らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2018年03月

「鹿政談」という噺

b0b70eba3c8e7c8335bdac294521ab32『鹿政談』
いつの間にかすっかり春になってしまいました。
春の噺もかなりやったのでそろそろ次の季節に移りたいと思います。
そこで今日はこの噺です。

【原話】
元々は講釈種の上方落語の演目で、明治の初期に2代目禽語楼小さん師が東京に移植しました。

【ストーリー】
奈良の名物は「大仏に鹿の巻き筆、あられ酒、晒し、奈良漬け、奈良茶粥、春日灯籠に朝の早起き」と言います。
奈良の人たちは早起きだったというが、なかでも夜明け前から仕事をしているのが豆腐屋さんでした。

春日大社の近くで豆腐屋を営んでいる与兵衛という男。
店先に出したきらず(おから)の桶に犬が首を突っ込み、盗み食いしているのを発見し、
手元にあった薪を投げつけ、薪が見事に命中、しかし、よく見れば表にいたのは犬ではなく雄鹿でした。

当たり所が悪かったのか、鹿はそのまま死んでしまいます。
当時、奈良の鹿は春日大社のお使い姫と言われ、神聖視されていたのです。
鹿を殺した者は生き埋めにされ、石で責め殺される「石子詰め」の刑に処せられる決まりでした。
鹿の守り役をしている藤波河内という役人が、金を貰えば内分にもみ消してもよいというそぶりを見せるが与兵衛は根っからの正直者。
役人の誘惑を断ると鹿殺しの犯人としてお白砂に引っ立てられます。
すぐに目代と興福寺番僧・了全の連印で、
願書を奉行に提出、名奉行・根岸肥前守の取り調べとなります。

肥前守、六兵衛が正直者であることは調べがついているので、なんとか助けてやろうと、
その方は他国の生まれであろうとか、二、三日前から病気であったであろうなどと
助け船を出すのだが、六兵衛は「お情けはありがたいが、私は子供のころからうそはつけない。
鹿を殺したに相違ござりまへんので、どうか私をお仕置きにして、残った老母や女房をよろしく願います」
と、答えるばかり。

困った奉行、鹿の死骸を引き出させ
「うーん、鹿に似たるが、角がない。これは犬に相違あるまい。一同どうじゃ」
「へえ、確かにこれは犬で」
ところが目代、
「これはお奉行さまのお言葉とも思われませぬ。
鹿は毎年春、若葉を食しますために弱って角を落とします。これを落とし角と申し・・・」
「だまれ。さようななことを心得ぬ奉行と思うか。さほどに申すなら、出雲、了全、その方ら二人を取り調べねば、相ならん」

二人が結託して幕府から下される三千石の鹿の餌料を着服し、あまつさえそれを高利で貸し付けてボロ儲けしているという訴えがある。
鹿は餌代を減らされ、ひもじくなって町へ下り、町家の台所を荒らすのだから、神鹿といえど盗賊同然。
打ち殺しても苦しくない。
「たってとあらば、その方らの給料を調べようか」と言われ、目代も坊主もグウの音も出ません。

「どうじゃ。これは犬か」
「サ、それは」
「鹿か」
「犬鹿チョウ」
「何を申しておる」
犬ならば、とがはないと、六兵衛はお解き放ち。

「これ、正直者のそちなれば、この度はきらずにやるぞ。
「はい、マメで帰ります」


【演者】
6代目圓生師や6代目柳橋先生さらに三代目三木助師や、上方の米朝師が得意にしていました。

【注目点】
従来、舞台は奈良・本町二丁目で演じられていたものを圓生師は三条横町としました。

『能書』
根岸肥前守といえば、根岸肥前守鎮衛(1737〜1815)の事であり、優れた随筆家で奇談集「耳嚢(みみぶくろ)」の著者として、あまりにも有名です。
最近では、風野真知雄作「耳袋秘帖」シリーズの名探偵役として、
時代小説ファンにはすっかりおなじみです。
実は肥前守は奈良奉行を努めていません。これも落語のウソですね。
でも、その方が面白く聴けますからね。

『ネタ』
豆腐の絞ったカスの関東では「おから」関西では「きらず」というそうですが、
「きらず」というのは最早死語に近いとか。
「卯の花」というのは塩の事を「波の花」硫黄を「湯の花」と言う感覚と同じです。

「粗忽の釘」という噺

20180324103548『粗忽の釘』
引っ越しの噺なので春なのではと思いやってみる事にしました。

【原話】
1807年の「滑稽集」の「となりのくぎぬキ」からです。

【ストーリー】
引っ越しの当日、女房は早くに着いてあらかた片付けも済んだところへ、大きな風呂敷包みを背負った粗忽な亭主が大汗をかきながらやっと到着します。
 女房にホウキを横にしておくともめ事が絶えないので「釘を一本打ってホウキを掛けたい」
と頼まれた亭主は釘を打つのですが、六寸もある瓦釘をことも有ろうに壁へ打ち込んでしまいます。
 「お隣に釘の先が出てて、着物を破いたりケガをしたりするといけないから」
と女房に言われ、粗忽な亭主は謝りに行きまが、最初に行った家がお向かいさんで、
「路地を乗り越えて来る釘なんてありませんよ」と言われやっと違うと気がつく始末。

女房に「落ち着けば一人前」と言われ、隣家へ行きますが、煙草を一服してから、
話出しましたが、釘の事はどこへやら、自分と女房の馴れ初めを惚気る始末です。
「いったい、あなた、家に何の用でいらしたんです」と聞かれて、ようやく用件を思い出します。

そして釘の事を話しますが、調べてもらうと、仏壇の阿弥陀様の頭の上に釘。
「お宅じゃ、ここに箒をかけますか?」と、トンチンカンなことを言うので、
「あなたはそんなにそそっかしくて、よく暮らしていけますね。ご家内は何人で?」
「へえ、女房と七十八になるおやじに、いけねえ、中気で寝てるんで・・・・忘れてきた」
「親を忘れてくる人がありますか」
「いえ、酔っぱらうと、ときどき我を忘れます」

【演者】
この噺は上方では「宿替え」ですね。米朝師をはじめ、枝雀師の十八番でした。
東京では「粗忽の釘」です。又の名を「我忘れ」です。
先代小さん師が得意にしていましたが、ほとんどのは噺家さんが演じてると思います。
同じ粗忽物に比べると、比較的演じやすいのかも知れませんね。

【注目点】
六代目柳橋先生は本来のサゲである「我を忘れます」でサゲていますね。その他の噺家さんは殆ど「明日からここにホウキを掛けに来なくちゃいけねえ」でサゲています

『能書』
江戸時代の引越しは、違う町に移る場合は、新しい大家が当人の名前、職業、年齢、家族構成など
すべてを町名主に届け、名主が人別帳に記載して、奉行所に届ける仕組みになっていたそうです。
また、店を新しく借りる場合は、身元の保障人が必要でした。
場合に寄っては、元の大家にちゃんと前借り等を精算した上で保証人になって貰う事もあった様です。
この辺は今でもシステム上は余り変わりませんね。
戸籍の届出と保証人ですね。

『ネタ』
亡くなった夢楽師は師匠の命令で三代目小圓朝師から稽古をつけて貰ったそうです。
「好き勝手に崩して出来る噺ではありません。粗忽な亭主を与太郎みたいに演じる者がいますが、以ての外です。きちんと『我を忘れます』まで稽古をつけて貰いました」
 と語っています。

「小言幸兵衛」という噺

57f24c26『小言幸兵衛』
今日はこの噺です。季節的なことは引っ越し絡みということで春かなと思うのです。

【原話】
1712年の「笑眉」の「こまつたあいさつ」が上方で「借家借り」になったと言われています。今では「搗屋幸兵衛」と「小言幸兵衛」とになりました。

【ストーリー】
麻布の古川に住む田中幸兵衛さんと言う人、朝、長屋を一回りして、小言を言って来ないと気が済まない気性で、親切心からつい小言が出るのだが、その度が過ぎるきらいがあり、中々店子が長続きしません。
しかし、造作が良いので、借りたい者は次から次へとやって来ます。
今日も豆腐屋さんが来たのですが、口の効き方が気に食わない事から始まって、色々と言います。
ついに豆腐屋さん切れて、啖呵を切って出て行って仕舞います。
次に来たのが仕立屋さんですが、始めは良く、上機嫌で話していたのですが、息子さんの事になると一変。
貸せないと言い出します。
理由を聴くと、「長屋に心中がでるから」と言う事。訳を聴いてみると……


【演者】
やはり六代目三遊亭圓生師でしょうね。黒門町の録音も残っていますが、正直余り出来は良くないというか普通です。
「搗屋幸兵衛」の方は古今亭志ん生師と息子の志ん朝師でしょうね

【注目点】
自分の所から心中なぞ出ようモノなら、大家さんの責任になりますので、うっかりとは貸せないのですがね。
大家さんは、普通は地主に雇われた家作(長屋を含む借家)の管理人ですが、
町役を兼ねていたので、絶大な権限を持っていました。
万一の場合、店子の連帯責任を負わされますからその選択に神経質になるのは当たり前で、
幸兵衛さんの猜疑心は、異常でも何でもなかったわけです。
こうやって考えると、幸兵衛さんは、親切で責任感の強い、イザとなったら頼りになる人物とも思えますね。
でもそれじゃ噺にならないので、少しエキセントリックにそして妄想癖がある様に描いていますね。

『能書』
圓生師は「この噺は格別難しい噺では無いのでテンポ良くやれば良い」と語っていますが、それは師ほどの方だから言える訳で……。

『ネタ』
落語に出て来る大家さんでも「髪結新三」に出て来る大家さんは少し”ワル”で、新三が無宿者と知ってても、店を貸しています。噺の中でも新三に向かって
「江戸中で無宿人に貸す大家がいると思っているのか……」
の様な台詞を言っています。知ってて貸している”ワル”なんでしょうね。
もし幸兵衛さんだったら、絶対貸さないでしょうね。

「高田馬場」という噺

a5665f87『高田馬場』
今日はこの噺です。これ春の噺なんですね。

【原話】
1758年「江都百化物」の「敵討の化物」が源話です。
前半は「ガマの油」と同じですね。後半は一見敵討ちモノと思える様な展開ですが・・別名「仇討ち屋」とも言います。

【ストーリー】
浅草の境内でガマの油売りの口上を聞いていた老侍が、二十年前の古傷にも効くかと聞いて来ます。
昔、配下の奥方に懸想して、手込めにせんとしたところへ夫が戻り、これを切った。まずいと思って逃げたが、乳飲み子を抱いた奥方が投げた刀が背中に当たり、寒くなるとその古傷が痛む。名は岩淵伝内という。
これを聴いた蝦蟇の油売り、
「やあ、めずらしや岩淵伝内、その折の乳飲み子とは拙者のことなり、親の仇、尋常に勝!」
「いや、今は所要の帰り道、役目を果たして明日改めて討たれよう、場所は高田馬場、時は巳の刻に」
 ということで双方が納得で別れます。本物の敵討ちが見られるとの噂が噂を呼び、翌日には高田馬場に大勢の見物人が集まります。
待つ間に酒を飲む、甘味を食べる、茶を飲むと茶店は何処も大賑わい。大変な賑わい様。
しかし、いつまで待っても仇討ちが始まらないので、近くの店に入ると、昨日の仇の侍が酒を飲んでいるではありませんか。
訳を聞いたら、仇討ちは人を集める芝居で茶店から売上の一部を貰う商売をしている。ガマの油売りは息子だと言われます。
「そうやって楽う〜に暮らしておる」

【演者】
これは三代目金馬師にトドメを指すでしょうね。最近では志ん朝も良かったです。l

【注目点】
噺の舞台を浅草の浅草寺境内から高田馬場に移すあたりが秀逸ですね。
臨場感が高まります。

『能書』
高田馬場は、寛永13年に旗本達の馬術の練習をする為に作られました。
 享保年間(1716〜1753)には馬場の北側に松並木が造られ、8軒の茶屋が有ったと言われています。
土地の農民が人出の多いところを見て、茶屋を開いたものと。
また、ここは堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲荷神社(西早稲田3−5−43)の境内には「堀部武庸加功遺跡之碑」が建っています。

『ネタ』
三代目金馬師は圓馬師とドサ回りに出た時、金沢の浅野川の橋の袂で、ガマの油売りの口上に出会いますが
あまりにも下手なので、代わりに口上をやり小遣いを貰ったそうです。
後で圓馬師に「そんな事をやってはいけない」と叱られたそうです。

「花見小僧」という噺

130330_1005~02-1『花見小僧』
今日は「おせつ徳三郎」の上であるこの噺です。
後半の「刀屋」に比べて笑いの多い噺です

【原話】
末に活躍した初代春風亭柳枝師の作の人情噺です。
長い噺なので、古くから上下または上中下に分けて演じられることが多く、
小僧の定吉(長松とも)が白状し、徳三郎が暇を出されるくだりまでが「上」で、
別題を「花見小僧」と言います。
後半の刀屋の部分以後が「下」で、これは人情噺風に「刀屋」と題して独立して演じられています。

【ストーリー】
ある大店の一人娘の”おせつ”が何回見合いをしてもいい返事をしません。
それは”おせつ”と”徳三郎”という店の若い者と深い仲になっているらしいと御注進。
本人や婆やさんに聞いても話はしないだろうから。主人は花見の時期に娘と徳三郎にお供をした小僧から二人の様子を聞き出そうとします。
しかし小僧も利口者で簡単には口を開きません。
「子供の物忘れはお灸が一番」と足を出させ、宿りを年2回から毎月やるし、小遣いを増やしてやるからと、少しずつ口を開かせました。

 去年の春のことで忘れたと言いながら、白状するには、「婆やさんと四人で柳橋の船宿に行きました。
お嬢さんと徳どんは二階に上がり、徳どんは見違えるような良い着物を着ていました。
船に乗って隅田川を上り、向島・三囲(みめぐり)の土手に上がりました。その先は忘れました」
「そんなこと言うとお灸だ」 
 「それじゃ〜・・・、 花見をしながら植半で食事をしました。
会席料理で同じお膳が四つでました。みんなからクワイをもらってお腹がイッパイになったところに、『散歩しておいで』と婆やさんに言われましたが、お腹が苦しくて動けませんと言いました。
そしたら、お嬢さんにも怒られ、おとつぁんのお土産に『長命寺の前の山本で桜餅を買っておいで!』と言われました。
帰ってくると酔った婆やさんだけで二人は居ません。
『お嬢さんは”しゃく”が起きたので奥の座敷でお休みになっている』と言うので、行こうとすると『お前は行かなくても良い、お嬢さんのしゃくは徳どんに限るんだよ。本当に気が利かないんだから』
と言われ、『はは〜ぁ、そうかと』と、ピーンときました。

それから外に出て庭にいると、二人が離れから出てきました。お嬢さんは『徳や、いつもはお嬢様、お嬢様と言っているが、今日からは”おせつ”と言っておくれ』そうすると徳どんは『そんなこと言われても、お嬢様はお嬢様、そのように言わせてもらいます』、『おせつですよ』、『お嬢様ですよ』
なんて、じゃれあっていました」と、顛末を全てしゃべってしまいました。
 ご主人はカンカンに怒って、おしゃべり小僧には約束の休みも小遣いも与えず、徳三郎には暇が出て、叔父さんの所に預けられます。

ここまでが「花見小僧」でこの後、徳三郎がどうするかが「刀屋」になります。

【演者】
「花見小僧」は小さん師が演じていますし、「刀屋」は志ん朝師や圓生師等が演じています。六代目春風亭柳橋先生も演じていました。
志ん生師は「おせつ徳三郎」で演じています。
現役では柳家小満ん師ですかね?
今、話題の七代目正蔵師も演じていました。録音が残っています。

【注目点】
明治期の古い速記としては、原作にもっとも忠実な三代目柳枝のもの(「お節徳三郎連理の梅枝」、明治26年)ほか、
「上」のみでは二代目(禽語楼)柳家小さん(「恋の仮名文」、明治23年)、
初代三遊亭円遊(「隅田の馴染め」、明治22年)、
「下」のみでは三遊亭新朝(明治23年)、初代三遊亭円右(不明)のものが残されています。

『能書』
当時、日本橋村松町と、向かいの久松町(現・中央区東日本橋一丁目)には
刀剣商が軒を並べていました。噺の通りでした。

『健二のネタ』
「お材木で助かった」という地口オチは、圓朝師の「鰍沢」と同じです。
もちろん、こっちが元です。
こうしたオチが沢山作られるほど、当時の、江戸には法華宗信者が多かったそうです。

「紺屋高尾」という噺

最近、落語界で世間が注目する出来事がありました。
圓楽一門会の好楽師が弟子の好の助さんに真打昇進を期に自分が名乗っていた林家九蔵を襲名させようとしたいた所、九代目正蔵一門から横槍が入り、急遽取りやめになったと言うニュースでした。
これについては、落語協会の噺家さんは概ね賛成のようです。他の一門でも賛成の方が大勢いらっしゃるみたいですね。
昨日(3月7日)テレビで、桂米助師が「八代目一門と九代目一門は別な系統の林家だと認識していた」と語っていました。
 私もそれと同じように思っていました。正蔵の名前は色々と変遷があり恐らくテレビのコメンテータでは理解出来ないと思います。正しい歴史が判らないのに安易なコメントは差し控えて欲しいと思いました。色々と想う事はありますが、一言だけ
「こぶ蔵は正蔵を名乗ってるならもっと稽古しろ! それと『あやめ浴衣』は八代目の出囃子だ。使うのをやめろ!」
 私事で申し訳ありませんでした。では今日の噺の話です。

d74051fd『紺屋高尾』
 色々と考えましたが今日はこの噺です。

【原話】
元の話は浪曲とも講談ネタとも言われています。それを圓生師が落語にしたモノです。
同じ系統の噺に志ん生師が演じた「幾代餅」があります。
八代目柳枝師が演じた「搗屋無限」も似た噺ですね」

【ストーリー】
神田紺屋町、染物屋の吉兵衛さんの職人で久蔵さんが寝付いてしまいました。
話を聞くと、国元に帰るため初めて吉原に連れて行かれ、当世飛ぶ鳥を落とす勢いの三浦屋の高尾太夫の道中を見て恋患いになり、錦絵を買い求めたのですが、全て高尾太夫に見える始末。
そこで、旦那は方便で、向うは売り物買い物、10両で会えるだろうから3年働き9両貯めて1両足してそれで連れて行くと言われ、久さん元気になって働きます。
3年後、その金で買うから渡してくれと親方に言うと、まさか本気だったのかと、気持ちよく着物も貸してくれて送り出してくれる事になります。
お玉が池の医者の竹之内蘭石先生に、連れて行って貰う事になります。
蘭石先生に流山の大尽になりすま様に言われ、首尾良く高尾太夫に会えます。
挨拶の後、「こんどは何時来てくんなます」そう言われ、思わず「3年経たないとこれないのです」と泣きながら全て本当のことを話すと、高尾は感動し、こんなにも思ってくれる人ならと、「来年の2月15日に年(年季)が明けたら、わちきを女房にしてくんなますか」。
久さんうなずき、夫婦の約束をする。揚げ代は私が何とかしますし、持参した10両と約束の証にと香箱の蓋を太夫から貰って、久さんは亭主の待遇で帰って来る。
夢うつのまま神田に帰ってきた久蔵は、それから前にも増して物凄いペースで働き出した。

「来年の二月十五日…あの高尾がお嫁さんにやってくる」、それだけを信じて。
仲間内の小言も何のその、翌年約束の日に、高尾は久蔵の前に現れ、めでたく夫婦になります。

【演者】
やはり六代目圓生師にトドメを指すでしょう。今では三遊派だけではなく広く演じられています。
変わったところでは本来柳家の立川流では談志師を始め談春師などが演じます。
古今亭は流石に「幾代餅」ですね。(でもこの噺をしていた古今亭の人がいましたけどね)

【注目点】
有名な高尾太夫は諸説有るが11人いたそうです。
そのうち四代目が「反魂香」に出てきた「仙台高尾」でこの紺屋高尾は五代目だそうです。
子供3人をもうけて、八四才の天命を全うしたとのこと。

『能書』
吉原の太夫と言う名称は最高級の遊女で初期の頃には大勢いましたが、育て上げるまでに時間と資金が掛かったので、
享保(1716〜)には4人に減り、宝暦10年(1760)には玉屋の花紫太夫を最後に太夫はいなくなったそうです。
 太夫というのは、豪商、大名相手の花魁で見識があり美貌が良くて、教養があり、吉原ナンバーワンの花魁。
文が立って、筆が立ち、茶道、花道、碁、将棋が出来て、三味線、琴の楽器が出来て、歌が唄えて、和歌、俳諧、が出来た。それも人並み以上に。借金の断りもできたと言うスーパーマンですね。
逆を言えば、吉原の客が豪商や大名から庶民になって来て、必要が無くなってきたと言う事ですね。

『ネタ』
圓生師はここで噺を終わらせていますが、この先もありまして、
夫婦となって店を開いた久蔵と高尾が、商売繁盛のために考案したのが手拭いの早染め(駄染め)と言うもの。 浅黄色のこの染物は、吉原に繰り出す酔狂の間で大流行したと言われていいます。
「かめのぞき」と言う名が付いていますが、その由来は・・・・
「高尾が店に出て、藍瓶をまたいで染めるのを見ていた客が、高尾が下を向いていて顔が見えないので争って瓶の中をのぞき込んだ」とも、あるいは瓶にあそこが写らないか覗き込んだとも・・・どっちでしょうね。(^^)
 
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