らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2020年03月

b77d3331『坊主の遊び』
コロナがかなり感染拡大して来ましたね。私は糖尿なので感染るとヤバいかも知れませんね。という訳で、今日は「坊主の遊び」です
「坊主の遊び」と言っても、お寺のお坊さんが山を降りて、廓に遊びに行く噺じゃありません。まして、そこらへんの坊主のガキ大将のメンコやベーゴマ遊びの噺でもありません。

【原話】
中国の笑話集の「笑符」に原話があります。
更に1728年の「軽口御機嫌賽」の「水にうつる面影」あたりとも言われています。

【ストーリー】
坊主頭の隠居が吉原に遊びに出かけるが、自分一人で郭に行く勇気も無いので、酒癖の悪い職人を連れて出かける。
職人は悪酔いをして酒席の雰囲気は悪くなってくる。すっかりしらけムードになって仕方が無いので「お引け」ということに。
ところが、待てど暮らせど部屋には花魁がいっこうに来ない。
女郎がなかなか部屋にやってこないので面白くない。
夜が更けて、やっと女郎がやってきたと思ったら「わたしゃ寝にきたんだよ。体に触らないでおくれ」などと言って布団にもぐりこむ。
おまけに「わたしゃ坊主は嫌いだよ」と言うのであたまに来た隠居、懐にあった剃刀で、寝込んだ女郎にいたずらをする。
女郎の頭をきれいさっぱり剃り落としてしまったのだ。ふと我に返った隠居はことが発覚する前に、女郎屋をあとにする。
翌朝、店の者に声をかけられて目を覚ました女郎は、やっと目がさめて、寝ぼけて自分の頭に手をやり、
「あらやだ、坊さんまだいるじゃないの……」


上方落語では「坊主茶屋」と言う題で掛けられていて、オチが違っています。
紹介いたしますと……。

朝起きると、頭が寒いので頭に髪が無いのに気がつきます。女中さんがやってきて、
客を怒らせたのではないかと思うのですが、女郎さんの顔を見ると、鼻が落ちています。どこぞに転がっているのではと探しても見当たらない。
 医者に行って取れないようにしてもらいなさいと言いますと、お女郎さん。
「医者に行ってるけどさじを投げられている」と言う。
「医者がさじを投げたら、後は坊主に決まっている。」というオチです。

【演者】
三代目 三遊亭圓歌師がやってましたね。個人的には志ん朝師の軽い感じ(粋な)が好きでした

【注目点】
噺の設定で、上方版では、かなりの安い店の設定なので、多分瘡をかいてると思われるような凄まじい描写もありますね。東京はそこらへんは変えていますね。
写実で現実的な上方とあくまで粋を重んじる江戸と言う訳でしょうか。

『ネタ』
江戸時代、齢をとった男性は髷を落として坊主頭にすることがあったそうです。
この噺に登場する隠居もそのうちの一人で、だから頭を剃るための剃刀が日常必需品であったということですね。
この辺を仕込んでおかないと辛いかな……。
 それと隠居と言っても今よりも若い訳で四十あたりで隠居になった人も居たそうですからね。

追記……落語とは関係ありませんが、私のところも明日二日より一二日まで営業を休止することになりました(><) 
仕方ありませんね……。

10c67346『粗忽の使者』
  コロナで外出が制限されている今日ですが、何やら東京二十三区でも西の方は雪になっているそうです。
 そういう訳で今日は「粗忽の使者」です。


「原話」
 原話は、元禄14年(1701年)に出版された笑話本『軽口百登瓢箪』の第二巻の「そそうな寄合い」からです。
 同じ原話から成立した上方落語があり、そちらの方は『月並丁稚』というタイトルで故春團治師が演じていました。

「ストーリー」
 杉平柾目之正の家臣、地武太治部右衛門が、殿の使者として赤井御門守の屋敷を訪れました。
 使者の間に通され、田中三太夫が使者の口上を問うが思い出せません。
切腹すると言い出したが、説得すると、幼い頃より父に居敷を抓られて思い出すのが癖になっているので、三太夫に居敷を抓ってくれるように頼みます。
 三太夫がつねるが、蝿が留った程にも感じない、指先に力量のある御仁はおられぬか?
 と、これを聞いていたのが大工の”留っこ”で、素手じゃ敵わねえが、道具を使えば大丈夫とばかりに名乗り出ました。
 困っていた三太夫は、大工のままでは都合が悪いので、中田留太夫と侍の名を付けて羽織りに着替えさせます。留公が、踵みたいなタコになっている尻を閻魔でつねると、おお思い出しそうだ、もそっと手荒にと。尻の柔らかいところを探して全力で抓ると、
「おお、思い出した」
 すかさず次の間の三太夫が
「してご口上は」
「聞かずに参った」

「演者」
 志ん生師を始め、小さん師など多くの噺家さんが演じています。個人的には志ん朝師ですかねえ。現役では市馬師がよくやってますね。

「注目点」
今では演じられませんが、この後、治部右衛門が使者に失敗した申し訳に腹を切ろうとし、九寸五分の腹切刀と扇子を間違えているところに殿様が現れ、
「ゆるせ。御門守殿には何も用がなかった」
と、ハッピーエンドで終わる続きがあります。

「ネタ」
落語に出て来る殿様(大名)は赤井御門守と大体決まっていますが、
石高は、123,456石7斗8升9合半と言われています。
赤い御門があるので、将軍家とは姻戚関係があります。
ご先祖は公卿・算盤数得卿玉成で、任官して「八三九九守」となった人とか・・・ホントかよww
結構、いい暮らしをしてるとみえ、火焔太鼓を買ったりして気前の良い処もありますし、
「初音の鼓」ではしっかり負けさしています。
「妾馬」では八五郎を面白がって士分に取り立てています。

296a220c『二人旅』
今日は「二人旅」です。
気楽な二人連れの道中噺ですね。談志師は逃げの噺と言ってましたね。寄席で時間の無い時とかにやる噺で、何処でも切れるし、あまり力を入れなくて良い噺だと言ってました。

【原話】
1708年「かす市頓作」の「ふた道下り酒屋」が原型。尤もこれは上方落語の「煮売り屋」の元の軽口噺です。
後にも書きますが四代目柳家小さん師が東京に移したものです。

【ストーリー】
のんきな二人連れの旅人・・・
一人が腹が減って、飯にしようとしつこく言うのを、
謎かけで気をそらす。
例えば「二人で歩いていると掛けて、何と解く?」
「豚が二匹と犬っころが十匹と解く」
「その心は?」
「豚二ながらキャンとう者(二人ながら関東者)」
等とヤッてると、そのうち即興の都々逸(どどいつ)になり
「雪のだるまをくどいてみたら、何にも言わずにすぐ溶けた」
「山の上から海を眺めて桟橋から落ちて、泳ぎ知らずに焼け死んだ」
と、これもひどい代物。
ぼうっとした方が人に道を尋ねると、それが案山子だったりして、散々ぼやいて、やっととある茶店へ。
行灯(あんどん)に何か書いてある。
「一つ、せ、ん、め、し、あ、り、や、な、き、や」
「そうじゃねえ。一ぜんめしあり、やなぎ屋じゃねえか」
茶店の婆さんに酒はあるかと聞くと
「いいのがあるだよ。じきさめ、庭さめ、村さめとあるだ」
「へえっ、変わった銘だな。何だいそのじきさめってのは」
「のんだ先から直に醒めるからじきさめだ」
「それじゃ、庭さめは?」
「庭に出ると醒めるんだ」
村さめは、村外れまで行くうちに醒めるから。
まあ、少しでも保つ方がいいと「村さめ」を注文したが、肴が古いと文句を言いながらのんでみると、えらく水っぽい。
「おい、婆さん、ひでえな。水で割ってあるんだろう」
「何を言ってるだ。そんだらもったいないことはしねえ。水に酒を落としますだ」


【演者】
柳家の噺家さんを始め色々な噺家が演じていますが、最近は余り聴かないですね。
柳家のお家芸みたいな噺なのに……。

【注目点】
小さん師以前に、三代目圓馬師が「七度狐」を主人公を江戸っ子にして演じた記録があり、その時に二人が珍俳句をやりとりするくだりがあるので、その辺りもヒントになっていると思われます。

『ネタ』
上方落語の東の旅の「煮売屋」の部分を四代目柳家小さん師が東京に移したもので、東京で演じられるようになったのは、早くても大正後期以後と云われてます。
謎掛けや都々逸を入れたのは小さん師の工夫だと云われています。
これによって、元の噺の感じがかなり変わりました。
のんびりと田舎の道を歩く噺になりましたね。


※3月27日の浅草夜席の市馬師は「二人旅」でした。案山子の後の都々逸の下りで降りました。

903b2d43『源平盛衰記』
季節的な噺ではありませんが、壇ノ浦の合戦が旧暦3月なので取り上げてみたいと思います。

【原話】
この噺は古典の「平家物語」から題を録ったと言うより、「平家物語」をそのままダイジェストにした地噺ですね。
地噺と言うのは会話より説明が多い噺で演者のセンスが問われます。

【ストーリー】
平家はあまりにも権力を欲しいままにしたので、反乱が起こります。
「驕る平家は久しからず」と言われ、源氏が立ち上がります。
まず、木曽義仲による倶利伽羅峠での火牛の計から始まり、
源義経の鵯越の逆落とし、屋島の合戦で那須与一が扇を射落とす話が続き、
最後は壇ノ浦の最後に至りますが、そこは落語で、平家の最後なので、時子姫が入水して自害しようとして、
辞世の句を読みますが、その時、平家方の武士、能登守教経が踊り出します。踊る平家は久からず……。


【演者】
この噺は談志前と談志後で別れる噺だと思います。
談志師はこの噺を三平師から習い、そこに当時の世相や時事問題をねりこみ、早口でスピーディーな展開で、お客を圧倒しました。
それは、かの文楽師や圓生師も褒めたと言われています。

古くは初代遊三師、七代目正蔵師が有名です。現六代目文枝師が大阪に移植しました。
今では芸協の文治師が得意にしていますね。

【注目点】
談志師が黒門町に怒られた話
談志師の談話
文楽師匠に頭」から怒鳴られた。
「あんなものをやっちゃイケない」と言うのだ。
何故イケないのか、私には理解出来なかったが、兎に角イケないの一点ばり、
こっちは悔しいけど、相手が文楽師匠じゃ仕方がない。泣き寝入だ。
のちになって、聞いてみたら、「あいつは、近頃生意気になっているので、一度どこかでこっぴどく小言を言ってやろうと思っていたので、私言いました。

たまりませんね。でもそれだけ目立っていたのでしょうね。
評論家の虫明亜呂無氏も小ゑん時代のこの噺を聴いて絶賛しています。

『ネタ』
先程も書きましたが、今でも新文治師や小朝師等多くの噺家が演じていますが、談志師以降は全て談志師のやり方を参考にしている、と言っても良いと思います

3b4b189e『今戸の狐 』
コロナウイルスが全世界に広まっているようですが、寄席は平常営業ですね。
という訳で今日はこの噺です。

【原話】
江戸中期の名人・乾坤坊良斎(1769〜1860)が、自らの若いころの失敗話を弟子に聞かせたものをもとに創作したとされます。
良斎は神田松枝町で貸本屋を営んでいましたが、初代三笑亭可楽門下の噺家になり、のち講釈師に転じた人で、
本業の落語より創作に優れ、「白子屋政談」(髪結新三)等のの世話講談をものしました。

【ストーリー】
安政のころ。乾坤坊(けんこんぼう)良斎というの噺家の弟子で、良輔という男。
どう考えても作者では食っていけないので、一つ噺家に転向しようと、大看板で、三題噺の名人とうたわれている初代・可楽に無理に頼み込み、弟子にしてもらいました。

ところが、修行は厳しいし、場末の寄席にしか出してもらえないので、食う物も食わず、これでは作者の方がましだったという体たらく。
内職をしたいが、師匠がやかましく、見つかればたちまちクビです。
もうこのままでは餓死しかねないありさまだから、背に腹は代えられなく内職を始めます。
「今戸焼」と言う素焼きの土器や人形の本場なので、器用な処で、今戸焼きの、狐の泥人形の彩色を、
こっそりアルバイトで始め、何とか糊口をしのいでいました。
良輔の家の筋向かいに、背負い小間物屋の家があり、そこのかみさんは千住(通称骨=コツ)の女郎上がりだが、なかなかの働き者で、これも何か手内職でもして家計の足しにしたいと考えていた矢先、
偶然、良輔が狐に色づけしているところを見て、外にしゃべられたくなければあたしにも教えてくれ
と強談判してきました。仕方がないので、紹介し一生懸命やるうちにかみさんの腕も上がり、けっこう仕事が来るようになりました。
 一方、可楽の家では、師匠の供をして夜遅く帰宅した前座の乃楽が、夜中に寄席でクジを売って貰った金を、楽しみに勘定していると、軒下に雨宿りに飛び込んできたのが、グズ虎という遊び人です。博打に負けてすってんてんにされ、腐ってると、前座の金を数える音が聞こえてきたので、これはてっきりバクチを開帳していると思い込み、これは金になると思い込みます。
 翌朝、可楽のところに押しかけ、お宅では夜遅く狐チョボイチをなさっているようだが、
しゃべられたくなかったら金を少々お借り申したいと、強請ます。
 これを聞いていた乃楽、虎があまりキツネキツネというので勘違いし、
「家ではそんなものはない、狐ができているのは今戸の良輔という兄弟子のところ」
 だと教える。
 乃楽から道を聞き出し、今戸までやって来た虎、早速、良輔に談じ込むが、どうも話がかみ合わない。
「どうでえ。オレにいくらかこしらえてもらいてえんだが」
「まとまっていないと、どうも」
「けっこうだねえ。どこでできてんだ?」
「戸棚ん中です」
 ガラリと開けると、中に泥の狐がズラリ。
「なんだ、こりゃあ?」
「狐でござんす」
「間抜けめっ、オレが探してんのは、骨の寨だっ」
「コツ(千住)の妻なら、お向こうのおかみさんです」


【演者】
明治期の初代三遊亭円遊の速記が残りますが、戦後は五代目志ん生師しか演じ手がなかったそうです。
その後、馬生師と志ん朝師が継承して手掛けていたため、現在でもこの一門を中心に聴かれます。

【注目点】
狐チョボイチとは、寨を三つ使い、一個が金を張った目と一致すれば掛け金が戻り、二個一致すれば倍、
三個全て一致すれば四倍となるという、ギャンブル性の強いバクチです。

『ネタ』
江戸時代の寄席では、中入りの時、
前座がアルバイトで十五、六文のくじを売りにきたもので、
前座の貴重な収入源でした。
明治になり圓朝師が前座に定給を与える事にして、この制度を辞めさせました。
ちなみにクジがあったのは東京だけで、上方はボリと言うシステムがありました。
ボリとは、噺家が普段の噺とは違い、特別な噺をするので別にお客から少額の金額を募る制度です。
生半可な腕では客はソッポを向いてしまうので、噺家にとっては真剣だった様です。
どうしてもお金が入用な時等にやったそうです。

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