らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2020年06月

「元犬」という噺

17a522e1『元犬』
 今日はこの噺です
楽しい噺で、今でもよく寄席に掛かります。

『原話』
原話は、文化年間に出版された笑話本「写本落噺桂の花」の一編である「白犬の祈誓」だそうです。

『演者』
志ん生師を始め色々な噺家さんが演じます

『ストーリー』
蔵前八幡の境内に1匹の純白の野良犬が参詣客に大変可愛がられていました。
 参拝客の一人から「しろ、おまえのような純白な犬は人間に近いという。次の世には人間になるのだぞ」と言われ続けていた。
しろも考えて、人間に御利益があるのなら、この俺にだって叶うはずと、三・七、21日の裸足参り。満願の日風が吹いてくると、体中の毛が抜けて人間になったのですが、素っ裸で立っていると、上総屋の吉兵衛さんに出会い、話をして羽織を着せて貰い店まで連れていって貰います。
 部屋に上がれと言えば、汚い足で上がろうとし、雑巾で足を拭いてからと言えば、口にくわえて振り回すし、女房を紹介すれば、「知ってます。こないだ台所に来たら、水をぶっかけられた」。女房と相談して、とぼけた人が良いという、ご隠居に紹介することにしました。そこで、着物も着込んで出掛けようとすれば、履き物を四つ足に履いてしまう始末。お隠居の所に着いて、待たせている彼を呼ぶと、玄関の敷居に顎を乗せて寝ちゃているので、大慌て、何とか紹介して、吉兵衛さんはさっさと帰って仕舞います。そこで御隠居、「生まれは?」
「蔵前の掃き溜めの裏で生まれた」
「え!・・そうか、卑下をして言うとは偉い」
「両親は?」
「両親て何ですか」
「男親は?」
「あー、オスですか」
「オイオイ」
「鼻ずらの色が似ているからムクと違うかと思います」
「女親は?」
「メスは毛並みが良いと、横浜から連れられて、外国に行っちゃいました」
「ご兄弟は?」
「三匹です。一匹は踏みつぶされてしまいました。もう一匹は咬む癖があるので、警察に持って行かれました」
「お前さんの歳は?」
「三つです」
「そうか、二十三位だろうナ」
「名前は?」
「しろ、です」
「白〇〇と有るだろう」
「いえ、只のしろです」
「そうか、只四郎か、イイ名前だ」
「お前がいると、夜も気強い」
「夜は寝ません。泥棒が来たら、向こうずねを食らいついてやります」
「気に入った。居て貰おう。ところで、のどが渇いたから、お茶にしよう。チンチン沸いている鉄瓶の蓋を取ってくれ、・・・早く」
「ここでチンチンするとは思わなかった」
 と犬の時のチンチンをします。
「用が足りないな。ほうじ茶が好きだから、そこの茶ほうじを取ってくれ。茶ほうじダ」「?」
「茶ほうじが分からなければ、ほい炉。ホイロ」「うー〜」
「ホイロ!」
「ワン」
「やだね。(女中の)おもと〜、おもとは居ないか、もとはいぬか?」
「今朝ほど人間になりました」


【注目点】
志ん生師は上総屋の旦那が、しろを犬だとは知らない設定ですが、戦後この噺をよく高座に掛けた八代目柳枝師は、全て旦那が知ってる設定でした。
だから、上総屋の旦那のハラハラがこちらにも伝わってきました。
今は殆ど、知らない方ばかりが高座に掛かりますね。誰かやらないかな?

『能書』
現代では「焙炉」が既に判らなくなっていますので演者は結構苦労するようです。
「炮烙」と言い換えたりしてるようですね。

『ネタ』
あんまり難しい事は知らないのですが、この噺は、仏教の輪廻転生を少しもじった感じがします。
普通は悪い事をした人間が畜生に転生させられるという話が多いですが、これは逆ですね。
これは凄い発想だと思います。

「湯屋番」という噺

IMG_6240『湯屋番』
今日は「湯屋番」です。若旦那の妄想ににわか雨が降る描写があるので、夏でも良いだろうと思いました。

『原話』
江戸時代から続く古い話で、明治の、初代三遊亭圓遊師(鼻の圓遊)が得意としていたそうです。
出て来る湯屋の名が柳家は「奴湯」三遊亭は「桜湯」となっています。
最も最近は「松の湯」だとか勝手な名前を付ける噺家さんもいます。
上方でも仁鶴師が大阪に持ち帰りそのまま『湯屋番』の演目で演じています。

『演者』
三遊、柳家に関わらず広く演じられています。

『ストーリー』
勘当になった若旦那が知り合いの職人の家で居候になっています。しかし、このままではいけないと湯屋(銭湯)に働きに行くことになり出かけて行きます。
紹介の手紙を見せて働くことになり、運良く番台に座る事が出来ます。
そこで、若旦那は妄想に取り憑かれ、楽しい白日夢を見るのですが、
妄想が過ぎて、番台からオチたり、お客は面白がって顔を軽石でこすってしまったり大変です。
終いにはお客の履物が無いと言う苦情が上がります。
すると、「そこの柾目の通った下駄を履いてお帰りなさい」
「あれは、誰のだい?」「あそこで体を洗ってる方のです」
「どうすんだ?」「順に順に履かして最後は裸足で帰します」

【注目点】
初代圓遊(鼻の圓遊)師が改作したのが「桜風呂」
四代目小さん師が改作したのが「帝国浴場」です。

『能書』
この若旦那の妄想にお客を引きずり込むのが大事なんですが、
最近の若手の中には「それが難しいんですよね」等と言う噺家さんもいます。
だったら、ヤメちまえと思ったりしますねホント、情けないですね。

『ネタ』
現在は勘当は法律上は出来ませんが、江戸時代はちゃんと法に則って勘当と言う制度がありました。
WiKiから引用しますと
親類、五人組、町役人(村役人)が証人となり作成した勘当届書を名主から奉行所(代官所)へ提出し(勘当伺い・旧離・久離)、奉行所の許可が出た後に人別帳から外し(帳外)、勘当帳に記す(帳付け)という手続きをとられ、人別帳から外された者は無宿と呼ばれた。これによって勘当された子からは家督・財産の相続権を剥奪され、また罪を犯した場合でも勘当した親・親族などは連坐から外される事になっていた。
許す時はこれの逆を行う訳ですが、勘当の宣言のみで実際には奉行所への届け出を出さず、戸籍上は親子のままという事もあったという。

正式には旧離(久離)勘当とも呼ばれていました。何かの噺の中でも「旧離切っての勘当で・・・」と言う下りがありましたね。
落語の噺の中で、若旦那がこの旧離勘当になつたのは「船徳」の徳さんだけですね。
後の、この「湯屋番」「紙屑屋」「唐茄子屋政談」は単に勘当の宣言のみですね。
ですから、回りの者が何か真面目に仕事をしていれば、そのウワサが親の耳に入り、勘当が許されるかもしれないと思い、仕事の世話をする訳ですが、「船徳」の徳さんは本当の勘当なので、自分から仕事を見つけるのですね。そうしないと食って行けませんからね。ある意味真剣なんですよね。

「酢豆腐」という噺

20150701214715『酢豆腐』
 今日は夏の噺の「酢豆腐」です。
 尤も最近では本当にそういう名の豆腐料理があるかの如く扱う所がありますが、本来はそんな料理はありません。ある辞典にはちゃんと載ってしまっていますが、これは編集者が石頭なのでしょうね。

『原話』
原話は、1763年(宝暦13年)に発行された『軽口太平楽』の一遍の「酢豆腐」と言う話。
これを、初代柳家小せん師、(あの盲の小せんですね)が落語として完成させました。
ですので、この噺を大正の初め頃だという方もいます。
歴史家の方によれば、庶民の生活は関東大震災までは、電気が点いても、汽車が走っても、
そう変わり無かったそうです。のんびりとした時代だったのですね。

『演者』
小せん学校に通っていた六代目圓生師や黒門町、志ん朝師などに引き継がれました。今では多くの噺家さんが演じています。

『ストーリー』
ある夏の昼下がり。暇な若い衆が寄り集まり暑気払いの相談をしていますが、江戸っ子たちには金がありません。
 困った一同、酒はどうにか都合するとしても(これもいいかげん)、ツマミになる肴が欲しいので必死に考えますが良いアイデアが浮かびません。知恵者が「糠味噌桶の糠床の底に、古漬けがあるだろう。そいつを刻んで、かくやの香こはどうだい?」
と妙案を出しますが、古漬けを引き上げる者は誰もいません。
 困ってしまった時に運良く(悪く)たまたま通りかかった半公をおだてて古漬けを取らせようとしますが、結局駄目ですが肴を買う金銭を巻き上げます。
 その時、与太郎が昨夜豆腐を買ってあったのを出して来ます。でも豆腐は夏場にもかかわらず、鼠入らずの中にしまったせいで、腐ってしまっていました。手遅れの豆腐を前に頭をかかえる一同。
 と、家の前を伊勢屋の若旦那が通りかかります。この若旦那、知ったかぶりの通人気取り、気障で嫌らしくて界隈の江戸っ子達からは嫌われ者。シャクだからこの腐った豆腐を食わせてしまおうと一計を案じます。
 呼び止めておだて上げて引き入れ、
「舶来物の珍味なんだが、何だかわからねえ。若旦那ならご存知でしょう」
 と腐った豆腐を出します。すると若旦那は知らないとも言えず
「これは酢豆腐でげしょう」
 と知ったかぶる。うまいこともちあげられた末に食べることになります。もう目はぴりぴり、鼻にはツンとしながらとうとう食べます。何とも言い難い表情。
「いや食べたね。偉いね若旦那、もう一口如何ですか?」
「いや、酢豆腐は一口に限りやす」

【注目点】
この噺に出てくる「かくやのこうこ」は美味しいですよね。
飯に良くて酒に良い!と文句はありません。
糠だって、ちゃんとかき混ぜていれば、臭く無いんですよ。
私なんか商売上、糠味噌は別にイヤじゃ無いので、ここまで嫌われると、
糠味噌が可哀そうに思えてきます。
 この噺を聴いていて思うのは、のんびりとした時代だったと言う事ですねえ。
我々が忘れてしまった世界なのかも知れません。

『能書』
この噺が初代柳家小はんと言う方が上方へ持って行って「ちりとてちん」が生まれました。
でも私はは「ちりとてちん」よりこちらの方が好きです。
夏の暑い盛り、いい若者が皆で集まってクダまいててという設定からして好きですね。
それに最後は若旦那を仲間として認める処が好きですね。
若旦那も「「いやあ、酢豆腐は一口にかぎる」と粋に言って逃げるのも上手いですね。
長屋の皆も「若旦那大した者だ!」と言って褒めていますね。
きっと、これで若旦那は皆の仲間になれたと思うのです。
皆も認めたと言う意味でですね。

『ネタ』
落語を解説しているサイトでもこの噺と「寄合酒」を混同している所がありますが、
元々の噺が違うので、間違いですね。
「寄合酒」は「ん廻し」(田楽喰い)に繋がる噺ですからね。

個人的にはこの後「羽織の遊び」に繋がると思っています。

「千両みかん」という噺

b08d313b『千両みかん』
今日は「千両みかん」と言う噺です。まさに夏の噺ですね

【原話】
松富久亭松竹の作と言われています。ですので純粋な上方噺です。
東京に入って来たのは戦後だそうです。

【ストーリー】
 大店の若旦那が病に倒れます。聞いてみると「みかんを食べたい」と言う。
大旦那からみかんを探せと命じられた番頭が、江戸中を探しますが、夏にみかんを売っている店はありません。
 ようやく、神田の「万惣」で一個みつけたが、千両だという値。毎年毎年、店の名に掛けて蔵一杯のみかんを保管している中の一個だからそれだけの価値があると。
店に帰って報告すると、「千両で息子の命が買えるなら安い」と言いすぐ千両の金を番頭にもたせます。
大旦那様から千両を預かり、みかん一個を買って若旦那に持って帰ります。
 若旦那は喜んでみかんを食べて元気になり、十袋のうち三袋を残した。番頭を呼んで、おとっつあんとおっかさんに一袋渡して欲しい、苦労を掛けたから番頭さんも一袋食ってくれと、みかん三袋を番頭に渡した。
 番頭は預かったみかんを持って考えた。来年暖簾分けでご祝儀をもらっても、四十両か五十両だが、ここに三百両ある。
考えた挙句、番頭はみかんを持って何処かに・・・・・・

【演者】
八代目正蔵師を始め、志ん生師などが有名です
【注目点】
上方からの輸入ですが、商人が絡んでる噺なので、あちらの方が理論的にしっかりした処があります。
上方では、最初は商人のプライドに掛けて只でも良いと言うのです。
それがこじれて千両になるのですが、そのくだりが自然で納得出来るのですね。
こちらの千両の話も分かりますが、ちょっと苦しいかなぁ〜と。
商人の心意気が強調された上方版と黄表紙などに出てきそうな粋な面を強調した江戸版と言う感じでしょうか。
米朝師匠のを聞いた事がありますが、
天満の青物市場の番頭さんと店の番頭さんの上方商人の意地が
ぶつかり合って、それは良いモノでした。
そう聞いてみると、この噺はやはり上方噺なのだなと思いましたね。

『能書』
志ん生師は神田多町の青物問屋としか言いませんが、
他の師匠ですと、神田の「万惣」に番頭さんが行きます。
わりとあっさりと千両の値が付きます。

今では真夏でも簡単に蜜柑は手に入りますが、昔は季節のものしか手に入りませんでした。
現代人はその辺の感覚が鈍っていると思います。
 私の祖母から聴いた話ですが、祖母の姉が結核にかかり、痩せ細った時に真冬なのに「西瓜が食べたい」と言ったそうです。方々探したのですが見つからなかったのですが、知人が「あそこなら」と買いに行ったのがこの「万惣」だったそうです。結局、高価でしたが買うことが出来、祖母の姉は西瓜を美味しそうに食べて其の後亡くなりました。ですので個人的には納得できる噺でもあります。

『ネタ』
今でも、秋葉原から万世橋を渡り、須田町に入ると
神田方面に向かって左側に「万惣」はあります。
フルーツパーラーになっています。
子供の頃一度入って、パフェを食べた記憶があります。
昔はこの辺は布地屋さんが多かったんですよ。
母親が布地を買いに来た時だったのかな?
時代が違いますが、立花亭もこの辺にありました。

「三年目」という噺

93d8e555『三年目』
今日は今日は夫婦の情愛を美しく描いたこれです(笑

『原話』
1803年の「遊子珍問学」の「孝子経曰人之畏不可不畏」が原作と言われています。

『演者』
この演目は名人と謳われた四代目圓喬師が得意にしていたそうです。だから志ん生師や圓生師等が演じました。志ん生師は亡くなった前妻を可愛く演じてました。圓生師は可憐な感じでしたね。弟子の圓楽師もよく演じていました。

『ストーリー』
病にふせった女房が、自分が亡き後夫の再婚相手の事を思うと死に切れないというので、旦那は「生涯独身でいる、もし再婚することになったら婚礼の晩に化けて出てくればいい」と約束をする。それを聞いた女房は安心したのか、すぐに亡くなってしまう。
女房に死なれた旦那は、最初は後の生涯を独身で通そうとしたものの、周りの薦めを断りきれずついに結婚することに。婚礼の晩、待てども待てども古女房の亡霊は出てこない。そのうち1月経ち、1年経ち、、三年経ったところで、死んだ女房のお墓参りに行った日に、ついに古女房の亡霊が出てくる。
何故、既に子供も生まれている今になってやっと出て来るんだと旦那が女房の亡霊を問い詰めると、納棺のときに髪に剃刀を当てられた女房はそんな姿で旦那の前に出るのが嫌で、髪が伸びるまで待っていた。

【注目点】
『日本の怪談』(安田孝明著)にこれとは逆の様な話があり、
事故で行方不明死となって正規に埋葬されなかった若い女の幽霊が、髪が残ったままでは成仏できないと言って僧侶に剃髪を求める話があります。
昔は成仏してお釈迦さまの弟子になるので頭の毛を剃ったそうです。
今は死者に化粧等をして綺麗にして送りますね。

『能書』
上方ですとちょっと様子が違って来ます。
演題も「茶漬幽霊」となります。
 サゲが違っていて、旦那が昼食の茶漬けを食べているところに先妻の幽霊が現われ、なぜ夜に出て来ない、と問われて、「夜は怖いから」という下げになっています。こちらの方が落語的な要素は強いですね。

『ネタ』
昔は納棺のときに仏様の髪の毛を剃っていたみたいですね。これがわからないとオチもよくわかりません

「なめる」という噺

b2632bf3-s『なめる』
 今日は敢えてこの噺を取り上げました。季節的には夏では無い気がしますが……。
正直、あの圓生師が演じていて、十八番にも入っている噺なので今日まで残っていますが、後味は余り良くありません。。

『原話』
1691年の「露がはなし」の「疱瘡の養生」から

『演者』
四代目圓生、四代目圓蔵、四代目柳枝、初代三語楼や五代目小勝など錚々たる師匠が演じています。勿論、六代目圓生師も演じていました。落語研究会などでも演じています。、

『ストーリー』
 江戸時代、猿若町に中村座、市村座、河原崎座といういわゆる三座とよばれた芝居小屋が有りました頃のお噺で、、久しぶりに見物しようとやって来たある男。三座とも大入りで、どこも入れません。
 ようやく立見で入れてもらいましたが、何処かで座りたいので、若い衆に相談すると、前の升席に十八、九のきれいなお嬢さんが、二十五、六の年増女を連れて見物してるので、大変な音羽屋びいきなので、あそこで掛け声を掛けると良いかも知れないと教えられて、云われた通りに声を掛けていると、年増女が男に
「あなたは音羽屋びいきのようですが、うちのお嬢さまもそうなので、良かったら自分たちの升で音羽屋をほめてやってほしい」
 と、声をかけられました。願ってもないことと、ずうずうしく入り込み、弁当やお茶までごちそうになって喜んでいると、年増女が
「あなた、おいくつ」と、聞く。
 二十二と答えると、ちょうど良い年回りだ、と思わせぶりなことを言います。聞けば、お嬢さんは体の具合が悪く、目と鼻の先の先の業平の寮で養生中だという。
そこで自然に「お送りいたしましょう」「そう願えれば」
と話がまとまり、芝居がハネた後、期待に胸をふくらませてついていくと、
大店の娘らしく、大きな別宅だが、女中が五人しか付いていないとのことで、ガランと静か。お嬢さんと差し向かいで、酒になります。改めて見ると、その病み疲れた細面は青白く透き通り、ぞっとするような美しさ。
 そのうちお嬢さんがもじもじしながら、お願いがある、と言います。
ここだと思って、お嬢さんのためなら命はいらないと力むと、
「恥ずかしながら、私のお乳の下にあるおできをなめてほしい。
かなえてくだされば苦楽をともにいたします」という、妙な望み。
「苦楽ってえと夫婦に。よろしい。いくつでもなめます。お出しなさい」
 お嬢さんの着物の前をはだけると、紫色に腫れ上がり、膿が出てそれはものすごいものがひとつ。
「これはおできじゃなくて大できだ」
とためらったが、お嬢さんが無理に押しつけたから、否応なくもろになめてしまいました。
 その「見返り」と迫った途端、表でドンドンと戸をたたく音がします。
聞くと、本所表町の酒乱の伯父さんで、すぐ刃物を振り回して暴れるから、急いでお帰りになった方がいいと言うので、しかたなく、その夜は引き上げる事にします。
 翌日友達を連れて、うきうきして寮へ行ってみると、ぴったり閉まって人の気もありません。
隣の煙草屋の親父に尋ねると、笑いながら
「あのお嬢さんのおできが治らないので易者に聞くと、二十二の男になめさせれば治るとのこと。
そこで捜していたが、昨日芝居小屋で馬鹿野郎を生け捕り、色仕掛けでだましてなめさせた。
そいつが調子に乗って泊まっていく、と言うので、女中があたしのところに飛んできたから、
酒乱の伯父さんのふりをして追い出した。今ごろ店では全快祝いだろうが、あのおできの毒をなめたら七日はもたねえてえ話だ」
と言ったから、哀れ、男はウーンと気絶して仕舞います。
「おい、大丈夫か。ほら気付け薬の宝丹だ。なめろ」
「う〜ん、なめるのはもうこりごりだ」

【注目点】
この噺はその昔はおできの箇所が乳の下ではなく、もっと下の足の付け根あたりだったと言う事です。
つまりバレ噺の範疇だったと言う事ですね。

『能書』
宝丹と言うのは今もある、上野の守田治兵衛商店で販売する胃腸薬です。
今は粉薬ですが、昔は練り薬で舐めて使用したそうです。

『ネタ』
 この噺「なめる」は宝丹宣伝の為に創作された落語とも云われています。
又、「転宅」の元にもなったと言う説もあります。
別題を「重ね菊」とも言い、音羽屋(尾上菊五郎)の紋の一つで、同時にソノ方の意味も掛けているとか。
なめる動作では「薬缶なめ」もありますね。
 
最新コメント
記事検索
月別アーカイブ