らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2019年04月

8af28879『片棒』
 今日はこの噺です。季節的にはこれからの感じがします。

【原話】
原話は宝永2年に出版された、「軽口あられ酒」の一遍である『気ままな親仁』だそうです。

【ストーリー】
石町の赤螺屋吝兵衛さんは一代で身代を築いた方ですが、大変なケチでもあります。
最近の悩みはこの築き上げた身代を誰に譲るか?なのです。
番頭に相談すると、「このお店の一大事に、若旦那方三人がどのようなお金の使い方をするか聞いてみたらどうでしょうか?」という答え。
ならば、自分が死んだら、どうゆう葬式をするかを、息子三人に聞いて見ることにしました。

先ずは長男・・・
通夜は二晩行い、できるだけお金を掛けた葬式をやりたい。と言います。
お寺もわが菩提寺では小さいですから本願寺あたりを借りて行い
精進落としは黒塗り金蒔絵の重箱に、一段目は練り物、二段目は煮物とか焼き物、三段目らはご飯を仕込んだ三つ重ねで、丹後縮緬なんかで作った特注の風呂敷で包みます。
お酒をおのみになる方もいるでしょうから、灘の生一本を用意しておきます。
黒筋のついた封筒に三万円ばかり入れまして、【御お車代 赤螺屋】としたためます。
それからお香典返しには、金銀の延べ棒を用意します。
これを三日間行い、万事派手にやりたいと言います。
吝兵衛さんは頭に来て「何があってもお前だけには身代を渡さないからな!」「ばかー死んじまえ!」
と大層な剣幕です。

続いて次男は・・・
葬式の歴史に残る様な葬式をしたい、と言い出します。
「葬式に紅白の幕を飾った上、盛大な行列を仕立てて練り歩きます。先頭は鳶の木遣り、芸者の手古舞に、お父さんそっくりの生き人形をすえた山車や神輿を繰り出してワッショイワッショイ。神輿に骨を乗せて担ぎだす。一同そろってバンザーイ」
「ふざけるな、それじゃ弔いだかお祭りだかわかりゃしねえ、七生まで勘当だっ!!」

呆れて次の三男は・・・・
「死ぬとは『無に帰す』ことですし、どう転んでもすべて燃えちまうんですからお葬式は質素に、極限まで簡素にして行います。死骸は鳥につつかせて自然消滅。これが一番」
「お…おい…」
「とは行きませんから、とりあえずお通夜を出しましょう。出棺は11時と知らせておいて…本当は八時に出してしまえば会葬者の食事はいらないし、持ってきた香典だけこっちのものにすることができます。早桶は菜漬けの樽で十分。抹香はかんな屑で代用し、樽には荒縄を掛けて天秤棒で差しにないにします。運ぶには人手が必要…ですが、これだとお金がかかりますから片棒は僕が担ぎます。でも、僕一人では担げませんから、やっぱり一人は雇ったほうが…」
「なに、心配するな。片棒は私が出て担ぐ」

【演者】
今なら春風亭一朝師でしょうね。江戸前の感じがよく出ています。以前は三代目金馬師や九代目文治師が得意にしていました。

【注目点】
この噺のクライマックスは次男の処での神田囃子の下りでしょうね。
ここの処は抱腹絶倒です。
次男による葬式に山車が出て算盤を持った人形が登場する条は三遊亭銀馬師によってとりいれられ、これを三代目金馬師が完成させたそうです。

『能書』
兄弟の名前は色々ありまして、「金・銀・鉄」にちなんでつけたり、「松竹梅」でやる演者さんもいます。

『ネタ』
実際はこの兄弟の性格がバランスよく配分された人物が一番経営者に相応しいのでしょうね。
長男の社交性、次男の独創性、三男の堅実性と言った処でしょうか。
ちなみに上方落語には「三人兄弟」という兄弟で夜遊びに行く噺があります。東京では小里ん師が得意にしています。

8_480360『鮑のし』
 今日はこの噺です。噺の中に鯛と鮑が出て来るので初夏の噺と思います。

【原話】
 原話は、米沢彦八が元禄16年(1703年)に出版した「軽口御前男」の第一巻・「見立ての文字」です。元は上方落語の「祝のし」ですね

【ストーリー】
 甚兵衛さんは人柄は良いのですが、いまいち生活力に欠ける男です。
今日も仕事を怠けたので、銭が一銭もなく、飯が食えない。おかみさんに「何か食わしてくれ」とせがむと…?
「おまんまが食いたかったら佐々木さんちで五十銭借りてきな」
 この前、甚兵衛さん一人で借りに行ったら断られた。しかし、おかみさんが貸してくれと言っていたと告げれば…。

 半信半疑ながらも佐々木さんのところへ行き、「ウチのかみさんが」と言ったら…借りられた。
 首をひねりながらも家に帰ると、今度は魚屋で尾頭付きを買って来いというご命令。
「今日、大家さんの息子さんが嫁を迎えるんだよ」
 そのお祝いだと言って尾頭付きを持って行けば、あの大家さんの事だから、祝儀にいくらかくれるだろうから、その金で米を買って飯を食わせてやる…との事。

「お飯が食えるぞォ!」
 ウキウキ気分の甚兵衛さん。ところが、魚湯に行くと鯛は五円。買えない。しかたがないから、アワビ三杯を十銭値引きでなんとか買ってきた。
 帰ってくると、かみさんお渋い顔をしたが、まぁ仕方がないと諦めて今度は大家さんのところで言う口上を教える。
「こんちはいいお天気でございます。承りますれば、お宅さまの若だんなさまにお嫁御さまがおいでになるそうで、おめでとうございます。いずれ長屋からつなぎ(長屋全体からの祝儀)が参りますけれど、これはそのほか(個人としての祝い)でございます」
 …というのを強調し、何とかご祝儀をもらって来いと甚兵衛さんを送り出す。

 大家に会うと、いきなり大声で「一円くれ」。『コンチワ』を連発したり、承るを『ウケマタマタガレ』などと言い間違えたりしながらも、何とか向上を言いきって引き出物を差し出した。
「これ、アワビだよなぁ。このアワビ、アンタの一存で持ってきたのかな。それともおかみさんと共同かな?」
 甚兵衛さんが「家内と共同」だと答えると、何故か大家さんはこれは受け取れないと言い出した。
「どうして? 受け取ってくれないとオマンマが…」
 何しろお飯が懸っているため、甚兵衛さんは引き下がらない。とうとう大家さんは怒りだしてしまった。
「アワビはな、一名『片貝』ともいう縁起の悪い貝なんだ! 【磯の鮑の片思い】というのを知らないのか…とか、うちの息子を別れさせたいのか」
 と言いたい放題。挙句の果てに、貝を思いっきり投げつけられてしまった。

 ショックと空腹でフラフラになった甚兵衛さんが、すごすご帰る途中で親分とバッタリ。
話を聞いた親分は、一つ意趣返しをしてやれとこんな策を授けた。
「祝い物には『熨斗』って奴が付いているだろ? あれはアワビから作るんだよ。海女が深い海に潜り、命からがら取ってきたアワビを仲の良い夫婦が協力して熨斗に仕上げるのだ。その根本であるアワビを、なんで受け取らないのか…!! そう言って怒鳴り込んでやれ! 土足で座敷に駆け上がって、クルッと尻をまくってやれ!」
「今、褌しめてねぇ…」
 それは置いといて。あの大家の事だから、ついでにこんな質問をしてくるだろう。
「『仮名で"のし"って書いた奴があるが、あれは何だ?』って聞いてくるだろうから、こう言ってやるんだよ。
「あれはアワビのむきかけです。ってな」
 知恵をつけられて、やる気になった甚兵衛さんはものすごい勢いで大家の家に突入。本当に土足で座敷に上がり込み、
「クルッと尻をまくってやりたいところだが、事情があって今日はできねぇ。よく聞けェ!」
 所々つっかえながらも、何とか件の向上を言いきった甚兵衛さん。感心した大家さんは、もう一円上げるから、ついでに「仮名でノシ」…と親分の予想通りの質問をした。
「なるほど。じゃあ、今度は二円あげるから、もう一つ答えてくれないかな。仮名でノシと書いた奴に、一本杖をついたような『乃し』というのがあるが、あれは一体何なんだ?」
「え!? …あの、それは…。あ、アワビのお爺さんでしょう」

【演者】
 志ん生師や馬生師等が得意にしました。また、木久扇師も演じます。その関係か彦いちさんもやりますが、志ん生師とは比べられません。与太郎だか甚兵衛さんだか判らない演じ方でしたね。これはがっかりでした。

【注目点】
上方では三代目春團治師が有名ですがオチまで行かない時は
「阿呆がひとり騒いでおります。おなじみの『祝のし』でございます」
 と高座を降りることが多かったですね。サゲとしては
「生貝をひっくり返してみなはれ。裏はつえ突きのしの形になったある」
 というのもあります。

『能書』
熨斗は、本来はアワビの一片を、方形の色紙に包んだもので、
古く室町時代から、婚礼の引き出物として珍重されましたが、
紀州産限定で生産量が少なく、次第に「の」「乃」など、文字で代用したものが普及しました

『ネタ』
落語の夫婦の形は亭主が少しおめでたく、女房がしっかり者と言う形が典型ですが、この噺が元になってるという説もあります。

204887ac『黄金餅』
 やっと暖かくなって来ましたので、今日は「黄金餅」という噺をやります。

【原話】

三遊亭圓朝師の創作と言われています。かなりダークな噺ですが、古今亭志ん生師が言い立ての道中等を入れて今のような飄逸味溢れる噺にしました。

【ストーリー】
 下谷の山崎町の裏長屋に、薬を買うのも嫌だというケチの”西念”という乞食坊主が住んで居ました。
 隣に住む金山寺味噌を売る”金兵衛”が、身体を壊して寝ている西念を見舞い、食べたいという餡ころ餅を買ってやりますが、家に帰れと言います。隣に帰って壁から覗くと、西念があんこを出して、そこに貯めた2分金や1分金を詰め込んで、一つずつ全部、丸飲みしてしまいます。
 その後、急に苦しみだしてそのまま死んでしまいました。
 金兵衛は飲み込んだ金を取り出したく工夫をするが出来ず。焼き場で骨揚げ時に、金を取り出してしまおうと考えます。
 長屋一同で、漬け物ダルに納め、貧乏仲間なもので夜の内に、葬列を出して、下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私(志ん生)もくたびれた。

 何とか麻布絶口釜無村の木蓮寺へ着きます。貧乏木蓮寺で、葬儀の値段を値切り、焼き場の切手と、中途半端なお経を上げて貰い、仲間には新橋に夜通しやっている所があるから、そこで飲って、自分で金を払って帰ってくれ言い返して仕舞います。
 桐ヶ谷の焼き場に一人で担いで持って来て、朝一番で焼いて、腹は生焼けにしてくれと脅かしながら頼み、新橋で朝まで時間を潰してから、桐ヶ谷まで戻り、遺言だから俺一人で骨揚げするからと言い、持ってきたアジ切り包丁で、切り開き金だけを奪い取って、骨はそのまま、焼き場の金も払わず出て行ってしまいます。

 その金で、目黒に餅屋を開いてたいそう繁盛したという。江戸の名物「黄金餅」の由来でございます。

【演者】
 これは志ん生師に止めをさすでしょう。談志師が言い立てを一旦言った後に現代の道順に替えてもう一度言い直した高座がひかります。それでも、今でも志ん生師を越える高座は出て居ないと思います。

【注目点】
 この噺は、幕末を想定しているそうですが、金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを感じさせてくれます。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったそうです。

『能書』
 この噺の眼目は、金兵衛が最初は普通の人間だったのが、西念のお金を見てから人格が変わって行く所ですね。その点に注目してください。笑いも多いですが、本当は人間の本質を描いたかなり怖い噺なのです。それを志ん生師が面白く変えたのですね。ちなみに「黄金餅」という餅菓子は実際は無かったそうです。

『ネタ』
 道中付けと並んで楽しいのが、木蓮寺の和尚のいい加減なお経です。
「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。」
「なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」
 と言う実にいい加減で楽しいお経です。

 桐ケ谷の焼き場(斎場)は今でもあります。東京博善社という会社の経営です。
 博善社は私の地元の四ツ木を初め都内各地にありますが、落合の斎場は皇室の為の特別な場所があります。一般人は入ることが出来ません。
 それと落合の火葬場は「らくだ」に出て来ます。

 以前、ヌーベルハンバーグさんのコメントに教わったのですが、この噺の続きもあるのだそうです。とても陰惨で十代目馬生師が教わったそうですが遂に高座に掛けることは無かったそうです。

7916fc279e7206cff787acec1a055cb1 余りにも寒いので、初夏の噺をやれないので、今回も落語に登場する食べ物の噺をします。今回は魚を取り上げてみたいと思います。
 
 落語の噺で一番有名なのが「目黒のさんま」に登場する秋刀魚でしょうね。江戸で売られていた秋刀魚は噺の中でも家来が語っていますが、銚子沖で捕れたものですね。
 それが日本橋の魚河岸に運ばれました。当時は冷蔵技術などありませんので、揚がった秋刀魚に軽く塩を振りかけていたそうです。これが時間が経つと秋刀魚に馴染んで良い味をだしていたそうです。
 ですら、目黒のお百姓さんは品川あたりに野菜を売りに行ったか何処かに納めた帰りに秋刀魚を買って帰ったのでしょう。
 近くには芝浜の魚河岸がありましたが、夕市だったそうですね。研究者の間では昼市もやっていたとの記述もあります。もしかしたら、そこで仕入れたのかも知れません。
 江戸時代は冷蔵の技術がありませんから、鮮度の良い魚を食べられるのは限られた地域でした。刺し身などは貴重で本当に御馳走だったそうです。

 今のような刺し身が食べられるようになったのは醤油の普及があります。醤油の味が魚の生臭さを消したりワサビとの組み合わせで美味しく食べられるようになりました。それまでは「膾」という調理法で食べていたそうです。

「膾」とは生の魚に塩をかけて余分な水分を出した後にお酢に漬けたものです。小肌や鯖も〆て食べますがこれも含まれます。
 幕末にペリーが来航した時に饗応の料理を出した料亭百川の当日の献立を見ると今と違ってやたらに膾の料理が多いです。考えて見ると、かなりの人数分を作ったのでしょうから(一説には1000人とも)生の刺し身だと鮮度の低下の問題もあったのでしょうね。
 ちなみに肝心のアメリカ人には不評だったそうです。

 噺に出て来る魚類を思いつくまま書いて見ると、秋刀魚(目黒の秋刀魚)、鰻(鰻の幇間、鰻屋、素人鰻)、鮑(鮑のし)ふぐ(らくだ)、小肌(小肌小平次)、鮪(居残り佐平次、葱間の殿様)、鯉(唖の釣り、その他)等いろいろありますね。「らくだ」に出てくるふぐですが当時は味噌汁などにして食べるのが普通だったそうです。刺し身で食べたら生で食べる危険と中毒の危険が伴いますからね。
 今日はこのへんで。暖かくなれば噺の話に戻ります。

shizzle1今日は冬に戻ったように寒いですね。関東でも雪が降っています。皆様も体調管理にお気をつけください。

初夏の噺をするには少し早いので、色々と無い知恵を絞って考えたのですが、本業が食べ物に関する業種ですので前回色々とコメントを頂いたので図に乗って、今回は落語と食べ物に関して考えてみたいと思います。
 落語には色々な食べ物が登場しますが、一番多いのはお酒でしょうね。そこで第1回は落語に登場するお酒について考えてみたいと思います。

 落語に登場するお酒は「青菜」の「柳影」以外は日本酒だと思います。今でも我々が飲んでいますが、当時(江戸時代)の日本酒と今のとでは若干違うものなんですね。
 江戸時代の初め頃まではいわゆる「どぶろく」でした。これが灘の酒蔵で誤って炭を落としてしまった事から澄んだ清酒が出来たそうです。ま、これが一つ。
 それと今では日本酒に使う麹は白麹ですが当時は黒麹でした。黒麹は白麹より発酵する程度が強く、出来上がったお酒はアルコールは18〜20度程度でしたが、甘みと酸味が強く癖のあるものでした。

 ですから当時の酒蔵ではこれを水で薄めて樽などに詰めて出荷していたそうです。それでも出来たてはキツイ感じでしたが上方から江戸に船で運ぶ途中に揺られて熟成されて美味しくなったそうです。これが「下りもの」と呼ばれて、良くないものを「くだらない」と呼ぶようになったのは有名ですね。
 また、当時は砂糖が大変貴重なものだったので、男性は甘い日本酒を飲むことで甘味を味わっていました。
 
現代の研究者が同じ製法で作ってみたところ、かなり甘く濃く出来たそうです。そこで薄めたところ5度程度が一番飲みやすかったそうです。それは当時と同じなんですね。当時の記録を見ると作った量と流通の量が全く合わないそうです。流通の方が倍以上多いそうです。つまり水で薄めたものが流通していたという事ですね。
 ですから噺に登場する人物はアルコールに関しては、今よりも薄いものを飲んでいたのですね。

 ですから、「試し酒」の久造さんはアルコールで言えば、今の半分程度だったという事ですね。でもその前に同じだけ飲んでいるので凄い事には変わりありませんね。
 それと今と違って経験と感で作っていたので発酵が上手く行かない事も結構あったそうです。そんなお酒を飲んで亡くなった方もいるそうです。ですから「粗忽長屋」で馬道に出ていた夜明かしで酒を飲んで、雷門あたりで行き倒れになったという事は当時ではあり得た事なんですね。そんな事を思いながら聴き慣れた噺を楽しむのも一興かと思います。

 鬼平が昼間から2合の酒を飲んでるシーンがありますが、現代に換算すると缶ビール(350mL)1缶程度なんですね。これなら今でも真夏に飲んじゃう人いるでしょ? いないか(笑)

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