はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2019年02月

b3186f3a『浮世床 』
今日はこの噺です。一応春の噺だそうです。

【原話】
安永2年(1773)刊「聞上手」中の「大太刀」や「春遊機嫌袋」中の「うたゝね」等の小咄をあわせて出来上がった噺です。題は式亭三馬の滑稽本から摂ったものです。

【ストーリー】
全部書くと長い噺なので簡単に……
 街の床屋は暇を持て余した若い者が今日も今日とて集まっている。手紙を読んでニヤニヤする者、髭を抜く者、寝ている者。退屈しのぎに何をしようかと話し合ってるうちに二人が将棋を始める。ただ普通にやってもつまらないので一手指すごとに洒落を言う、洒落将棋。洒落が言えなければ負け。洒落上手と洒落下手が指していると、あまりの熱の入れようで王を取られても気付かず続けている始末。すると店の主が、あまり騒がしいので客が勘定を払わずに帰ってしまったという。
 または、本を読んでいる者に読んでくれと頼むのですが、偉そうに言う割りにはどうしようもない読み方。
 エェェェェェェェーとサイレンまがいの声色で調子を試して…。
「このと…き、真柄…真柄ジフラ…じゃねぇ。真柄十郎左衛…門が、敵に向かってまつこう…まつこう…マツコウ!!」
「何だい?」
立て板に水どころか【横板に餅】。「真っ向」という言葉を聞き違え、松公というあだ名の男が返事をしてしま居ます。
「真っ向…立ち向かって、一尺八寸の大刀を…」
「オイオイ、一尺八寸のどこが大刀だよ? それじゃあ肥後の守だ」
「そこは但し書きが書いてある。『一尺八寸とは刀の横幅なり』…」
「馬鹿! そんな戸板みたいな刀があるかい!? 第一、前が見えないだろ?」
「そこはもう一つ但し書き。『刀には窓が付いていて、敵が来たらそこから覗く』」
 その次は昼寝をしている者を起こすと、自分のノロケを話仕出します。
「歌舞伎座で芝居を見たんだ。後ろの席に綺麗な女がいてさ、そいつが俺に『自分の代わりに褒めてくださいよ』って頼むんだよ。俺ァすっかり舞い上がっちゃってさ、舞台に向かって『音羽屋! 音羽屋!』」
 怒鳴っている内に芝居が終わってしまい、仕方なく『幕!』。
「帰りがけにさ、その女のお供に呼び止められて、お茶屋に招待されたんだよ。そこには女が待っていてね、杯をやったり取ったり楽しくて…」
 飲みすぎてグロッキーになってしまい、半次が寝ていると女が帯解きの長襦袢一枚で「御免遊ばせ」と布団に入ってきた…!!
「フワー、夢みたいな話だな! …で?」
「その時、俺をたたき起しやがったのは誰だ!?」

【演者】
今ではほとんどの噺家が演じます。
元は上方落語で、明治末に初代小せん師が東京に移しました。
圓生師と金馬師の音源も残っています。

【注目点】
長い噺なのでどこでも切れるようになっていますので寄席でもよく掛かります。

『能書』
江戸の髪結床は、通常は親方一人に中床と呼ばれる下剃りの助手と、見習いの小僧の計三人です。
中床を置かず、小僧一人の床屋もありました。
二階は噺に出てくるように社交場になっていて、順番を待つ間、碁将棋、馬鹿話などで息抜きをする場でもありました。
髪結賃は大人三十二文、子供二十四文が幕末の相場です。

『ネタ』
一応サゲもありまして、芝居のやり取りの後で親方が余りにも煩いので静かにするように言うと、お金を置かずに帰ってしまった者がいると分かります。
「ここに居た印半纏を着た痩せた奴だ」
「そいつはこの先の畳屋の職人だ」
「それで床を踏みに来たんだ」
 とサゲます。
 圓生師は「この噺のサゲは、畳屋は足で床を踏みながら畳を入れるので、そこから来ています」と語っていますが、それでも判り難いので今ではあまりやりませんね。


追伸……先日、元通産官僚で、小説家や評論家でもあった堺屋太一氏がお亡くなりになりました。
 謹んでご冥福をお祈りします。
氏は経済企画庁長官をおやめになつた後にふらりと秘書の方お二人と我が菖蒲園に来られました。何でも近くの講演会に来たが時間があるので一度来たかったそうです。そこでお茶をお出しして小一時間私に色々な質問をされました。
 その時、その時に「本当に色々な事を知識として知っている方だな」と思いました。実に腰の低い方でした。

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少し暖かくなって参りました。という訳で今回は八代目文楽師の十八番「明烏」です。


【原話】
実際の心中事件から題を得て作られた、新内の「明烏夢淡雪」から人物だけを借りて作られた噺で、滝亭鯉丈と為永春水が「明烏後正夢」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺に仕立てました。
その発端が現行の「明烏」です。

【ストーリー】
日向屋の若旦那である時次郎は、一部屋にこもって難解な本ばかり読んでいるような頭の固い若者で、息子の時次郎の将来を心配した親父さんが、町内の源兵衛と多助に頼んで浅草の裏のお稲荷さんにお参りに行くと偽って、吉原に連れていってもらうことにした。
日帰りのお参りではなくお篭もりするようにと、お賽銭として、銭も沢山持たせます。
 
吉原の大門を鳥居だと言い、巫女さんの家だと偽って女郎屋に連れ込むのですが、そこは店に入るととうとうバレてしまいました。
こんなところにはいられないからと、若旦那が一人で帰るというのを、吉原の決まりとして大門で通行が記録されているので、三人連れで入って一人で出ると怪しまれて大門で止められると嘘で説得して、無理矢理に一晩つきあわせます。
 翌朝になって、若旦那が起きてこないので、源兵衛と多助花魁は若旦那の部屋に起こしに行きます。
「若旦那良かったでしょう? さあ帰りましょう」
そう言っても起きてきません。仕方なく花魁に頼むと、
「花魁は口じゃ起きろ起きろというが足で押さえている」
 と布団の中でのろけているので馬鹿馬鹿しくなった二人が先に帰ろうと言うと、
若旦那は
「先に帰れるものなら帰りなさい、大門で止められます」

【演者】
もうこれは文楽師が一番と言っても良いですが、文楽師亡き後、色々な噺家さんが演じていますが、極め付きは志ん朝師でしょうか?
文楽師は寄席では初日にこの噺を多く掛けたそうです。

【注目点】
文楽師は寄席でトリを取ると初日は必ずと言って良い程この噺を掛けたそうです。
源兵衛が甘納豆を食べる場面では、寄席の売店で甘納豆が売り切れたというエピソードが残っています。

『能書』
志ん朝師も晩年を除き、この甘納豆のシーンはやりませんでした。代わりに梅干しのシーンに替えていました。それぐらい文楽師の仕草が見事だったという事です。

『ネタ』
私なんか正直、志ん朝師の方が文楽師より良いぐらいですが、古い落語ファンの方に云わせると
「文楽の方が遥かにいい!」そうです。何でも決定的な事が志ん朝師の噺には抜けているそうです。私には何が抜けているのか判りません。ですので、実際の吉原を知らないもので反論出来ませんw
それだけもう遊郭というものが遠いものになってしまったという事なんですね。(何でも西の方には未だ残ってるということですが……)

EclEdo3j『愛宕山』
え〜早いものでこの前マッカーサーが上陸したと思ったらもう立春ですね。
春の噺なんですが、最初は私の好きなこの噺です。
 この噺は上方落語がルーツです。東京では文楽師の十八番でした。3代目圓馬師が東京風に脚色したのを圓馬師から文楽師に伝わったものです。
 晩年は医師から止められていたにもかかわらず、高座に掛けて、その後楽屋で暫く横になっていたそうです。それだけ、最後の処で力が入ったのですね。
最近では志ん朝師がやり、その後かなりの噺家さんがやります。
志ん朝師のも良かったですね、文楽師が省略した下りも入れて、一八と旦那の絡みも見事でした。

【原話】
 上方に古くからあった噺を三代目圓馬師が東京に持って来ました。だから、事実上の圓馬師の弟子でもあった文楽師はこの噺を受け継いだのです。
【ストーリー】
 あらすじは上方と東京では若干違いますので、東京でやります

 京都見物に来た旦那、あらかた見てしまったので、明日は愛宕山に行こうと思いつきます。
連れの幇間の一八に言うのですが、「朝飯前」と言う返事。
翌日、一同連れ立って愛宕山へとやって来ます。
 調子のいいことを言う一八を見て、旦那は繁造を一八にぴったり着かせる。「どんなことがあっても上までひっぱりあげろ。連れてこないと暇を出すよ」と脅して、いざ出発。
大きい口を叩いていた一八は、最終的には繁造に押してもらって、やっとのことで途中の休憩所まで辿りつきます。
 茶屋で休んでいるときに一八が土器投げ(かわらけなげ)の的を見つけます。
向こうに輪がぶらさがっていて、そこにお皿を投げて上手く輪をくぐらせるという遊び。
旦那がやってみせると、負けん気の強い一八、また「朝飯前」だと嘯く。が、もちろんやってみるとうまくいかない。
 そこで旦那が趣向を凝らし、取り出したのが小判三十枚。
煎餅を放る人がいるんだから、それより重量のある小判ならうまく放れて面白いだろうと。
そんなもったいないことを、と止める一八を無視して旦那は投げ続けます。
小判が惜しい一八は自分を的にしろと叫ぶが、旦那は三十枚全てを投げきってしまう。
 さて、投げてしまった小判はどうするか。旦那は「あんなものは惜しくない。取りたきゃ取れ」と言う。
そう言われては取りに行くしかないが、そこは崖っぷち、狼もうろうろしているというし、そう簡単に降りてはいけません。
そこで、傘を落下傘代わりにして飛び降りるというもの。皆が見つめる中、なかなか飛び降りられない一八を見て、旦那が繁造に「後ろから突け」と命じ、一八は無理矢理下へ落とされるます。
 さて、崖を降りた一八、目の色を変えて小判を集めはじめます。全ての小判を拾い終えた一八に
 旦那「皆貴様にやるぞ」
 一八「ありがとうございます」
 旦那「どうやって上がる」
 困った一八に、旦那は「先に行くぞ」と薄情な言葉を残します。
 さて弱った一八、突然服を脱ぎ、脱いだ服を裂き始める。どうしたどうしたと旦那達が見守る中、裂いた布で縄をよって、竹をしならせ、その反動でどうにかこうにか崖上へ無事上ることができました。
 上にたどりついた一八に、
 旦那「偉いやつだね、貴様は生涯屓にするぞ」
 一八「ありがとうございます」
 旦那「金はどうした」
 一八「あ、忘れてきました」

【演者】
 やはり八代目文楽師が抜きん出ていますね。志ん朝師も良かったですね。

【注目点】
 東京では下男の繁造が登場しますが、上方ではふたりとも大阪を食い詰めて京都にやって来た幇間と言う設定です。
そこで、この二人によって、京都の悪口が始まります。
この辺は東京人にはその対抗意識と言うのが正直分かりません。(^^)

『能書』
 上方版では小判は20両で、それも一気に投げて仕舞います。
それと、一八が登る時に口ずさむ歌が違います。
東京は、『コチャエ節』で、上方は、『梅にも春』です。

『ネタ』
 この噺の嘘は、京都の「愛宕山」ではかわらけ投げは行われていないと言う事です。
同じ山系に属する高雄山の神護寺で行われているそうです。
江戸でも王子の飛鳥山、谷中の道灌山で盛んに行われました。
志ん朝師はこの噺を演じる前に、香川県高松市の屋島で実際にかわらけ投げをおこなっています。
愛宕山にも一門で登っています。

images『垂乳根』
今日はこの噺です。おそらく取り上げるのは初めてだと思います。

【原話】
1628年(寛永5年)の「醒睡笑」の「文字知り顔」あたりです。
上方では「延陽伯」ですね

【ストーリー】
長屋の世話好きな大家さんが、店子の八つあん(八五郎)に嫁の話をもちかけます。
「おまえはこの長屋で一番若いし、ひとり者も二,三人いる。ものがきちょうめんで、ひとに満足にあいさつもできないような人間だけれども、まことに竹をわったような、さっくりとした気質。そのおまえに耳よりのはなしがあるんだよ」
 そお言われた八五郎も満更ではありません。
「でも三十過ぎとかなんでしょう?」
 とう問いかけると、さにあらず
「年は二五。器量は十人なみ以上の色白、小柄ないい女なんだよ。生まれは京都、両親はとうのむかしに亡くなってしまった。長いあいだ、一人っきりで京都の屋敷奉公。嫁にいったさきに、舅や小姑があって、いつまでもきゅうくつなおもいをするのはいやだ。気楽にさえ暮らせるなら、ああいうさっくりした親切そうなかたのところへ嫁にゆきたいとこういうんだが、どうだ、おまえ、もらう気はあるかい?」
「そうですか、あります!」
 そう返事をしますが
「ただ、ちょっと……まあ、いわばきずがあるんだ。」
「そうでしょう。どうもはなしがうますぎるとおもったんですよ。そんないいことづくめの女が、あっしのような者のところへくるはずがありませんものねえ。きずっていうと、横っ腹にひびがはいってて、水がもるとかなんかいうんですかい?」
「それは壊れた土瓶だ。そうじゃないよ。もとが京都のお屋敷者だろ、だから、言葉が丁寧すぎるんだ」
「悪いんまら兎も角、良いならいいじゃありませんか」
「いやそれが良す過ぎるんだよ。この間風の吹く日に往来で会ってな、向うで言ったことが分からなかった」
「なんて言ったんです」
「今朝(こんちょう)は怒風(どふう)激しゅうして、小砂眼入すというんだ」
「へえー、たいしたことをいうもんですねえ。全く分からねえ」
「分からないで感心するやつがあるか。くやしいから道具屋の店先にたんすと屏風が置いてあったから、それをひっくり返して『いかにもすたん、ぶびょうでございます』っていってやったよ……で、どうだね?」
「言葉が丁寧すぎる?いいじゃありませんか。乱暴なら傷だけど、そりゃ結構なことだ。まぁ、大家さんの世話だから、仕方ねぇや。いつくれるんっすか?」
お前も掃除して湯と床屋行って、ちゃんと用意して待ってろ。夕方には連れてくるから。
「思い立ったが吉日」とばかり今晩ということになりました。

早速八五郎は、まだ見ぬ嫁さんとめしを食うことまで思い浮かべ、一人にやにや。

「飯を食うのが楽しみだよ。『八寸を四寸ずつ食う仲のよさ』てなぁ。
お膳を真ん中に置いて、カカァが向こう側にいて、おれがこっち側...。おれの茶碗は、ばかにでっけえ五郎八茶碗(どんぶり茶碗)てえやつだ。そいつをふてえ木の箸で、ざっくざっくとかっこむよ。たくあんのこうこをいせいよくばありばりとかじるよ・・・・・
カカァはちがうよ。朝顔なりの薄手のちっちゃな茶碗で、銀の箸だから、ちんちろりんとくるね。きれいな白い前歯でもって、たくあんをぽりぽりとくらあ。ぽりぽりのさーくさく……さ。ふふふふ。
 おれのほうは、ざーくざくのばーりばり。カカァのほうは、ぽーりぽりのさくさく、箸が茶碗にぶつかって、ちんちろりんの間(あい)の手がはいるよ。ちんちろりんのぽーりぽりのさーくさく……ばーりばりのざーくざく……ちんちろりんのぽーりぽりばーりばりのざっくざく……ちんちろりんのさーくさく……ばーりばりのざーくざく」

 そうこうしているうち、大家さんが嫁さんを連れて、直ぐに帰ってしまいました。早くも二人っきりになりました。
「あ、大家にお前さんの名前、聞くの忘れちゃったよ。あっしの名前は八五郎ってんですが、あなたの名前をどうかお聞かせねがいたいんで」
 そう八五郎が言うと
「父はもと京都の産にして、姓は安藤、名は慶三。あだ名を五光。母は千代女と申せしが、三十三歳の折、ある夜、丹頂の夢をみてはらめるが故に、たらちねの体内をいでしときは、鶴女と申せしが、成長の後これを改め『清女』と申しはべるなり。」
「へぇー。どうもおどろいたなあ。随分はべっちゃたなぁ。ひとつこれに書いておくんなせえ。あっしゃあ、職人のことで難しい字が読めねえから、仮名でひとつおたのみ申します」
 とか何とか一夜が過ぎて夜が明けました。夫に寝顔を見せるのは妻の恥とばかりに早起きして朝ご飯の支度にかかります。勝手が分からないので、例の丁寧な言葉使いで、やってきた振り売りの商人を
「そこなおのこ、そこへ直りゃ」
 と呼び止め
「価幾ばくなりや」などと混乱させてしまいます。
「あ〜ら、我がきみ、あ〜ら、我がきみ 」
「なんか言ってるね。その「我がきみ」ってぇのだけは、頼むからやめてくんねぇかな『我がきみの八』てあだ名がついちまうから」
「一文字草、価三十二文なり」
「ああ、銭かい? その火鉢の引き出しにあるから、だして勝手に使いねぇ。
いちいち聞かねぇでもかまわねぇんだから」
 すっかり朝ご飯の支度が出来上がりますと、またぴたりと三つ指ついて、
「あ〜ら、我がきみ、あ〜ら、我がきみ」
「また始まった。これじゃ眠れやしねぇや。なんです、なんべんもなんべんも『我がきみ、我がきみ』って、今度は何の用です? 」
「あぁ〜ら我がきみ、もはや日も東天に出現ましまさば、御衣になって、うがい・ 手洗に身をきよめ、神前仏前に御灯(みあかし)をささげられ、看経ののち御膳を召し上がってしかるべく存じたてまつる。恐惶謹言(きょうこうきんげん)。」
「お、おい、脅かしちゃいけねぇよ。飯を食うのが『恐惶謹言』なら、酒を呑むのは『依ってくだんのごとし』か 」

【演者】
明治27年(1884)4月の「百花園」に掲載された四代目橘家円喬の速記がありますのでかなり早くから江戸でも演じられていたと思います。
三遊、柳家とも高座に掛けますね。

【注目点】
我々が高座で聴く噺はあらすじ通りですが、噺家さんが師匠等から教えて貰うバージョンではもっと長い噺みたいです。特に八五郎が一人で待ってるシーンが長いみたいですね。

『能書』
大阪の「延陽伯」が東京に移されたものです。大阪では、女は武家娘という設定なので、
漢語をやたらに使いますが、東京では京女ということで、女房言葉や京言葉を使っています。


『ネタ』
「たらちね」は垂乳根と書き、「母」に掛かる枕詞です。
ちなみに先代柳朝師は一夜経った清女は処女では無くなってるので、その違いが表現できないので自分はこの噺はやらない。と語っています。

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