らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2018年11月

「試し酒」という噺

d22e4931『試し酒』
この噺が冬の噺なのかは判りませんが、お酒の噺なので取り上げる事にしました。

【原話】
今村信雄氏(1894〜1959)の新作落語で、昭和初期に創作されました。
原型は、中国の笑い話だそうです。

【ストーリー】
ある大家の主人が、客の近江屋と酒のみ談義となります。
お供で来た下男久造が大酒のみで、一度に五升はのむと聞いて、とても信じられないと言い争いが始まります。
その挙げ句に賭けをすることになって仕舞います。
もし久造が五升のめなかったら近江屋のだんなが二、三日どこかに招待してごちそうすると取り決めた。
久造は渋っていたが、のめなければだんなの面目が丸つぶれの上、散財しなければならないと聞き
「ちょっくら待ってもらいてえ。おら、少しべえ考えるだよ」
と、表へ出ていったまま帰らない。
さては逃げたかと、賭けが近江屋の負けになりそうになった時、やっと戻ってきた久蔵
「ちょうだいすますべえ」
一升入りの盃で五杯を呑み始めます。
なんだかんだと言いながら、息もつかさずあおってしまいました。
相手のだんな、すっかり感服して小遣いを与えましたが、どうしても納得出来ません。
「おまえにちょっと聞きたいことがあるが、さっき考えてくると言って表へ出たのは、あれは酔わないまじないをしに行ったんだろう。それを教えとくれよ」
「いやあ、なんでもねえだよ。おらァ五升なんて酒ェのんだことがねえだから、
心配でなんねえで、表の酒屋へ行って、試しに五升のんできただ」

【演者】
これはもう五代目の小さん師ですね。久造が呑んで行くに連れ表情も変わって来ますし顔も赤くなって行きます。この辺りは本当に見事です。

【注目点】
私はこの久蔵はどうして五升も酒屋で飲むお金を持っていたのか?と言う事です。
五升というと現代でも一万円を越すと思います。当時の奉公人としては大金だと思うのです。
日常からそんな大金を持ち歩いていたのでしょうか?

『能書』
この噺には筋がそっくりな先行作があり、明治の英国人落語家・初代快楽亭ブラック師が
明治24年3月、「百花園」に速記を残した「英国の落話(おとしばなし)」がそれで、
主人公が英国ウーリッチ(?)の連隊の兵卒ジョンが呑む酒がビールになっている以外、まったく同じです。
このときの速記者が今村の父・次郎氏ということもあり、このブラックの速記を日本風に改作したと思われます。
さらに遡ると中国に行きつくという訳です。

『ネタ』
作者の今村氏は著書「落語の世界」で、「今(s31年現在)『試し酒』をやる人は、柳橋、三木助、小勝、小さんの四人であるが、中で小さん君の物が一番可楽に近いので、
今、先代可楽を偲ぶには、小さんの『試し酒』を聞いてくれるのが一番よいと思う」
と、書いています。

「宿屋の富」という噺

eafc1b0c『宿屋の富』
 寒くなって参りました。秋はすぐに過ぎ去り冬がやって来ますね。
皆様は如何お過ごしでしょうか? と言う訳で「宿屋の富」です。上方では「高津の富」ですね。有名な噺です。

【原話】
上方落語の『高津の富』を、3代目小さん師が東京に移植しました。
元は1861年の桂松光師の根多帳「風流昔噺」からだそうです。

【ストーリー】
馬喰町の、あるはやらない宿屋。
そこに飛び込んできた客が、家には奉公人が五百人いて、あちこちの大名に二万両、三万両と貸しているの、
漬物に千両箱を十乗せて沢庵石にしている等と好き放題に言うのを宿屋の主人はすっかり信じてしまいます。
そこで、自分は富くじを売っているのだが、最後の一枚が売れないので買ってくれとせがみます。
 さっきの手前、断る事もできず、泣けなしの一分で富くじを買ってしまいます。
どうせ、当たらないと思い,当たったら半分あげる等と約束してしまいます。
「あれだけ大きなことを吹いたから、当分宿賃の催促はねえだろう。飲むだけ呑んで食うだけ食ったら逃げちゃおう」と開き直ります。
 次の日、男は出かけますが、行く宛もありません。宿の女将には、「二万両返しにくる大名があるので、断ってくる」と言って宿をでました。なんとなく湯島天神の方に足が向来ます。そこでは、丁度、富くじの突き富の日です。境内では一攫千金を夢見る輩が、ああだこうだと勝手な熱を吹いています。
 ある男は、自分は昨夜夢枕に立った神様と交渉して、二番富に当たることになっているので
「当たったら一反の財布を作って、五百両を細かくして入れ、吉原へ行くんだ」
と、なじみみの女郎を口説いて、大散財し、女郎を身請けするんだと言う始末。
「それでおまえさん、当たらなかったらどうすんの」
「うどん食って寝ちまう」
 そのうち、いよいよ寺社奉行立ち会いの上富の抽選開始です。
二番富が当たると言っていた男ですが、肝心の二番富野番号が「辰の2347」で、男の番号が「辰の2341」という具合で、一番違いそれも「いち、と、しち」の違いなので、ひっくり返って仕舞いました。
 男も皆が帰った後ブラブラとやってきましたが、当たり番号をみて、
「オレのが子の千三百六十五番。少しの違いだな……ん?」
「うーん、子の、三百六十五番……三百六十五……うわっ、当たったッ、ウーン」
ショックで寒気がし、そのまま宿へ帰ると、二階で蒲団かぶってブルブル震えてる始末です。
 旅籠のおやじも、後から会場に来て番号を見て、当たりなので大喜び。
早速宿に帰り、「あたあた、ああたの富、千両、当たりましたッ」
「うるせえなあ、貧乏人は。千両ばかりで、こんなにガタガタ……おまえ、座敷ィ下駄履いて上がってきやがったな。情けないやつだね」
「えー、お客さま、下で祝いの支度ができております。一杯おあがんなさい」
「いいよォ、千両っぱかりで」
「そんなこと言わずに」
と、ぱっと蒲団をめくると、客は草履をはいたままでした……。

【演者】
これはもう古今亭志ん生師と柳家小さん師が双璧ですね。個人的には境内の描写で志ん生師のが好きですね。

【注目点】
柳家は、椙森(すぎのもり)神社、古今亭は湯島神社で演じています。
上方では宿屋は北船場大川町(江戸は日本橋馬喰町)で、神社は大阪市中央区にある高津神社となっています。ここは「高倉狐」「崇徳院」の舞台にもなりました。
又、古くから大坂の人々の文化の中心として賑わっていたそうです。

『能書』
話芸として優れているなぁ〜と感じるのは、二番富の抽選の時の口調ですねえ。
「おんとみ〜子の〜」と言う場面で、実際はああもユックリでは無いのに、
志ん生師の優れた口調によりその男の心境になってしまう事ですね。
最後の七番と一番の違いまでこちらを惹きつけてやみません。(^^)

『ネタ』
実際、千両富と言うのは余り無かった様で、有っても札の額が高いので、
職人やひとり商人は高額すぎて買えず、10枚、20枚と分割して売り出す者も居たそうです。後はお金を出しあって共同購入とか、盛んだった様ですね。
今もそうですね。共同で買って、当たったら山分けとかね。
 また、噺では期限まで待てば全額貰えると言っていますが、実際は寄付として一割から二割は取られたそうです。
また、次回の札を五両位は買わされたとか。
 ウマイ話はそうそう無いと言う落ちでした。

「四段目」という噺

arcUP2888『四段目』
きょうはこの噺です。上方では「蔵丁稚」です。

【原話】
忠臣蔵を題材にした噺ですが、元は1771年に出版された『千年草』の一遍、「忠信蔵」です。
明治期に東京に移植されました。

【ストーリー】
仕事をさぼって芝居見物に出かけていたことがばれた定吉は、蔵の中に閉じこめられます。
「昼も食べていないのでお腹が空いているので、それからにしてくださ〜い。」と、お願いしたが駄目でした。
蔵の中は真っ暗で心細く、おまけにお腹がすいてきます。
空腹を紛らわそうと、定吉は、今見てきたばかりの四段目を思い浮かべながら順々に情景を思い出しながら一人芝居をし始めました。
 あまりの空腹に「旦那〜、お腹がすいてんですよ〜、助けてくださ〜い!」、だれも返事はない。
「そうだ、芝居の事を考えていたら空腹も忘れていられる」と、蔵の中の道具を持ち出して、本格的に演じ始めた。カタギヌ、三方、刀、カエシの代わりに手ぬぐいで、所作を夢中でまね始めます。
そこへ女中のおキヨどんが、物干しから覗くと、暗がりの中で定吉が諸肌になり、キラキラするものを腹に突き立てようとしているから、びっくり仰天。
「旦那様、定どんが蔵の中で腹を切ってます!」
「なに! しまったすっかり忘れていた。さっきから腹がへった、腹がへったと言っていたけれど、それを苦にして……。おい、なにか食べ物を。あぁ、お膳でも何でもいい」。
と、旦那自らおひつを抱えて、蔵に走り、がらがらと扉を開けて、
「ご膳(御前)」
「くっ、蔵の内でか(由良之助か)」
「ははっ」
「うむ、待ちかねた」

【演者】
多くの噺家さんが演じています。個人的に好きなのは志ん朝師ですね。現役では遊雀師がいい味出しています。

【注目点】
実に愉快な噺で、好きな噺です。
 江戸っ子は芝居見物が大変好きで歌舞伎が一番人気だったそうです。
この定吉も、ご多分にもれず芝居好きで、店の仕事をさぼって、芝居小屋に足を運ぶ一人だったんですね。
 当時、一番人気だったのは『仮名手本忠臣蔵』で、中でも、塩治判官の切腹場面である四段目は、芝居通の見るものとして大変好まれていたそうです。

『能書』
東京と上方では細部が違っていますし、時代によっても噺に登場する役者の名が違って来ます。
古い音源を聴くとその辺も楽しみの一つです。
東京では、團十郎や海老蔵の名が出てきますが、上方では中村鴈治郎と片岡仁左衛門となります。

『ネタ』
四段目は、噺の中で定吉も語っていましたが、前段の高師直への刃傷で、切腹を命じられた塩冶判官が、九寸五分の短刀を腹に突き立てた時に、花道から大星由良之助が駆けつける名場面です。当時の江戸では、「忠臣蔵」を知らぬ者などないので、単に「蔵」だけで十分通用したそうです。

「締め込み」という噺

5744bf70『締め込み』
 今日はこの噺です。季節的には不明ですが、火鉢に火が入っていて湯を沸かしてる場面から寒い時期の噺ではないかと思います。

【原話】
原話は、享和2年(1802年)に出版された笑話本・「新撰勧進話」の一遍である『末しら浪』と言う話で、上方では『盗人の仲裁』の演目で5代目桂文枝師が得意にしていました。

【ストーリー】
長屋の留守宅に泥棒が入って、風呂敷を広げて着物を包み始めたところへ、亭主が仕事から戻って来たので、泥棒は台所の床下にもぐり込んで隠れた。
 風呂敷包みを発見した亭主は、女房が間男を作って逃げようとしていると思い込み、女房が湯屋から戻ると怒鳴りつけた。
女房も負けずに、商家で奉公していた私に惚れて一緒になってくれと頼んだのはお前さんだと反撃。
 亭主が怒って、湯が沸いた鉄瓶を投げ付けたが、女房が避けたので、台所に飛んで熱湯が撒き散らされた。床下に隠れていた泥棒が堪らず「あちち」と飛び出して来た。飛び出した泥棒が、二人の言い分を聞いていたが、似合いの良い夫婦だと喧嘩の仲裁を始めた。
 泥棒に言いくるめられて、良い泥棒さんのお陰で夫婦別れせずに済んだと、
酒を出して呑み始め、夜になったので寝ることにした。
戸締まりをと思ったが、泥棒が中にいるから、外側から締めておけ。

【演者】
東京では黒門町の師匠の他、志ん生師や小さん師が得意にしていました。
印象的には柳家の噺家さんで多く聴きます。先日は三三師で聴きました。
あとは文菊師がラジオでやってましたね。

【注目点】
オチが復数あるそうです。列記してみます。
1.酒をもらった泥棒が喜び、「またちょくちょく寄らせてください」と口走り、男が返答する。
2.男が相手が泥棒であることを忘れ、「ええ、また近いうちにおいでなさい」と言ってしまう。
3.男が「そうちょいちょい来られてたまるか」とまぜ返して、噺を切るやりかた。

『能書』
江戸時代、空き巣は、戸締りのしていない家に忍び入ったと言う事なので、
ただのコソ泥とされ、情状酌量され、初犯は敲(たた)き五十程度でお目こぼしでした。
大抵は噺(出来心等)の中でも触れていましたが、町内の中で始末を付けていました。

『ネタ』
明治23年にやった4代目円生師の「締込」では、武士が雨宿りに入った家でヤカンを気に入り盗み出そうとして、夫婦げんかに巻き込まれて熱湯をかけられるという筋だったそうです。この武士はかなり素行が悪い者として描かれていたそうです。
この型は江戸独自だったそうです。

「お直し」という噺

yosiwara_emap『お直し』
今日は志ん生師で有名なこの噺です。

【原話】
1807年の喜久亭壽暁のネタ帳「滑稽集」に「なおし」とありまして、これが元です。
現在のは三代目小さん師から志ん生師に伝わり、今になっています。
昭和31年度の芸術祭賞を受賞したのは、余りにも有名です。

【ストーリー】
 吉原の女郎と牛太郎が許されない関係に落ちて仕舞います。
ところが、店の旦那は二人を一緒にした上で、女郎はおばさんとして引続き働かせてくれました。
 しばらくまじめに働きましたが、やがて男が博打に手を出してしまい、借金が残りました。
 どうしようか、途方に暮れているところに、けころに空店があるが商売をしないかと誘いがあったので、カミさんが女郎になり、男が若い衆として女郎屋を始める事にしまいした。
  けころでは、線香一本が燃え尽きる時間で料金が加算されて延長するのを「お直し」というのです。
 カミさんが客に色良い返事をする度に
「直してもらいな」
「あら、お直しだよ」
 と言う調子で一人目の客をあしらった後で男でしたが、段々面白く無くなってきて
「止めた、止めた、馬鹿らしくてやってられねぇ、俺と別れてあの客と一緒になるのか」
「馬鹿だねこの人は、客あしらいに決まっているだろ。こんなに妬かれるなら止めるよ」
 止められては困ってしまうから、もう妬かねぇから、もう一度頼むよ。
そこへさっきの客が戻って来て  
「直してもらいなよ」

【演者】
やはり志ん生師なんでしょうね。息子の志ん朝師もいい味出しています。

【注目点】
都合五回「直してもらいなよ」がありますが、志ん生師が言うのには、一度目は職業的に、二回目は元気よく、三度目は少し不安になって、四回目は捨て鉢に、そして五回目は爆発的に言うのだそうです。

『能書』
ケコロというのは、江戸の各所に出没していた最下級の私娼の総称の事です。
吉原では、羅生門河岸という所に居まして、京町2丁目南側、お歯黒どぶといわれた真っ黒な溝に沿った一角でした。
表向きは、ロウソクの灯が消えるまで二百文が相場ですが、「お直し、お直しお直しィッ」と、
立て続けに二百文ずつアップさせ、結局、素っ裸にむいてしまうという正に羅生門という感じだったのですね。

『ネタ』
蹴殺(けころ)というのは、もともと吉原に限らず、江戸の各所に出没していた最下級の私娼の総称です。(蕎麦の川柳にも出て来ますね。二回で三杯食べる奴です)
 でも、吉原では、寛政(1789−1801)の頃には絶えていたそうです
 
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