らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2018年02月

「雛鍔」という噺

e99b9be98d94『雛鍔』
 まだ寒いですが、お雛様も近いのでこの噺です。

【原話】
原話は、享保18年(1733年)に出版された笑話本「軽口独機嫌」の一遍である「全盛の太夫さま」で、
後に上方落語にも導入され、「お太刀の鍔」という演目で演じられるようになりました。
上方版では、金を知らない子供が、大富豪・鴻池の「ぼんち」という設定で、噺の筋は東京そのままです。

【ストーリー】
 八歳になる若様が、お屋敷のお庭散歩の途中で穴開き銭を拾いました。
丸くて四角い穴が開いて文字が書かれて裏には波模様がある、これは、きっとお雛様の刀の鍔だろう。
 これを聞いていたのが出入りの植木職人。銭を知らねぇんだと感心して家に帰ると同じく八歳の息子が銭くれぇ、お足くれぇと催促しますので、育ちでこうも違うのかねぇと落胆すします。
 そこへご隠居が訪ねて来て、先日来の仕事依頼の食い違いを謝罪し、植木屋の親方もこちらこそ申し訳ないと和解する。
 そのとき、「こぉ〜んな物拾った」植木屋の息子が「丸くて四角い穴が開いている、これはお雛様の刀の鍔だろう」と聞こえよがしにつぶやく。
これを聞いたご隠居は、銭を知らないとは育ちの良い子供だと感心して、習字手習いの道具を買ってやるという。
 親方が礼を言い、そんな不浄な物(銭)は捨てなさいと言うが、
「やだい、これで焼き芋を買うんだ」

【演者】
三代目金馬師が有名ですが、志ん朝師も良かったですね。
このあらすじは金馬師の筋です。志ん朝師は親方が家に帰ってきて、女房にお屋敷での事を、愚痴って話すと言う筋です。それ以来それが主流の様ですね。

【注目点】
武士が多かった江戸では、朱子学の影響もあり、武家の金銭を卑しむ思想に
大きな影響を受けていました。
落語の世界では、「黄金餅」「夢金」等例外はありますが、だいたいやせがまんの清貧思想が貫かれています。
上方版では商人の子供がお金を知らないと言う設定は?と思いますが・・・

『能書』
お屋敷で見聞したことに感心して、長屋でやってみて失敗するという、「青菜」などに似た噺です。銭に関する滑稽譚は数多く、ある大店の太夫が銭を知らないので評判が立ったのを真似して、小店の女郎が失敗する、という小咄もあります。

『ネタ』
一文銭と言いますが、俗に青銭と呼ばれたそうです。明治になり、貨幣制度の切り替えで2厘の補助通貨に規定されたそうです。

「付き馬」(早桶屋)という噺

oomon『付き馬』
今日は「付き馬」です。これは江戸弁で「つきんま」と言うそうです

【原話】
原話は元禄5年(1692年)に出版された笑話本・「噺かのこ」の第四巻、「薬屋にて人参を騙りし事」です。又の題を「早桶屋」とも云い、圓生師はこの名で演じていました。

【ストーリー】
吉原で「今は持ち合わせがないが、お茶屋のツケを集金すれば金ができるので、明日払いで良けりゃ遊んでってやるよ」ということでどんちゃん騒を始めます。
 翌朝、郭の中のお茶屋だから一緒に集金に行こうと、若い衆を連れ出し、ちょっと大門の外の空気を吸ってみようと、更に外に引っ張り出す。この後、風呂に入り飯を食って若い衆に払わせ、浅草の雷門まで来てしまいました。
 ここから中まで戻るのは面倒だから、近くの早桶屋の叔父さんに金をこしらえて貰おうと言い出します。付き馬の牛太郎を外に待たせたまま、早桶の注文をして、外に聞こえるように「早くこしらえておくれ」と云います。
 若い衆を呼んで「出来たら叔父さんから受け取ってくれ」と言い残して男は、帰ってしまいました。
「出来たけど、どうやって運ぶ」と聞かれて、早桶を注文したことを知らさせるが後の祭り。棺桶代を請求されて金が無いというと、「おい奴(やっこ)、中まで馬に行け」

【演者】
「早桶屋」で演じていた圓生師を始め、志ん朝師や先代柳朝師が好きですね

【注目点】

 私が最初に聴いた時(圓生師でしたが)疑問に思ったのは、早桶屋の事でした。時代は「花やしき」等があり、どう見ても明治から大正です。
「図抜け一番小判型」等と言う座棺がそのころでも使っていたのかどうか?でした。
 てっきり江戸時代迄だと思っていたのですが、違いました。
 よく調べると、寝棺は火葬、座棺は土葬用と書いてありますが、一概にそうでも無いようです。
 ある調べでは昭和21年の京都市では火葬の74%が座棺を使用していたそうです。最も25年には半分に下がりますが・・・
 つまり、戦後もある時期迄は座棺が結構使用されていたと言う事です。
 小三治師は若い頃銭湯で、この早桶の職人だったお爺さんと仲良くなり、色々と教わったそうです。
「そのうち、こうゆうのも話しておかないと忘れさられてしまうからな」
 そう言ってたそうで、正にその通りですね。

『能書』
もともとは、薬屋で朝鮮人参をだまし取るという内容だったそうですが、廓噺に変わりました。

『健二のネタ』
結構有名な話ですが、付き馬の由来は、昔は吉原の馬子さんが其の物の家まで取りに行ってたのですが、そのうちに、集金した金を持ち逃げする馬子が多くなったので、馬子じゃなくて、店の若い者に集金させる様になりました。そこから「付き馬」という様になりました。

「崇徳院」という噺

hiroshige158_main『崇徳院』
 相変わらず寒い日が続いていますが、二月ももうなかばです。そろそろ春の噺を上げたいと思います。そこで、個人的に好きなこの噺です。
 崇徳院様と言えば百人一首の歌「瀬をはやみ」で有名ですが、これが落語になるとちょっと変わって来ます。

【原話】
この作品は初代桂文治の作といわれ、上方落語の演目で、後に東京でも口演されるようになりました。

【ストーリー】
若旦那が寝込んでしまったので、旦那様に頼まれて、幼なじみの熊さんが訊いてみると、
上野の清水堂で出会ったお嬢さんが忘れられないと言う……つまり恋煩いだったのです。
大旦那は熊さんに、そのお嬢さんを見つけてくれれば住んでいる三軒長屋をくれると言います。そこで熊さんはそのお嬢様を探しに出掛けます。腰に草鞋をぶら下げてもう一生懸命です。
 手掛かりは短冊に書かれた崇徳院の和歌で、
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の 割れても末に 逢わんとぞ思う」と言う歌のみです。
 かみさんに教えられた通り、往来の真ん中、湯屋、床屋など、人が集まるところで上の句
を詠むが、なかなか見つかりません。
熊さんがなんと三十七軒目の床屋で休んでいると、鳶頭が駆け込んできて、出入り先のお嬢様が恋煩いで寝込んでいると言うお嬢様の話を始めました。
清水院で出会った若旦那に会いたいというのです。手掛かりは、短冊に書かれた崇徳院の和歌だと言います。ついに出会ったのです!
 お互いに見つけたと、互いにこっちに来いと揉合いになり、床屋の鏡を割って仕舞います。
でも床屋の親方、心配するな。
「割れても末に買わんとぞ思う」

【演者】
三代目 桂三木助師が有名です、個人的には三代目 古今亭志ん朝師が好きですね。若旦那と熊さんのやり取りがいいです!

【注目点】
上方では見初める所が高津神社となっています。
又、女性の方の頭に下さる御礼が300両と具体的になっています。
「あんたのとこの若旦那は仁徳のある方ですなあ」と感心する床屋に、「仁徳があるはずや、見初めたんが高津さんや」とするサゲもあるそうです。

『能書』
最近では上方ではサゲをつけないやり方が多くなって来ているという事ですが、人気者だった二代目桂枝雀師が取っ組み合いのシーンを演じたあとサゲを付けずに「めでたく一対の夫婦が出来上がります。崇徳院というおめでたいおうわさでした」などと言って終える演出を取り入れましたが、やはり落とし噺ですのできちんとサゲを言って欲しいです。

『ネタ』
若旦那が寝込む噺は他に「千両みかん」などもありますが、この噺は最後がハッピーエンドで終わっているので後味が良いですね。これは重要なことで、トリでこの噺をやればお客さんは気分よく家に帰れる訳です。寄席の最後に出て来る噺家はそんなことも注意して演目を選びます。

寒いのでこの噺「うどん屋」

img012-4『うどん屋 』
節分も過ぎて本当は春の噺を掛けたいところですが、今年一番の寒波襲来だそうで、考えたあげく「うどん屋」になりました。これは寒い冬の夜が連想されれば成功と言われている噺です。

【原話】
上方落語「かぜうどん」を明治期に三代目小さん師が東京に移植したもので、代々柳家の噺とされています。大正3年の二代目柳家つばめ師の速記では、酔っ払いがいったん食わずに行きかけるのを思い直してうどんを注文したあと、さんざんイチャモンを付けたあげく、七味唐辛子を全部ぶちまけてしまいます。
これを、昭和初期に六代目春風亭柳橋師が応用し、軍歌を歌いながらラーメンの上にコショウを全部かけてしまう、改作「支那そば屋」としてヒットさせました。

【ストーリー】
夜、市中を流して歩いていた、うどん屋を呼び止めたのはしたたかに酔った男。
「仕立屋の太兵衛を知っているか?」と言い出し、うどんやが知らないと答えると、問わず語りに昼間の出来事を話し出す。

 友達の太兵衛のひとり娘、みい坊が祝言を挙げた。あんなに小さかったみい坊が花嫁衣装に身を包み、立派な挨拶をしたので胸がいっぱいになった・・・。うどんやが相づちを打つのをいいことに、酔客は同じ話を繰り返すと、水だけ飲んでどこかに行ってしまう。
 ただで水だけ飲まれたうどんや、気を取り直して再び町を流すと、今度は家の中から声が掛かるが、
「赤ん坊が寝たところだから静かにして」
 でかい声はだめだ、番頭さんが内緒で店の衆に御馳走してやるってんで、ヒソヒソ声で注文するのが大口になるんだと思った矢先、ヒソヒソ声で、鍋焼きの注文。
 こりゃ当たりだなと、ヒソヒソ声で「さぁどうぞ」客が食べ終わって、勘定のときに
「うどん屋さんも風邪ひいたのかい」

【演者】
八代目可楽師、五代目小さん師、現役では小三治師が素晴らしいです。

【注目点】
鍋焼きうどんといえば、天ぷらに卵野菜などがたくさん入ったものを考えますが、
この落語に出てくる鍋焼きうどんは、、かけうどんを鍋で煮こんだモノの様です。
三代目小さん師が初めてこの噺を演じたときの題は、「鍋焼うどん」という題でした。
全編を通して、江戸の夜の静寂、寒さが大事な噺でもあり、小さん師はよくその情景を表しています。
小さん師の音源なのでは、小さん師のうどんをすする音に”注耳”して下さい。
確実に蕎麦とうどんの食べ分けが出来ています。正に名人芸ですね。

『能書』
昔は商家などに努めていた者は夜にお腹が空いた時などにこのようなうどん屋や蕎麦屋を呼び止めて奉公している者に食べさせた事があったそうです。そんな時は一件で完売となったそうです。

『ネタ』
個人的な思い出を・・・晩年、脳梗塞で倒れられてからの小さん師匠はハッキリいって往年の芸は蘇りませんでした。
でも、ある時、寄席で飛び入りで師匠が出演したのです。
この頃、たまに、そんな事があるというウワサは聞いていましたが、まさか自分が行った時に当るとは思ってもみませんでした、
その時演じたのがこの噺でした。
前半は、この頃の感じであまり感情が入らない口調でしたが、後半からは乗ってきました。
そして、うどんを食べるシーンで、「ふっ、ふー」と冷ます処で私は鳥肌が立ってしまいました。
たったそれだけで、寄席を深夜の冬の街角にしてしまったのです。
恐れ入りました、ホント、凄かったです。
 
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