はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2018年08月

016fa7b9-s 定期購読してる演芸情報誌「東京かわら版」の最初のページに「落語と私、私と落語」というページがあります。色々な有名人が自分と落語との係わり合いを語っています。それを読んで自分も書いてみたいと思うようになりました。
 そこで自分なりに落語との係わり合いを書いて見る事にしました。

 物心ついた時には戦後最大の演芸ブームの真っ只中でして、毎日演芸番組が放送されていました。落語だけではなく、色物の芸人さんも多くがテレビで見ることが出来ました。
 その中で一番人気者だったのが、林家三平師と三遊亭歌奴師でした。個人的にですが当時のわたしは断然歌奴派で、毎日のように「授業中」「浪曲社長」「給料日」などを聴いて腹を抱えて笑っていました。その中で特に好きだったのが新大久保の駅員時代の噺で、その頃の歌奴師は吃音で駅名が中々言えず、やっと言えたと思ったらもう電車は新宿に着いていたというホントかウソか判らないトボけた噺が好きでした。
 というのも、当時のわたしも吃音で、噺の中の出来事に共感したからです。しかも、二代目圓歌師に入門したのは、自分も吃音で苦労したので、吃音なのに平然と落語を語っている圓歌師が素晴らしく感じた。という事を知って益々好きになりました。
 あの頃は本当に落語家がテレビに出ていました。圓歌師、三平師の他にも芸協の小圓馬師、伸治師、米丸師、笑三師などが人気者でした。落語協会では馬之助師の他に、四天王の志ん朝師、柳朝師、圓楽師、談志師が良く出ていました。
 特に日曜は最高で、正午に「大正テレビ寄席」を見て色物さんを楽しみ、NETと読んでいたテレビ朝日の「末広珍芸シリーズ」を見て、その後NHKでも落語の番組をやっていたと思います。それが終わるとテレビ東京が浅草演芸ホールから中継がありました。
 夕方まで演芸で楽しめましたね。その後夕方に「笑点」が始まります。当初は大喜利よりも演芸の方がメインでした。
 演芸番組の他にも、クイズ番組等あらゆる番組に噺家や芸人が出ていたと思います。
 毎日のように見てるうちに寄席に行きたくなりました。両親にねだって、新宿の末広亭に連れて行って貰いました。(尤も両親に言わせると改築前の鈴本にはかなり連れて行ったそうです)
 談志師ではないですがホント夢の世界でしたね。テレビでしか見られないと思っていた噺家や芸人が目の前に次から次に登場する。それだけでもう寄席が好きになりました。
 演芸ブームが下火になると親にねだって寄席に連れて行って貰いましたが、そうそうは連れて行ってくれません。中学に行く頃になると鈴本に一人で行くようになりました。上野は家からだと電車で一本で15分もあれば着きますので行きやすかったのです。それに鈴本は昼夜入れ替えなので昼の部が終われば家に帰らなくてはなりません。これが入れ替えの無い浅草や末広なら夜まで居続けたでしょうね。その点で親も許してくれたようです。
 志ん生、文楽には間に合わなかったけど、圓生には間に合ったし、小さん師、四天王は堪能したし、大人になってからは小三治師の伸び盛りも楽しめたし。まあ、悪くはないかも知れません。でも一番好きだったのは桂文朝師です。さりげなく演じる所が良かったですね。上手いのにそれが自然な感じ。そこが良かったです。つくづく早世が惜しまれます。
 これからも寄席には通うでしょう。新しい人を発見するのも楽しみです。

0b2751c1『胴切り 』
今日は「胴切り」という噺です。
これは東京では「首提灯」等のマクラで簡単に語られていますが、上方ではきっちり一席の噺となっています。
代々米朝一門の噺だそうですが、東京では歌武蔵さんが演じています。

【原話】
上方落語でして、東京には三代目圓馬師が移植しました。

【ストーリー】
すってんてんになった男が酒の勢いも手伝って、道を聞いた田舎侍にからみ、悪態をついたあげく、かーっと、痰をはきつけました。
怒った侍、「許さんぞ、そこ動くな。エイッ」と腰をひねると、ずばーっとみごとな胴斬り。

切られたほうは、胴体がポーンと用水桶の上に載って、足だけが、ひょこひょこ、むこうに行ってしまう。
斬られた男のよめはんが、家に連れ帰られた二つになった亭主をみながら、
「この人五体満足でも食いかねてるのに、これからどうしたらええのやろ、」
と心配するのを、世話好きの友達が就職口を世話してくれます。

上半分を風呂屋の番台に、足だけを麩屋の麩踏みの職人として奉公させます。
麩を作るとき、ひたすら脚で麩を踏むのだ。それぞれに適所適材で、
双方の雇い主からも大いに重宝されたました。

兄貴分の勧めに従い就職し、しばらくの時が過ぎた頃、兄貴分が様子を伺いに行くと、
銭湯、蒟蒻屋ともに「いい人を連れてきてくれた」と重宝している様子です。
ただ、働いている当人たち曰く、
上半身「近頃目がかすむから、三里に灸をすえてくれ」
すると、下半身は
「あまり茶ばかり飲むな、小便が近くていけねえ」

【演者】
色々な噺家さんが演じています。東京では特に三遊亭歌武蔵師が得意にしています。
三代目小圓朝師も演じていました。
【注目点】
この噺で不思議なのは、下半身がどういう風にしてはなしをしたのか?
という事ですが、噺家によっては危ない描写を入れる人もいます。
どういうのかって・・・それは想像してください。
下半身で口がきけそうな処ですww

『能書』
江戸時代、諸大名の蔵屋敷が軒をつらねていて、諸国の侍がうろうろしていました。
町方の手のはいりにくい蔵屋敷の中間部屋が、ばくち場になっていたそうです。

『ネタ』
落語でなければ出来ない噺ですね。この噺や「首提灯」等剣術の達人が出てきますね。
刺されたり切られた方に伺うと、その時は「ひやっと」するらしいですね。
私も包丁で結構派手にあちこち切っていますが、その時は痛く無いですね。
次の瞬間それなりに痛くなってきますが……。
特に五代目小さん師がこのような噺を演じると切るシーンが凄かったですね(気合とか)

tensiki1『転失気』
今日はこの噺。秋の噺の確証はありませんが、なんとなくそんな雰囲気がしますので。

【原話】
かなり古くから演じられている前座噺です。成立はよく判っていません。

【ストーリー】
あるお寺の和尚さんが具合が悪いので医者を呼びます。診察した後で医者が
「和尚、転失気はおありかな?」
 そう尋ねます。和尚は判りませんでしたが「ありません」と答えてしまいます。医者は
「そうですか、それではお薬を出しておきましょう」
と言って、後で薬を取りに来るようにと言って帰ってしまいます。
和尚は自分が知らなかった「転失気」の事が気になって仕方ありません。
そこで小僧の珍念に雑貨屋に行って「てんしき」を借りて来い、無ければ花屋のところへ行くように言いつけます。珍念が雑貨屋に行くと、売り切れてないという。花屋へ行くと、味噌汁に入れて食べてしまったという返事。
困った珍念は寺に帰って珍念は和尚に「てんしき」の意味を聞くが、和尚は自分が教えたのではすぐに忘れてしまうから、医者に薬をもらいに行ってその時に聞いてくるように言います。
そこで医者に訊くと何と「おなら」の事だと教えられます。
驚きながらも、なるほどと納得し、和尚も雑貨屋も花屋も知らないくせに知ったかぶりをしていたのだと判ります。
 寺に戻った珍念は、和尚に、「てんしき」とは「盃」のことでしたと和尚に話します。和尚も、「そうだ、盃のことだ、呑酒器と書くのだ、よく覚えておけ、と言います。
もう珍念はおかしくなってしまいます。
その後医者が来た時に和尚は
「転失気はありました」
 と言います
「それは良かった」
 と医者が言いますが和尚は
「今日は我が寺に伝わるてんしきを、用意してありますので、お目にかけます」
 そういうので医者は驚き
「いやそれには及びません」
 と言うのですが、和尚はむりやり秘蔵の盃を見せます
「ほう医者の方では『転失気』はおならの事を言うのですがお寺では盃の事でしたか」
 と感心します。和尚はここで珍念に騙されたと知りますが後の祭り。そこで仕方なく
「盃を重ねますと、しまいいにはブーブー音が出ます」

【演者】
かっては三代目小さん師が演じ、三代目金馬師が演じていました。
今では殆の噺家さんが演じます。

【注目点】
今では余り演じられませんが、本来は隠居の所にも訊きに行くのですが、
金馬師のバージョンでは出てきません。そのかわり他の部分(花屋さん等)で笑わせています。

『能書』
傷寒論(しょうかんろん)とは、中国・後漢の名医・張仲景が著した古医書です。
江戸時代では漢方医学のもっとも一般的な本でした。

『ネタ』
この「傷寒論」の中に屁の事を「気を転び失う」と出て来るそうです。

86286f9d-s『幇間腹』
今日はこの噺です。

【原話】
原話は、安永9年(1780年)年に出版された笑話本『初登』の一編である「針医」だそうです。
元々は上方落語の演目で、主な演者には2代目柳家小さんや5代目古今亭志ん生師等がいます。
そのせいか古今亭一門と柳家一門の噺家さんが多く掛ける様です。

【ストーリー】
あらゆる遊びをやりつくした若旦那が思いつた究極の遊びがなんと針治療の遊び!
さて、相手がいない・・・どうしよう、猫や壁、枕じゃ物足りない、人にやってみたいなあ〜と考え
思いついたのが、幇間の一八。
思いつかれた方はたまりません。一旦は断るのですが、針一本につき祝儀を弾むと言う。
おまけに羽織もこさえてくれると言う条件にしぶしぶ了解しますが、これが大変な事に・・・・

【演者】
やはり志ん生師ですかねえ……。

【注目点】
この針を打つシーンをやりすぎるとお客が引いてしまうので、加減が難しいそうです。

『能書』
その昔黒門町がこの演目を取り入れ様として甚五郎を名乗っていた志ん生師が黒門町に来てくれて随分稽古したそうですが、なかなかモノにならないのでついに諦めたとか。
でも黒門町の「幇間腹」聴いてみたかったですね。

『ネタ』
鍼医術の一派で、天和2(1682)年、
盲人の杉山和一が幕命を受け、鍼治講習所を設置したのが始まりで、
江戸をはじめ全国に爆発的に普及しました。
それ以来鍼医は盲人のものとされました。

be546a9f『二階ぞめき』

【原話】
原話は、滝亭鯉丈が延享4年(1747年)に出版された笑話本「軽口花咲顔」の一遍である「二階の遊興」です

【ストーリー】
とあるお店の若旦那・幸太郎は吉原通いが大好きで、毎晩遊びに行っているため生真面目な親父はカンカン。
 とうとう勘当するなどと大騒ぎになり、困った番頭は幸太郎に意見をしに行きます。
幸太郎の返事は、「あくまでも吉原遊郭の雰囲気そのものなので、吉原がこっちに来れば遊びに行かない」
なんてこった・・・・orz
 唖然となった番頭でしたが、「この要求を呑めば二度と夜遊びはしない」と聞き、
これもお店のためだと二階を吉原そっくりに改造して”ひやかし”ができるようにしてしまいます。
 腕のいい棟梁にわざわざ吉原の研究をさせ、作り上げた『ミニ吉原』は本物そっくり。
大喜びした若旦那は、わざわざひやかしルックに着替えてイソイソと二階に上がっていくのですが、誰もいない。
 考えた若旦那は、人のいなくなった大引け過ぎという設定で、一人でお芝居をし始めます。
 張り見世の女郎に声をかけられ、登楼を断ろうとするとそこに花魁が登場。
 そのまま花魁と口論になり、慌てて止めに入った他のお客とくんずほぐれつの大ゲンカ…という場面を一人三役で大熱演。
「吉原(なか)で殺されるなら本望だ! この野郎、さあ殺せ!!」
 あんまり二階が騒がしいので、変に思った親父が定吉に様子を見に行かせます。
 二階に上がってみると、灯りが煌々とついてとても部屋の中とは思えない。頬っかぶりをした変な奴がいるので、泥棒かと思ってよく見るとこれがなんと若だんな。
「ねえ、若だんな」
 呼んでも夢中で耳に入りません。
「何をしやがる。後ろから小突きやがって…。
 なんだ、定吉か。悪いところで会ったな。
「そうだ、ここで俺に会ったことは、内緒にしろよ」


【演者】
この噺はもうね、志ん生師です。志ん朝師も父親の噺の中では一番と言っていました。
最近は馬桜師や、かっては談志師も演じましたが・・・正直、志ん生師には追いつていません。
喜多八師が存命の頃「ぞめき」と言う題名で演じていました。現役では小満ん師でしょうね。
新作で、柳家小ゑん師が「アキバぞめき」を作り演じていますが、これは絶品!です。
機会があったら聴いてみてください。

【注目点】
吉原に若旦那が出かける服装ですが、これも決まりがあったとか
1.古渡唐桟(こわたりとうざん) を着用
2.着物は必ず袂を切った平袖にします。これは喧嘩の為だそうです
3.必ず「七五三の尻はしょり」をする
4.最後に、手拭で頬かむりをすれば準備完了
 だから若旦那は頬かむりをしていたのですね。

『能書』
「ぞめき」とは「騒」と書き、古い江戸ことばで、大勢でわいわい騒ぎながら歩くことです。
そこから転じて、おもに吉原などの遊里を、見世に揚がらずに、女郎や客引きの若い衆を
からかいながら見物するという意味になりました。
要するに、”ひやかし”の事ですね。

『ネタ』
それにしても、この改築費用はいくら掛かったのでしょうねえ。
パノラマだったのかしら、そっくり再現としたらどの位広い家なんでしょうね。(^^)
そんな事を考えてはいけません。
落語でないと出来ない噺ですね。

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