らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2017年05月

宮戸川と言う噺

00014『宮戸川』
暑いですね〜 一気に夏が来た感じです。そこで、少し早いですが、夏らしい噺の「宮戸川」です。

【原話】
芝居噺が得意だった初代三遊亭円生の作といわれています。明治中期までは、初代円右師や三代目柳枝師などが、芝居噺になる後半までを通して、長講で演じることがあり、柳枝師の通しの速記も残されています。
芝居噺が廃れると、次第に後半部は忘れ去られ、今ではほとんど演じられなくなりました。

【ストーリー】
将棋で帰りが遅くなって締め出しを食った小網町の半七は、霊岸島の叔父さんのところに泊めて貰おうと思っていると、お花もカルタで遅くなり同じように閉め出されてしまいます。お花は叔父さんの所に一晩泊めて貰えないかと頼むが、早合点の叔父さんだから嫌だと断ります。
駆けだしていると、お花も直ぐ脇を走って追い越して、一緒に叔父さんの所に着きます。
飲み込みの良すぎる叔父さんは、案の定お花と半七をいい仲と勘違いして、2階に上げてしまいます。
しかたなく背中合わせで寝ることにしましたが、背中を向け合っていたのですが、折からの激しい落雷が近くに落ちたので、驚いてお花はが半七に抱きつきます。
思わず半七は理性を忘れて・・・・この先は本が破れてわかりません・・・
と現在の噺家さんは演じていますが、この先もあります。
現在、たまにしか演じられませんが、やはり芝居噺掛かりとなります。

簡単に筋を書きますと……。
翌朝、事態を完全に飲み込んだ叔父さんは二人に聴き、一緒になりたいとの事なので、
自分の兄の半七の父親に掛け合いますが、承知しません。
それならと、半七を養子にして二人を一緒にさせます。

それから四年ほどたった夏、お花が浅草へ用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると夕立に逢います。
傘を忘れたので定吉に傘を取りにやるのですが、その時、突然の雷鳴で、お花は気絶してしまいます。
それを見ていた、ならず者三人組、いい女なのでなぐさみものにしてやろうと、気を失ったお花をさらって、
いずこかに消えてしまいます。

女房が行方知れずになり、半七は泣く泣く葬式を出しますが、一周忌に菩提寺に参詣の帰り、
山谷堀から舟を雇うと、もう一人の酔っ払った船頭が乗せてくれと頼みこみます。
承知して、二人で船中でのんでいると、その船頭が酒の勢いで、一年前お花に酷い事をしたことを話します。
船頭もグルとわかり、ここで、と芝居掛かりになります。
「これで様子がガラリと知れた」
三人の渡りゼリフで、
「亭主というはうぬであったか」
「ハテよいところで」
「悪いところで」
「逢ったよなァ」
……というところで起こされます。
お花がそこにいるのを見て、ああ夢かと一安心。
小僧が、お内儀さんを待たせて傘を取りに帰ったと言うので、
「夢は小僧の使い(=五臓の疲れ)だわえ」
という地口オチになっています。

【演者】
この噺は多くの噺家さんが演じています。特に前半部分しか語られないことが多いので、若い噺家さんもよく演じます。逆に若さがモノを言う噺かも知れません。

【注目点】
際どい描写をどの程度まで演じるか? だと思います。明るく出来れば良いのではないでしょうか

『能書』
最近は後半も色々な噺家さんが演じるようになって来ました。NHKの「日本の話芸」で先日亡くなった三代目三遊亭圓歌師がやっています。新作派の師が演じたのは正直驚きましたが……。
後半に関しては後味の良い部分だけではありませんが、芝居噺とはどうようなものかを知るには良いと思います。

『ネタ』
宮戸川とは、墨田川の下流・浅草川の旧名で、地域でいえば山谷堀から駒形あたりまでの流域を指します。
「宮戸」は、三社権現の参道入口を流れていたことから、この名がついたとか。

粗忽長屋という噺

a0663894『粗忽長屋』
 今日は「粗忽長屋」です。

【原話】
寛政年間(1789〜1800)の笑話本『絵本噺山科』にある小咄です。
 
【ストーリー】 
 粗忽者の八五郎が浅草寺の門前で人だかりに出くわします。
聞けば、行き倒れの亡骸が発見されたが身元がわからず困っていると言うのです。
むりやり人垣をわけ、亡骸を見た八五郎は仰天。
「こいつは熊だ。あいつに教えなくちゃならねえ」
八五郎は長屋の隣人、熊五郎が死んだと思いこみ「本人を呼んでくる」と長屋へ飛んでいきます。
実は、熊五郎も粗忽者なので、「おれは死んだ気がしねえ」などと言いながら、八五郎と一緒に浅草寺へ向かいます。
「死人」の熊五郎を連れて戻ってきた八五郎に、周囲の人達はすっかり呆れてしまいます。
どの様に説明しても2人の誤解は解消できないので、世話役はじめ一同頭を抱えこんで仕舞います。
あげくに、熊五郎はその死人の顔を見て、悩んだ挙句、「間違い無く自分である」と確認する始末です。
「自分の体」を腕で抱いてほろほろと涙を流す熊五郎と見守る八五郎。2人とも本気なのです。
周囲の人の止めるのも聞かずに。体を持って帰ろうとする始末。
抱き抱えて居ると、熊五郎は八五郎に訪ねます。
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だろう?」

【演者】
 個人的には五代目古今亭志ん生師と五代目柳家小さん師が双璧ですね。現役では人間国宝の柳家小三治師、そして落語協会会長の柳亭一馬師がよいですね。元々が滑稽噺ですので、柳家の噺家さんが良く演じています。

【注目点】
 お噺そのものが、自分の死骸を引き取りに行く噺なので、お客に「そんな馬鹿な事」と思わせないように演じなければなりません。その意味で、兄貴分の男がやたらに「お前は死んでる」とか「死ぬ」と言うセリフを喋らせてはイケマセン。白けてしまいますからね。兎に角お客を正気に返さぬ様にトントンとサゲまで運んで欲しいです。

『能書』
 もう一人の自分が存在するというのは、ドッペルゲンガーですね。これは精神分裂病に分類されています。(二重身)

『ネタ』
 行き倒れが担ぎこまれた、「自身番」」とは、町内に必ず一つはあり、防犯・防火に協力する事務所です。昼間は普通、町役(おもに地主)の代理である差配(大家)が交代で詰め、表通りに地借りの商家から出す店番(たなばん)1名、事務や雑務いっさいの責任者で、町費で雇う書役(しょやく)1名と、都合3名で切り盛りしたそうです。
 行き倒れの死骸の処理は、原則として自身番の役目なので、身元引受人が名乗り出れば
確認のうえ引き渡し、そうでなければお上に報告後回向院などの無縁墓地に投げ込みで葬る義務がありました。
 その場合の費用、死骸の運搬費その他は、すべて町の負担でしたので、自身番にすれば、かえって引き取ってくれたのは、渡りに船だったかも知れないと思います。




大山詣り

ct2_ra3_s7『大山詣り』
 今回は「大山詣り」です。未だ五月に入ったばかりですが、六月といいますと、落語国では大山詣りの季節ですねえ。
江戸っ子が寺社にお参りするのは、信仰もありましたが、結局は娯楽だったんですね。
何の娯楽かって? 文字とおり色っぽい娯楽から観光まで含めてですが……
江戸時も下ると、こうした団体旅行は完全に観光化されてまして、ちゃんと組織化されてます。
今の観光会社みたいなもんですね。先達さんの手配もしてくれるんです。もちろん宿の手配もですね。今と余り変わらない、違うのは歩いて行く事ですね。これはしょうがないですね。

【原話】
1805年の十返舎一九の「滑稽しつこなし」からという説もあります。

【ストーリー】
長屋でも大山詣りに行くことになったのですが、熊さんは残って後の長屋を守る役になってくれなんて言われてしまう。文句を言うと、本当はしょっちゅう喧嘩をするから残らせようとの魂胆。今回は喧嘩をしたものは二分の罰金を払ったあげく、坊主にしちゃおうということになりまして。熊さん、俺は大丈夫だと見栄を切ります。

無事お詣りが済んで、明日には江戸に戻るという晩、気が緩んだのかやっぱり喧嘩しちゃった。それで熊さんは決まり通り坊主にされてしまう。翌朝熊さんが起きてみると既に皆は経った後。宿の人にくすくす笑われて本当に坊主にされたことに気付きます。

やられた熊さん、一計を案じ、一足先に江戸に戻ります。長屋のおかみさん連中を集めて、途中金沢八景見物に舟に乗ったときに舟が転覆して、皆亡くなってしまったと嘘をつく。供養のために坊主にしたというから皆信じちゃって、おかみさん達も供養に尼になります。
そこで男衆が帰ってきて、さあ大変。
一方、亭主連中。帰ってみるとなにやら青々として冬瓜舟が着いたよう。おまけに念仏まで聞こえる。これが、熊の仕返しと知ってみんな怒り心頭。
連中が息巻くのを、先達さんの吉兵衛、
「まあまあ。お山は晴天、みんな無事で、お毛が(怪我)なくっておめでたい」

【演者】
 色々な噺家さんが演じていますが、現役では柳家小三治師でしょうねえ。歴代だと八代目三笑亭可楽師や勿論古今亭志ん生師も良いですね。色々な噺家さんが演じていますので聴いてみてください。

【注目点】
大山は、神奈川県伊勢原市、秦野市、厚木市の境にある標高1246mの山で、中腹に名僧良弁が造ったといわれる雨降山大山寺がありました。
山頂には、石尊大権現があります。つまり、修験道の聖地なんですね。
その昔、薬事法が緩かった頃はここでオデキに効く薬が売っていましたが、今は禁止され無くなりました。個人的にですが、子供の頃は随分お世話になりました。ほんと良く効きました!

『能書』
上方には「百人坊主」と言う伊勢神宮にお詣りに行く噺がありますが、これが江戸に流れて来たと言う節と、滝亭鯉丈の作品で文政四年(西暦1821年頃)に出版された「大山道中栗毛俊足」に似たパターンの噺があり、これが東西で別々に発展したものではないかと言う説もあります。

『ネタ』
サゲに関してですが、当時は髷を何より大事にしていて、文字通り命の次に大事なものだった様です。
今でも女性は髪を大事にしますが、昔はその比じゃ無かったそうです。
これが無くなると言うのは本当にショックで辛いことだったのでしょう。
髷がなければ実社会から脱落することを意味していたとかね。アウトサイドに落ちて行くと言う事でしょうかね。
又、失敗や軽い犯罪をしても頭を丸めれば、許されたそうです。


 それにしても、どこか遠くに行きたいこの頃です……。
 
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