らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2019年10月

ムック古今亭志ん朝より

51SXDXLtWsL._SX350_BO1,204,203,200_ 10月ももう終わりですね。11月になったらまた噺の解説に戻りたいと思いますので、もう少し私の戯言にお付き合いをお願い致します。

 先日ですが、ふらりと入った本屋で河出書房から出してる文藝別冊「古今亭志ん朝」というムック本を見つけたので買って読みました。
 内容は今まで色々な雑誌などに載せられた志ん朝師に関する記事を纏めたものでした。勿論師が生前書かれたエッセイ等も沢山載っています。
 特に面白かったのは談志師の志ん朝師に関する事です。亡くなった時に「良い時に死んだ。よかったよ」と言ったそうですが、その真意についてのくだりが特に面白かったです。
 談志師が言うには志ん朝師の絶頂期は三十代半ばだったそうです。その後は緩やかに落ちて行くばかりだったとか。
 噺では「愛宕山」を褒めていて「鰻の幇間」は駄目だと言っています。志ん朝師の華麗な芸が転換期に来ている。それを志ん朝師も判っていたとも言っています。老いて枯れた芸を見せぬ内に亡くなってしまった今「良い時に死んだ」としか言えないと……。
 惜しいと語っても生き返る訳は無いし、言ったところでしょうがない。「よかったよ、十分だよ。いま死んでよかったよ。もう、これからよくならないよ」と言った方が彼岸の彼方に居る本人は安心できるだろうとも書いていました。
 談志師は志ん朝師が亡くなる二年前に和服のハーフコートを貰ったそうです。一度は
「あまり着ないから」と断ったそうですが志ん朝師が「是非に」と言ったので貰ったそうです。談志師が亡くなるまで大事にしていたそうです。今は何処にあるのかは判りませんね。
 他には柳家小満ん師が書いていましたが、志ん朝師が芝居に出ていた頃にあるパーティで三木のり平さんに黒門町が挨拶をして
「志ん朝がお世話になっております。あれは落語界にとって”百年に一度の男”なんです。そのおつもりでお願いします」
 と言ったそうですそれだけ大事に考えていたのですね。
 最後に談志師の志ん朝師に対する評価を書いて終わりにしたいと思います。
「志ん朝は圓生同様、型から入っていく作品派である。加えて彼は芝居好きなくらいだから、形が良く、リズムも良く、噺の構成も上手い。現代の作品派としては最たるものだろう」
 これが全て語っているのではないでしょうか。

落語立川流四天王について

家紋・丸に左三階松-Maruni-hidari-sankaimatsu 普段はニュースと天気予報以外は特定の番組しかテレビを見ないのですが、それでも立川志らく師が朝のワイドショーから昼の番組まで出ている事は知っています。視聴率的には苦しいみたいですが、個人的はどう見ても志らく師がコメンテーターならイザ知らず、MCとは似合わないと思います。
 という訳で今日は個人的な超偏見と独断による立川流四天王のことを思いつくまま書いてみたいと思います。
 
 立川流四天王とは、志の輔、談春、志らく、談笑の四名のことです。何れも人気者でテレビでもその顔を見ない日はありません。志の輔師はNHKの試してガッテンのMCですし、志らく師は書いた通りです。談春師はドラマに良く出ています。談笑師は今は判りませんが、以前はフジテレビの朝のワイドショーに出ていました。皆それぞれ売れています。
 この四名ですが、個人的な偏見に基づいて書かせて貰うと、四名それぞれが談志師のDNAを部分部分受け継いていると思います。

 まず、志の輔師ですが、この人は「伝統を現代に」という部分を受け継いていますね。それは師の高座を一度でも聴けば判ると思いますが、新作もやりますが、古典落語が本筋ですね。師の古典落語に登場する人物ですが、確かに江戸の人間なのに聴いてる我々には現代の人物を思わせることですね。登場人物が我々の傍に居る人間なのです。何の演目を演じても同じです。これは落語初心者にとっては、とても判りやすく、親しみが持てるでしょう。でも聴き込んで行くと飽きます。飽きないという方は本気で落語を聴いてない方だと思います。江戸の風を感じない古典落語なのです。

 次に志らく師ですが、恐らく落語の才能という点においては談志師の弟子の中では一番かも知れません。凌駕する部分もあるかも知れないと感じる事もあります。しかし、表現の仕方、つまり話芸が駄目。若い頃はアップテンポで間も何も無い話し方でした。それが若い人にウケていたのですが、それは一時でした。この時期に基本的な部分を疎かにした訳では無いでしょうが、同年代の噺家と比べて聴き難いですね。それは言葉の発音にも出ていて、聴いていて気持ちよくないのです。五十を過ぎているのですから、話芸に磨きを掛けて欲しいですね。

 対して談春師です。この人はほぼ古典落語だけですね。しかも落語の本道を意識した話し方をします。志らく師と対象的ですね。四人の中では一番落語ファンに受けると思います。この人は談志師が道に逸れなければ、こうなったであろうと言う姿を見せてくれています。この先、更に高みを見せられるかですね。

 談笑師ですが、この人は古典落語を演じますが、普通の演じ方ではありません。噺の中の特定の部分を強調させるのです。これは談志師の晩年の「イリュージョン落語」に通じます。それでも噺が面白いのは、アレンジする部分を間違えていないからです。古典を元にした新作もちゃんと古典をリスペクトしているのが判ります、その上で更にイリュージョンを見せてくれています。
 こうして見てみると、立川談志という噺家は多方面にその才能を見せていて、弟子がその部分を少しずつ受け継いているのが判ります。
 ならば、誰か談志師の落語評論の部分を受け継いだ弟子が出て来ませんでしょうか?
 そんなことを考えてしまいました。色々と書いて来ましたが、あくまで私個人の偏見に満ちた考えです。違う考えもあると思います。そんなコメントを戴けたら幸いです。

何故東京の落語界は四つに分かれているのか? 偏見と独断による考察

bl5bjb 今日も「噺の話」以外のことを書いてみようと思います。
 東京の落語会を眺めて、初心者の方は『なぜ落語の団体が四つに分かれているのか』と思う事でしょう。今日はそれについて私の独断と偏見に基づいて書いて見ようと思います。
 (敬称略)

 その昔、明治の初めの頃は落語界は柳派と三遊派に分かれて興行をしていました。東京市内の寄席はそれぞれが柳派の寄席と三遊派の寄席に分かれていたのです。中には両方の噺家を出す寄席もあり人気となっていました。
 その後色々と離散集合を繰り返して、最終的には落語睦会と東京演芸株式会社になりました。この東京演芸株式会社というのは寄席の出演料を今と同じにワリで払うのでは無く給料制にしました。経営も近代的にとの想いだったようです。
 対立する落語睦会は今まで通りにワリで払っていました。
 会社には株主が上野鈴本、人形町鈴本、神田立花、浅草並木、本郷若竹、京橋の金沢など大手の寄席がなりました。噺家も圓右、燕枝、小勝、圓蔵と一線どころが所属しました、
 落語睦会には柳枝(5)、左楽、志ん生(4)、小柳枝、橘之助が参加し、寄席も神田白梅、神田川竹、人形町末廣、神楽坂白梅、京橋恵宝亭、四谷喜よし等が参加しました。
 この二つの教会が震災前まで鎬を削ったのです。震災で一時は一緒になったのですが、復興景気で賑やかになると又分裂してしまいました。
 元会社派は「落語協会」を設立。元落語睦会派は「睦会」を結成します。それぞれ、協会は、貞山を会長に小さん(3)三語楼、小勝、文治、金語楼等です。睦会は、左楽会長に柳橋、文楽、小文治、柳好、柳枝とメンバーを揃えました。基本的にはこれが後まで続きます。その中には八代目正蔵と今輔が協会を飛び出したり、三語楼が三語楼協会を結成したりしましたが失敗に終わりました。
 昭和五年に金語楼が柳橋と組んで日本芸術協会を結成します。これが今の芸協です。こうして今と同じように落語協会と落語芸術協会の元になりました(名称が少し変わっています)
 まあこれ以外にも色々とあったのですが、そこは書ききれませんので省略します。

 戦後になり復興も進むと世間は戦後最大とも言われる演芸ブームとなります。テレビの普及に伴って噺家が持て囃されたのです。毎日噺家がテレビに出ていました。そこから人気者が登場します。入門者も次第に増えて行きました。
 1978年になると落語協会には二つ目が大勢増えてしまいました。この頃は真打に昇進するのは年に一人か二人です。今と違って順番では無く芸の良し悪しが決め手でした。二つ目の噺家は将来真打になれる希望も無く腐っていました。これに危機を感じた会長の小さんが一度に十人の昇進を決めたのです。圓生はその時は引き下がったものの、また行うと聞いてこれに反対したのでした。一度は引き下がった時と同じように大量昇進を行うというので、協会を出ることを決めたのです。 当時の色々な書物を読むと、どうも談志と圓楽が絡んでいたようです。談志の考えでは今の芸協と協会の交互の芝居ではマンネリになる。もう一つ協会を作って三交代にすれば活性化すると言うものでした。圓楽も改革の必要性を唱えていました。
 そこに協会の大量昇進が絡んだのです。圓生は「落語三遊協会」を結成して落語協会を飛び出しました。これに志ん朝や圓蔵も続きました。兄弟の馬生は動きませんでした。また兄弟弟子の三平も動きませんでした。
 圓生は下調べで新宿末廣の北村銀太郎や鈴本にも参加メンバーを見せました。この時圓生は了解を得たと考えたのですが、北村銀太郎は「メンバーが薄い。これでは芝居は出来ない」と考えたのです。四つの落語定席(新宿末廣亭、浅草演芸ホール、鈴本演芸場、池袋演芸場)のすべてが、末廣亭の席亭・北村銀太郎の意見に従うかたちで圓生の新協会設立に反対し、三遊協会は寄席には出られないということになりました。
「話が違う」ということで、圓生一門以外の噺家は詫びを入れて協会に戻りました。圓生は怒りましたが、寄席に出られないという事は大事な事なので了承しました。こうして東京の落語界は三つに分裂したのです。
 一年後に圓生が亡くなると圓楽一門以外の弟子は協会に戻りました。この時に尽力したのが志ん朝です。
 圓楽一門は戻らずに「大日本落語すみれ会」を設立しました。これが今の「圓楽一門会」です。
 その後、協会は真打昇進試験を導入しましたが、これでも問題が起こります。それは談志の弟子の談四楼が試験に落ちたのです。そもそもこの試験もかなりおかしく、前座噺の「みそ豆」でこぶ平が合格したのに志ん八(右朝)が落ちたりしていました。談志としては自分から見て充分に合格基準に達している弟子を何故落とすのかと考えた訳です。協会に閉塞感を抱いていた談志はこれを機に協会を脱退して「落語立川流」を立ち上げます。
 勿論一門もそっくり移籍しました、こうして東京の落語界は今のように四つになったのです。

 かなり簡単に経緯を書きましたが、噺家って個性が強いからぶつかるんですね。昇進問題で分裂した二つの協会では圓楽一門会は入門数年で真打に昇進させ、他の協会からは疑問視されました。
 落語立川流は基準がはっきり決まっていてそれをクリアしないと昇進出来ません。それでも談志亡き後は少し緩くなってるとも言われています。
 独断と偏見に基づいていますので、そこは宜しくお願いします。
 それではまた!
 

落語初心者の為の寄席紹介

02301_1401286_03普段は落語の噺を紹介しているのですが、最近噺がついている感じなので、少し休ませて頂き、その間落語初心者の方の為の個人的偏見に満ちたガイドみたいなものを書いて見たいと思います。

 まず、ここで紹介された噺を聴きたいと思ったらどうすれば良いか?
 生でなければ、図書館に行ってDVDなりCDを借りて見たり聴いたりする事ですね。ここで注意なのは志ん朝師も生前言っていて談志師も語っていたのですが、落語の映像はつまらない。という事ですね。志ん朝師などは「生が一番。次が音だけで聴く事」とはっきり語っていました。「映像は駄目」とも付け加えていました。恐らく想像力を奪うからだと個人的には思います。
 談志師も「テレビの落語はどうしてつまらないのか」と色々と工夫されています。まあ、映像を録画する時はカメラを数台用意するのでしょうが、その切替に落語を判ってないディレクターが担当すると悲惨なものになります。正直、今のNHKはかなり落ちていますね。昔のアーカイブの方が質が高いです。
 そこに行くとTBSの「落語研究会」はかなり水準が高いですね。かっては解説も榎本滋民先生が担当していたので、よかったです。
 それも面倒くさいと思う方はyoutubeやニコニコ動画で落語を聴いてください。私や藪先生が上げた落語動画が沢山あります。未だ削除されていないものもかなりありますので楽しめます。

 ここまでは安直な楽しみ方ですね。まあ、テレビやラジオの落語番組を録画録音してそれを楽しむという方法もあります。
 でもね、地方の方ならいざ知らず、東京近郊に住んでいらっしゃる方なら、たまには寄席に行きましょうよ。何と言っても生が一番ですよ。
 という訳で寄席の紹介です。都内には寄席と呼ばれるものが四席あります。四席を落語協会と落語芸術協会が10日間交代で興行(芝居)して行きます。
 それでは順番に解説して行きましょう。

・上野 鈴本演芸場
 http://www.rakugo.or.jp/
 上野の中央通りにある寄席で、「寄席の歌舞伎座」と呼ぶ人もいます。昼夜入れ替えですね。ここは落語協会のみの出演となります。以前は芸協も出ていたのですが、今は出演していません。理由は私のブログを検索すると出て来ます。

・新宿 末広亭
 http://www.suehirotei.com/
 新宿三丁目にある寄席で昼夜入れ替え無しです。入れ替えが無いという事は午前11時半の昼の部の前座さんから夜席のトリの師匠までずっと居られます。体力が要ります。私も若い頃は数度やりました。かなりキツイです(色々な意味で)

・浅草演芸ホール
 https://www.asakusaengei.com/
 浅草の六区にある寄席です。一階は落語定席ですが三階は東洋館と言って色物の寄席になっています。ここも昼夜入れ替え無しです。

・池袋演芸場
 http://www.ike-en.com/
 池袋西口の駅前にあります。建て替えてからはビルの地下になりました。音響効果を高める為に寄席の地下に大きな壷みたいなものが埋まっています。寄席としては一番小さいですね。それだけに演者が近くなので出演者は気を抜けません。ここも基本は昼夜入れ替え無しですが、下席の夜は日替わりになるのでこの時は出来ません。

 ちなみに、1日から10日が上席
      11日から20日が中席
      21日から30日が下席 と呼びます。
 出演者のチェックは各協会のHPか寄席のHPを参照してください。
 立川流や圓楽一門会の噺家さんは基本この寄席の定席には出られません(一部例外あり)圓楽一門会は「両国寄席」や「上野広小路寄席」などに出演しています。これらは通常は定席とは区別されています。ここに立川流の噺家さんも出ます。

 それらとは別に国立演芸場というものがあります。
 https://www.ntj.jac.go.jp/engei.html
 ここは国が運営する寄席です。興行は基本昼席だけでしかも上席と中席のみです。それぞれ落語協会と芸術協会が番組を組みます。

 寄席にはそれぞれ特徴があり、出演者が多いのが末広亭と浅草で、鈴本は仲入りとトリにはたっぷりと時間を取ります。
 池袋は出演者が少ないので一席の時間が比較的長いのが特徴です。ゆっくりと聴きたかったらここですね。常連が多いのも特徴ですね。

 寄席は落語会と違って演目を言いません。高座に上がるまで噺家も何を演じるか決めていないのです。しかもかなりの演者が終わっても演目を言いません。そこは注意してください。
 
 それと神田の藪蕎麦の近くに連雀亭とう寄席があります。席も四十席に満たない小さな席ですが、ここは東京の4協会の二つ目さんが出演します。たまに真打も出ますが基本は二つ目専用の寄席です。値段も安く500円から楽しめます。
https://ameblo.jp/renjaku-tei/

 さあ皆さんもお近くの寄席に出かけましょう!

 という訳で次回があれば続きを書きます。
 

「代脈」という噺

image11『代脈』
 今日はこの噺です。

【原話】
原話は、元禄10年(1697年)に出版された笑話本「露鹿懸合咄」の一編である「祝言前書」です。文化年間(1804〜18)、寄席の草創期から口演されてきたらしい、古い噺です。

【ストーリー】
江戸・中橋の古法家(漢方医)である尾台良玄は
名医として知られていましたが、弟子の銀南は、師に似つかわぬ愚者で色情者。
 その銀杏が大先生の代脈(代理往診)として蔵前の商家のお嬢さんの診察をすることになりました。
 初めての代脈なので行く前に、先方に着いてからの挨拶、お茶の飲み方、羊羹の食べ方、診察などの手ほどきを受けるのですが、これがトンチンカン。
 「診察に当たっては、安心させるだけでよい、余計なことはするな。特にお嬢さんのお腹のシコリに触ると放屁をなさるので絶対にシコリには触れぬように」
前回は耳が遠くて、聞こえない振りをして切り抜けたものだと大先生の説明があります。
 初めて乗る籠の中で銀杏は大騒ぎ、なんとか商家に着いて、教わった通りにお茶を飲みながら羊羹を食べ、いよいよ診察へ。
 診察中に、例のお腹のシコリを見つけて、止せばいいのにそこを押したからたまらず、
お嬢さんは「ブッ!」と放屁。
 銀杏は驚いて「歳のせいか近頃耳が遠くなって、今の屁の音も聞こえなかった」


【演者】
古くは明治45年の四代目柳家小三治師(のち二代目柳家つばめ師、昭和2年歿)、初代柳家小せん師の速記があります。
戦後では六代目三遊亭圓生師、五代目柳家小さん師が音源を残しています。
又、志ん朝師もCDを残していますが、この音源についてかなりの高評価がありますので、興味のある方は図書館等でお借りになって聞き比べる事をおすすめ致します。
個人的には圓生師には及ばないと思っています。

【注目点】
中橋と言うのは今の東京駅八重洲中央口あたりです。
後半の屁の部分の原話は、室町後期の名医・曲直瀬道三の逸話を脚色した寛文2年刊「為愚癡物語」巻三の「翠竹道三物語りの事」と言うのがあり、さらにそれを笑話化した元禄10年刊「露鹿懸合咄」巻二の「祝言」が出典と云われています。つまり、これは脚色はあるもの実話だったと言う事ですね。

『ネタ』
その昔、八代目文楽師は両国の立花屋という寄席でこの噺を演じたところ、楽屋で三代目圓馬師が聴いていて酷く怒られ「もうお前には稽古をつけない」と言われたそうです。
後日、詫びに行ったところ、噺の中でお金の金額を間違えたという事でした。
「あんなに高い金額は無い」
と怒られたそうです。黒門町もかってはこの噺をやっていたのですね。

「子ほめ」という噺

tis-takayuki-ino-medium『子ほめ 』
 今日はこの噺です。
 前座噺などとも言われていますが、手練が演じると爆笑ものになります。

【原話】
原話は、安楽庵策伝著の『醒睡笑』に収録されています。これも、元は上方落語の演目で、3代目圓馬師によって東京落語に持ち込まれました。

【ストーリー】
 灘の酒を只の酒と勘違いした八っつあんが、ご隠居の家に行って、酒を飲ませろと言います。
 突然そんな言い方をしないで、まずは世辞愛嬌を言うものだ。年齢を四、五歳若く言われると誰でも悪い気はしないと教わります。
赤ん坊のほめ方はどうすればいいか質問をした。それに対し、隠居は『顔をよく見て人相を褒め、親を喜ばせばいいんだ』とアドバイス。
「例えば、これはあなた様のお子さまでございますか。あなたのおじいさまに似てご長命の相でいらっしゃる。栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳しく、蛇は寸にしてその気を表すと言います。私も早く、こんなお子さまにあやかりたい』とでも言えば良いんだ。」

表に出ると伊勢屋の番頭さんと出会ったので、早速やろうとすると、先を越されてしまいます。
おまけに、40の番頭さんに厄そこそこと言って失敗して仕舞います。
今度は子供でやろうと思い、昨夜、竹さんとこで子供が生まれたからと、子供をほめに行きます。
「竹さんほめに来たぞ、どこにいるんだい」
「ありがとうよ、そこで寝てるよ」
「これかい、随分大きいね」
「大きい子だって産婆もほめてくれたんだ」
「おじいさんにそっくりだね」
「そりゃ本人が昼寝しているんだよ」
「おお、こっちか、こりゃまた小さいね。先だって亡くなったおじいさんにそっくりで」
「止せよ、聞こえるよ」
「この子はまるで人形見たいだね」
「そんなに可愛いかい?」
「ううん、腹押すと、ピーピー泣くからさ」
「よせよ、死んじゃうよ」
「ときにこのお子さんはお幾つでしょうか」
「生まれたばかりだから一つだよ」
「一つにしちゃお若く見えます、どう見ても只だ」

【演者】
 寄席でもよく掛かる噺ですね。前座さんも良くやってます。

【注目点】
 この噺が中学の国語の教科書に載りました。落語が教科書に載ったのはこれと圓朝師の「塩原太助一代記」以来だそうです。
『ネタ』
上方だとサゲが違っていて、
「そんな赤ん坊に年を尋ねるもんがあるかい、今朝生まれたとこや」と言うので、
「今朝とはお若う見える、どうみてもあさってくらいや」
又、違うサゲもあるそうです。米朝師などはこれでサゲていました。
 
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