らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2017年08月

「柳田格之進」という噺

0929『柳田格之進』
 今日は、この噺です。古今亭一門の噺ですね。

【原話】
誇り高い武士の生きざまを描いた人情噺の傑作ですが元は講談の「柳田の堪忍袋」とも云われています。
志ん生師が講談時代に覚えて人情噺にしたのかと思いきや、明治25年、「碁盤割」で「百花園」に掲載された
三代目柳枝師の速記があるそうです。ほかは古い口演記録がなくいので詳し事は不明です。

【ストーリー】
彦根の城主井伊氏のご家来で柳田格之進という文武両道に優れ品性正しく潔癖な浪人がました。
正直すぎて人に疎まれて浪人をしていて、浅草阿倍川町の裏長屋に娘”きぬ”と二人で住んでいます。
娘の助言で碁会所に顔を出すと、馬道一丁目に住んでいる質屋、万屋源兵衛と気が合っていつも二人で対局をしていました。

それなら私の家でと言うことになり、万屋源兵衛の家のはなれで指す様になり懇意になります。
終わると二人は一献傾けて楽しんでいて、毎日を過ごしていましたが、8月15日の中秋の名月十五夜の晩に月見としゃれながら夢中で指して、一杯ご馳走になり帰ってきました。

万屋源兵衛の店ではその晩に集金したばっかりの50両の金子が紛失して仕舞います。
二人が指している時に無くなったのだから、相手の柳田様が「もしかしたら・・」と番頭が言うのを振り切って話を納めた主人ですが、収まらないのは番頭・徳兵衛。
 
番頭の一心で、翌日柳田の長屋を訪ねて、事の次第を話し、「もしかしたら柳田様がご存じかと・・」「拙者が盗んだというのか」「思い違いではと・・」「私はどんなことがあっても、人の物を盗むという事はない!」「お上に届けて裁いてもらいますが・・」「それでは私が50両作りましょう。明日昼に来なさい」。
番頭が帰った後、娘の忠告で「裁きになれば潔白は晴れるが、その汚名は拭えないので、腹を切る」と言うところ、「私が身を沈めてお金を作ります」。
 
翌日番頭に50両を渡し「その金ではないので、後日金が出たらどうする」「そんなことはないが、その時は私と主人源兵衛の首を差し上げます」。その事を源兵衛に報告すると、源兵衛は謝りに番頭を連れて安倍川町の裏長屋に来てみると、すでに柳田は家を引き払った後で、落胆して戻る源兵衛。
店の者にも、出入りの者にも頼んで柳田を捜したが見つかりませんでした。

 煤払いの日、額縁の裏から50両が出てきました。「そうすると、あの柳田様の50両は・・・」。
どんなことがあってもと源兵衛は柳田様を捜させたのですが、見つかりませんでした。
 
年が改まって、4日、山の手の年始挨拶に番頭は出入りの頭を連れての帰り道、雪が降り始めた湯島の切り通しにさしかかった時、籠屋をいたわって歩いて坂を登ってくる侍が目に入ります。
蛇の目傘の内の贅沢なこしらえが目に止まって、見とれてやり過ごそうとしたその時、侍から声をかけられました。

何とその侍が柳田格之進で、今では300石に取り上げられていると言います。
「湯島の境内に良い店があるから」と連れて行くが番頭は閻魔様に連れて行かれるようで人心地もしません。
店で50両が見つかったことを話し、許しを請うが、明日昼頃万屋に伺うので、体をよく洗って置けと言い残します。
 
翌朝、源兵衛は番頭を使いに出して、柳田を迎え非礼を詫びたが、使いに出ないで待っていた番頭は「私がしたことだから」と主人をかばうが、娘の手前勘弁出来ないと二人を並べて切り捨てると言います。
刀を振り下ろすと、床の間の碁盤が真っ二つになって二人は一命を取り留めます。
二人の主従の真心が心に響いて手元が狂ったと言います。
 
さっそく、半蔵松葉から”きぬ”さんを身請けしてきて、娘に詫びたが、娘も父上の為ならと快く応じます。
 前よりも柳田と源兵衛は深い付き合いをするようになり、番頭の徳兵衛ときぬは夫婦となり万屋の夫婦養子になりめでたく収まります。
二人は仲が良くてまもなく男の子を産んだ。その男の子を柳田が引き取り、家名を継がせたと言う「柳田の堪忍袋の一席」でした。

【演者】
これはもう志ん生師を始め古今亭一門の噺家さんが数多く演じています。
今では他の一門の噺家さんも演じています。

【注目点】
娘さんが気が触れてしまったり、亡くなっていたりと悲しい終わり方をさせる噺家さんもいますが、志ん朝師はハッピ−エンドに終わらせています。このほうが後味はいいですね。
変わった所では圓楽師が、、越前屋がお花を身請けし、久兵衛とめあわせた上、産まれた長男が越前屋を、次男が柳田家を継ぐというハッピーエンドで終わらせています。

『能書』
仕官がかなったのに、娘を身請けしないのがスッキリしないなど今の感覚だと理解できない部分もある噺ですね。(それが武士の清さに繋がるのでしょうか?)

『ネタ』
柳田格之進の名前も角之進と表す時もあります。
志ん生師が、
「親が囲碁の争いをしたから、
娘が娼妓(しょうぎ=将棋)になった」
という地口のオチをつけたことがありますが、余り使わなかったそうです。

「蛙茶番」は秋の噺

images『蛙茶番』
 今日はこの噺です。季節的にですが、大店が棚卸しをする時期によく素人芝居をやったそうなので、秋の噺とされています。スーパーでもここの所「棚卸し」が多い感じがします。
今は軽い艶笑噺として演じられていますが、元は「五段目」の後半の噺だったと言う説もあります。

【原話】
1785年の「猫に小判」の「ふんどし」。1826年の「滑稽笑顔種」の「虫拳」等です。

【ストーリー】
町内の素人芝居で
「天竺徳兵衛」の「忍術ゆずり場」を出すことになったのですが、伊勢屋の若旦那が来ません。
どうやら、あてられた蛙の役が嫌で来ない様です。
店の定吉を説き伏せて役をやらせる事にしたのですが、今度は舞台番の半公が来ません。
定吉を使いにやると、芝居ではなく舞台番を当てられたのが不服の様です。
そこで番頭さんが、一計を案じ、半公が岡惚れの小間物屋のみい坊が
「役者なんかしないで舞台番と逃げたところが半さんらしくていい」
と、誉めていたと、だまして連れてこいと言いつけ、定吉を使いにやります。
これを聞いて有頂天になった半公、どうせならと、
自慢の緋縮緬のフンドシを質屋から急いで請け出し、湯屋で入念に「男」を磨く始末です。
何時まで待っても来ないので、「来ないとみいちゃん帰っちゃうよ」と言うと、
半公は慌てて湯屋から飛び出します。
もちろん自慢のふんどしも締め忘れたままです。
ふんどしを締め忘れた事に気がついていない半公は止せば良いのに、道行く知り合いに前をまくって見せて歩きます。
そのまま芝居に駆けつけたから芝居が始まりますが、場内はシーンと見入っていて騒ぐ者はいません。
じれた半公は自慢のモノを見せたいが為に、声を荒げ出します。
一人、二人と気がついた人が騒ぎ出します。
「ありがてえ」と益々調子に乗って半公は舞台番の位置から飛び出します。
いよいよ見せ場の忍術ゆずり場。
ドロンドロンと大どろになるが、ガマの定吉が出てきません。
「おいおい、ガマはどうした。」「へへっ、出られません」
「なぜ?」「あすこで、青大将がねらってます」

【演者】
 もう色々な噺家さんが演じています。六代目圓師も生前はよく演じていました。

【注目点】
もうこれはいかに可笑しくもさらりとやるかですね。粋に演じる事が求められますね。

『能書』
昔はなんたって芝居が一番の人気です。人気も高いです。他の噺でも小僧の定吉が用足しのついでに
一幕だけ芝居を見て帰り、バレて蔵にお仕置きの為、入れられるなんて噺がありますが、
もう老若女男皆夢中だった様ですね。
すると、今でもそうですが、憧れのスターと同じになりたいと言う気持ちが沸き上ります。
今ではカラオケやコスプレ等ですが、それが昔は自分達でも、憧れのスターと同じ芝居をやってみたい!
と思う訳です。そんな素人芝居を茶番と呼びました。「とんだ茶番だぜ」なんて言葉は今でも使いますね。

『ネタ』
云われは歌舞伎の大部屋役者が、毎年五月二十九日の曽我祭の日に酒宴を催し、
その席で、当番が面白おかしく口上をのべたのが始まりでそれを「酒番」と言いました。
享保年間(1716〜36)の末に、下戸の初代澤村宗十郎が酒席を茶席に代えたので、
酒番も茶番になりました。宝暦年間(1751〜64)になると、遊里や戯作者仲間、一般町人の間にもこの「口上茶番」が広まり、素人芝居に口上茶番の趣向を加味した「素人茶番」も生まれました。
「芝居」と銘打つとお上がうるさいので、あくまでタテマエは茶番とし、商家の祝い事や町内の催しものに、
アトラクションとして盛んに行われました。

「野ざらし」という噺

vol_disc07『野晒し(のざらし)』

【原話】
 中国明の時代の「笑府」の中の「学様」と言う話を元に二代目林家正蔵師(沢善の正蔵)が作ったと言われています。この二代目の正蔵師は本職のお坊さんでもありまして、他に「蒟蒻問答」と言う噺も作っています。
 さらに、この噺を明治期に初代三遊亭圓遊師が爆笑落語に改作しました。

【ストーリー】
ある夜、八五郎が長屋で寝ていると、隣の自称女嫌いで知られた隠居・尾形清十郎の部屋から女の声が聞こえてくる。
翌朝、八五郎は、尾形宅に飛び込み、事の真相をただす。尾形はとぼけてみせるが、八五郎に「壁に穴開けて、のぞいた」
と言われ、呆れたと同時に観念して、
「あれは、この世のものではない。向島で魚釣りをした帰りに、野ざらしのしゃれこうべを見つけ、哀れに思ってそれに酒を振りかけ、手向けの一句を詠むなど、ねんごろに供養した。そうしたら、昨夜その骨の幽霊がお礼に来てくれた」
と語る。それを聞いた八五郎は興奮した様子で
「あんな美人が来てくれるなら、幽霊だってかまわねえ」
と言って、尾形の釣り道具を借り、酒を買って向島へ向かう。
向島に到着した八五郎は土手の上から、岸に居並ぶ釣り客を見て、勝手に勘違いし、
「骨は釣れるかい? 新造(しんぞ=未婚の女性)か? 年増(としま=年頃の女性)か?」
と釣り客に叫び、変な人物だと首をかしげられる。
 釣り場所を確保した八五郎は、釣り糸を垂らしつつ、「サイサイ節」をうなりながら、女の幽霊が来るを妄想して、ひとり語りに没頭しはじめる。
  鐘が ボンとなりゃあサ
上げ潮 南サ
カラスがパッと出りゃ コラサノサ
骨(こつ)がある サーイサイ
そのまた骨にサ
酒をば かけてサ
骨がべべ(=着物)着て コラサノサ
礼に来る サイサイサイ
ソラ スチャラカチャンたらスチャラカチャン
 そのうちに、自分の鼻に釣り針を引っかけ、
「こんな物が付いてるからいけねぇんだ。取っちまえ」
と、釣り針を川に放り込んでしまう。

現在、殆どの噺家はここで切っています。でも本当はその先があるのですが、今では理解出来ない事が多く、それに面白くないとの理由です。
 でもここでは一応書いてみます。小説家志望なら知りたいですよね?

 八五郎は釣りをあきらめ、アシの間を手でかきわけて骨を探すことにし、なんとか骨を見つけ出すことに成功する。八五郎はふくべの酒を全部それにかけ、自宅の住所を言い聞かせ、「今晩きっとそこに来てくれ」
と願う。この様子を、近くの川面に浮かぶ屋形船の中で聞いていた幇間の新朝(しんちょう)。彼は、八五郎が普通の女とデートの約束をしていると勘違いし、祝儀欲しさで八五郎の長屋に乗り込む。
一方、女の幽霊が来ると期待していた八五郎は、新朝を見て驚き、
「お前は誰だ?」
「あたしァ、シンチョウって幇間(タイコ)」
「新町? しまった! あれは馬の骨だったか!」

【演者】
何と言っても三代目春風亭柳好師匠です! 「唄い調子」と言われる口調は、
四代目志ん生(鶴本の志ん生)師を真似たものだそうですが、見事な芸で、お客はおろか
黒門町(八代目文楽)をはじめ、談志師等を魅了しました。
あの圓生師でさえ納得させたと言われています。

【注目点】
やはり、八五郎が一人で勝手にのぼせ上がって行くのですが、ここをお客に白けさせないように演じなければなりません。

『能書』
現在、最後まで演じているのは人間国宝の柳家小三治師が有名です。CDも出ていますが、ネットにも音源が上がっています。
 三代目柳好師の調子の良い音源は残念ながらネットには上がっていません。上がっているのは亡くなる少し前の音源で調子の悪い時の音源です。流れるような謡い調子では無いのが残念です。ビクターからCDが出ています。殆どの図書館でもあると思いますので借りて聴いてみてください。今の噺家とは全く違う世界が楽しめます。

『特別な解説』
 その昔、浅草新町(あさくさしんちょう)と言う場所には太鼓職人が多く住んでいたり太鼓の店が多かったそうです。少し前のアキバの感じですね。だからシンチョウ=太鼓と繋がったのですが、当時は太鼓は馬の皮で作られていました。これが理解出来ないと本来のサゲが全く判りません。

『ネタ』
よく言われるのが季節ですね。春なのか秋なのか良く判りません。
尾形清十郎のセリフに
「野を肥やす骨をかたみにすすきかな」
と言わせておいて、すぐ
「四方の山々雪解けて水かさ増さる大川の……」と言ってしまっていて、これではどちらの季節か判りません。
 それに、この釣りはハゼ釣りなんだそうです。そんな意味から考えても面白いです。

「お菊の皿」という噺

10448909_974427675979915_819059417_n『お菊の皿』
 今日は別名「皿屋敷」とも言う噺「お菊の皿」です

【原話】
談志ひとり会の音源で、談志師が解説していましたが講釈の『番町皿屋敷』と言う噺が上方に飛びまして、浄瑠璃となり「播州皿屋敷」として作り直されたそうです。
これが、大変な評判を取りまして、それを逆に歌舞伎に導入して江戸で公演したのが当たったと言う事です。これが江戸で「お菊の皿」となりました。

【ストーリー】
田舎で「皿屋敷」の噺を尋ねられた男は知らないと言ったので、馬鹿にされてしまいます。
帰ってきて隠居から教えて貰います
未だ、出るんじゃないかと言われその皿屋敷へお菊さんの幽霊を見に行事に成ります。
男達が待っているとお菊さんが現れ、皿の枚数を数え始めます。
こわごわ見たらこれが絶世の美人!
九枚まで聞いた者は狂い死ぬと言われていたので、
男達は途中で逃げ帰ってきますが、これは面白いと、毎晩お菊さんの所へ行くのですが、
その内にこれが評判となり、興行主の知る処となりました。
そうなると、観覧席は出来るし、屋台等も沢山出る始末。

お菊さんの肝心の皿の数え方もクサイ演出になっています。
お菊もすっかりその気になり、常連には、
「まあ、だんな、その節はどうも」
等と愛嬌等を振りまくので、人気は増すばかりです。

ある日、聴いていて、6枚まで聴いたので帰ろうとするのですが、混んでいて身動きが取れません。
焦っていると、とうとう9,枚迄聴いて仕舞いましす。
「俺の命もこれまでか?」と思っていると、
「9まい〜、10まい〜」と数えて行き、とうとう18枚迄数えて仕舞いました。
「おいおい、お菊ちゃん。皿は九枚で終わりじゃねえのか?」
「わかんないかねえ!明日休むんだよ!」

【演者】
今は殆どの噺家が高座に掛けます。小朝師や喬太郎師の高座が人気があるみたいです。(今風にアレンジしてあります)

【注目点】
口演記録はかなり古く、文化年間(1804〜18)の落語家・喜久亭寿曉の演題控え「滑稽集」に、
「さらやしき 明日休」とあります。

『能書』
ちなみに上方の型は、
「九枚どころか十枚、十一、十八枚まで数えやがって、あまり客を馬鹿にすな。アホめが!」
「そないに、ポンポン言いなはんな。そんなこと言われんでもわかってます。」
「ほんなら何でこんなに多く数えるねん。」
「風邪引いてまっしゃろ。二日分読んで、へへ…明日休みますのン。」
となります。

『ネタ』
上方では最後はちゃんと理論的な説明がついてます(風邪ひいたと言う事で休む)
江戸では只、お菊さんが休みたいだけ!
東西の違いって面白いですね。

しかしどれだけの美人だったのでしょうね?
一度見てみたいですよね?

土用丑の日が近いので「素人鰻」です

05fd58d1『素人鰻』
今日は土用丑の日が近いのでこの噺です。

【原話】
原話は噺本『軽口大矢数』(安永2年:1773年)の『かば焼』、または『大きにお世話』(安永9年:1780年)の『蒲焼』からです。
【ストーリー】
元旗本の武士がしる粉屋をやろうと店を探していると「神田川の金」という、ひいきにしていた鰻さきの職人に出会います。
金さんの勧めで鰻屋を開業することにしました。いわゆる士族の商法というやつですね。
腕がいいが、酒癖の悪い金さんですが、酒を断って店を手伝うというので殿様も安心です。

さて、最初は良かったのですが、開店の日に祝いの酒だと主人の友達が金さんに飲ませたところ、だんだん悪い酒癖が出てきて暴れ出し、店を飛び出してしまいます。
翌日、職人がいなくなって困っていると、金さんは吉原から付き馬を引いて帰ってきた。
昨日のことは、何も覚えていないという。
黙って遊び代を払ってやると、今度は金さんは酒を飲まず一生懸命働きだし、腕はいいので店も順調になります。

主人はすっかり喜び、ある日閉店の後、酒を出してやるが飲まないで寝てしまう。
ところが家の酒を盗み飲みして、またもや悪口雑言の末、店を飛び出してしまう。次の日も同じで、
仏の顔も三度やらでもう帰って来ません。

困った主人は仕方なく自分で鰻をさばこうとし、捕まえにかかるが捕まらない。
糠をかけたりしてやっと一匹捕まりかかるが指の間からぬるぬると逃げて行くきます。
なおも鰻を追って行く主で、それを見て女房がどこへ行くのかと声をかけます。
「どこへ行くか分かるか。前に回って鰻に聞いてくれ」

【演者】
何と言っても黒門町こと文楽師の名演が光ります。

【注目点】
後半の部分だけを演じたのが「鰻屋」だと思われていますが、「鰻屋」は元が上方落語なので、成立が違います。
この「素人鰻」は昭和29年に芸術祭賞を受けました。
平素は猫のようにおとなしい神田川の金が、酒が入りだんだんと酔っていき、ついには虎になり悪口雑言の大暴れをするくだりがこの噺の眼目ですね。
その豹変ぶりが物凄いですね。
この噺の元は、三遊亭円朝の「士族の商法(御膳汁粉)(素人汁粉)」だと云われています。

『能書』
この噺の職人金さんは、実在の人物で、「神田川」に居た職人で、中々腕の良い職人で、
「金が居るなら今日は鰻を食べて行こう!」
と言う客が曳きも切らずに訪れたと言うくらいの名人だった様です。
当時の食通の間では、”金”と追えば”神田川の金”だったと言う事です。
榎本滋民さんが、「素人鰻」の解説で言われていたので、本当なのでしょう。知らなかったなあ・・・・

『ネタ』
「ニホンウナギ」は絶滅危惧種」になったそうですが、天然の鰻なんてのはかなり前から絶滅を言われていましたね。
稚魚も不良でここ数年は価格も高くなっていましたが、今年は若干豊漁だそうで、少しだけ値段が下がりました。(少しだけですがw)
 
最新コメント
記事検索
月別アーカイブ