はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2019年09月

nisikinokea『錦の袈裟 』
今日はこの噺です。
【原話】
原話は、安永6年(1777年)に出版された笑話本・『順会話献立』の一遍である「晴れの恥」と言う話で、
元々は『袈裟茶屋』という上方落語です。

【ストーリー】
町内のある男がとなり町の連中が吉原で、緋縮緬の長襦袢で揃いの格好を見せて遊び、
あげくに「となり町の連中には出来まい」と言った事を聞きつけてきます。

当然面白く無い訳で、何とかその上を行って、となり町の連中の鼻を明かしてヤりたい処ですねえ。
色々な案が浮かびましたがイマイチです。
誰かが、「伊勢屋の番頭が、何枚か質流れの錦の布があり『なにかの時は使っていい』と言われていた事を思い出します。
「吉原へ乗り込んでそれを褌にして裸で総踊りをしよう」
「それで行こう!」と相談はまとまりましたが、一枚足りません。
頭を数えると丁度、与太郎の分です。
仕方なく、与太郎には自分で工面させることにします。

この辺が落語の良い所ですね。決して最初から仲間はずれにしません。
与太郎は女房に相談します。
この辺が今だと笑いを生み、又理解し難い処ですが、当時は玄人相手は完全な遊びで、いわゆる「浮気」の範疇に入りませんでした。
与太郎にとっては、大事な町内の付き合いなのです。

女房も何とか送り出したいと考えて、檀那寺の住職にお願いしておいで。『褌にする』とは言えないから『親類の娘に狐が憑いて困っております。和尚さんの錦の袈裟をかけると狐が落ちる、と聞いておりますので、お貸し願います』と言って借りてきなさい」
と言いつけます。
持つべきものは良い女房ですねえ・・・え?ちがう・・・そうかな?

知恵を授けられた与太郎、寺へやってきてなんとか口上をして、一番いいのを借りることができましたが、
和尚さんから「明日、法事があって、掛ける袈裟じゃによって、朝早く返してもらいたい」と念を押される。
そこで与太郎、「しくじったら破門になっても良いですから」等と言って借りてきます。

改めて見てみると輪っかが付いていたり少し可笑しいですが、そこは何とかします。
いよいよ、みんなで吉原に繰り込んで、錦の褌一本の総踊りとなる。女たちに与太郎だけがえらい評判です。
「あの方はボーッとしているようだが、一座の殿様だよ。高貴の方の証拠は輪と房だよ。
小用を足すのに輪に引っ掛けて、そして、房で滴を払うのよ」
「他の人は家来ね。じゃ、殿様だけ大事にしましょうね」

てんで、与太郎が一人だけ大モテです。
翌朝、与太郎がなかなか起きてこないので連中が起こしに行くと、まだ女と寝ている。
与太郎「みんなが呼びにきたから帰るよ」
女「いいえ、主は今朝は返しません」
与太郎「袈裟は返さない…? ああ、お寺をしくじる」


【演者】
この噺は、かっては故志ん朝師を始め、小三治や故文朝師、先代柳朝師等そうそうたる噺家さんが演じています。今では若手からベテランまで演じていますね。

【注目点】
いつ頃東京に来たのかはわかりませんが、初代小せん師が現在の型を作り上げたそうです。
上方の「袈裟茶屋」は主人公が幇間でかなり展開が違います。
東京みたいに町内の集団と言う事はありません、幇間三人の噺となっています。
袈裟を芸妓(げいこ=芸者)に取られそうになって、幇間が便所に逃げ出すという噺となっています。

『ネタ』
袈裟と言うのはお坊さんが着ている法衣の事で位で色や材質が変わるそうです。
良くお正月などにお寺に参拝した時に御札などを頼むと、大勢のお坊さんが出て来て炊きあげてくれますが、その時のお坊さんの袈裟が色々変わっていますね。

14511864『西行』
今日はこの噺です。ブログのデザインをまた変えました。コメントや記事の文字を大きくしてみました。

【原話】
遍歴の歌人として名高い西行法師ですが、もとは佐藤兵衛尉憲清という、禁裏警護の北面の武士でした。
本当は春の噺なのかも知れませんが噺の雰囲気が秋ぽいのでね。

【ストーリー】
ある日、殿の内侍が南禅寺にご参詣あそばされた際、菜の花畑に蝶が舞っているのをご覧あって、
「蝶(=丁)なれば二つか四つも舞うべきに一つ舞うとはこれは半なり」
と詠まれたのに対し、憲清が
「一羽にて千鳥といへる名もあれば一つ舞うとも蝶は蝶なり」
と御返歌したてまつったのがきっかけで、絶世の美女、染殿の内侍に恋わずらいをして仕舞います。

身分が違うから、打ち明けることもできず悶々としているうちに、このことが内侍のお耳に達し、
気の毒に思しめして、文をよこしてくれました。
何事ならんと憲清が見ると、夢にまで見た内侍の御文です。
開けて見ると、「この世にては逢はず、あの世にても逢はず、三世過ぎて後、天に花咲き地に実り、
人間絶えし後、西方弥陀の浄土で我を待つべし、あなかしこ」とあります。

これを読んで、さすが憲清さん、たちまちその意味を解きます。
この世にては逢わずというから、今夜は逢われないということ、あの世は明の夜だから明日の晩もダメ。
三世過ぎて後だから四日目の晩、天に花咲きだから、星の出る項。
地に実は、草木も露を含んだ深夜。人間絶えし後は丑三ツ時。
西方浄土は、西の方角にある阿弥陀堂で待っていろということだろう、と解読します。

当日、待っていたのですが、待ちくたびれて、ついウトウトして仕舞います。
そこへ、内侍が現れ
「我なれば鶏鳴くまでも待つべきに思はねばこそまどろみにけり」
と詠んで帰ろうとした途端に憲清、危うく目を覚まし、
「宵は待ち夜中は恨み暁は夢にや見んとしばしまどろむ」
と返したので、で内侍の機嫌が直り、夜明けまで逢瀬を重ねて、翌朝別れる時に憲清が、
「またの逢瀬は」と尋ねると
内侍は「阿漕(あこぎ)であろう」と袖を払ってお帰り。

さあ憲清、阿漕という言葉の意味がどうしてもわからない。
歌道をもって少しは人に知られた自分が、歌の言葉がわからないとは残念至極と、
一念発起して武門を捨て歌の修行に出ようと、その場で髪をおろして西行と改名して出家します。
西行法師、若き日の逸話です。

とここで切る噺家さんが多いのですが、今日はサービスで、最後迄書きます。(^^)

諸国修行の道すがら、伊勢の国で木陰に腰を下ろしていると、向こうから来た馬子が、
「ハイハイドーッ。さんざん前宿で食らやアがって。本当にワレがような阿漕な奴はねえぞ」と言っています。
これを聞いた西行法師、はっと思って馬子にその意味を尋ねると、
「ナニ、この馬でがす。前の宿揚で豆を食らっておきながら、まだ二宿も行かねえのにまた食いたがるだ」
「あ、してみると、二度目の時が阿漕かしらん」


【演者】
三代目圓歌師がよく演じていましたね。後は四代目痴楽師もやっていました。

【注目点】
阿漕とは何でしょう?
調べてみると、伊勢の阿漕ケ浦の事で、今の三重県津市南部の海岸です。
ここは伊勢神宮に供える魚を捕るため、一般には禁漁地でした。
古今六帖の古歌に、「伊勢の海阿漕(あこぎ)が浦にひく網も度重なれば人もこそ知れ」
と言う歌がありそこから、だそうです。

馬子は歌を介して発生した
「アコギ=欲深でしつこい」という語意で、馬を罵っているのですが、
西行法師は、
「二回もさせたげたのに、未練な男ね」と怒ったのかと、即物的な解釈をしたわけ?です。(^^)

ちなみに・・・染殿の内侍は1118年生まれの西行とは200歳ほども「年上」なんですねえ・・・
これこそ落語のウソですねえ(^^)

『ネタ』
出家の動機には友人の急死と失恋と二つあるそうです。

c0460『芋俵』
 今日はこの噺です。秋ですよね。まあ冬の可能性もありますが……。
上方落語では「芋屁」となります。
【原話】
1767年の『友達ばなし』の「あか子」だとされています。また狂言の「柑子俵」という説や1776年刊の噺本「聞上手」の「いもや」とも言われています。
 万延2年の噺家、桂松光のネタ帳の「風流昔噺」の中には既に「人俵」とあります。

【ストーリー】
 ある泥棒三人組が相談しています。さる警戒厳重な大店へ押し入るため、一計を案じているのですが……。
 まず、一人が芋俵の中に入り、仲間二人が「少しの間、店の前に置かせてください」と頼み込む。
 店の方ではいつまでたっても取りにこないから、迷惑して俵を店の中に入れる。夜が更けてから、中の一人が俵を破って外に出て、心張り棒を外し、待機していたあとの二人を導き入れる、と言う計画を練ります。
 ところが実際は、小僧が俵を中に入れる時、逆さに立ててしまったから、俵の中の泥棒、身動きが取れず四苦八苦。
 しかし、声は立てられない。そのうち小僧と女中が、俵の芋をちょいと失敬して、蒸かして食べよう、どうせ二つや三つならわからないと示し合わせ、小僧が俵に手を突っ込む。
 逆さだから、上の方が股ぐらあたり。そこをまさぐられたから、泥棒、くすぐったくて我慢できなくなり、思わず「ブッ」と一発。
 小僧「おやおや、気の早いお芋だ」

【演者】
六代目圓生師をはじめ、五代目小さん師等が演じています。

【注目点】
江戸時代、薩摩芋の本場は江戸近郊では川越でした。
江戸の八百屋さんは川越産と言うと少々高くても、仕入れたそうです。
薩摩芋は1604年に琉球に伝わり、1698年に種子島、1705年頃、薩摩山川の前田利右衛門が持ち帰り、栽培したのが始めです。
享保の大飢饉の時に西日本が薩摩芋のお陰で被害が酷くならずに済んだのを見た八代吉宗が関東でも栽培するように青木昆陽に命じて栽培させました。
最初は1734年に小石川の小石川植物園等で栽培しました。

『ネタ』
焼芋は、寛政5年(1793)の暮れに、本郷四丁目の番屋で、番太郎がアルバイトに焙烙で焼いたものを売り出したのが起源とかいいますから案外早く普及したのですね。

8a709508『お血脈』
今日は地噺の「お血脈」です。

【原話】
善光寺由来に取材した地噺で、上方では「善光寺骨寄せ」とも言います。

【ストーリー】
長野善光寺にお血脈の御印と言うのがあり、これを押すとどんな罪も消え、極楽に往生出来ると言う。
これが有る為に地獄は暇になり寂れる一方になってしまいます。
困った閻魔大王は一同集めて相談を致します。
ある幹部の鬼が、「そのお血脈の御印」を盗みだしてしまえば、本来地獄に来る者が増えて良いのでは」と
提案致します。
さて、誰が良いか色々と選定した結果。石川五右衛門に白羽の矢が立ちます。
呼び出して命じると「そんな事は訳も無い事。すぐに盗みだしてみせましょう」と言って旅立ちます。
善光寺に来てみると未だ昼、何とか時間を潰して深夜になるのを待ちます。
さて深夜になり忍び込んで、間単に見つけ出します。
そのまま大人しく帰れば良かったのに、五右衛門、芝居ががった仕草が大好き。
「アァありがてえ、かっちけねえ。まんまと善光寺の奥殿へ忍び込み、奪い取ったるお血脈の印。これせえあれば大願成就、アァありがたや、かっちけなやァァ!」
と押し頂いたもんだから、自分が極楽へスーッ……


【演者】
色々な噺家さんが演じていますが個人的には十代目桂文治師ですね。寄席で本当に良く聴きました。六代目圓生師もよく演じていましたね。

【注目点】
「地噺」と言うのは、普通落語は会話で噺が進行しますが、そうではなく、地の文、つまり演者の説明により噺が展開していく噺を言います。代表的な噺に「源平盛衰記」「紀州」やこの「お血脈」等が有名です。

上方の「善光寺骨寄せ」では、地獄で責め苦にあって、バラバラになっていた五右衛門の骨を寄せ集め、元の身体に戻してから、善光寺に出発させる形を取ります。
こちらも面白いですね。小朝師は地獄めぐりならぬ極楽めぐりを噺の中に入れてます。

『ネタ』
まあ簡単に演じると10分掛からない噺なので、十代目文治師は「善光寺由来」を頭につけて演じていました。
これは私も良く聴きました。とにかく文治師の本多善光と仏様のやりとりが可笑しかったです。
善光寺由来と言うのは・・・
その昔、天竺から閻浮檀金(えんぶだごん)という一寸八分の仏様が日本にやってきたが、仏教に反対した守屋大臣(物部守屋)らの手によって、難波池に捨てられた。後の時代になり、ある秋の夜、その近くを通った本多善光がその仏を見つけ、現在の信州に連れて行き、お祭りしたところが、その名を取って「善光寺」となったと言う噺です。

il44_04 関東ではやっと涼しくなって参りました。そこでこの噺です。
『茶の湯』
地味ですが色々と面白い噺です。

【原話】
文化3年(1806年)に出版された笑話本・「江戸嬉笑」の一遍である『茶菓子』です。講談の「福島正則荒茶の湯」にも材を得ているそうです。
 この噺は三代目金馬師が得意演目でしたが、圓生師が金馬師に移したそうです。

【ストーリー】
ある大店の隠居、根岸の別宅に居を移したが毎日が退屈で仕方がありません。
そこではじめたのが茶の湯なんですが、作法も何も分かりません。
小僧に買ってこさせた青黄粉や椋の皮を釜の中へ放りこんで楽しむといった、全くの自己流ではじめてしまったので、二人はお腹を壊してげっそり。
しばらくは二人で楽しんでいたがいつまでもそれではつまらないと、お客を無理矢理呼んで自らがこしらえたお茶うけとともに振舞うことします。
 手始めに家作の長屋の三人を始めに読んで飲まします。呼ばれた客は災難ですが、中には菓子の羊羹を食べたくて来る客も大勢現れる始末。
 月末の菓子屋の勘定書きを観て驚いた隠居は、薩摩芋からとんでもない「利休饅頭」と言うのをこさえます。

 ある日、そんなこととは知らない金兵衛さんが訪ねてきたので、しばらく茶の湯をやれなかった隠居は大はりきりで飲ませます。
「ウオッ!?」あわてて口直しをしようと饅頭を口へ…。
「アヒャッ!?」
 あわてて便所に逃げ込み、このひどい饅頭を捨てる場所はないかと見渡すと、窓の外は一面の田んぼが広がっています。
エイッと垣根越しに放り投げると、畑仕事をしているお百姓さんの顔にベチャ!
「ナンダァ…う〜ん、また茶の湯かァ」

【演者】
先ほど述べた圓生、金馬師の他に歴代の名人が録音を残しています。また、現役の噺家さんも数多く話しています。

【注目点】
落語でよく取り上げられる根岸は、家督を譲った隠居やお妾さんが暮らした静かな土地であったそうです。
川柳等では、下の句に「根岸の里の侘び住まい」で知られていますね。
 それに対して蔵前といえば、幕府の経済を支えた米を管理する米蔵がズラリ並んだところです。
 そうした賑やかな土地から侘び住まいが似合うエリアに越してきたというのだから、寝る間も惜しむように働いてきた人にとっては、さぞかし手持ち無沙汰だったと思います。

『能書』
茶の湯に禅の精神が取り入れられたのは、室町末期のことだそうです。それを千利休が受け継いだのですね。

『ネタ』
今でもある「裏千家」と「表千家」ですが、元々は弟子である自分の家が千利休の家の表にあったか裏にあったかだそうです。面白いですね。

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