始末です。
 隣の遊び人が博打でスッテンテンになり、手も足も出ないので、金が欲しいとぼやいていると、水屋が毎朝竿を縁の下に突っ込み、帰るとまた同じことをするのに気がつきます。
なにかあると、留守に忍び込んで根太をはがすと、案の定金包み。取り上げるとずっしり重い。しめたと狂喜して、そっくり盗んでずらかります。
 一方水屋、いつものように、帰って竹竿(たけざお)で縁の下をかき回すと、感触がありません。根太をはがしてみると、金は影も形もない。
「ああ!これで苦労がなくなった」

【演者】
三代目小さん師の十八番でしたが、戦後は志ん生師の独壇場でした。
息子の馬生師や志ん朝師も演じていました。

【注目点】
如何にも落語らしい噺ですが、十代目馬生師は「文七」や「鰍沢」以上の難しい噺だと語っていたそうです。
苦労の割にはウケない損な噺だとか。

『能書』
水屋さんとは、昔江戸では井戸等を掘っても海水等が交じった水しか出ない地域がかなりありました。
江戸市中は水道井戸がありましたが、水道の届いていない地域もありました。
そんな地域に飲み水を売って歩いたのが、水屋さんでした。
また、白玉等を入れて甘く冷やしたモノ等も売ったそうです。

水道を桝(ます)という取水口からくみ取って販売して歩いたそうです。
毎日市中を歩き重い桶を前後2桶で1荷(か)と数えていたそうですが、
これでわずかの4 文。当時かけ蕎麦が16 文ですからねえ、如何に安かったか。

今から考えたらこんな仕事はだれやもらないと思いますが、
それでもお得意がいて、どこの家の水がめにはこのぐらいの水がまだあるか分かっていて、独り者の家などは留守にしても、水がめのふたの上に小銭を置いておけば
そこへ水屋さんが寄って水を補給してくれたそうです。

『ネタ』
この噺には、運命をありのままに受け入れる哲学を説き、江戸庶民に広く普及していた、石田梅岩の
石門心学の影響が見られると云われているそうですが、そこまで大げさに考えるのもねえ……。

個人的に……某噺家さんで聴いたのですが、「これ同じ噺?」と感じるほど全く志ん生師のテイストが活かされていませんでした。そうあの噺家さんです!
 
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