らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2020年05月

「祇園会」という噺

2de13a5d『祇園会』
今日は夏の噺です。今年は祇園祭の山鉾巡行は中止だそうですね。そこで噺だけでもと取り上げました。
この噺の演題ですが、今は「祇園祭」と言うらしいです。

『原話』
原話は、天保年間に出版された笑話本・「如是我聞」の一遍である『都人』。別題は『京見物』です。

『演者』
昔はこの噺は八代目文治師の十八番で、他に演じる噺家さんも余りいなかったそうです。
特に三都の言葉を完璧にあやっつたそうで、凄いですね。
転機になったのは、五代目柳朝師の弟子正朝師がNHKの新人落語コンクールで演じてからです。
正蔵師は正朝さんに「コンクールだから短くやるのは仕方がないが、前半の江戸者三人が京都につく迄のダレ場をきちんとやらないと駄目だぞ」とアドバイスしたそうです。
正朝さんは12分にまとめて、最優秀賞を取りました。
それからは多くの噺家さんが高座に掛ける様になりました。

『ストーリー』
江戸っ子三人が連れ立って伊勢参りを済ませた後、京見物にやって来たが、金を使い過ぎてしまった二人は先に江戸に帰り、六条に叔父のいる男だけが京に残る。祇園祭の当日、茶屋に上がって一人で飲んでいると、いつしか京都と江戸の自慢話がはじまる。ところが相手になった男は、伏見の酒や京の町筋、祇園祭と、全てを「王城の地だから、日本一の土地柄だ」と自慢するばかりで、以前に訪れたことのある江戸を「武蔵の国の江戸」ならぬ「むさい国のヘド」とまで言い出す始末。江戸を散々馬鹿にされ、我慢ができなくなった江戸っ子が、今度は京都の町の面白くないところを上げて反論していくと、江戸と京都の祭りのどっちがいいかという話になり、二人の興奮はとどまる処を知りません……。
この先は実際に聴いて戴いた方が良いと思います。
字で読んでも面白く無いと思うのです。


【注目点】
一応「三人旅」の最後と言われていますが、この説に疑問を持つ噺家さんも居る様で、権太楼師や市馬師も、
本来は違う噺ではないか?と述べています。

『能書』
当時の江戸っ子が夢に見た一つがお伊勢参りで、今のように気軽に国内旅行が楽しめる時代とは異なり、
旅支度からして大変だった時代なので、伊勢を回って京都へと来る様な事になれば、気分は最高だったのでしょうね。

『ネタ』
今はあまりやりませんが、この後というかこの場に「およく」という芸者が登場して、何でも欲しがる欲深な人物として登場します。
少しサゲを書きますと、そのような性格だから注意しろとアドバイスを受けたので、江戸っ子は、・・・
「江戸はん、あんた商売は何どす?」
「聞いて驚くな。オレは死人を焼く商売だ!」
「そうどすか。おんぼうはんにご無心がおます。」
「おんぼうに無心とは何だ?」
「私が死んだら、タダで焼いておくれやす。」
とやり込められて仕舞います。
これも楽しい噺です。

「木乃伊取り」という噺

87304『木乃伊取り』
 今日はこの噺です

『原話』
舞台が吉原なので古くからの江戸落語ですね。

『演者』
正蔵師や圓生師が得意にしていました。
談志師や小三治師等も高座に掛けていました。

『ストーリー』
道楽者の若だんなが、今日でもう四日も帰りません。
心配した大旦那、番頭の佐兵衛を吉原にやって探らせると、江戸町一丁目の「角海老」に居続けしていることが判明。番頭が
「何とかお連れしてきます」
 と出ていったがそれっきり。五日たっても音沙汰なし。大旦那は
「あの番頭、せがれと一緒に遊んでるんだ。誰が何と言っても勘当する」
 と怒ると、お内儀が
「一人のせがれを勘当してどうするんです。鳶頭ならああいう場所もわかっているから、頼みましょう」
 ととりなすので呼びにやります。鳶頭は、
「何なら腕の一本もへし折って」と威勢よく出かけるのですが、途中で幇間の一八につかまり、しつこく取り巻くのを振り切って角海老へ。
若旦那に
「どうかあっしの顔を立てて」
と掛け合っているところへ一八が
「よッ、かしら、どうも先ほどは」
 あとはドガチャカで、これも五日も帰ってこないと言う有様。
「どいつもこいつも、みいら取りがみいらになっちまやがって。今度はどうしても勘当だ」
と大旦那はカンカンになります。
「だいたい、おまえがあんな馬鹿をこさえたからいけないんです」と、夫婦でもめていると、そこに現れたのが飯炊きの清蔵。
「おらがお迎えに行ってみるべえ」と言いだします。
「おまえは飯が焦げないようにしてりゃいい」と言っても
「仮に泥棒が入ってだんながおっ殺されるちゅうとき、台所でつくばってるわけにはいかなかんべえ」
と聞き入れません。
「首に縄つけてもしょっぴいてくるだ」と、手織り木綿のゴツゴツした着物に色の褪めた帯、熊の革の煙草入れといういでたちで勇んで出発します。
吉原へやって来ると、若い衆の喜助を「若だんなに取りつがねえと、この野郎、ぶっ張りけえすぞ」
と脅しつけ、二階の座敷に乗り込みます。
「番頭さん、あんだ。このざまは。われァ、白ねずみじゃなくてどぶねずみだ。
鳶頭もそうだ。この芋頭」と毒づき、
「こりゃあ、お袋さまのお巾着だ。勘定が足りないことがあったら渡してくんろ、
せがれに帰るように言ってくんろと、寝る目も寝ねえで泣いていなさるだよ」
と泣くものだから、若だんなも大弱り。
 あまり云うので、「何を言ってやがる。てめえがぐずぐず言ってると酒がまずくなる。帰れ。暇出すぞ」
と意地になってタンカを切ると、清蔵怒って
「暇が出たら主人でも家来でもねえ。腕づくでもしょっぴいていくからそう思え。こんでもはァ、村相撲で大関張った男だ」と腕を捲くる始末です。そこまで云われたら若旦那は降参です。
 一杯呑んで機嫌良く引き揚げようと、清蔵に酒をのませます。
もう一杯、もう一杯と勧められるうちに、酒は浴びる方の清蔵、すっかりご機嫌。
頃合いを見て、若旦那の情婦のかしく花魁がお酌に出ます。
「おまえの敵娼に出したんだ。帰るまではおまえの女房なんだから、可愛がってやんな」と若旦那。
花魁は「こんな堅いお客さまに出られて、あたしうれしいの。ね、あたしの手を握ってくださいよ」
としなだれかかってくすぐるので、
清蔵はもうデレデレ。
「おい番頭、かしくと清蔵が並んだところは、似合いだな」
「まったくでげすよ。鳶頭、どうです?」
「まったくだ。握ってやれ握ってやれ」
三人でけしかけるから、
「へえ、若旦那がいいちいなら、オラ、握ってやるべ。ははあ、こんだなアマっ子と野良ァこいてるだな、帰れっちゅうおらの方が無理かもすんねえ」
「おいおい、清蔵、そろそろ支度して帰ろう」
「あんだ? 帰るって? 帰るならあんた、先ィお帰んなせえ。おらもう二、三日ここにいるだよ」

【注目点】
何しろ登場人物が多いので演者は大変です。そこを上手く演じ分け出来ているかですね。
圓生師は全て演じ分けていたので感心されたそうです。

『能書』
落語にしばしば登場する「角海老(かどえび)」は、江戸時代は「海老屋」と言い、吉原でも屈指の大見世で、
有名な見世でした。
「角海老」と称するようになったのは明治からです。
今でも色々とその名前のついたのがありますね。

『ネタ』
途中で頭が一八と会うのが日本堤でして、これは江戸を洪水から守る為に、
日本中の大名を動員して作らせた堤防でした。

「富士詣り」と言う噺

496d271d『富士詣り』
今年はコロナウイルスの影響で富士山は開山されないようなので、せめて噺だけでもと取り上げました。

【原話】
初代圓遊師の速記が「文芸倶楽部」に残っているそうです。7代目可楽師や3代目小圓朝師が受け継ぎました

【ストーリー】
長屋の連中が日ごろの煩悩を清めようというわけで、大家を先達にして、
富士登山に出かけたのは良いのですが、五合目まで来ると全員くたくた。
おまけに、天気までおかしくなってきました。
「これは、一行の中に五戒を犯した者がいるから、山の神さまのお怒りに触れたんだ。一人一人懺悔(ざんげ)をしなくちゃいけねえ」ということになって、
一同、天狗に股裂きにされるのがこわくて、次々と今までの悪事を白状するのですが、
懺悔を始めると、トンデモ無い事が次から次へと・・・・・

【演者】
今は柳家の噺家さんも演じますが、元は三遊亭の噺だったそうです。柳派は「大山詣り」だったのでしょうか?
今は関係なく演じられています。

【注目点】
江戸時代は意外に今と同じシステムが発達していまして、此の様な富士詣りや大山詣りも専門の、今なら、旅行会社みたいな組織があり(いわゆる講といわれる組織)、先達の派遣、宿の手配やもろもろの手続きをしてくれたそうです。多い時は講員は70万人を超えたとか。(大山講の場合)
そこに頼むと、両国の垢離場から世話をしてくれたそうで、初めて山にお参りする方でも心配無かったそうです。
この噺でも、「大山詣り」でも先達さんを大家さんが兼ねているので、それが普通だったのでしょう。
とはいえ、今と違い昔は下から登って行ったのですから大変だったでしょうね。

『能書』
富士登山のシーズンは一般的には7月1日から8月26日と言われていますが、この時期意外にも登っても別に良いそうですが、時期によっては山小屋が閉じらていたり、気候が厳しかったりして大変です。
特に冬の富士山は大変難関な山だそうです。

『ネタ』
富士山の八合目から上は富士山本宮浅間神社のものとなっています。これは明治時代から国と富士山本宮浅間神社が争っており幾度となく裁判になっています。
決着がついたのが1974年4月9日で、最高裁第三小法廷は「いわゆる神体山として信仰の対象とされている山岳などは、宗教活動に必要なものに当たる」と述べ、神社側の主張をほぼ認めた形となりました。
 判決の中で、国側が国有とすべき理由として挙げた「国民感情や、まだ具体的計画がない文化、観光など公共の必要性」はその主張を退けられました。
 しかし、気象庁の山頂観測所など国の必要な土地は除外されていて、これら施設が立ち退く必要はなかったそうです。
 判決確定後、国と神社の間の手続きは長年宙に浮いていましたが、2004年12月になって財務省東海財務局が、神社の所有権を認めた30年前の最高裁判決に基づき、土地を無償譲与する通知書を神社に交付しました。譲与されたのは、富士山8合目以上の土地404万5800平方メートルのうち、富士山特別地域気象観測所(旧富士山測候所)や登山道、山梨県道富士上吉田線などを除く約385万平方メートルだそうです。
 それでも山頂は山梨と静岡県が境界を巡って争っています

「文違い」という噺

hirosige都市部を除く地域では緊急事態宣言が解除されたようですが、皆様のところは如何ですか? 東京は未だ続いています。寄席も休みが続きます。

『文違い』
そこで今日は、内藤新宿を舞台にした噺「文違い」です。

【原話】
新宿の遊郭で実際にあった出来事を噺にしたと言われています。
四代目圓生師や圓喬師、それに二代目小圓朝師らによって受け継がれて来ました。

【ストーリー】
 父娘の手切金として五十両を工面して、夫婦になろうと花魁(お杉)に持ちかけられた半ちゃんは、走り回ったが二十両しか作れなかった。
 それではと、花魁(お杉)が、病気の母の薬代として三十両欲しいと向かいの部屋の田舎おやじ客、角さんの馬の買付金をだまし取った。
 合わせて五十両を母に渡して来ると出ていった花魁(お杉)は、その金を若い男に眼病の治療費として渡した。
 男が落としていった(忘れて行った)手紙を読むと、新宿女郎(お杉)を騙して五十両を作ってもらうとの内容で、女に対しての返事だった。お杉は騙されていたことを知る。
 一人部屋に残された半ちゃんが箪笥からはみ出した手紙を読むと、半ちゃんを騙して五十両を作り、その金を男に貢ぐ内容。そこへ花魁が戻ると、よくも騙したなと叩く。
 向かいの部屋で聞いていた角さんが、店の者を呼び付け
「大金とか色男とか騒いでいるが、ワシが母親の薬代としてやった金だから心配するなと止めてくれ。いや待て、それではワシが色男だとバレてしまう」

最初の花魁がつく嘘ですが父親ではなく母親として演じるときもあります。

【演者】
これは圓生師や馬生師などが有名ですね。四代目によると三代目金馬師はこの噺をやらなかったと語っていますが、若い頃の速記があるようです。当代はこの噺を圓生師から稽古をつけて貰い色々な事を教わり演じます。また志ん生師も演じています。

【注目点】
落語で新宿を舞台にした噺は珍しく、「四宿の屁」「縮みあがり」くらいしかありません。珍しいと言えますね。

『能書』
新宿は、正式には「内藤新宿」と呼ばれ、信濃高遠三万三千石・内藤駿河守の下屋敷があったことからこう呼ばれました。また、甲州街道の起点から親宿(最初の宿場)で、女郎屋は、名目上は旅籠屋でした。
 元禄11年(1698)に設置され、享保3年(1718)に一度お取りつぶし。明和9年(1772)に復興しました。
 一度廃止されたのは遊郭として栄えすぎた為と言われています。遊郭と言えば、志ん朝師が「うちのオヤジは貸座敷といつも言っていた」と言っていましたね。本来はこう呼ぶのだそうです。

『ネタ』
 今は繁華街になって、ビルの群れですが、明治の頃はかの圓朝師の家もありました。花園公園の中に碑が立っています。明治21年から28(1888−1895)まで住んでいたそうです。
 かなり大きな家だったらしく、この公園と隣の花園小学校を合わせた敷地だったそうです。今度、末広亭に行く時にでも観ておきましょうね。

今でこそ西新宿は高層ビルが立ち並んで都会になっていますが、
かの圓生師が柏木(西新宿)に住んでいた時、贔屓から「可哀想に」とか「大変ですね」とかかなりの田舎に住んでいたと思われたそうです。

「孝行糖」という噺

ameuri『孝行糖』
今日は与太郎噺のこの噺です。

【原話】
明治初期に作られた上方落語の「新作」といわれますが、作者は未詳です。
三代目圓馬師が東京に移植、戦後は三代目金馬師の十八番として知られ、
四代目金馬も演じています。
「本場」の大阪では、一時は演じ手がなかったのですが、最近は結構演じる人が出て来ています。かっては5代目桂文枝師が演じていました。今は桂九雀さんや、youtubeには笑福亭生寿さんが上がっていますね。

【ストーリー】
親孝行が認められてお上から青ざし五貫匁という褒美を頂いた与太郎に長屋の連中は大喜び。
この金を元手に与太郎に商売をさせようということになり、親孝行の功で褒美を頂いたことから「孝行糖」という名で流しの飴屋をやることに。
親孝行の徳、この飴を食べると子どもが親孝行になるというので、孝行糖は大人気。
ある日いつものように文句を唱えながら飴を売り歩いていると大名屋敷前で鳴り物を止めよと咎められる。
しかし、のんきな与太郎は叱りつける侍の言葉にあわせて「ちゃんちきちん、すけてん」などと歌うものだから、捕らえられてしまう。
偶然通りかかった人が門番に事情を説明して与太郎を助け出し、道の端へ与太郎を連れて行きこう言った。
「打ち首にされてもおかしく無いが親孝行の徳でお前は助かったんだ。どれ、何処を殴られたか言ってみろ」
すると与太郎。泣きながら体を指差して
「こぉこぉとぉこぉこぉとぉ(こことここと)」

【演者】
かなりの噺家さんが演じています。個人的には金馬師も良いですが、志ん朝師と柳朝師が好きです。

【注目点】
孝行糖売りは明治初期、大阪にいたという説がありますが、実はその以前、弘化3年(1846)2月ごろにはこの噺の与太郎と同じような格好をした飴売りが居たという情報もあります。

『ネタ』
水戸さまの屋敷前と言うのは今の後楽園の所ですね。
いまでは車が引きも切りませんが、当時は街外れで寂しかったんですね。

『能書』
飴は記紀の時代からあったようですが、今の様に甘く菓子として扱われるようになったのは平安時代だそうです。

「大工調べ」という噺

33301574『大工調べ』
今日はこの噺です。

【原話】
元は講談の「大岡政談」でそれを落語化したものです。
講談では宝永6年には登場していました。

【ストーリー】
頭はちょっと弱いが腕の良い大工の与太郎を、棟梁の政五郎は何かと面倒をみていました。
「でっけえ仕事が入ったから道具箱を出せ」と言うと、溜めた店賃一両二分八百(一両八百の演者もいる)のカタに大家に持っていかれてないと言います。
八百足りないが手持ちの一両二分を持たせて大家のところへ行かせたのですが、金が足りないと追い返されて来ます。
 棟梁が出向いて頭を下げるが「タカが八百」との言い種が気に入らないと口論となり、
ついに政五郎は大家に啖呵を切ります。ついでに与太郎も締まらない啖呵を切ります。

時間の関係でここで「大工調べの上(じょ)でございます」と切る場合が多いですが・・・

遂には奉行所へ訴える騒ぎになります。お白州での奉行の裁きは、与太郎は不足分八百を支払い、大家は直ちに道具箱を返すこと、日延べ猶予は相成らぬ。とのお裁き。
泣く泣く政五郎は大家に八百を払います。
これで終わりかと思ったら、「ところで、大家は質株を持っておろうの?」
「ございません」
「何と質株を持たずして、他人の物品を預かり置くはご法度、罪に代えて二十日間の手間賃を与太郎に支払え」と、沙汰した後で
奉行は正五郎に
「ちと儲かったか、さすが、大工は棟梁」
政五郎「へえ、調べを御覧じろ」

【演者】
これは志ん生師や小さん師を始め色々な噺家さんが演じています。

【注目点】
この噺を志ん生師は「棟梁が啖呵を切りたかった噺」と要約しました。
歴史的な事を書くと、三代目小さん師のやり方を継承した七代目可楽師から習った五代目小さん師が、師匠の四代目小さん師のやり方や、自身の工夫も加えて、落ちまで通して演じ、十八番としていました。
 同じく得意にしていた志ん生師は、傾倒した四代目圓喬師のやり方を参考にしていたと言う説があり、
三代目小さん師の演じ方で、棟梁が大家の処へ行く処から与太郎の啖呵までをよく演じました。

『ネタ』
ここで大家が払った手間賃は200匁と言いますから、時代によりますが、おおよそ3〜4両でして、これはかなり儲かったですねえ。
江戸時代は、質屋に対する統制はかなり厳しかった様です
質物には盗品やご禁制の品が紛れ込みやすく、犯罪の温床になるのでまあ、当然ですね。
元禄5年(1692)には惣代会所へ登録が義務付けられ、享保の改革時には奉行所への帳面の提出が求められました。
だから、大家さんがお奉行に怒られるのも当然なのです。
明和年間(1764-72)には株を買うか、譲渡されないと業界への新規参入はできなくなっていました。
 
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