10月ももう終わりですね。11月になったらまた噺の解説に戻りたいと思いますので、もう少し私の戯言にお付き合いをお願い致します。
先日ですが、ふらりと入った本屋で河出書房から出してる文藝別冊「古今亭志ん朝」というムック本を見つけたので買って読みました。
内容は今まで色々な雑誌などに載せられた志ん朝師に関する記事を纏めたものでした。勿論師が生前書かれたエッセイ等も沢山載っています。
特に面白かったのは談志師の志ん朝師に関する事です。亡くなった時に「良い時に死んだ。よかったよ」と言ったそうですが、その真意についてのくだりが特に面白かったです。
談志師が言うには志ん朝師の絶頂期は三十代半ばだったそうです。その後は緩やかに落ちて行くばかりだったとか。
噺では「愛宕山」を褒めていて「鰻の幇間」は駄目だと言っています。志ん朝師の華麗な芸が転換期に来ている。それを志ん朝師も判っていたとも言っています。老いて枯れた芸を見せぬ内に亡くなってしまった今「良い時に死んだ」としか言えないと……。
惜しいと語っても生き返る訳は無いし、言ったところでしょうがない。「よかったよ、十分だよ。いま死んでよかったよ。もう、これからよくならないよ」と言った方が彼岸の彼方に居る本人は安心できるだろうとも書いていました。
談志師は志ん朝師が亡くなる二年前に和服のハーフコートを貰ったそうです。一度は
「あまり着ないから」と断ったそうですが志ん朝師が「是非に」と言ったので貰ったそうです。談志師が亡くなるまで大事にしていたそうです。今は何処にあるのかは判りませんね。
他には柳家小満ん師が書いていましたが、志ん朝師が芝居に出ていた頃にあるパーティで三木のり平さんに黒門町が挨拶をして
「志ん朝がお世話になっております。あれは落語界にとって”百年に一度の男”なんです。そのおつもりでお願いします」
と言ったそうですそれだけ大事に考えていたのですね。
最後に談志師の志ん朝師に対する評価を書いて終わりにしたいと思います。
「志ん朝は圓生同様、型から入っていく作品派である。加えて彼は芝居好きなくらいだから、形が良く、リズムも良く、噺の構成も上手い。現代の作品派としては最たるものだろう」
これが全て語っているのではないでしょうか。
先日ですが、ふらりと入った本屋で河出書房から出してる文藝別冊「古今亭志ん朝」というムック本を見つけたので買って読みました。
内容は今まで色々な雑誌などに載せられた志ん朝師に関する記事を纏めたものでした。勿論師が生前書かれたエッセイ等も沢山載っています。
特に面白かったのは談志師の志ん朝師に関する事です。亡くなった時に「良い時に死んだ。よかったよ」と言ったそうですが、その真意についてのくだりが特に面白かったです。
談志師が言うには志ん朝師の絶頂期は三十代半ばだったそうです。その後は緩やかに落ちて行くばかりだったとか。
噺では「愛宕山」を褒めていて「鰻の幇間」は駄目だと言っています。志ん朝師の華麗な芸が転換期に来ている。それを志ん朝師も判っていたとも言っています。老いて枯れた芸を見せぬ内に亡くなってしまった今「良い時に死んだ」としか言えないと……。
惜しいと語っても生き返る訳は無いし、言ったところでしょうがない。「よかったよ、十分だよ。いま死んでよかったよ。もう、これからよくならないよ」と言った方が彼岸の彼方に居る本人は安心できるだろうとも書いていました。
談志師は志ん朝師が亡くなる二年前に和服のハーフコートを貰ったそうです。一度は
「あまり着ないから」と断ったそうですが志ん朝師が「是非に」と言ったので貰ったそうです。談志師が亡くなるまで大事にしていたそうです。今は何処にあるのかは判りませんね。
他には柳家小満ん師が書いていましたが、志ん朝師が芝居に出ていた頃にあるパーティで三木のり平さんに黒門町が挨拶をして
「志ん朝がお世話になっております。あれは落語界にとって”百年に一度の男”なんです。そのおつもりでお願いします」
と言ったそうですそれだけ大事に考えていたのですね。
最後に談志師の志ん朝師に対する評価を書いて終わりにしたいと思います。
「志ん朝は圓生同様、型から入っていく作品派である。加えて彼は芝居好きなくらいだから、形が良く、リズムも良く、噺の構成も上手い。現代の作品派としては最たるものだろう」
これが全て語っているのではないでしょうか。